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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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生産力のため

 徳川時代というと,すぐ五公五民とか六公四民といった調子で,ひどくしいたげられた農民の姿が浮かぶが,考えてみれば,その原因の一半は,水田のこうした異常な生産力の高さにある。いくら政治権力が暴虐でも,生産力の低いところでは,とても,収穫物の半分以上を横取りすることはできない。もし,そんなことを強行すれば,支配の対象となる農民が死にたえて,結局,とも倒れになるだけである。日本の農民は,生産力が高いがゆえにいじめられるという,妙なジレンマにおいこまれていたわけである。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 35-36


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意思疎通

 何とも珍妙な対話である。当事者は真剣かもしれないが,お互いの意志はさっぱり疎通しない。ハリスの申し出を受けた日本側にしても,牛の乳は牛の仔が飲むものとばかり思っていたところ,人間が,しかも人間の大人がそれを飲むと聞いては,開いた口がふさがらない。いわんや,アメリカ政府の代表に,自分で牛乳をしぼってもよいといわれては,まともな返事のしようがない。また,家畜は小舎で飼うと決まっているのに,そこら辺の野山に放し飼いしてもよいか,とたずねられては,びっくり仰天せざるをえない。相手の身になって考えてやろうにも。相手の真意がすこしもわからない。


 その後もこのようなことがつづき,ハリスはすっかりまいったらしい。日記を見ると,身体の変調をさかんに訴え,強いられた粗食をなげいている。



鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 23


学歴・学校歴

 明治初期には,学校制度が未整備で混沌としていたこともあり,どんな学校で勉強しようと学力があり,その学力をもって試験に突破しさえすれば,進学の機会や職業資格を手に入れることができた。ところが,1880年代から90年代にかけて,学校制度が整備され,進学の階梯的なルートが確立されると,特定の学校を卒業したことが次の上位段階の学校に進学するうえでの前提条件になった。また,学力はその証明である「学歴」に変換され,さらに卒業した学校のランクや威信を示す「学校歴」を基準に,進学・就職の機会や職業資格が配分された(天野, 1983)。
小針 誠 (2015). <お受験>の歴史学:選択される私立小学校 選抜される親と子 講談社 pp. 67-68

窮余の策

 つまり,「公立(小)学校」の数が十分ではなかった東京では,窮余の策として,近世以来の既存の寺子屋(手習い塾)や私塾などを「私立小学校」として認可し,公教育の普及を図っていった。また私立小学校は公立小学校の代用とみなされ,「代用私立小学校」という名称・制度のもとで,私立小学校への通学が認められることになった。手習い塾や私塾の師匠たちは,東京府の開催する研修等に通い,「学校教師」としての振る舞いや近代学校の教授法を習得するよう指導された。しかし,私立学校は代用である限り,一般には公立学校よりも格下の学校として位置づけられ,公立小学校が普及するにつれ,私立小学校は次第に淘汰され,その数も減少していった。
小針 誠 (2015). <お受験>の歴史学:選択される私立小学校 選抜される親と子 講談社 pp. 58-59

タバスコ

 タバスコが飛躍的に売り上げを伸ばしていったのは,唐辛子よりもむしろ塩の恩恵によるところ大である。現在でも年間50万トンを産出している岩塩ドームの塩を運搬するために,サザン・パシフィック鉄道が近郊の町ニューイベリアまで線路を延長したので,タバスコもこの鉄道敷設に便乗して世界中で売り上げを伸ばしていったというわけである。
ジェームス・M・バーダマン 森本豊富(訳) (1995). アメリカ南部:大国の内なる異郷 講談社 pp. 155

