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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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気付かなかった

生産性の低いオーストラリアの土壌のもうひとつの特徴は,その問題がヨーロッパからの最初の入植者には認知できないものだったことだ。それどころか,現代世界でおそらく最も背の高い樹木——ヴィクトリア州のギプスランドに自生するユーカリは高さ120メートルに達する——を含む堂々たる広大な森林地に遭遇した彼らは,その外観に惑わされ,この土地が高い生産性を有すると考えてしまった。しかし,伐採者が最初の樹木の現存量(特定の空間内に生存する生物の総体)を取り除き,ヒツジが草の現存量を食べ尽くしてしまったあと,入植者たちは,樹木や草の再成長のあまりの遅さに,また農地の採算性の低さに驚かされ,多くの地域では,農業経営者や牧畜業者が多額の設備投資を行なって,家や柵や納屋を建設したり農地の改良を図ったりした末に,結局は放り出さざるをえなくなった。初期の植民時代から今日に至るまでずっと,オーストラリアの土地利用は,土地の開墾,投資,破産,放棄というサイクルを何度も繰り返してきた。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.164-165
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ハイチとドミニカ

社会的・政治的相違のひとつには,ハイチが裕福なフランスの植民地であり,フランスの海外領土の中で最も貴重な植民地になった一方で,ドミニカ共和国はスペインの植民地だったものの,16世紀後半にはそのスペインがイスパニョーラ島を放置して,みずからも経済的・政治的に衰退していったことが挙げられる。つまりフランスは,ハイチにおける奴隷を基盤とした集約的なプランテーション農業の発展に投資することができ,実行にも踏み切ったが,スペインにはその意図も力もなかった。フランスは,スペインよりもはるかに多くの奴隷を植民地へ送り込んだ。その結果ハイチは,植民地時代には隣国の7倍の人口をかかえ,現在でも,ドミニカの880万人に対し1000万人と,若干多い人口を有している。しかし,ハイチの面積は,ドミニカ共和国の面積の半分をわずかに上回る程度なので,人口密度ではハイチがドミニカの倍の高さになる。人口密度の高さと降雨量の少なさの組み合わせが,ハイチ側の急速な森林伐採と地力の劣化の主因となった。それに加えて,ハイチに奴隷を運んでくるフランスの船はすべて,ハイチの木材を積み込んでヨーロッパへ戻ったので,19世紀半ばまでには,ハイチの低地と山腹は森林資源をあらかた剥ぎ取られてしまった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.103

解釈と弁明の混同

第1に,大量虐殺が発生した理由になんらかの“解釈”を与えると,それは“弁明”と受け取られかねない。しかし,ある大量虐殺について,単純化しすぎたひとつの要因による解釈に達しようが,過度に複雑な73の要因による解釈に達しようが,ルワンダの大量虐殺をはじめ,悪事の実行犯たちがとった行動に対する個人的な責任が変化するわけではない。悪の根源について論じる場合,いつもこういう誤解が生じる。解釈と弁明を混同している人たちは,どんな解釈にも反発する。しかし,ルワンダの大量虐殺の根源を理解することは,たいへん重要なのだ。殺人者に責任逃れをさせたいからではなく,ルワンダや,他の場所でのあのようなことがふたたにお起こる危険性を減らすために,その知識を利用したいからだ。同じような目的から,ナチのホロコーストの根源を理解すること,あるいは連続殺人犯と強姦犯の心理を理解することに生涯を捧げる決意をした人々もいる。彼らがそういう決意をしたのは,ヒットラーや連続殺人犯や強姦犯の責任を軽減するためではなく,ああいう恐ろしいことがなぜ現実となったのか,再発を防ぐ最善の方法とは何かを探るためだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.84

