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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

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可能なかぎりの最善

ラテン語で「可能なかぎりの最善」を意味する「オプティマム」に由来する「オプティミズム」は,ドイツ人の哲学者にして数学者のゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646〜1716)が考えた概念だ。ライプニッツによれば,神は可能なかぎり最善の世界を創造した。だから。それをさらに改善することはできない。つまり,オプティミズム本来の意味においては,「ものごとの明るい面」だの「グラスに水が半分もある」だのの概念は無縁なのだ。

エレーヌ・フォックス 森内薫(訳) (2014). 脳科学は人格を変えられるか? 文藝春秋 pp.25-26
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利用するため

ここで覚えておくべき要点は,どのような命名法や分類法も,たとえ目に見える特徴にもとづくものであっても,結局は人間が利用するために人間が作ったものであり,何にもまして私たちの観察の尺度と視点に左右されるということだ。廃棄物とウンコは動物と植物に関連する分野であって,生態系に関わるものではない。生態系においては栄養循環を分類するほうが重要だ。これは,廃棄物として扱われる時にはウンコと呼ばれるもの,そして生物圏の生命にとって必要だと,ほとんど考えられていないものに取り組むときに重要になる。
 ウンコを私たちから切り離されたものとして考えるのと同じように,植物と動物を分けて考えることは,大半の人間の関心が向いている普通の日常生活における実用的レベル,つまり顕微鏡を覗いたり宇宙から見下ろしたりしているのでなければ,まったく有効だ。日常生活では,植物が厳密には動物と同じようにして排泄物を作り出しているわけではないことがわかる。さらに,嫌気性バクテリアであれば茂みからやってくる酸素の臭気に不快になるだろうが,私たちのほとんどは,夜の森のすがすがしい空気の香りを心地よく思うだろう。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.55-56

あふれる提喩

数にかぎりのあることばをたよりにしてかぎりない事象に対処しなければならない,言語の宿命が比喩を必要とする……とは,これまでもくどいほど強調してきた事実だが,そのための人々の様々の工夫がつもりつもって,辞書のなかの単語たちは,すこぶる弾力的な意味のひろがりをもっている。それは,転化表現となった比喩の集積だが,そのように慣用化する比喩のうちで,隠喩や換喩ほど目立たないくせにじつはもっとも大きな比率をもつものは提喩であろう。
 その理由は,提喩性こそ,隠喩性や換喩性よりはるかに語彙体系の本質に深くかかわる性格だという点にある。語彙とは,ある言語圏に生きる人間たちが,世代をかさねつつ,無限に広い意味領域を切り分け区分してきた分類法の集積である。言語がその文化圏に生きた,生きる,生きるであろう人々全員の共有財産である以上,語の概念=意味がある節度を守りながらも不断に(日本語であれば,ひとりの日本人が1回発言するたびに少しずつ)膨張と収縮をくりかえすのは当然のことであろう。そして,概念=意味の膨張と収縮とは,提喩現象にほかならない。提喩は,比喩のうちでもっとも比喩性の目立たぬ形式である。レトリック学者ル・ゲルンが,俗に類と種の提喩と呼ばれているものは比喩ではなくたんに正常な言語現象にほかならないという,粗忽な断定をくだした気もちも,わからぬではない。意図的な表現として目立つ提喩は,正常な言語活動としての提喩表現のうちの,いわば「前衛」的なかたちのことなのだ。そのうちのあるものはすぐれた認識的前衛であり,あるものは娯楽的前衛である。
 私たちの日常言語は,語彙体系に回収され編入された提喩であふれている。新しい事態に対処するための便利な新造語としての提喩も多い。都会を「緑化」しようというのは,決して町じゅうにグリーンのペンキを塗りたくろうということではない。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.205-206

提喩

提喩とは,常識的に適当と期待されているよりも大きな(必要以上に一般的な)意味をもつことばをもちい,あるいは逆に,期待よりも小さな(必要以上に特殊な)意味をもつことばをもちいる表現である——言いかえれば,外延的に全体をあらわす類概念をもって種を表現し,あるいは,外延的に部分をあらわす種概念によって類全体を表現することばのあやである——。
 これは,早い話が,昔から《類による提喩》および《種による提喩》と呼ばれていたもののことであり,それらだけは換喩(メトニミー)に還元されえない提喩(シネクドック)に固有の表現形式だということである。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.194

