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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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パソコンの売り上げ

『東京人』の記事は,1994年に秋葉原ではパソコンの売り上げが家電を超えたことを伝えている。翌年の1995年はパソコンの出荷台数が,初めて500万代を超えた年だった。これ以降,パソコンの出荷台数は順調に増え,2000年には国内出荷台数が1000万台を突破し,2010年以降は毎年1500万台に届いている。各個人のデスクに1台のコンピュータが置かれているオフィスの光景は,いまでは当たり前のものだが,1995年はまだそうではなかったのだ。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.93-94
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ありえなさ

私が本書で「江戸しぐさ」との対比にUFOの話まで持ち出したことに,面食らわれた読者もおられるかもしれない。
 しかし,実は,ありえなさの度合いでいうと,たとえばUFO墜落事件よりも「江戸しぐさ」の方が上なのである。
 地球外文明が私たちにとって未知のものである以上,その文明の所産が地球にたどりつくことは,(可能性が限りなくゼロに近いとはいっても)絶対にありえないとはいえないだろう。
 けれども「江戸しぐさ」は,私たちにとってほんの数代前の祖先がいた,既知の江戸時代とまったく相容れないのである。
 しかしながら,UFOをあり得ないものと断じるような人間が,「江戸しぐさ」を信奉するなどということは実際にはおおいにあり得る。

原田 実 (2014). 江戸しぐさの正体:教育をむしばむ偽りの伝統 星海社 pp.218-219

江戸以外の反映

「江戸しぐさ」の作者は,どうも江戸期の風俗をまともに調べて創作することをしていないのではないか,と思えてくる。
 そして,むしろそれらは,昭和初期の食生活の反映と考えたほうが理解しやすいのである(中には「江戸ソップ」のように平成初期のものまである)。

原田 実 (2014). 江戸しぐさの正体:教育をむしばむ偽りの伝統 星海社 pp.93-94

煙草好きの江戸時代

ツンベルクの『江戸参府随行記』にも,日本人が男女問わず煙草好きで,訪問客があれば,まず煙草盆がその客人の前に置かれることを記している。
 茶道でも煙草盆に関する細かい作法があるし,特に多くの客がいる大寄せの茶会では,正客(主賓)の前にあらかじめ煙草盆を置くものとされている。また,茶道用の煙草盆はセットで売られることが多いが,これは本格的な茶会では煙草盆を複数準備しなければならないからである。つまり,客の数だけ揃える必要があるのだ。
 要するに,店などで客の前に灰皿にあたるものがなければ,吸ってはいけないと心得るどころか,店の側の無作法が問われてもおかしくなかったのである。
 長い江戸時代の間には,幕府が幾度か煙草禁止令を出した例もある。しかし,それは煙草嫌いの人に配慮しろというものではなく,嗜好品としての煙草を贅沢とみなして倹約奨励の目的で禁じるものだった。
 また,幾度も出されたということ自体,その禁止令に実行力はなく,江戸の大方の人々は煙草好きであり続けたことを示している。

原田 実 (2014). 江戸しぐさの正体:教育をむしばむ偽りの伝統 星海社 pp.72-73

江戸時代の良さも

「江戸しぐさ」は盛んに江戸時代を称揚するが,それらはいずれも現代的な常識に彩られたものとしてである。
 しかし考えてみれば,今とは異なる論理で動いていた江戸時代の良さというものは,やはり現代の常識では計りきれないところにあると考えるべきである。
 つまり,現代人の常識を江戸時代に求めようとする人は結局,江戸時代の良さもわかっていないのである。