逃げるか攻撃するか

わたしたち現代人は,アマゾンやニューギニアの奥地に住むいくつかの種族を除けば,すべての“先住民”がすでにヨーロッパ人と接触している世界に住んでいるので,初めて接触することのむずかしさになかなか思いが至らない。実際問題として,北の狩場で初めてイヌイットの集団を目にしたときのノルウェー人たちに,どういう行動が期待できるだろう?「はじめまして!」と叫んで,笑顔で歩み寄っていき,身ぶり手ぶりで意思の疎通を図りながら,セイウチの牙を指さし,鉄の塊を差し出してみせる?わたし自身,生物学の現地調査でたびたびニューギニアを訪れ,そういう“異民族間の初対面”に何度も立ち会って,それが危険で,心底恐ろしいものであることを思い知らされてきた。そういう状況下では,“先住民”はまずヨーロッパ人を侵入者とみなし,自分たちの健康や生活や土地の所有権を脅かしかねない存在として,正当に認識する。どちらの側も,相手の出かたを予測できず,緊張を不安にとらわれ,逃げ出すべきか攻撃すべきか決めかねて,相手が恐慌をきたしたり先に攻めてきたりしないかと神経を尖らせる。この状況を無事に切り抜けることはもちろんとして,友好的な関係に転じるためには,極度の細心さと忍耐力が必要だ。後年のヨーロッパ人入植者たちは,経験を重ねて対処のしかたを学んでいくが,グリーンランドのノルウェー人は先に攻撃をしかける道を選んでしまったらしい。
 要するに,18世紀のグリーンランドのデンマーク人たちも,ほかの土地で先住民と遭遇したほかのヨーロッパ人たちも,このノルウェー人たちと同じ領域の問題にぶつかった。“原始的な異教徒”に対する自分たちの偏見,殺すべきか,奪うべきか,交易すべきか,姻戚になるべきか,土地を取り上げるべきかという迷い,相手に遁走も攻撃も思いとどまらせる説得術……。後年のヨーロッパ人たちは,あらゆる選択肢を吟味し,特定の状況に最もふさわしい選択肢を採用することで問題に対処した。特定の状況とは,ヨーロッパ人のほうが数で優勢か否か,じゅうぶんな数のヨーロッパ人が妻を同伴してきたかどうか,ヨーロッパで好まれる製品を先住民が作っているかどうか,ヨーロッパ人が定住したくなるような土地かどうかなどの条件の組み合わせだ。しかし,中世のノルウェー人は選択肢の幅を持たなかった。イヌイットから学ぶことができず,あるいはそれを拒み,優位となる軍事力も持たなかったノルウェー人は,イヌイットを駆逐するどころか,自分たちがグリーンランド史の舞台から消えてしまった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.419-420

グリーンランド社会

グリーンランドのノルウェー人社会の特色は,5つの言葉で表すことができる。互いにやや矛盾し合うその言葉とは,“共同型,暴力的,階層的,保守的,ヨーロッパ志向”というものだ。これらの特徴は,グリーンランド社会の祖となるアイスランド社会,ノルウェー社会から引き継がれたが,グリーンランドにおいて最も顕著に表面化した。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.371

脆弱性への対応

今,われわれはこう自問せずにはいられない。いったいなぜアイスランドの入植者たちは,明らかに被害を招くような方法で土地を管理する愚を犯したのだろうか?何が起こるかを認識していなかったのだろうか?そのとおり。入植者たちはその危険性を認識したものの,当初は気づくことができなかった。なにしろ,不慣れなうえに厄介な土地管理という問題を相手にしていたのだ。活火山と温泉を別にすれば,アイスランドは,すでに入植ずみのノルウェーやイギリスとかなり似た土地に見えた。入植者たちにしてみれば,アイスランドの土壌と植生が既知のものよりずっと脆弱だという事実など推し量る手立てもない。スコットランドの高地と同じく,アイスランドでも,高地を領有して多数のヒツジを放つのが当然だと思われたのだ。アイスランドの高地では保有できるヒツジの頭数が制限されること,さらに,低地でもヒツジの頭数が過剰になり始めることなど,知る由もなかった。要するに,アイスランドがヨーロッパで最も深刻な生態学上の被害を受けたのは,ノルウェーとイギリスでは慎重だった移民たちがアイスランドに上陸したとたん分別を失ったからではなく,ノルウェーとイギリスの経験則では,一見豊かなアイスランドの環境に潜む脆弱性に対応できないという事実に気づくのが遅すぎたからだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.317-318