テキサス共和国

 さて,結局,独立軍はアラモ砦での戦闘の後,サンハシントの戦いで勝利した。そして1836年に,総司令官サミュエル・ヒューストン(1793〜1863)を初代大統領とし,テキサス共和国として独立。1845年には,アメリカ合衆国に奴隷州として併合された。アメリカ軍は,その後さらにメキシコシティまで進軍し,1848年にはグァダルーペ・イダルゴ条約によって,メキシコのテキサスへの請求権を放棄させたうえにカリフォルニア,ニューメキシコも譲渡させ,1500万ドルの賠償金の支払いを命じた。
ジェームス・M・バーダマン 森本豊富(訳) (1995). アメリカ南部:大国の内なる異郷 講談社 pp. 71-72

テキサス独立

 連邦の崩壊はまた,テキサスのメキシコ領の発展とも関連があった。メキシコ側からの招きもあって,テキサスには多くのアメリカ人が移り住むようになっていた。1830年には,綿花栽培に従事する白人二万人と約二千人の奴隷がいたとされる。メキシコ人の人口を上回るには,さして時間はかからなかった。しかしながら,メキシコでは奴隷は禁止されていたこと,そして移住したアメリカ人は国籍を変える意思は無かったことから,メキシコ側にテキサスを独立した領地として認めるように申請した。
 メキシコ政府は,当然のことながらこの要望をしりぞけた。1836年,テキサス在住のアメリカ人がテキサス共和国の独立を目指して反乱を起こすと,メキシコ総督サンタ・アナは三千人の大軍を率いてサンアントニオを拠点とする「反逆者」の退治に当たった。アラモ砦にたてこもった187人の独立軍兵士は数日間にわたる激しい戦闘に耐えたが,圧倒的な兵力を誇るメキシコ軍の攻勢に耐えかね,玉砕という悲劇の結末を迎えることとなった。
ジェームス・M・バーダマン 森本豊富(訳) (1995). アメリカ南部:大国の内なる異郷 講談社 pp. 69-70

アメリカ南部プランテーション

 南部プランテーションでは,労働者の数が収穫高に直接結びついていたので,おそらく当時の状況からして,奴隷の数を増やす以外に収穫を伸ばす術はなかったといってよかろう。一家族で経営している農園の数の相当数あったが,中規模以上雨の農園で奴隷を使用していない所は無かった。収入を増やしたいのであれば,賃金を与える必要のない奴隷を買い取る以外に考えられなかったのである。
 プランターが奴隷を購入するのに要した金額は,一人当たり500ドルから1800ドルであったが,いったん手中に収めてしまえば,彼らの衣食住をまかなうには年間15ドルから60ドルで済んだのである。農地の拡大によってのみ増収が見込まれるという図式においては,労働力,すなわち奴隷の数を増やすことがプランターたちの主要な関心事であった。であるから,北部においては作物の収益が農機具や土壌の改良,設備投資などにあてられたのに対して,南部ではそのほとんどが奴隷および農地購入の資金として使われた。いったんこのパターンが定着すると,そこから抜け出すことはほとんど不可能であった。
ジェームス・M・バーダマン 森本豊富(訳) (1995). アメリカ南部:大国の内なる異郷 講談社 pp. 23

化石の旅

 なお,ケーニッヒスワルトと彼の標本をめぐっては,日本と関係する逸話がある。


 第二次世界大戦中の日本のジャワ島占領下で,彼は32ヵ月にわたって日本軍の収容所で,不自由な生活を強いられた。彼はそうなる前に化石を巧妙に隠したのだが,ガンドンから出た比較的年代の新しいジャワ原人の頭骨化石1点のみは,日本軍の手に渡ってしまい,天皇陛下への贈り物として日本へ送られた。


 戦後,その化石は未開封の状態で日本に置かれていたものをGHQに接収され,長い旅路をたどってアメリカにいたケーニッヒスワルトの手に戻った。さらに,彼の移動とともにオランダへ移されたあとで,インドネシアに返還された。ガンドンの標本は結局,地球をぐるりと一周してジャワ島に戻ってきたのである。