日常言語を支える比喩

「いま私はバルザックを読んでいる」という文章は,全然レトリカルな感じがしない,ごく常識的な表現だが,そこにも隠喩が働いている。「バルザック」は人名であり,人間である。しかし,私はいま人間を読んでいるのではなく,また人間の顔色を読んでいるものでもなく,人間とは似ても似つかぬ書物を読んでいるのだ。ただ,その作品と作者は,いわば親子のようなきずなでつながっている。これは,「灘」とか「ボルドー」,「コニャック」,「スコッチ」などという地名のゆかりでその土地名産の液体を表現する場合と同様,広い意味で赤頭巾型の,縁故による比喩である。
 また,スピード違反で「白バイにつかまった」などと言うときも(オートバイは機械であり,決して勝手に人間を追いかけたりつかまえたりはしない),乗り物と乗り手の名称が,ゆかりによって赤頭巾風に流動した結果の換喩である。
 このようにすでに常識化した換喩は,特に分析的に意識しないかぎり,もはやことばのあやとして感じ取られはしない。それらは(前章で触れたような)転化表現=カタクレーズとして慣用の体制に編入済みだからである。隠喩におとらず,じつにおびただしい換喩が,転化表現となって私たちの日常言語をささえている。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.142-143

度重なる隠喩作用

私たちは,飛行機がエンジンの力で,すずめが羽をばたばた働かせて,飛ぶ姿をいつも見ているせいで,空中を勢いよく進むものを「飛ぶ」と言うのだと思っている。その連想で,矢が飛ぶとも言う。やがて,気がついてみたら,私たちは,いっこうに自力では飛んでいないグライダーも,やはり飛ぶと言い,シャボン玉まで飛ぶと表現している。考えてみれば「飛ぶ」という平常表現自体が,たびかさなる隠喩作用のせいで,要するに空中を動いていさえすれば何でもいいという,頼りない表現になってしまった。言いかえれば,焦点のさだまらない,あいまいなことばになっていた。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.136

必要性

延々とレトリックの歴史を通じて,理論家たちは,同じ文を直喩と隠喩に書き換えるという,正しいけれども見当ちがいな説明を続けてきたのであった。じつは,隠喩が必要でかつ十分な場合には隠喩で書き,直喩が必要でかつ十分な場合は直喩で書くという,それこそレトリックの本質的意義を,当のレトリック研究者たちは,理論としては承知していながら,実例においては忘れはてていた。隠喩のほうが元来説明不足におちいりがちなあやであるから,両様に書き換え可能な例文としては,けっきょく誤解の余地の少ない隠喩向きの例ばかりがとりあげられることとなり,気がついたときには,直喩は泥くさく口数が多すぎるといううわさをたてられていたのだった。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.117

切れ目のない連続性

ジャックはろばのように愚かだ (I)
 ジャックはろばのようだ    (II)
 ジャックはろばだ       (III)
 ろばだ!           (IV)
 この4つの表現において,Iが典型的な直喩でありIVが典型的な隠喩であることは,言うまでもあるまい。IとIIは直喩でIIIとIVは隠喩だ,と言うこともできる。しかしIIとIIIのあいだにも,一種の連続性がある(たとえば日本語で,IIとIIIのあいだに,「ジャックはろばに似ているどころではない」,「……ろば同然だ」,「……ろばと違いはしない」,「……ほとんどろばだ」,「……ろばそのものだ」などと言ってみればどうなるか)。
 「このように提示してみると,切れ目のない連続性という錯覚が生じてしまう,すなわち〔IからIVまでの〕すべての言いあらわし方はどれも,それぞれ先行する言いあらわし方に省略変形を加えたものとして説明されそうである。とすれば,直喩と隠喩のあいだには同じ深層構造があるのだということになりかねない〔……〕。」と,ル・ゲルンは説き,そこから,形式にもとづく比較はまとはずれであることを主張する。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.114-115