原田 実 (2014). 江戸しぐさの正体:教育をむしばむ偽りの伝統 星海社 pp.57

フロイト ロンドン

しかしながら,フロイトはまだ完全にナチスの手を逃れたわけではなかった。彼が言うように,ナチスは彼から「血を出させ」続けた。7月18日にナチの外貨局は,フロイトにオランダの通貨ギルダーで保管されているスイスの銀行口座を引き渡すように指示してきた。従わないとウィーンに残っている4人の妹たちがひどい目にあうかもしれないので,彼は指示に従った。この口座は結局,7月31日に閉じられたので,ナチスはさらに彼からお金をとったことになる。金はいつものように弁護士のインドラ博士によって彼らに送られた。だが,まだ少なくともザウアーヴァルトの助けを借りて秘密にしていた口座が1つと,ギリシア大使館によってこっそりと持ち出された金塊があった。フロイトはメアスフィールド・ガーデンズ20番地の家を6千ポンドで購入する手はずを整えていたので,なにか資金があったことになる。マリーからはお金を借りなかった。ザウアーヴァルトの見積ではフロイトの資産は200万シリングがいいところである。ロンドンの不動産の値段の歴史に理解のある地元の不動産鑑定士であれば,フロイトは新居にお金を払い過ぎたと思うだろう。それよりも注目すべきことに,フロイトはバークレイズ銀行から不動産抵当貸付を得ることができた。そのような保守的な時代の82歳の人間にとってはすごいことである。
 郵便局員が「フロイト,ロンドン」と宛名があるだけで,どこに配達すればいいのかわかると言っていたほど,フロイトはたくさんの手紙を受け取っており,「一異邦人にとって驚かざるをえないほど頻繁に別種の書状も届いたが,それらは私の魂を救済せんとするもの,私にキリスト教の道を教示せんとするもの」であって,こうした「善良な人びと」は人生の最後に,彼をキリスト教徒にしたかったのだろう。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.316-317

アンナ・フロイト

ナチスに逮捕されたとき,アンナ・フロイトは42歳であった。ちょうど数年前に撮られた写真には情熱的で魅力的なとてもユダヤ人らしい顔つきの女性が写っている。彼女はベレー帽をかぶるのが好きだったが,そのためにおてんば娘のように見えた。その頃までに出世していたフロイトの子どもはアンナだけであり,優れた子どもの療法家として認識されていた。彼女がなんとか成功したのは父親との関係のおかげでもあったが,またそれにもかかわらず成功したともいえる。彼らは愛し,尊敬し,互いに依存しあっていた。フロイトは彼女に対してやましい気持ちになる理由がいくぶんあったのであり,たとえ彼がそれを言わなかったとしても,彼女が一度も結婚しなかったのは一部には父親への献身的愛情のためであることはわかっていた。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.264-265

追い出すことだった

現在,私たちは600万ものユダヤ人が皆殺しにあったことに言葉を失っているために,忘れがちなことであるのだが,最終的解決を決めたヴァンゼー会議の前までは,ナチスの計画というのはユダヤ人を怖がらせ,その財産を奪い,ヨーロッパから追い出すというものだったのである。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.254

フロイトの誕生日

フロイトは50歳になった時に誕生パーティの1つを取りやめた。「誰も死から逃れられないという事実をごまかすために,還暦や古稀や傘寿といった記念の地点を祝って騒いだりするだけなのです」。そのため彼は祝う気分にはならなかったし,パーティがないことを確認していた。パウラ・フィヒトゥルはたくさんの花束や他の贈り物を受け取るはめになった。
 アインシュタインがお祝いを言ってきてくれたことは,フロイトを喜ばせた。分析的な考え方の真理がよりわかるようになったと言ってくれたことは特にうれしいことであった。フロイトはアインシュタインがかつてフロイト理論にあまり納得しておらず,「儀礼上」賞讃してくれたにすぎないことを知っていると返事に書いた。いまではアインシュタインも精神分析に対して肯定的になっているようなので,フロイトはとても嬉しかった。アインシュタインはもちろんずっと若かったので,彼が80歳になるまでにフロイトの信奉者の1人になっているだろうと期待するほどだった。そこで巧みにフロイトはゲーテを引用しながら,自身の望みを茶化して,期待する「無上の幸福」について書いた。これはすてきな手紙で,新聞にはフロイトとアインシュタインの風刺画が載るほどであった。スイスの精神科医のルートヴィッヒ・ビンスヴァンガーはフロイトに宛てて「よく知られているように,誉めことばはどれほどあっても耐えられます」と書いた。
 1936年5月6日にフロイトは80歳になった。オーストリアの文部大臣がお祝いを言ってきたが,政府はナチスを刺激しないように,その優しい言葉を新聞に報告しないよう指示を出した。フロイトはアーノルト・ツヴァイクに,彼がもらった古代美術品の贈り物の数は「さほど多くもない」が,とくにツヴァイクの贈った印象の付いた指輪は気に入ったと述べた。賢いが気落ちした子どものように,フロイトはこうした多くの誕生日の贈り物にも「私は以前と変りありません」と書いている。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.221-222