川端裕人(著) 海部陽介(監修) (2017). 我々はなぜ我々だけなのか:アジアから消えた多様な「人類」たち 講談社 pp. 69-70


イスラムから学ぶ

 中世ヨーロッパと古代ギリシアの哲学世界との再会は,1031年にイベリア半島で後ウマイア朝が滅亡し,キリスト教勢力による失地回復運動,いわゆるレコンキスタが一挙に進んだ結果として,12世紀初頭にトレドで始まっていく。もともとローマ帝国が崩壊し,西ヨーロッパが他民族による侵略の繰り返しで長い混乱期に入ってから,アリストテレスをはじめ古代ギリシアの知は西洋の記憶からは失われ,むしろ西アジアからイベリア半島に及ぶ広大なイスラム帝国に受け継がれていった。イスラムの知識人は,古代世界からローマ法や哲学,数学や天文学を継承し,発展させていた。その諸都市には,豊かな蔵書を誇る図書館が建設され,学校では古代ギリシアやアラビアの哲学者たちの思想が教えられていた。レコンキスタの結果,ヨーロッパ人たちは,当時のキリスト教世界からすればはるかに進んだイスラム文明を目の当たりにする。19世紀に「西洋」と出会った幕末の日本人にも似て,圧倒的な文明レベルの差を前にした西洋人たちは,この時「イスラム」から学ぶことを開始するのである。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 41

戦士と知識人

 12世紀のヨーロッパ各地で突然,群れをなし始めた教師や学生たちにとって,最も嫌悪すべきは私闘を重ねる騎士や十字軍に参加した戦士たちであった。後者もまた,人口と経済の面で急成長しつつある当時のヨーロッパで膨張していた社会層であったが,彼らが武力に訴え,文明の進んだイスラム諸国へ襲撃や略奪に向かっていたのに対し,新しい知識人たちはそのような野蛮さを嫌い,精緻な論理的弁証を駆使してたたかわされる神学・哲学的テーマについての論戦を,各人の「武勲」が賭けられた知的戦闘と受けとめていたのである。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 38

ロンドンのスモッグ

さらに,煙は長年にわたって都市生活の一部だと考えられていた。ロンドン市民はそうした生活妨害に慣れていて,霧を近代社会の避けられない副産物とみなし,黒い天蓋もイギリス独自のもので,大都会にふさわしい特徴だと思っていた。「スモーク」や「ビッグ・スモーク」がロンドンの代名詞として使われるようになり,ロンドンといえば汚染だった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.353

女性用公衆便所

 19世紀末には,この話題が公の場でもちきりとなったので,自治体の選挙では女性用公衆便所が進歩派のスローガンとなった。だがやはり,女性は非常に貞淑で清らかで慎み深いので公衆便所を必要としないと主張する保守派の人も,まだ存在していた。セント・パンクラスの教区委員だったジョージ・バーナード・ショーは,1900年にカムデン・ハイ・ストリートの女性用公衆便所を頑固に認めたがらない他の教区委員について詳述している。ひとりは,地元の貧しい花売り娘がスミレを洗うためだけに公衆便所に行っていることに不服だった。別の教区委員は,そうした設備を求める女性は「女性であることを忘れてしまったのだ」と主張した。交通に与える影響を知るために設置された公衆便所の実物大木造模型は,ショーによると,乗合馬車や荷馬車が通りかかるたびに故意による破壊の対象となり,「ありとあらゆる人にからかわれ続ける」物笑いの種になったという。問題は,1905年にようやく女性用地下公衆便所が建設されるまで解決しなかった。ショーの説明が興味深いのは,年老いた教区委員は,女性の身体について忍び笑いをする感じの悪い男子生徒と同じだという実態はもとより,階級に対するある種の先入観も表しているからだ。ウェストエンドの上品な中流階級の女性に公衆便所を提供するのと,贅沢品の利用方法をほとんどわかっていないカムデンの花売り娘や工場労働者向けに公衆便所を提供するのとは別問題だというのだ。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.264-265