ヴァイキングの階級制度

社会制度についていうと,ヴァイキングはスカンディナヴィア本土から外国に階級制を持ち込んだ。襲撃時に捕らえられた奴隷が最下級,次が自由人,首長が最上級という階層分けで構成されたものだ。ヴァイキングが広汎に進出した時代,ちょうどスカンディナヴィアに統一された大きな王国——これに対するものが,局地的な小さい政治組織で,その頂点にいる首長も“王”と称していた可能性がある——が現われ始めたので,外国に入植したヴァイキングたちも,最終的にはノルウェーの王たちや(のちに)デンマークの王たちと折り合いをつけなければならなかった。とはいうものの,入植者たちは,そもそもノルウェーで王座を狙っていた新興勢力から逃れるために移民となったという経緯もあって,アイスランドでもグリーンランドでも王制を採ることは一度もなく,その支配権は,複数の首長から成る軍閥の手中にとどまっていた。首長たちに所有が許されたのは,自分の船と,貴重で飼育しづらいウシ,さほど珍重されなかった飼育の楽なヒツジなど,ひと揃いの家畜だけだ。首長の従者,家来,賛同者としては,奴隷,自由労働者,小作人,独立した自由人の農夫などがいた。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.300-301

海賊・農夫・交易商・開拓者

しかし,ヴァイキングの物語には,そういう恐ろしい部分と同じくらいロマンチックで,もっと本書との関わりが深い部分もある。ヴァイキングは,恐ろしい海賊であると同時に,農夫,交易商人,植民地開拓者であり,ヨーロッパで初めて北大西洋に乗り出した探検家でもあった。ヴァイキングたちが築いた数々の植民地は,それぞれ大きく異る運命をたどっている。ヨーロッパ大陸とイギリス諸島に入植した者は,最終的に地元の人々に同化し,ロシア,イングランド,フランスなど,いくつかの国民国家の形成に携わった。ヨーロッパ人による初の北米大陸入植の試み,ヴィンランドの植民地は,すぐに遺棄されることになった。グリーンランドの植民地は,最も辺境にあるヨーロッパ社会の領地として450年のあいだ存続したが,最終的には消滅する。アイスランドの植民地は,何世紀にもわたって貧困と政治的な難局に苦しんだのち,近年は世界でも屈指の裕福な社会に生まれ変わった。オークニー諸島,シェトランド諸島,フェロー諸島の植民地は,ほぼなんの問題もなく存続した。これらすべてのヴァイキングの植民地は,同一の社会を祖としている。それぞれの植民地が異なる運命をたどったことと,入植者を取り巻くそれぞれの環境とのあいだには,明らかな相関性が認められる。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.283

マヤの環境

マヤを理解するために,まず,その環境について検討してみよう。わたしたちは,マヤを取り巻く環境を“密林”もしくは“熱帯雨林”だと思っている。これは真実とは言えない。なぜ真実と言えないか,じつはその理由が重要なのだ。熱帯雨林というのは,厳密にいうと,年間を通じて湿潤な土地,つまり,降雨量の多い赤道地帯に育つものを指す。しかし,マヤの国土は赤道から1500キロ以上離れた位置,緯度でいえば北緯17度ないし22度の範囲にあり,“季節熱帯林”と呼ばれる環境に置かれている。つまり,5月から10月にかけては雨季になりやすいが,1月から4月にかけては乾季になりやすい。マヤの国土は,雨季に目を向ければ“季節熱帯林”となり,乾季に目を向ければ“季節砂漠地帯”と呼べるだろう。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.253

内部崩壊の結果

社会の崩壊を理解するために提起した5つの要因の枠組みのうち,アナサジの崩壊には4つの枠組みが関与している。まず,さまざまな型の人為的な環境侵害,ここでは特に森林破壊とアロヨの下方侵食がある。また,降雨と気温の面での気候変動もあり,その影響は,人為的な環境侵害の影響と相互に作用し合った。そして,友好的な集団との内部交易も,崩壊に至る過程に大きく関与している。異なるアナサジの集団は,互いに食物,木材,陶器,石,贅沢品などを供給し合って互いを支えながら,相互依存型の複雑な社会を構成していたが,同時に,その社会全体を崩壊の危険にさらしていた。宗教的要因と政治的要因は,複雑な社会を維持するのに不可欠な役割を果たしていたようだ。具体的には,物々交換の調整をすること,外郭集落の人々に動機付けを行い,食物,木材,陶器などを政治と宗教の中心地に供給するよう促すこと。5つの要因のうち,ただひとつ,アナサジ崩壊に関与したという確証がないのは,外部の敵だ。アナサジ内部には,人口の増加と気候の悪化に伴う戦闘が確かにあったものの,アメリカ南西部の文明は,人口密度の高いほかの社会とのあいだに距離がありすぎて,深刻な脅威を覚えるほどの外敵は存在しなかったのだろう。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.246