言い換え

新しい研究所は1936年5月26日に始まり,すぐにゲーリング研究所として知られるようになった。マティアスはそれに対して何も邪魔するようなことはせず,10月の開所式の演説では,新しいドイツの精神療法は非フロイト的,親ナチ的,反ユダヤ主義の基盤の上に栄えるであろうと聴衆に語り,分析家として訓練を受けたい学生諸君は,洞察力のある心理学の書である『わが闘争』を読むべきであると語った。この研究所の秘書として働いていたエレン・バルテンスによれば,「フロイトの名前は決して口にされず,彼の本は鍵付き書庫の中に置かれていた」という。フロイト派の用語は呼び換えられ,たとえばエディプス・コンプレックスは「家族コンプレックス」となった。しかし用語こそ違っていたものの,概念はほとんど同じであった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.208-209

復讐心ではない

フロイトが英国王立医学会から名誉号を授与されたのとちょうど同じころ,カール・ユング(彼はドイツ系スイス人なので,半分ドイツ人とみなせるだろう)は面倒を引き起こすことを選んでいた。ユングの行動については多くの論争があり,彼が密かにナチであったとか,ナチであると公言していたとか,反ユダヤ主義であったといって糾弾されることもよくあったが,明らかなことは彼がその状況をうまく利用したことである。いまや彼は主導的な精神分析学雑誌の編集者の任にあり,ドイツ医学精神療法学会の会長になっていた。ユングはまたドイツの精神分析を引き受ける計画にも関わっていたが,復讐心からそうしたのではないと後になって主張している。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.204

優生学的断種

ドイツのユダヤ人はまだ強制的に断種させられるところまでは行っていなかったものの,この恥ずべき政策についてはゲーリングの研究所にいた分析家たちが協力したこともあるので,説明しておく必要がある。政権を掌握してから7か月後にヒトラーは「遺伝的に欠陥のある子孫を予防する法律」を強行可決し,統合失調症,てんかん,<痴愚>,慢性アルコール中毒の症状をもつ者は誰でも断種させられることとなった。内務省は特別な遺伝保健裁判所を設立し,療養所,精神病院,刑務所,養老院の収容者を調べ,約36万人もの障害者たちが断種させられた。医師の第一の義務は害を加えないことだとするヒポクラテスの宣誓をドイツの医師の多くが軽率にも忘れたのである。
 ヒトラーは「生活に値しない」と彼が考えた者たちのことを激しく嫌った。彼の医師であるカール・ブラントと第三帝国の首相官房長官であったハンス・ラマースは,断種は第一段階にすぎないとヒトラーが彼らに言ったと述べている。不治の病を持つものを殺すほうがより賢明なのだが,平時には世論がこれを受け入れないであろう。「こうした問題は戦時のほうがよりスムーズに容易に実行されうる」とヒトラーは判断し,「戦争の際には精神病院の問題を根本的に解決する」つもりであった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.190

エスカレート

1934年2月19日にフロイトはマリー・ボナパルトに「ナチスがここへ来て,ドイツにおけるのと同じように無法地帯になったら,もちろん出ていかねばなりません」と書いている。翌日には息子のエルンストに「できるだけ大きな騒音をかきたてるというあらゆるジャーナリズム報道の指導原則により,発砲されたこの町の中でなにが起こったのかを新聞から読み取ることは,たしかに容易ではない。われわれにいちばん痛切に感じられたのは,ほとんど24時間電気がつかなかったということだ」と書いているが,少なくともマッチがまだついたということは慰めだ,とジョークを飛ばしている。勝者は「このような状況において犯されがちな過ちをする」ものであると。
 こうした騒動ののちに,ドルフースは半独裁政権を樹立したが,彼は敬虔なカトリックであり,教会を攻撃するつもりはなかった。しかしながら,ドイツではナチスはユダヤ人に対して規制の手を緩めることなく,次々に法令を成立させ,どんどん規制をかけ,次々に暴力的行為に及んだ。律法に適った肉屋は非合法となり,ユダヤ人は第1次世界対戦で著しい功績を残したものであっても軍隊から除外された。新しい法律ではユダヤ人と非ユダヤ人の間の性行為も非合法的なものとされた。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.189-190