公衆便所

 小便所の建設は19世紀初め頃に始まったようだが,正確な日付を確認するのはかなり難しい(それ以前は,小便所を表す英語「urinal」は,医師が患者の尿を集めて調べるのに使用したガラス容器を意味したから)。ある教区民が1814年にホルボーン教区会に送った手紙は,「彼の要請で,彼の家の横に,委員会によって設置された小便所」に触れている。1830年代になると,ホルボーンには,教区会の小便所がいくつかあるだけでなく,小便所の清掃人も週3シリングで雇っていた(以前は週2シリングで貧困者を雇っていたが,あまり熱心に働かなかった)。
 そうした初期の小便所は複雑な作りではなかった。通常は,壁に薄い石版や石が取りつけられている程度で,屋外に設置され,男性の下半身を覆い隠す石版が立ててある場合もあった。パブが設置した小便所の多くは排水設備がなく,基本的には,壁続きでつながる建物の状態を維持することだけが目的だった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.238

川に浮かぶプール

 市民の間に「遊泳」の人気が高まってきたのを利用して,利益を上げようとした者もいた。1875年,フローティング・スイミングバス社は,鉄とガラスで覆われた,テムズ川に浮かぶ小さな水晶宮殿のような遊泳浴槽を製造し,チャネリング・クロス駅のそばの,かつて汽船の桟橋だった場所に設置した。このプールには,川からポンプでくみ上げ,ろ過して温めた——「もとの塩分とソフトで心地よい性質はそのままで,浮遊する泥やゴミを完全に除去した」——水が使われた。この豪華な設備は,当然ながら男性労働者向けのものではなかったが——入場料は1シリング——冬の間は水上アイスリンクとして利用されつつ,10年ほどは繁盛していた。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.227

洗濯屋

 この他にも,洗濯婦に「洗濯物を出す」というぜいたくな手段があり,19世紀の後期には,機械化された規模の大きな洗濯屋へ出すようになった。洗濯屋の利用にはお金がかかり,衛生問題の専門家に言わせれば非衛生的で危険だった。洗濯婦たちは自分の家で洗った洗濯物を裏庭で乾かしたが,そこは貧困者たちが使うごみ箱と水洗便所に近く,「最底辺の人々が頻繁に足を運ぶ」場所でもあった。そのような環境が天然痘などの病気を媒介するという報告がときおり出されたが,洗濯のビジネスにはほとんど影響がなかった。中産階級の主婦にとって,「洗濯屋に出した方がはるかに快適」なのは,逃れがたい事実だった。利点は多かった。使用人たちが流し場で丸一日,あるいはそれ以上の時間を使って,洗濯物を次々と懸命に洗い,煮沸し,すすぐ必要がなくなり,家の主は普段の快適さを奪われずにすみ(「ディナーは遅れ,ちゃんとした服もなく,洗濯中だから,と告げられる」),冬の数ヵ月間,家の中が乾燥中の服で溢れる「蒸気風呂」に変わることもなかった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.204-205

死体の処理

 ロンドンには下水の他にも頭の痛い「廃棄物除去」の問題があった——死体の処理である。埋葬の方法については,ほとんど議論は行われなかった。土葬が主流で,火葬は外国の特殊な習慣と考えられていたからだ。問題は,増え続ける死体を収容するスペースを見つけることにあった。首都の人口は急増し,教会墓地や埋葬地,地下納骨所は死体で満杯で,結果として,需要が供給を上回った場所は,どこも不快極まりない状態だった。深さ6メートルほどの縦穴に,棺を積み重ね,一番上の棺は地面からわずか10センチメートルほどのところにある。腐った遺体は,新参者に場所を譲るために,かき乱され,バラバラに切断され,破壊されることも珍しくない。掘り返した骨を不注意な墓掘り人が落とし,墓石の間に散らかして放置し,棺は粉砕されて貧困者に薪として売られる。聖職者と寺男は,埋葬料が収入の大半を占めていたため,この最悪の習慣に目をつぶっていた。また,墓掘り人の仕事を間近で覗いたりすれば,おぞましい光景が待ち受けていた。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.163

