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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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「天声人語を読みなさい」?

私自身,学生時代に体験し,今でもよく見る光景として挙げられるのは,何の熟慮もなしに「天声人語を読みなさい」と指示してしまう教員の存在だ。「天声人語」は朝日新聞にしか掲載されていない。つまり朝日新聞を読みなさい,と指示をしているに等しい。朝日新聞を読むことが悪いと言いたいのではなく,こんな不公平な指示を何の思慮もなく出してしまうことが,「学べない」=知的レベルの低さを表わしているのではないかと指摘したいのだ。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.41
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「いい先生」

それでも,生徒のために学んだことを情熱的に話す教員は,生徒から“いい先生”と評価される。このような教員は
生徒から“いい先生”と評価されることを拠り所にして,自らの実践を正当化していく。そのため,学問的手法や科学性,客観性というものを引退するまで身に付けることができない。
 “いい先生”が生まれる構造は,学問的手法などについてよく知らない生徒たちが,自分たちのことを考えて懸命に業務を遂行しようとしている教員のことを,“いい人”と判断し,その“いい人”がたまたま“先生”をしていたから“いい先生”と読み換えられているに過ぎない。
 無論,この程度で“いい先生”と言われるということは,その他の教員が生徒にとって“どうでもいい先生”であることの証明でもある。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.28

そこまでは

「中学生は大変ですよ。スマホを握りしめたまま寝ているって子,少なくないですもん。嫌われるのが怖くて仕方ないんですよね」とは,関西地方で中学の教員を務める20代男性の弁だ。
 生徒たち自身,「関係維持のために,全く面白くなくても『爆笑』って書くよねぇ」と言っている。
 LINEのグループには,グループ構成メンバーの承認がないと加入できない。したがって,教員が生徒の言動を把握することはかなり難しい。クラスの人間関係に明るく,多くのグループに属していて,なおかつその情報を逐一教員に報告してくれるような生徒と繋がりがなければ,把握することはほとんど不可能に近い。
 だから,このレベルまでの感受力を,教員やその他の大人に求めることは非現実的と言わざるを得ない。また,生徒もそこまでの能力を教員側に求めてはいない。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.22

集団感動ポルノ

子どもを題材にしながら,クラス全体で感動を呼び起こすという式のあり方は,いわば「集団感動ポルノ」といってよい状況である。
 「感動ポルノ」(inspiration porn)とはもともとは,オーストラリアのコメディアンであり,ジャーナリストのステラ・ヤング(Stella Young)氏が拡げた言葉で,健常者の利益のために,障害者を感動の対象としてモノ扱いすることを指している。「2分の1成人式」もまた,子どもを感動の対象に据えて,大人たちが感動を享受するという場である。しかもそれが,個人的な空間ではなく,学校という公的な空間で,集団的に遂行される。その意味で,「集団感動ポルノ」なのである。

内田 良 (2015). 教育という病:子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 光文社 pp.109

多様性

子連れの再婚が珍しくない時代,家族の多様化が進む時代において,「保護者に子どもの過去のことを問えば,すぐに答えが返ってくる」という発想はそろそろ賞味期限切れである。家族にさまざまなかたちがありうることが前提とされるべきである。

内田 良 (2015). 教育という病:子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 光文社 pp.102

組体操への危機意識の低さ

教員による暴力(いわゆる「体罰」)の動画を,自らアップロードする人はいない。暴力は,あってはならないという自覚があるからだ。だから,隠される。他方で組体操については,これほどまでに堂々と各校の事例がわかるのは,巨大な組体操は,あってはならないどころか,あるべき姿だからである。
 組体操の情報があり余るほどに入手できるのは,研究者としてはありがたい。だが,組体操に対する危機意識の低さには,脱力してしまう。

内田 良 (2015). 教育という病:子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 光文社 pp.65-66

組体操

なぜ,組体操が学校教育の中で取り入れられているのか。組体操を支持する教員からの回答は,見事に一致する。すなわち,組体操は子どもが「感動」や「一体感」「達成感」を得ることができるからである。組体操の教育的意義とは,それらの感覚を味わうことにある。

内田 良 (2015). 教育という病:子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 光文社 pp.61-62

学校間格差の要因

子どもの学力には,遺伝や家庭の資源など,さまざまな要因が影響しています。しかし,なぜか人々は,学力というと,すぐに教員や指導法,教材などが強く影響していると考えてしまうようです。このため,もし今,学校別の順位が発表されて,A校は1位,B校は20位であるということがわかると,多くの人は,「A校は優れた教育をしているが,B校はそうではない」と短絡的に考えてしまうおそれがあります。
 しかし,もしかするとA校には,もともと教育熱心な家庭出身の学力の高い子どもたちが通っており,B校にはあまり教育熱心でない家庭出身の学力が低い子どもたちが通っているだけかもしれません。その場合,A校の先生たちはあまり苦労もせずにうまく学級運営ができていて,一方,B校の先生たちは,もともと家庭の資源が不足している子どもたちに対して,なんとか彼らの注意を引きつけ,勉強の大切さを言い聞かせて,必死に学力の底上げを図ろうと奮闘している,という可能性も十分にあり得るのです。