持続可能性への過信

遺棄の主因はこのように多様だが,つまるところ,すべては同一の根本的な難題に帰する。すなわち,脆弱で対処しにくい環境に住む人々は,“短期的”には見事な成果をもたらす理に適った解決策を採用するが,長期的に見た場合,そういう解決策は,外因性の環境変化や人為的な環境変化——文書に記された史実を持たず,考古学者もいない社会では,未然に防ぐことができなかった変化——に直面したとき,失敗するか,あるいは致命的な問題を生み出すことになる。ここでわたしが“短期的”と引用符付きで書いたのは,アナサジがチャコ峡谷でじつに600年もの歳月を生き延びたからだ。これは,1492年のコロンブス到着以来,新大陸のどの場所であれ,ヨーロッパ人が居住した期間よりかなり長い。アメリカ南西部のさまざまな先住民たちは,その存続中,5種にわたる経済の効率化を試していた。このなかで,“長期”にわたって,例えば,少なくとも千年のあいだ持続可能(サステイナブル)なのはプエブロの土地利用法だとわかるまで,何世紀もの歳月が費やされている。このことを知れば,われわれ現代のアメリカ人も,自分たちが住む先進国の経済の持続可能性を過信する気にはなれないはずだ。ことに,チャコの社会が1110年から1120年に至る10年間に最盛期を迎えたのち,いかにあっけなく崩壊したか,また,その10年間を生きたチャコの人々にとって,崩壊のリスクがいかに蓋然性の低いものに見えたかを考えれば,なおさらだろう。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.245-246

不安と戦闘に至る

プエブロ・ボニートの最後の建て増しは,1110年から1120年のあいだに始まったと目されている。かつて外向きに開放されていた広場の南側を,壁一面の部屋で囲んだもので,その目的から推して,紛争が頻発していたと考えられる。プエブロ・ボニートを訪れる人々が,もはや宗教儀式に参列して命令を受けるだけでなく,騒動を起こし始めたことは間違いないだろう。プエブロ・ボニートと近隣のチェトロ・ケトルのグレートハウスにおいて,年輪年代法により最後の梁材とされた木は1117年に切られ,チャコ峡谷におけるほかの最後の梁材は,どれも1170年に切られている。ほかのアナサジ遺跡には,人肉食の痕跡も含めて,紛争のあった証拠がさらに数多く見受けられる。また,カイエンタ・アナサジが,わざわざ畑からも水源からも遠い急勾配の崖の頂に居住していたのは,防御態勢をとりやすいからだとしか考えられない。チャコより長くもちこたえ,1250年以降も存続したアナサジ居住地では,明らかに戦闘が激化していったようだ。その証拠として,防御用の壁,堀,塔が急増していること,散在していた小さな集落が丘の頂上の要塞にひとかたまりに集まっていること,埋葬されていない死体ごと村が故意に焼かれていること,頭皮を剥ぎ取られた痕跡のある頭蓋骨,体腔に矢尻の残った骨などが挙げられる。環境問題と人口問題が住民の不安と戦闘という形で爆発する事例は,本書で頻繁に取り上げる主題であり,それは,過去の社会(イースター島,マンガレヴァ島,マヤ,ティコピア島)にも現代の社会(ルワンダ,ハイチなど)にも散見される。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.239-240