無自覚の一瞬のゲーム

誤解されかねないとは,謎に似ているということである。結論をみちびき出す仕事が読者にゆだねられていて,隠喩の読者は,いわば解法を見つけるゲームによって遊び,みずから発見した回答にささやかな驚きを感じる。もちろん,白鳥とはじつは美しい娘のことだ,ライオンとは実は勇士のことだった,という答えを見つけるのに,まさか詰め将棋じゃあるまいし,じっくりと考えこむことはなさそうだ。ほとんど無自覚の,一瞬のゲームである。しかし,たしかに読者はそこに参加している。ところが,直喩の場合は,回答はすでに書き手によって用意されているから,読み手は,その意外性に驚くことはあっても,みずから,誤解の危険をおかしつつ解読ゲームに参加することはない。傍観者の立場に近い。いちおうは,隠喩と直喩の読み取りにはそういう差があると考えていい。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.110-111

誤解の可能性

ところで,前後の事情がじゅうぶんに明瞭でない場合には,出しぬけに隠喩のつもりで「ライオン」などと言われても,勘の悪い人はそれが勇士のことなのか法王のことなのかわからず途方にくれる……ということもありえないわけではない。舌足らずな隠喩をもてあそぶ表現者がいけないのか,にぶい理解者が悪いのか,その理由はともかくとして,草原を突進する本物のライオンや神妙な顔で何かの職務を行いつつあるライオンばかりをありありと思い描いてしまう,とぼけた読者だっているかもしれないのだ。すなわち隠喩は,直喩にくらべて誤解の可能性が高い。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.110

直喩と明喩・隠喩と暗喩

直喩を明喩と呼ぶ人は,隠喩を暗喩と呼ぶ。名と暗を対立させてみたいのであろう。そういえば,いかにも,昔から直喩と隠喩は対にして説明される場合が多かった。直喩が「YのようなX」とか「XはYに似ている」と言うのに対して,ふつう,隠喩は肝心の本名Xをはぶいてしまい(あるいはXという名称がもともとないので)ただ,「Y」とか「Yだ」と言い切ってしまう。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.108

直喩

まことの比喩とは,常識の目で見て,もともと類似性があってもおかしくない同類のもののあいだに期待どおり類似性が見いだされる,そういう認識のことであろう。それに対して,いつわりの比較とは,もともと比較されるような類似性が期待されていないところに予想外の類似性を見出す認識である。
 私たちの考えかたに引き寄せて言いかえれば,常識によってはじめから認められている類似性《にもとづく》比喩表現はあくまで平常文であり,意外な類似性《を提案する》比較表現が直喩だということになる。すなわち,レトリックの直喩とは《発見的認識》である。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.97-98

言葉遊び

たとえばあなたが,いま,ある情景を見て,
 男の子が《急いで》走って来る
 ということばを口にしたとする。その表現であなた自身がじゅうぶんだと思えばそれはそれでいい。ただ,その際,「急いで」ということばだけでは何か正確に表現しきれないものが残る……と感じたとき,はじめてことばの工夫がはじまるのだ。
 直喩による表現ならば,その子の走りかたを何かにたとえることになる。そこで,問題の文章は,
 男の子が《・・・・・・のように》走って来る
 という構造に変わる。ためにし,この《・・・・・・のように》の部分に,いろいろのことばを実験的に代入してみよう。
 小犬のように/子鹿のように/まりのように/矢のように/風のように/坂をころげ落ちる小石のように……
 と,およそ月並な語句を並べてみたが,もちろん,この部分に代入できる表現の数は無限である。そして,それらの可能性のなかから,認識の造形として,あるいは心情的に《もっとも正確な》ものを選び出すこと,それが直喩の原理にほかならない。説得力のあることばも芸術的なことばも,けっきょく,本来は心情的に正確な表現にほかならなかった。
 けれども,男の子が《・・・・・・のように》走ってくる,という表現の空欄に,正確さとは何の関係もない,ほとんどでたらめなことばを代入しても,それなりに新しい風景が描き出されてしまう。言語のそういう不思議な可能性に気づいたとき,人々はことばで遊ぶことをおぼえたのであった。ことばによる想像力で遊ぶことを知ったのである。私がかりに,広い意味でレトリックの芸術的機能と呼んでいるもののなかには,多量の遊びが含まれている。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.88-89