中室牧子 (2015). 「学力」の経済学 ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.123-124

手段の目的化

さらに,本来,手段にすぎないものが政策目的化しているという別の問題も存在します。
 海外の政策評価においては,まず「学力の上昇」のように,教育政策の目的を明確にし,それを実現するためにどういった政策手段の費用対効果が高いのか,という検証を行います。一方,日本では,「2020年までにすべての小中学校の生徒1人に1台のタブレット端末を配布する」という政策目標が掲げられていることからも明らかなように,本来,政策目的ではなく「手段」であるはずのものが政策目的化してしまっています。重要なのは「タブレットを配布すること」ではなく,「何のために配布するのか」でしょう。この状況は効率的な資源配分を歪めている可能性があります。タブレットよりも,他のことに予算を使ったほうが子どもの学力や意欲の向上がみられるということも,十分にあり得るからです。

中室牧子 (2015). 「学力」の経済学 ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.116

教育の効果測定の必要性

私が日本の教育政策について疑問に思う点は,これまで日本で実施されてきた「少人数学級」や「子ども手当」は,学力を上げるという政策目標について,費用対効果が低いか効果がないということが,海外のデータを用いた政策評価の中で既に明らかになっている政策であることです。
 「教育の収益率に対する情報提供」や「習熟度別学級」のように費用対効果が高いことが示されている政策は積極的に採用せず,既に費用対効果が低いか効果がないことが明らかになっている政策を実施するのであれば,巨額の財政支出を行う前に,日本でまずその政策の効果測定を行ってからでも遅くはないのではないでしょうか。

中室牧子 (2015). 「学力」の経済学 ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.110-111

費用対効果

それでは,日本も同じように,1学級あたりの人数を13〜17人のようにもっと少なくするべきなのでしょうか。実は,私はそれには慎重であるべきだと思っています。なぜなら,少人数学級は学力を上昇させる因果効果はあるものの,他の政策と比較すると費用対効果は低い政策であることもまた明らかになっているからです。

中室牧子 (2015). 「学力」の経済学 ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.105

非認知能力

ヘックマン教授らは,学力テストでは計測することができない非認知能力が,人生の成功においてきわめて重要であることを強調しています。また,誠実さ,忍耐強さ,社交性,好奇心の強さ——これらの非認知能力は,「人から学び,獲得するものである」ことも。
 おそらく,学校とはただ単に勉強をする場所ではなく,先生や同級生から多くのことを学び,「非認知能力」を培う場所でもあるということなのでしょう。

中室牧子 (2015). 「学力」の経済学 ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.87

インプットに報酬

「インプット」にご褒美が与えられた場合,子どもにとって,何をすべきかは明確です。本を読み,宿題を終えればよいわけです。一方,「アウトプット」にご褒美が与えられた場合,何をすべきか,具体的な方法は示されていません。
 ご褒美は欲しいし,やる気もある。しかし,どうすれば学力を上げられるのかが,彼ら自身にわからないのです。
 ここから得られる極めて重要な教訓は,ご褒美は,「テストの点数」などのアウトプットではなくて,「本を読む」「宿題をする」などのインプットに対して与えるべきだということです。

中室牧子 (2015). 「学力」の経済学 ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.36

ヒエラルキー構造

戦後の教育は,「単線型」であってそのため,「東大」をヒエラルキーの頂点とする,学校における一元的な競争体系を生み出してきたのだが,この中で,勝った者と負けた者とに対応する社会的階層を再び固定させつつある。かくて知能の高い者は,「東大」に向かい,そこを出た者は,高い社会的経済的階層を構成するようになった。これをゆるがしつづけるのは,タテマエとして存在する教育の機会均等であり,具体的には受験競争に参加する機会均等である。「ゆるがされる」階級の危機と「ゆるがし切れない」階級の挫折(→アノミー)とによる,資本主義社会総体の危機意識が,今日,このあやしげなそして不気味な「新教育宣言」を生み出したと思われる。
 これは,知能は遺伝,生物学的なものであり,知能が学歴を決める,そして学歴が社会的貢献度を決める,という荒筋になっているのだが,そこには,社会的,経済的階層は知能という遺伝・素質が決めるという主張がある。そして,この知能は知能テストによって測定されるというのである。こうして「人間万事所を得るというのは幸福への近道である」のだから「無理するな」と,低い知能の者に対し語っていくのである。
 このような主張は,批判にさらされ出した知能テスト業界と作成者の単なる巻き返しにすぎないともいえようが,桜井氏の主張と照らし合わせて考えると,資本制社会におけるヒエラルキー的分業化の正当化に向けたイデオロギーであるとも考えられる。知能テスト(ないしそれ的考え方)は再び進化論的遺伝学イデオロギーをうちかためながら,早期選別,早期教育に加担したがっているのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.284-285