森林破壊の結果

1975年,古生態学者のフリオ・ベタンクールは,観光客としてニューメキシコ州を車で通過しているときに,たまたまチャコ峡谷を訪れた。そして,プエブロ・ボニート周辺の樹木のない風景を見下ろしながら,こう自問した。「まるで,疲弊したモンゴルの草原みたいだ。ここに住んでいた人々は,どこで材木と薪を手に入れたんだろう?」。この遺跡を研究する考古学者たちも,長いあいだ同じ疑問に頭を悩ませていた。3年後,フリオは,まったく関係のない理由で,友人からモリネズミの廃巣研究について助成金申請書を書くよう頼まれたとき,瞬間的な閃きを感じて,プエブロ・ボニートを始めて見た時の疑問を思い出した。さっそく廃巣の専門家であるトム・ヴァン・ダヴェンデールに連絡したところ,トムがすでにプエブロ・ボニート付近の国立公園局のキャンプ場で廃巣を採集していることが確認できた。その廃巣のほぼすべてに,ピニヨンマツの針状葉が含まれていたという。現在そのマツは,採取地点から数キロメートル以内の範囲にはまったく生えていないというのに,どういうわけか,プエブロ・ボニートの建築の初期段階で屋根の梁材に使用されており,同様に,炉床及びごみの堆積物中の木炭も,大半がこのマツだった。トムとフリオは,これらの廃巣が,近隣にマツが生えていたころの古いものに違いないと気づいたが,どの程度古いものかは見当もつかず,ことによると1世紀くらい前のものかもしれないと考えた。そこでふたりは,これらの廃巣の試料を放射性炭素法で測定させた。放射性炭素法の研究室から出された年代を聞いて,ふたりは愕然とした。廃巣の多くが,1千年以上前のものだったからだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.232

交易中止の影響

南東ポリネシア内で交易が行われた時期は,放射性炭素法で年代特定された地層からの出土品をもとに推定できる。ヘンダーソン島の地層から出た加工品を調べたところ,交易が1000年ごろから1450年ごろまで続いていたことがわかった。しかし,1500年までには,南東ポリネシア内でも,マンガレヴァ島を中心として放射状に伸びた線上でも,交易が中止されてしまった。すでにヘンダーソン島の後期の地層には,マンガレヴァ産の貝殻も,ピトケアン産の火山ガラスも,同じく刃物の原料になる肌理の細かい玄武岩も,マンガレヴァやピトケアン産の焼き石用の玄武岩も見当たらない。もはやマンガレヴァ島からもピトケアン島からも,カヌーがやってこなくなったのだろう。ヘンダーソン産の矮小な樹木ではカヌーを製造することができないので,数十人の島民たちは,世界で最も辺鄙で最も暮らしにくい島のひとつに囚われてしまった。そして,われわれの目には解決不能と映る問題に直面することになる。つまり,金属も石灰岩以外の石もなく,どんな輸入品もまったく入手できない状況下で,隆起した石灰岩の礁の上でどう生き延びるかという問題だ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.208

疫病・奴隷

ヨーロッパ人がイースター島にもたらした被害に関する悲話は,手早く簡単にまとめたいと思う。1774年にクック船長が短気逗留して以来,少人数ではあるものの,イースター島にヨーロッパからの訪問者が絶えたことはなかった。ハワイ,フィジー,その他多くの太平洋の島々でも記録されているとおり,そういう訪問者たちが持ち込んだヨーロッパの疫病のせいで,それまでいわば無菌状態にあった多くの島民たちの命が奪われることになったと見て間違いはないだろう。ただ,伝染病に関する具体的な記述が行なわれるのは,1836年ごろに天然痘が蔓延してからのことだ。これもほかの太平洋の島々と同じく,イースター島でも,島民たちを労働に従事させるための拉致,いわゆる“黒人狩り(ブラック・バーディング)”が1805年ごろから始まり,1862年から63年に最盛期を迎えた。イースター島史上最も苦難に満ちたこの時代には,20隻余りのペルー船がおよそ1500人(生存者の半数)の島民を連れ去り,競売にかけて,ペルーの鉱山における鳥糞石の採掘を始め,さまざまな雑役を強制した。拉致された島民たちのほとんどは,囚われた状態のまま命を落とした。国際的な圧力が高まるなかで,ペルーが10人余りの奴隷を帰島させた際,その島民たちが新たな天然痘を持ち込んでしまった。1864年に,カトリックの宣教師たちが島に定住し始める。1872年には,わずか111人の島民しか残されていなかった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.178