フロイトのアメリカ嫌い

イーストマンはフロイトがなぜそんなにアメリカを毛嫌いするのか尋ねてみた。フロイトの本を訳したことのあるA.A.ブリルは,1909年の訪米の際にあまり歓迎されていないとフロイトが感じていたと言っている。
 「アメリカが嫌いかどうかですか。アメリカが嫌いなわけではありません……残念に思っているのです」とフロイトはイーストマンに言い,頭を後ろにもたげて面白そうに笑った。「コロンブスが見つけなければよかったのにと後悔しているのです」
 イーストマンはフロイトとともに笑ったが,これは「むしろ彼をそそのかした」ジャーナリストとしていい手であった。フロイトは続けて,アメリカはうまく行かなかった1つの実験であると言った。
 「どんなふうにうまくいかなかったのですか」イーストマンが尋ねた。
 「それは上品ぶったところ,偽善,国家的な独立心の欠如とか」
 イーストマンはそれに対して若者たちはもっと気概のあるところを見せていると反論した。
 「ほとんどはユダヤ人の間でのことではないですか」フロイトが言った。
 「ユダヤ人が上品さや偽善を免れているとはとてもいえませんよ」とイーストマンが答えた。
 それに対して,フロイトは返答をせずに,話題を変えた。
 フロイトは行動主義の創始者であるジョン・ワトソンの名前を試すようなこともした。「ひょっとするとあなたは行動主義者なのですか。あなた方のジョン・B・ワトソンによれば,意識さえ存在しないそうです。でもそれはおかしいでしょう。意識はきわめて明白に存在しているのです。どこにでも,おそらくアメリカ以外なら」

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.106-107

口唇期固着?

フロイトはよく1日に20本もの葉巻を吸っていたが,その日のニコチン量が足りないと気分が良くなかった。
 顎のガンと診断されたあとでさえも喫煙を続けた。葉巻なしでは著述が進まなかったことであろうし,禁煙しようと努力したこともなかった。
 ジョーンズはフロイトになぜ喫煙するのかと尋ねたことがない。伝統的な分析的解釈では葉巻やタバコは「乳首の代用品」ということになるだろう。それなしで済ますことのできない人は口唇期——もっとも幼児期の段階——の発達段階で固着している。フロイトは娘のアンナと一緒にいる時の快感は良い葉巻を吸ったときの快感と同じだと書いている。葉巻はどちらかといえば乳首の代用品というよりも明らかに男根の象徴であるが,この文は父親としては実に奇妙な発言である。しかしながら,ジョーンズはこのことにコメントせず,分析的解釈も一切行わなかった。もし分析していたならば,ある種の象徴的レベルでフロイトが自分の娘を乳首として見ていたのかどうかについて奇妙な問題が生じていたことだろう!

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.93-94

有名ですが

手紙の中でフロイトは自分の名声についてもよく引き合いに出しており,「ご存じのように私は有名人でたくさんの著作もあるのですが,しかしそれでも十分には稼げず,自分の蓄えを食べ尽くしてしまっています」と書いている。ウィーンの経済状況は「かなり悪く」,フロイトの最初期の支援者の1人が亡くなってからは精神分析の経済的な見通しはさらに悪くなった。オーストリア人には治療が必要であったが,しかし治療代を払う方法がなかったのである。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.88