自動車の出現

 「馬のない車」が初めてロンドンに現れたのは1896年のことだ。なかには,この機械には血が通っていない——「ニンジンや角砂糖をあげられない」——とか,自動車での移動は「感動のない満足感をもたらす」などと嘆く人もいた。また,軽はずみな予測をする人もいた——「鉄道だって馬を一掃してしまうはずだったが,どうだろう?今じゃ,かつてないほど多くの馬がいるではないか」
 確かに,馬はその後も数十年にわたってロンドンの路上にとどまり続けたが,その数はヴィクトリア朝が終わると減少し始めた。特にバスが急速に普及し,たちまち血と肉を有する競争相手をしのぐ人気を得た(「乗客は必ずといってよいほど,速い方の乗り物を選んだ」)。何より確かな兆しとなったのは,1905年にロンドン乗合馬車会社が,乗合馬車の客室部分を自動車の車台に乗せると決断したことだった——やがて馬が使われなくなるのは明らかで,あとは時間の問題だった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.66

道路の汚泥

 人もまた汚泥で転んだ——「多くが足をくじき,背骨を『ぶつけ』,神経系に『衝撃』を受け」,安全に道路を渡れるところを探すのが,危険な行為となりかねなかった。けれども何よりの問題は衣類への影響だった。汚れないようにと,スカートの下のたっぷりしたペチコートをしとやかにたくし上げるには,かなりの技術と判断力が必要で,たとえとても優雅に,注意深く歩いたとしても,通り過ぎる車に泥をかけられることがある。靴や服の泥を取り除くのは,当時の人々の日課となっていた。女性誌のコラムには,ブラシで泥汚れを払う方法や,布地の適切な取り扱い方,便利な化学薬品についての助言が溢れていた。傷みやすい布地の場合は,理想をいえば,街路で衣服を露出すべきでない。リージェント・ストリートやボンド・ストリートで馬車から降りずに,帽子職人や店員に馬車まで見本を持ってこさせる貴族の女性は,社会的地位を誇示していただけでなく,舗道上の危険から衣服を守っていたのだ。外を歩かねばならない人にとって,解決策のひとつはガロッシュというゴム製のオーバーシューズで,これを履けば「冬場にロンドンの街路をほんの少し歩いただけで泥が跳ねて汚れてしまうブーツではなく,気のきいた履物で,友人宅の応接間に入ることができた」
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.45

道路の汚泥の中身

 元凶となっていたのは汚泥で,道路を覆い,歩道にまで飛び散っていた。その正体は,畑の泥でもなければ,厩舎がある庭の泥でもなく,実は馬の糞が主体なのだが,色は黒い。煤で汚れた大気が,触れるものすべてを,道路の泥でさえも汚染していたからだ。また,ロンドンの泥は,「ブーツが脱げるほど」強くねばついたが,それは,ほとんどの車道の舗装に花崗岩を多く含む骨材,マカダムが使われていたためだ。マカダム舗装は,比較的安価で細かな石をぎっしりと敷き詰めるなど,いくつかの長所があったが,くぼみができやすく,轍がつきやすかった。削り取られた石の粉は湿った馬糞と混じり合い,ねっとりとした糊状になる。「溶け込んだ」砂粒は驚くべき量だった。シティ・オブ・ロンドンの医療担当者だったレゼビー博士は,12ヵ月にわたる調査の結果,乾燥させたロンドンの汚泥の成分を明らかにした。57パーセントが馬糞,30パーセントが削られた石,13パーセントが削られた鉄粉(鉄製の車輪や馬の蹄鉄から出た)だった。もちろん,泥の全体的な粘度には水分が極めて大きく関係しており,道路は「霧が出るとべたつき,靄で滑りやすくなり,小ぬか雨が降ると液状になった」。だが,最も雨が少ない夏でも悩みが消えるわけではなく,乾燥した泥の「コーヒー色の熱風」が吹き,衣服を汚し,目やのどを刺激した。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.43-44

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