森林破壊事例

イースター島を総体的に描けば,太平洋における森林破壊の最も極端な事例となり,世界的にも,かなり極端な部類に属する事例だといえるだろう。なにしろ,森林が丸ごと姿を消したうえ,全種の樹木が絶滅したのだ。その結果としてただちに島民に襲いかかったのが,原料の欠乏,野生食糧の欠乏,作物生産量の減少という事態だった。
 原料については,完全になくならないまでも,入手できる量が激減した。これは在来の植物と鳥類から得られるすべてのもの,つまり木,縄,布を作るための樹皮,羽根などに当てはまる。大型の木材と縄の不足により,石像の運搬と設置だけでなく,航海用のカヌーの製造も終局を迎えることになった。1838年,水漏れする小さなふたり乗りのカヌーが5艘,イースター島から漕ぎ出してきて,沖合に投錨したフランス船で物々交換を行なったときのことを,そのフランス船の船長が記している。「島民の全員が,興奮したようすで何度も“ミル”という言葉を繰り返し,意味が通じないと見ると,いらだち始めた。この言葉は,ポリネシア人がカヌーの製造に使う木材の名前だった。島民たちが最も望んだのはその木材であり,あらゆる手を使ってそのことをわれわれに理解させようとした……」。イースター島最大にして最高の山を指す“テレヴァカ”という名前には,“カヌーを手に入れる場所”という意味がある。テレヴァカ山の斜面から樹木が除去されて農園に姿を変える前は,その樹木が木材として利用され,今でも,その時期に使われた石製の錐,掻器もしくは削器,小刀,のみなど,木工とカヌー製造のための道具が山中に散乱している。大型の木材が欠乏するということは,風と激しい雨と摂氏十度の気温に見舞われるイースター島の冬の夜を,薪なしで過ごすことを意味する。1650年以降,イースター島の住民たちは,薪代わりに草,芝,そしてサトウキビなどの農作物の屑を燃料に使わざるを得なくなった。屋根葺き材,住居用の小型の木材,道具の材料,布の材料を求める人々のあいだでは,残された灌木を巡る激しい争いが繰り広げられたことだろう。従来の葬儀方式さえ,変更を余儀なくされた。1体ごとに多量の燃料を要する火葬が不可能になり,遺体をミイラにして土葬する方法へと移行していったのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.171-172

石像建築の理由

台座と彫像はポリネシア全体に広く普及していたというのに,なぜイースター島民だけが桁違いの社会的資源を投入してその建造に心血を注ぎ,最大の石像を立てることに熱中したのか?そういう状態に至るまでには,少なくとも4つの異なる要因が作用し合っている。第1の要因は,太平洋に存在する岩石の中でも,ラノ・ララクの凝灰岩が最も彫るのに適した材料だったことだ。それまで玄武岩や赤い岩滓を相手に四苦八苦していた彫り手にとって,この凝灰岩は「彫ってくれ!」と訴えているのも同然の材料だった。2番目に,太平洋のほかの島々では数日間の航海でほかの島々との行き来ができたので,エネルギーと資源と労力とを島同士の交易,襲撃,探索,植民地化,移住などに充てていたが,イースター島には,その孤立性ゆえに,他と競合するというはけ口が閉ざされていたという事情があった。ほかの島々の首長たちは,島同士の交流のなかで,互いの威信と地位を賭けて相手を打ち負かすべく争い合った可能性があるが,私の教え子のひとりが言ったように,「イースター島の腕白坊主たちは子どもらしい遊びを知らなかった」のだ。3番目に,前述したとおり,イースター島が緩やかな地形に恵まれ,各領地に相互補足的な資源があったせいで,ある程度の統合がなされていたことが挙げられる。その結果,島じゅうの氏族がラノ・ララクの石を入手できたので,石を彫ることに夢中になれたのだろう。マルケサス島のように政治的に統一されないままだったとしたら,領地内を近隣の氏族が石像を運んで通行しようとした際,(最終的に現実となったとおり)その行く手を阻んだだろう。4番目として,これから明らかになるように,台座と石像の建造には大人数の作業員の食糧が必要になるが,支配層の管理下にある高台の農園で余剰食糧が生産されていたおかげで,そういう大事業も可能だったことが挙げられる。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.157-158

