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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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どうやって渡ってきたのか

イースター島に数多くの謎があることは,すでにヨーロッパから訪れたこの島の発見者ヤコブ・ロッへフェーンも気づいていた。オランダの探検家であるロッへフェーンは,復活祭日(イースター・デー;1722年4月5日)にこの島を見つけ,今なおのコルソの呼び名を,発見日に因んでつけたのだ。到着時のロッへフェーンは,大型船3隻でチリを出発して以来,まったく陸地を見ずに,17日間かけて太平洋を突っ切ってきたところだったので,船乗りとして当然の疑問を抱いた。イースターの岸辺で出迎えてくれたポリネシア人たちは,いったいどうやって,これほど辺鄙な島にたどり着いたのか?今では,西方向にあるポリネシアの最寄りの島から出航してイースター島に着くまで,少なくとも同じ日数を要しただろうということがわかっている。ロッへフェーンと後続の訪問者たちは,島民たちの水上移動の手段が水漏れのする粗末な小型のカヌーだけだと知って驚いた。長さはわずか3メートルで,ひとり,もしくはせいぜいふたりしか乗れないものだったからだ。ロッへフェーンの記録によると,「島民たちの帆船は,扱いづらく,作りも華奢である。その小舟は,雑多な小型の厚板と内装用の軽い木材を組合せ,野生植物から採った非常に細い撚糸で器用に縫い合わせてある。しかしながら,島民は知識不足で,ことに,水漏れ防止用の材料と,船体の至るところにある縫い目を閉じる材料を持っていないので,この船は非常に水漏れを起こしやすく,漕ぎ手は乗船時間の半分を水の掻い出しに費やさねばならない」という。こんな状態の船しかないのに,作物とニワトリと飲み水を携えた入植者たちは,どうやって2週間半にわたる海の旅を無事に乗り切ったのだろうか?

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.126-128
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誰が予想したか

工業化されたヨーロッパの下水道は,本来工場排水と生活排水を運ぶように設計され,排泄物は想定していなかった——もっとも都市住民は脱法的に脱糞することで知られていたが。上水道が導入されると,家庭の衛生は向上したが,汚水溜めがあふれ,近隣に悪臭と病気を生み出した。
 19世紀初めには,裏庭の汚水溜めの問題が相当深刻になったため,パリとロンドンの住民は汚水溜めを市の下水道に接続することを許可された。これは,ウンコを窓から投げ捨てたり,裏庭に溜めて通りに漏れ出させるよりは進歩したかに見えた。しかし都市の下水道はこれほどの量の人糞を受け入れるように設計されていない。人類がこんなに大量のウンコを発生させるなんて,誰が思っていただろう?

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.120

江戸時代

日本人も,人間の排泄物を農業に利用することにかけて,長い歴史と熟練の技を持っている。それは江戸のような都市ができる以前から存在するが,都市化が進むにつれて特に盛んになった。農民は桶を田畑の脇に置いて,排便するときにはそれを使うように旅人に頼んだ。自然の循環をまねた行為が網の目のように張り巡らされた17世紀の都市,江戸は,船に野菜やその他の農産物を満載して大阪に送り,人糞と交換していた。都市と交易が拡大し(1721年の江戸の人口は100万人だった),集約的な稲作が増加するにつれ,屎尿を含めた肥料の価格は大幅に高騰した。18世紀半ばには,ウンコの持ち主は支払いに銀を——野菜だけでなく——要求した。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.112

この本を盗め

いま『この本を盗め』を読むと,当時の世界はなんと無邪気だったのだろうという感慨を覚える。搭乗券を持たずにゲートを通って飛行機にタダ乗りすることなど,9・11事件以後の世界では考えられない。窃盗に関するホフマンの言葉にも,やや古臭く思えるものがある——「ぱくることは革命を愛するゆえの行動だ」。それでも,無銭飲食の項には,ロビン・フッドさながらに,いくらかは時代を超越したことも書かれている。「スーパーマーケットが登場したころから,ぼくらは日常的にスーパーマーケットから盗んでいるが,まったく疑われていない……しかも,盗んでいるのはぼくらだけではない。これほど盗みが行われていてもスーパーマーケットは大儲けしているのだから,そもそもいかに不当な高値で売られているかわかるというものだ」