社会的利用

能力に応じて特殊学級へ入級したとしても担任の先生の努力や熱意がなければ意味がないし,また,IQ73であるため無理矢理本人や保護者を説得し特殊学級へ入級させたとしても本人や保護者が不満や拒否感をいだいているとすれば特殊教育の効果は半減してしまうか,むしろ,全人格の成長の妨げになってしまうであろう。ですから,「能力や障害に応じた指導を」という名目で,ただ単にIQだけで子どもを振るい分けすることには問題があるのは当然であろう。そういう意味では,児童相談所の心理判定員は,自分たちの実施した知能テストの結果がどのように社会的に利用されているかを考えてみなければならないだろうし,また,責任を感じなければならないだろう。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.42

ロッシの鉄則

熱心な進歩主義者で1960年代から80年代にかけて社会政策評価に関してアメリカ有数の専門家だった社会学者のピーター・ロッシは,彼自身のキャリアの末期になって,評価論文に関する自身の幅広い知識を「鉄則」を使って要約した。ロッシの鉄則は,「大規模な社会計画について,その正味の価値を評価すれば,どんな計画であれ結果はゼロになる」というものだった。彼の厳然たる鉄則は,「社会計画の成果の評価がすばらしく設計されているほど,正味の成果はゼロだと評価される可能性が高い」とした。私に言わせれば,幼少期の介入に関する実施体験は,ロッシをそのような鉄則へと導いた,おなじみの落胆を誘うパターンを踏襲している。すなわち,こういうことだ。やる気に満ちた人々による,小規模の実験的努力は成果を示す。だが,それを綿密な設計によって大規模に再現しようとすると,有望に思えた効果が弱くなり,そのうちにすっかり消滅してしまうことが多い。

(by チャールズ・マレー『幼少期の教育的介入に否定的な報告もある』, pp.58-62.)

ジェームズ・J・ヘックマン 古草秀子(訳) (2015). 幼児教育の経済学 東洋経済新報社 pp.

認知的・非認知的スキル

持つ者と持たざる者とのあいだの,認知的スキルおよび非認知的スキルの格差は,ごく幼いころに発生し,年少期の逆境に根源をたどれる部分があり,現在ではそうした環境で育つ子供の割合が増えつつある。子供がどれほどの逆境に置かれているかは世帯所得や両親の学歴といった昔ながらの物差しではなく,子育ての質によって測られる。ただし,それらの昔ながらの物差しは,子育ての質と相関関係にあるのだ。相関関係を因果関係と混同しないことが重要だ。家族にもっと金を与えることは,恵まれない子供の環境の質を向上させることと同義ではない。「貧困との闘い」を求める声が多いけれど,われわれはかつての失敗をくりかえすべきではない。たんに貧困家庭に金を与えるだけでは,世代間の社会的流動性を促進できない。クリントン政権を1996年の福祉政策改革へと導いたのは,そうした考えだった。貴重なのは金ではなく,愛情と子育ての力なのだ。

ジェームズ・J・ヘックマン 古草秀子(訳) (2015). 幼児教育の経済学 東洋経済新報社 pp.41-42

小児期の逆境

ロバート・アンダ,ヴィンセント・フェリッティらの研究チームは,家庭内暴力や虐待やネグレクトといった幼児期の悲惨な体験が成人後にもたらす影響について調査した。その結果,子供時代のそうした体験が,成人してからの病気や医療費の多さ,うつ病や自殺の増加,アルコールや麻薬の乱用,労働能力や社会的機能の貧しさ,能力的な障害,次世代の能力的欠陥などと相関関係があるとわかった。逆境的小児期体験(ACE)について調べたこの研究では,18歳までに虐待やネグレクト,家庭内でのアルコールや薬物の乱用などの体験があったかどうかを被験者に尋ね,1つの体験を1点と数えて合計点で深刻度を計測した。つまり,合計点が高いほど小児期の環境が悪いということだ。成人被験者の3人の2人が少なくとも1点,12.5パーセントは4点以上だった。小児期の逆境的経験がもたらす悪影響は著しい。

ジェームズ・J・ヘックマン 古草秀子(訳) (2015). 幼児教育の経済学 東洋経済新報社 pp.24-25

賢さ重視

アメリカの最近の公教育は,認知力テストの結果,つまりは「どれほど賢いか」を重要視している。たとえば,<落ちこぼれを作らないための初等中等教育法>は,到達度テストの点数で学業を評価する。だが,最近の文献の一致した意見は,人生における成功は賢さ以上の要素に左右されるとしている。意欲や,長期的計画を実行する能力,他人との協同に必要な社会的・感情的制御といった,非認知能力もまた,賃金や就労,労働経験年数,大学進学,十代の妊娠,危険な活動への従事,健康管理,犯罪率などに大きく影響する。

ジェームズ・J・ヘックマン 古草秀子(訳) (2015). 幼児教育の経済学 東洋経済新報社 pp.17

どうしてないのか

言葉の問題だけではありません。ずいぶん昔のことになりますが,東京の大学で教えていたとき,西洋史,日本史,東洋史の講義はあるのに,どうしてアフリカ史はないのか,アフリカ史の講義も,当時一般教養科目と呼ばれていた教養教育で開設すべきだと主張しました。みんな頷くのですが,実現しませんでした。官製グローバル人材の養成をおしつける政府だけではありません。問題は,大学教員の縄張り意識にもあるのです。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.54-55

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