炭水化物過剰

ヨーロッパ人が渡来した当時,島民たちはおもに農夫としての生活を送り,サツマイモ,ヤムイモ,タロイモ,バナナ,サトウキビを栽培しながら,唯一の家畜であるニワトリを飼育していた。イースター島にサンゴ礁や環礁がないということは,大半のポリネシアの島々に比べ,魚類と貝類が食糧として利用される機会が少なかったという意味にほかならない。最初の入植者たちは,海鳥,陸生の鳥,ネズミイルカを捕獲できたが,これらの動物はいずれ減少したり絶滅したりすることになる。その結果,島民たちは炭水化物を過剰摂取し,さらに悪いことに,供給不足の真水を補うためにサトウキビの汁を大量に飲用した。この時代の虫歯の発生率が,現在わかるかぎり,先史人類中最も高いと聞いても,意外に思う歯医者はひとりもいないだろう。おおぜいの子どもたちが,14歳になる前にすでに歯に穴をあけてしまい,20代になると全員が虫歯を持っていた。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.142-143

あらゆる島へ

先史時代におけるポリネシア人の広汎な進出は,同時代の人類が行なった海洋探検のなかでも,最も飛躍的でめざましい出来事だった。古代人類がアジア大陸からインドネシア諸島経由でオーストラリアとニューギニアへと至る太平洋上の航路は,紀元前1200年まではニューギニア東方のソロモン諸島止まりだった。同じころ,ニューギニア北東のビスマルク諸島に起源を持つとされる人々——ラピタ式として知られる土器を創り出し,海上及び農耕生活を送っていたとされる人々——が,ソロモン諸島東域の開けた海上で1600キロメートル近く波に流され,フィジー,サモア,トンガにまで漂着して,ポリネシア人の祖先となる。ポリネシア人は,羅針盤も,文字も,金属製の道具も持ち合わせていなかったが,航海術と有機堆積物,人骨など,考古学上の証拠が豊富に発見され,放射性炭素年代測定が行なわれたことによって,ポリネシア人たちの広汎な民族進出に関するおおまかな時代と経路が明らかになっている。ポリネシア人たちは,紀元1200年ごろまでに,ハワイ,ニュージーランド,イースター島を結ぶ広大な海上の三角形の中で,居住可能なあらゆる小島に到着していたのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.137

アジア原産

イースター島民がアメリカではなくアジアに起源を持つ典型的なポリネシア人であること,そして,イースター島の文化が(石像さえも)ポリネシア文化から派生したものであること,このふたつを立証する数々の証拠に,ヘイエルダールもフォン・デニケンも目を向けようとしなかった。1774年,クック船長が短期滞在した際,同行のタヒチ人とイースター島民とが会話を交わせることからすでに判断しているように,イースター島の言語はポリネシア系のものだ。正確にいうなら,イースター島民はハワイ語及びマルケサス語と同系の東ポリネシア系のものだ。さらにいえば,初期マンガレヴァ語として知られる方言とも関わりが深い。イースター島の釣り針や石製の手斧,銛,珊瑚製の鑢などの道具は,典型的なポリネシア様式を呈し,特に初期のマルケサス型に類似している。また,島民たちの頭蓋骨の多くに,“ロッカー・ジョー”として知られるポリネシア独特の形状が見て取れる。イースターの台座で発見された12個の頭蓋骨からDNAを抽出し,分析したところ,すべての検体に,大多数のポリネシア人に見られる9塩基対欠失と3つの塩基置換が認められることがわかった。この3つの塩基置換のうちふたつが,南米住民には見られないもので,これは南米住民がイースター島の遺伝子給源に資したとするヘイエルダールの説に対する反証となる。イースター島の作物であるバナナ,タロイモ,サツマイモ,サトウキビ,カジノキは,おもに東南アジアを原産とするポリネシアに特有の作物だ。イースター島唯一の家畜であるニワトリもポリネシア特有のもので,もとをたどればアジアが原産であり,また,最初の入植者のカヌーで“密航”してきたネズミについても。同様のことがいえる。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.136-137

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