レイチェル・シュタイア 黒川由美(訳) 万引きの歴史 太田出版 pp.77

骨相学

骨相学の父祖とされるドイツ人のフランツ・ジョセフ・ガルと同僚のユハン・ガスパー・シュプルツハイムは,彼らの説がキリスト教に反するとして,1801年にはオーストリアに入ることを禁止された。2人は数年にわたって,ヨーロッパで各地で講演をし,最後にパリへ着く頃にはころにはかなり有名になっていた。そのころまでには,ガルとシュプルツハイムは一般の人以外に殺人犯や強盗犯の脳も研究していた。ガルは,脳内の“物欲性向の器官”が大きいと人は盗みを行うとし,“獲得性向の器官”によっても窃盗が促されるとした。頭蓋上部にあるとされる“殺人性向の器官”とは異なり,“窃盗性向の器官”は側頭部にあると説明した。

レイチェル・シュタイア 黒川由美(訳) 万引きの歴史 太田出版 pp.53

ルソーの盗み

18世紀のフランスの大思想家ジャン=ジャック・ルソーは,軽窃盗を単なる犯罪とはみなさなかった。本質的に,それは市民による政治的行動であり,貴族階級や君主制への反逆であると論じた。
 フランスの民衆による“バスティーユ監獄襲撃”の2年前,1787年に死後出版された『告白』で,ルソーはみずからの体験として,自慰,三角関係,マゾヒズム,子捨て,そして盗みの経験を告白している。少年時代にジュネーブで彫金師の弟子をしていたとき,民衆からアスパラガスやリンゴを盗み,親方の道具を断りなく使ってその「技量」も盗んだ。盗みが明らかになるや,今度は罰せられることと盗む喜びが結びつくようになった。「盗みと罰は切り離せないものだとわかった」とルソーは書いている。

レイチェル・シュタイア 黒川由美(訳) 万引きの歴史 太田出版 pp.39-40

厳罰化・重罪化

ウィリアム三世統治下の1699年,英国議会は窃盗を厳罰化する法律を可決した。この“万引き法”は1688年から1800年に制定された150を超える法律のひとつで,多くの犯罪を死刑と定めたため,のちに“血の法典”と呼ばれた。この法律によって,5シリング以上の物品を万引きした者は絞首刑に処されることになった(窃盗犯の流刑地だった北米植民地やオーストラリアのボタニー湾近辺の地が,1660年以降,イギリスの受刑者を徐々に受け入れなくなった事態への代替策でもあった)。また,万引き犯を警察へ突き出した者は公職奉仕の義務を免除される,とも定められた。“血の法典”では,5シリング以上の価値の物品の万引きなど,一部の重罪から“聖職者の特典”と呼ばれていた恩赦も削除された(14世紀以来,免罪符として知られる聖書の詩篇51篇の冒頭部を読むことのできた罪人は,流刑や死刑を免除され,焼印だけで放免されたことがあったのだ)。
 こうした厳しい万引き法をもってしてもこの犯罪は減らなかった。殺人件数は少なかったが,万引きも含めた窃盗全般は急増する。多くの歴史学者が認めるように,当時,ロンドンの全犯罪の大半を占めたのが窃盗である。