同僚にも

最も激しい反ユダヤ主義者のなかには専門家がおり,フロイトの同僚の精神科医さえもいた。ハンス・ビューラーの『ユダヤ的なものの分離』ではユダヤ人は望むか否かに関わらず社会から「分離」すべきだと論じており,別の精神科医ヴィルヘルム・ドレスはユダヤ教徒とキリスト教徒はあまりに異なった心理的類型であるので,混じろうとしないようにすべきだと主張した。
 私が思うに,自己嫌悪的なユダヤ人はともかくとして,フロイトはユダヤ人であることについて両価的だったとは思えない。彼はこの部族の確固たる一員であったが,神を信じてはいなかった。神は人の創り出した妄想であり,ユダヤ教は他のあらゆる宗教と同様に神経症的なネアンデルタール人が必要としていた幻想であり,人類がさらに進化するために必要としていた幻想だった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.50-51

シャルコーの息子

若き医師としてフロイトは努力したものの,大学に正規の職を得ることはできなかった。1885年に彼は当時最も劇的な「精神科医(マインド・ドクター)」だったパリのジャン=マルタン・シャルコーのもとで研修するという奨学金に応募した。シャルコーはほとんど音楽会の催し物のように自分の患者を弟子たちに見せていたが,そのなかにはさまざまな形態の狂気を示したオギュスティーヌのような花形患者もいた。シャルコーの息子はこの狂気から逃れるように,南極圏の探検家になった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.42-43

晩年

ある施設で働いていた若い心理学者は,自分の上司が嘘発見器の開発者として有名なあのジョン・オーガスタス・ラーソン博士であると知って驚いた。威厳のようなものがまるでなかったからだった。脚は不自由で,耳はほとんど聞こえず,目も悪く,呑み込みも遅かった。この心理学者は,ラーソンのことをとっくに80歳は超えていると思ったが,実際は67歳だった。それでもラーソンは「日に15時間から20時間」働き,牧師はラーソンが患者ひとりひとりに向ける思いやりに満ちた態度を賞賛した。「ラーソンは,その理想主義と,経済的な利益のために妥協するのを拒む性格のせいで,多くの人から誤解されている。自分の信念を守るときは躍起になる」。不正との激しい戦いを長年にわたって繰り広げた結果,ラーソンはまわりから変わり者として見られるようになり,映画『ドクター・ディッピーの療養所』に出てくる,自分の患者と同じくらい異常な精神科医に近い人物になっていた。
 ラーソンは,精神科医としての最後の数年間を,各地の精神病治療施設の院長として過ごした。モンタナで10カ月,アイオワで2年,サウスダコタで1年働いたのち,70歳になった1963年からナッシュビルで隠退生活に入り,社会保障手当と月200ドルの年金で暮らしはじめた。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.335-336

精神生物学

1927年,医学博士のジョン・A・ラーソンはシカゴという悪の巣を離れ,ジョンズ・ホプキンス大学医学部の特別研究員として精神医学を学ぶことになった。同大学のフィップス・クリニックの院長をつとめるアドルフ・マイヤーは,アメリカで最も影響力のある精神医学者だった。スイスで神経科学を学び,近代的な臨床技術を新大陸に導入した人物で,ウィリアム・ジェームズとジョン・デューイの影響を受け,「人間の新しい概念」に「真にアメリカらしい進歩」がもたらされる可能性を見いだしていた。ラーソンが特別研究員になれたのは,またしてもヴォルマーの人脈のおかげだった。ヴォルマーの執務室で,マイヤーはラーソンに引き合わされていた。マイヤーは自分の理論を「精神生物学」と名づけ,1926年にラーソンら青少年研究所の職員の前でその原理を説明している。
 精神生物学は,競合する各学派をひとつの旗印のもとにまとめる学問だった。動的心理学を強調するフロイト学派,目に見える具体的な行動を重視する行動主義心理学,分類にこだわる精神医学,脳の機能に注目する神経科学,身体と感情の相関関係を研究する生理学,さらには環境の働きを探る社会学までも取り入れていた。この寄せ集めの各派を統合する軸となるのが,個々の患者——マイヤーは「人」というあっさりした呼び方をしている——に対する強い関心であり,人間はみな「自然の実験装置」であるとされた。動物は環境に適応しなければ淘汰されるしかないが,精神生物学者は生活環境に適応するのを手助けする。マイヤーの理論は単純であり,人道にかなったものだった。しかしあまりに単純化されすぎていて,道徳主義的にすぎると批判する向きもあった。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.153-154

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