本物ではない

たとえば「狐のようにその地位につき,獅子のようにその職務をおこない,犬のように死んだ」という文章を読んで私たちは,なんとなく感じを理解してしまう。が,よく考えてみると,私たちはたいていキツネもライオンも,動物園のおりのなかでしか見ていない。言うまでもなく,人間に飼われているそれらは本当のキツネやライオンの姿ではない。おりのなかのキツネはほかの動物にくらべて特に狡猾なわけではなく,与えられるえさを待つライオンは百獣の王よりもむしろ家畜に近い。にもかかわらず,人は狐や獅子の比喩を理解する。それは,じつは直喩のY項となっているものが,本物の動物ではなく,むしろそれらの動物たちについて,子どものころから童話などを通してはぐくんできたイメージだからである。本物ではない,うわさの動物なのであった(狐のイメージが,日本では昔から人を化かし,西洋でもずるがしこい,という共通項を示すのは,おもしろい)。
 かえって,私たちが狐や獅子よりも生態をよく知っているはずの犬の場合のほうが,直喩は不正確になりやすい。なるほど「犬死」などというぐあいに,私たちの国でもみじめな死にかたを連想させるイメージがないわけではないが,洋の東西を問わず,犬にはみすぼらしいどころか立派なイメージもただよっていて,ひょっとするとくだんの法王の死にざまもさっそうたるものと見えかねないのである。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.70-71

レトリックの本質

このところもっぱら,私は「レトリック」というカタカナで押し通し,修辞学とかそのほかの用語をもちいなかった。なるほど現在,さまざまの訳語のうちでは修辞学がいちばん有力である。高田や島村のような反対意見ももっともであるが,だからと言って,美辞学というのにも抵抗を感じるのだ。彼らはあくまで美学という考えかたのなかでレトリックを考えていたのだから,それなりに筋はとおっているけれど,レトリックの本質を《美》という文字で限定してしまうのは考えものである。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.41

説得するには

考えてみれば,説得するためには,理屈をならべて無理やり人を言い負かすよりも,むしろ,相手をいい気分にさせ,いつのまにか味方につけてしまうほうがいい。レトリックには,理屈をこねて説得することと並んで,魅惑によって納得させるという,ふたつの方向がもともとふくまれていただろう。そして,相手の好意を導き出すことをめざすレトリックは,やがて説得という目的から離れ,もっぱら魅力的な表現そのものを目的とする,別の機能をもになうことになる。その行く先には,当然,詩があってもいい。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.19

腹を立てる

私たちは,論争で言い負かされるのがあまり好きではない。たくみな論法で,返す言葉もないほど説得されながら,腹の底では納得できず,何だかまるめこまれたような気のすることがある。……私たちはときどきレトリック効果に腹を立てる。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.14

ダイバージェント

「侵略を非難する者たちは,<平和>という派閥を形成しました」
 <平和>のメンバーらがほほえみを交わしている。いずれも居心地がよさそうな赤や黄色の衣服を身につけている。いつ見ても,親切で愛情深く,自由な人たちの集団のように思える。でも,仲間に加わりたいと思ったことはない。
 「無知を非難する者たちは,<博学>の一員となりました」
 わたしは,<博学>だけは選択肢からあっさりと除外することができた。
 「不誠実な行為を非難する者たちは,<高潔>という派閥を作ったのです」
 わたしは<高潔>は好きになれなかった。
 「利己主義を非難する者たちは,<無欲>を作りました」
 わたし自身,利己主義はよくないと思う。その気持ちに嘘はない。
 「そして臆病を非難する者たちは,<勇敢>となったのです」

ベロニカ・ロス 河井直子(訳) (2014). ダイバージェント 異端者 上 pp.47-48

引用者注:この5つの派閥は,Big Fiveパーソナリティに対応していると考えられる。<平和>=情動の安定=情緒安定性(Emotional Stability)=低神経症傾向(Neuroticism),<博学>=開放性(「知性」とされることもある;Openness, Intellect),<高潔>=不誠実を非難=誠実性(勤勉性;Conscientiousness),<無欲>=利己主義を非難=協調性・調和性(Agreeableness),<勇敢>=臆病を非難=外向性(Extraversion)。もちろん,Big Fiveパーソナリティは類型ではなく特性なので,それぞれの次元を同時に有し,その程度が異なる形でパーソナリティが記述される。その意味で,誰もが「ダイバージェント」であると言える。