レイチェル・シュタイア 黒川由美(訳) 万引きの歴史 太田出版 pp.30-31

終わりなき競争

過去30年間に,一般的に世界最速スイマーを決めるレースとされている50メートル自由形のタイムを,男子はほぼ2秒,女子は2秒以上縮めた。水泳の世界では,これはとてつもなく大きい。ちなみに,マーク・スピッツが1972年のオリンピックで金メダルの1つを獲得した100メートルバタフライのタイムは54秒27だった。今日の記録は49秒82である。オリンピック選手(のちに銀幕でターザンが演じた)のジョニー・ワイズミュラーが,1922年に100メートル自由形で1分の壁を破ったとき(同じくアメリカ人のデューク・カハナモクが保持していた世界記録を更新),世界中でトップ記事になった。そのときのタイムは58秒6だった。今日の世界記録は46秒91だ。まだまだ続けられる。そして,タイムを縮める終わりなき競争のなかで,選手たちが将来にわたって続けていくだろう。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.120-121

何でも治る?

もっとも,中世以来,医療関係者は意見をしょっちゅう変え,最後には,大げさな効用にたどり着いていた。500年近く前に,ディグビーは「体液から毒を除去し,伝染病菌を枯らすので寿命が伸びる」として,水泳を勧めた。歳月がこの誇大広告をさらに増長した。1891年にはあるフランス人医師が,水泳はマスターベーションから肺感染,さらに大腿骨の自然脱臼まで,あらゆるものを治すと発言。それから20年後には,『イギリスの男性的な運動』という人気の高いハンドブックが,スポーツ選手を目指す人たちに,水泳は「神経系統の鎮静にも有効」であると確約した。ほぼ同時期に“経験豊かなスイマー”とだけ身分を明かすアメリカ人が,水泳をする人は「突発性感冒や炎症性疾患にかかりにくく,けっして,もしくはめったに慢性病に苦しまない。身体は引き締まり,皮膚は健康で,生命のすべての機能が健康的な活力で作動する」と記した。締めくくりは1910年のYMCAマニュアルで,「野外での水泳は白髪を防ぐ」と謳っている。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.67-68

ゆでたまごを使え

ベンジャミン・フランクリンは恐怖を克服するのに浮力を利用した。「自分を支えてくれる水の力をある程度信用しない限り,いつまでもカナヅチのままだ」と,1760年代末に,泳げない友人に手紙で助言している。どうすればいいか?池や川など,徐々に深くなる場所に胸の深さまで歩いて入り,そこで騎士のほうを向く。次にゆで卵を岸のほうの水に向かって投げ,沈むと,潜ってそれをつかむ。フランクリンは続ける。「君の意思に反して水が君を浮かすことや,思っていたほど簡単には沈まないこと,積極的に力を使わない限り卵に手が届かないことを発見するだろう。こうしてきみは,水にはきみを支えるパワーがあることを感じ,そのパワーに屈することを学ぶ。そういったことを乗り越えて卵をつかもうと奮闘しているあいだに,水中での手足の動きを発見する」。その後で,卵を食べればいい。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.63-64

黒人文化の破壊

「南北戦争以前は,白人よりも多くの黒人が泳いでいた。ところが白人が水泳を“発見”すると,黒人は安全なビーチや国中のプールから完全に締め出されてしまった」ウィゴは激昂する。「そして白人文化は,他のおそらく何よりもプールにおける人種差別撤廃に激しく抵抗しました」。彼は法や偏見が白人以外のすべての人々を水から締め出した人種隔離時代の数十年に起きた醜い事件や悪意に満ちた暴動を思い出させた。多くのプールが人種差別撤廃に応じるくらいなら,むしろ,ただ閉鎖したのだ。
 “黒人用”プールを建設する動きは,1940年のニューヨーク市公園局による,黒い肌のスイマーを白い肌の者たちから分離する「水泳を習おう」というポスターで,あからさまに宣伝された。ウィゴに言わせると,「“分離はしているが平等な”施設を提供しようとする窮余の一策」だった。だが,それも手遅れだった。「すでに黒人コミュニティの水泳文化は破壊されてしまっていた」からだ。
 こうしてアフリカ系アメリカ人は数世代にわたり水泳の伝統を受け継がずに成長してしまった。その結果,「黒人のもっともよく知られたステレオタイプが“カナヅチ”です。黒人の子供とスイミングチームの話でもしてごらんなさい。彼らは黒人の友達になんて思われるか心配しますよ。“白人のまねをしている”ってことになるんですから」

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.52-53

世界一の泳ぎ手

アメリカ先住民もまた,画家のジョージ・カトリンがミズーリ川上流のマンダン村で観察したように,熟達した泳ぎ手だった。「彼ら全員が達者な泳ぎを身につけている」と記している。「彼らのなかでいちばん下手な泳ぎ手でさえ,ミズーリ川の渦巻く流れにひるむことなく飛び込み,実に楽々と横断する。男女ともごく小さいうちから泳ぎを習い,女性たちは強くたくましくなった筋肉で子供を背負って,どんな川に出くわそうとうまく渡る」。ミナタリー族の女性の一団は「長い黒髪を水面になびかせ,カワウソやビーバーの群れのように悠々と泳ぐ」
 アフリカのさまざまな部族民も,楽々と泳ぐ姿で多くの旅人たちを魅了した。1454年には,彼をかいくぐって泳いでいく西アフリカ人のグループを見たヴェネチア市民の探検家カドモストは,彼らのことを「世界一の泳ぎ手」と呼んでいる。18世紀のスコットランド人探検家マンゴー・パークはイサッコという名のアフリカ人ガイドを連れていた。イサッコが川を泳いで渡ろうとしたとき,巨大なワニがその太腿に噛みついた。当時,報告された話によると,ワニは「普通なら,間違いなくそのばかでかい顎で腿を噛み砕いて引きちぎっていただろう。だが,その黒人はワニと同じくらい潜水にも泳ぎにも達者だったので,素早く体を回転させ,両の親指をワニの目に突っ込み,えぐり出した」。ワニがもう一方の太腿をとらえると,イサッコはさきほどと同じ罰を与えた。ついにワニは彼を放した。イサッコが安全な場所まで泳いで逃げたところで,パークが傷口の手当てをして救援を締めくくった。
 こういった話はヨーロッパでむさぼるように読まれ,ついに水泳の流行に火がついた。かくして19世紀は水泳の世紀となり,男も女も海岸に押し寄せはじめた。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.44-45

水泳の消失

このように,中世には水泳は軍事的な機能に移行した。主にそれは敵の侵入を防ぐために設けられた堀で使用された。その衰退もまた,ローマ時代の主演から体の曲線を露出することまですべてを禁止した教会のせいであるとする歴史家もいる。水と肉体の交わりの禁止——水遊びすら異教徒の儀式とみなされた——は,汚染された水に潜む病気に対する恐怖の警告を発した見当違いの医学によりもたらされたと見る人たちもいる。不道徳に対する告発と無知の両方が働いたのだ。ヨーロッパが知性の暗黒時代に突入すると,水泳はわずかな例外を除いて消え失せた。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.33

古代ギリシャの水泳

水泳は古代ギリシャの文化に深く組み込まれていたため,プラトンは「無知な人とは,文字も読めなければ,泳ぐこともできない人である」という,紀元前360年にはよく知られていた諺を引用している。アレキサンダー大王は泳げない不名誉を悔やんだ。「わたしはこのうえなくみじめな男だ」。彼の率いるマケドニア軍の部隊が,敵の要塞前に横たわる大きな川に直面すると,彼は嘆いた。「ああ,わたしはなぜに泳ぎを習わなかったのか?」。一方,ソクラテスにとっては,水泳は決定的に重要な生活技能であった。「水泳は人を死から救う」と述べている。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.26-27