プラスチック・ワードの詳細な特徴

1 プラスチック・ワードは高い抽象度を特徴とする。この抽象言語は見通しのきく均質的な領域をつくりだし,個物の独自性を視界から遠ざける。「情報社会への途上にあるドイツ連邦共和国」というわけだ。この言語は世界を均等にならしてプランナーの手に引きわたし,容赦なくあらゆるものを製版図での作業になじみやすくする。たしかに,数字はもっとも抽象的な技術である。
2 「コミュニケーション」のような語は,歴史的次元を欠いている。それはいかなる特定の場所にも社会にも埋めこまれてはいない。底が浅く味わいもない。こうしたことばは,自然の世界を自然科学の観点から記述する。それが侵入した世界からは歴史が追放され,人間的尺度が取り去られる。
 比較のために,背後の環境と密接に結びついている言語の姿を思い描くことができる。中世のラテン語,口承文化における言語,1800年ごろのドイツの教養言語などがそれにあたる。これらの場合には,ことばは限られた地平の内部で用いられていたが,それでもなお,人間的な経験や認識を人間的次元に埋めこまれたものとして伝えることができたのである。
 無定形なプラスチック・ワードは,言語をそのような拘束から解き放つ。プラスチック・ワードはいかなる特定の背景も呼び起こさない。なにしろ普遍的なのだ。プラスチック・ワードは生の歴史を自然のプロセスとみなし,あらゆるものは根本的に同じだと告げるのである。
 歴史が物理学者の目で眺められ,物理学的「永遠」のなかではいつでもどこでも同じだとみなされると,このうえなく強力な推進力が歴史を駆りたてるようになるらしい。終わりなきプロセスのなかで,歴史はみずからの自然性を取り戻そうとするかのようである。
 数学化はこうしたプロセスの根源に横たわる分母である。数学こそは,非歴史的で時間と空間にしばられない,普遍的な技術なのである。
3 わたしたちのキーワードは,輪郭のはっきりしたブロックのように用いられる。数で表される「量」をあつかうのと変わりはない。この「量」の威光があたりを圧するのだが,日常言語でさえ,多くのステレオタイプには量化可能な物質のイメージが結びついている。「エネルギー」「生産」「消費」だけではない。「情報」「コミュニケーション」でさえ,わたしたちの日常意識にとっては,数と統計の次元にあるように思いうかべられる。
4 プラスチック・ワードは,どんな順序に並べられても文を作りだす傾向をもつ。単語どうしはおどろくほど交換可能であって,それらをたがいに等号で結んで,方程式の連鎖のようにつなげることができるほどだ。たとえば,こんな風に。「コミュニケーションは交換である。交換は関係である。関係はプロセスである……」。
 このように,プラスチック・ワードの可動性や,それらがたがいに結びつく能力にはほとんど限りがないように見えてくるし,それらを処理する可能性も終わりがないように見えてくるのである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.195-197

文明の成果

ひとつの例として,「健康」のからくりをとりあげよう。健康な人は自分の健康について語らないものだ。何かをもっているわけではないし,何も欠けてはいない。この「ないもの」について語るべき理由などないのだ。というのは,そのことを気にしていないのだから。ひとが健康について語りはじめるのは,自分の身体に注意が注がれるようになったときだけである。そのときひとは,いまの病気について語ったり,昔の痛みを思い出したりする。「健康」という語は,昔のテクストにはあまり出てこない。もし出てくるとしても,何かの実体を指し示しているわけではない。ただ「無傷である」「生きている」を意味しているだけである。健康である者には,何も欠けていないのだから。しかし,わたしたちは健康がひとつの美徳となった時代を生きている。なぜなら,わたしたちは自分たちに健康が欠けていることを見に染みて感じているからだ。いまやこの欠如は日常意識に植え付けられてしまい,こうしてわたしたちは,来る日も来る日も自分たちの病気について語るようになった。これがわたしたちの文明の最新成果なのである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.159-160

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