危機の関連

いうまでもなく,歴史をみれば,スキャンダルや失敗や危機はいくらでもある。今の時代になって急に現れたわけではない。だが現在,多数の国でつぎつぎに起こる危機は,これまでのものとは明らかに質的な違いがある。おそらく第二次世界大戦の最悪期を除けば,これほど多数の国で,これほど多数の制度が,これほど短期間に,これほどのペースで,つぎつぎに破綻したことはなかった。
 そして,これほど多数の制度の危機が密接に関連しあったことはなかった。現在では,強力なフィードバックの仕組みによって家族と教育と仕事と医療と年金と政治とマスコミが結びつけられ,これらのすべてが富の体制に影響を与えているのである。そして,再グローバル化のために,これらの危機が金融市場に与える影響が,かつてなかったほど短時間に,かつてなかったほど多数の国境を越えて波及している。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.38-39

支配的地域の変遷

欧米が圧倒的な経済力を長期にわたって誇ってきたために忘れられていることが多いが,わずか500年前,技術力がもっとも高かったのはヨーロッパではなく中国であり,当時は世界の経済生産の65パーセントをアジアが生み出していた。
 少なくとも欧米ではほとんど忘れられているが,1405年に317隻,総人数2万7千人の大艦隊が,7回に及ぶ大航海の第1回に乗り出した。歴史家のルイーズ・リバシーズによれば,この中国の大艦隊を率いた鄭和はイスラム教徒の宦官で,世界史上まれにみる航海家であり,アフリカと中東の沿岸を探検し,西はジッダとエジプトに達し,インド洋の全域に朝貢貿易のための海軍基地を設けた。
 それから250年を経てようやく,啓蒙主義と初期の産業革命によって第2の波の大変革が起こり,経済力,政治力,軍事力の中心がまずはヨーロッパに徐々に移るようになった。
 だが,そこに止まってはいなかった。19世紀末には,世界の富の創出の中心がふたたび移動し,さらに西のアメリカに移りはじめていた。2回の世界大戦によって,ヨーロッパは経済的な支配力を失った。
 1941年,日本が真珠湾を攻撃してアメリカが第二次世界大戦に参戦する直前に,タイム誌発行人のヘンリー・ルースが,20世紀は「アメリカの世紀」だと主張するまでになっていた。ルースはこう論じた。「アメリカは世界全体の良きサマリア人になり,世界的な文明の崩壊のために飢えと貧困に苦しんでいる人々に,食料を提供する役割を果たさなければならない」
 そして確かにこのとき以来,とくに1950年代半ばに第3の波と知識経済への移行がはじまって以来,アメリカは世界経済で圧倒的な地位を占めてきた。だが富の中心はアジアに移ろうとしており,まずは日本が豊かになり,つぎに韓国などのいわゆる新興工業経済群(NIES)に波及し,その後の数十年を通じてアジアが力をつけてきた。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.131-132

農業から支配へ

農業がはじまって,豊作の年には生き残りに最低限必要なものを超える余裕が,ごくわずかではあっても生み出せるようになった。そして,遊牧の旅を続けていた人類がひとつの村に定住し,近くの農地を耕すようにもなった。要するに,農業がはじまって,まったく新しい生活の方法が生まれ,これがゆっくりと世界各地に広まっていったのである。
 ときおりわずかな余裕を生み出せるようになって,不作のときへの備えをわずかでも蓄えることが可能になった。しかしやがて,兵士や僧侶,徴税人をしたがえた武将,貴族,王などの支配者層が経済的余裕の一部が全体を支配できるようにもなり,支配した富を使って王国を作り,自分たちの贅沢な生活を支えるようになった。
 支配者層は,壮大な王宮や聖堂を建てることができた。狩猟を娯楽にすることもできた。土地と奴隷や農奴を獲得して経済的余裕をさらに生み出すために,戦争をする力をもつようになり,実際にも頻繁に戦争をするようになった。こうして増やした経済的余裕によって,画家や音楽家,建築家や魔術師を宮廷で養えるようになった。その一方で農民は飢えに苦しみ,死んでいったのだが。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.56

さざれ石

中庭の「さざれ石」は,その時代の象徴だった。国旗,国家をめぐって学校式典における掲揚,歌唱を進めようとする文部省と反対する日教組は各所で激しく争った。その闘争の過程で,本来細石=小石である「さざれ石」が「巌となりて苔のむす」なんて非科学的でありえないとの批判がなされるのだが,実際は,石灰岩が長い年月の間に雨水などで溶解されて,その時生じる乳状液が小石を凝固させて巨石になるのであり「石灰質角礫岩」という学名を持つ。その現物を後に,岐阜県から運んできたのだという。
 先輩たちにとっては日教組と争った結果の勝利記念碑に見えただろうが,後に入省してそれを見るわたしたちには,話の種になる程度の物珍しい展示物のひとつでしかなかった。わたしが文部省に入った70年代半ばは,長く続いた文部省vs.日教組の争いが一段落して次の時代へと進もうとする時期だったのである。

寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.26

ザイガルニック効果の発見

心理学者たちの間の伝説によれば,その発見のきっかけとなったのは1920年代半ば,ベルリン大学近くでの昼食の席だった。大学関係者がおおぜいでレストランへ行き,1人のウェイターに注文をしたが,そのウェイターは何も書き留めなかった。ただうなずいただけだ。それなのに彼は全員の注文を正確に給仕し,その記憶力に全員が舌を巻いた。食べ終わって店を出ると,そのうちの1人が(伝説でははっきり誰とはわからない)忘れ物をしたことに気づき,それを取りに店に戻った。さっきのウェイターを見つけて,彼のすばらしい記憶力が助けになってくれるのではないかと期待しながら用件を告げた。
 ところがウェイターは,ぽかんとするばかりだ。彼は戻ってきた男が誰なのか,どこに座っていたのかさえ忘れていた。すべてをそれほどすばやく忘れてしまうものか尋ねると,彼は注文をおぼえているのは給仕が終わるまでなのだと説明した。
 その店で食事をした1人,ブルーマ・ザイガルニックという若いロシア人の心理学科の学生と,その指導者である大御所クルト・レヴィンはこの経験についてじっくり考えて,そこに何か一般化できる原則があるのではないかと思った。人間の記憶は仕事を終える前とあとでは,大きく違っているのだろうか。そこで彼らは,被験者にジグソーパズルをしてもらって,途中で邪魔が入るとどうなるかという実験を始めた。この実験はその後何十年にもわたって行なわれ,のちに「ザイガルニック効果」と呼ばれる現象が確認された。終わっていない仕事や達成されていない目標は,頭に浮かびがちだという現象だ。逆に仕事が完成して目標が達成されると,頭にそれが何度も浮かんでくる現象はストップする。

ロイ・バウマイスター&ジョン・ティアニー 渡会圭子(訳) (2013). WILLPOWER 意志力の科学 インターシフト pp.110-111
(Baumeister, R. F., & Tierney, J. (2011). Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength. London: Penguin Books.)

辺境でのイノベーション

アフリカ,インド,オーストラリアの熱帯地方では,とくに氷期に対応する必要がなかったため,それまで受け継いできた人口密度の低い狩猟採集生活が続けられた。ところが辺境に暮らすグラヴェット文化人の子孫たちは,厳しい環境下のなかで自分たちのそれまでのやり方や伝統をことごとく失い,何万年ものあいだ通用していた生活様式から脱することに力を注いだ。その結果,彼らはそれまでにない危険な道具を手に入れることになる——温暖な気候下ではまずありえないことだったが,彼らは「余剰物」を生み出す方法を発見したのだ。それによって人口は歯止めなく増え続け,寒冷化の影響で鈍くなることはあったものの,それもほんの短い期間にすぎなかった。こうした習慣を受け継いだソリュートレ文化人やその同時代人は,地球が温暖化しはじめると,その受け継いだ遺産を徹底的に利用することになった。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.253
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

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