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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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シュタイナーの思想

シュタイナーは自身の体系に,ブラヴァツキーが提示した「七周期の進化」という図式を,彼女以上に徹底して組み込んでいった。シュタイナーの人智学においては,地球・人種・文明・人間における進化のプロセスがそれぞれ7つの周期に区分され,その各層が相互に密接な照応関係にあると考えられたのである。そこでは,神智学の周期説の他,「ミクロコスモスとマクロコスモスの照応」という旧来のエソテリシズムに由来する観念や,ヘッケルの有機体的進化論における「個体発生は系統発生を繰り返す」という生命観が折衷・融合されていることが見て取れる。

大田俊寛 (2013). 現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 筑摩書房 pp.68
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よくあることだけれど,人権軽視です

学校が次々にインターネットに接続されていったとき,アメリカの学校では「すべての保護者と契約を交わす」のが当然でした。「子どもたちの作文・絵や顔写真などを,学校のホームページにのせてよいか」ということに関する契約です。
 ところが日本では,一部の自治体が,「学校のホームページにのせるものとのせないものの基準」を検討していました。これは,明らかに人権軽視です。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.207

反対意見を述べる能力を育む

また,教育の現場において反対意見を述べる能力を育むことは,きわめて大切だといえる。教師にとってそれが負担になるであろうことは承知しているが,教育の重点は,平均的な中流階級への社会化にではなく,自分とは異なる見かたを受け入れ,また反対意見をしっかりと述べられる人格の形成に置くべきではないだろうか。そしてその考えに従えば,生徒に毎日忠誠の誓いの唱和をさせるのではなく,普通の生徒と異なる服装をし,異なる考えやアイデンティティをもつ生徒も,きちんと保護するようなありかたが求められるようになるだろう。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.303

大学のライン

ともかく,人事課のようなスタッフは増員が次々と行われるのに,ラインは減らそうという愚かなことが行なわれている。これも,世の中とは全く正反対の動きである。企業でラインとは,営業部門と製造部門のことをいう。企業で営業部門と製造部門を減らすと何が起こるのかは誰でもわかるはずである。造るべきものが造られず,売ることもできない。造らないのだから売らなくてもよいということになるのだが,売上ゼロ,利益ゼロで倒産する。企業であれば,こんな馬鹿げたことを進める経営幹部はありえない。しかし,ここの経営幹部は,このようなことを平然と進めている。
 大学でのラインとは,学生を直接支援する部門である。学務,アドミッション,キャリア部門がこれにあたる。これらの部門は,学生,教員あるいは受験生に直接人間が対応しなければならない部門であり,機械化,効率化は難しい。これらの部門を減らすと,直ちに学生,教員,受験生へのサービスの悪化につながる。住民に対するのと同様に,学生,教員,受験生に対しても,待たせておけばよい,明日来てくれ,来週来てくれと言っていればよいと考えているのだ。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.233

5原則

私がY大学へ移って思ったことは,ここの人たちは「前例主義」,「形式主義」,「性悪説」,「人件費はタダ」,「コスト意識ゼロ」という,5つの考え方で仕事をしていることである。私は,これをY大学5原則と名付けることにした。ここの人たち,ということで役人,と言わなかったのは,私はここの人たちしか知らないからである。ここの人たちだけの特殊な世界であると信じたい。しかし,事実はわからない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.22-23

エイリアン

さしさわりのない起案であればよいのだが,ある時は非常勤講師採用起案というものも紛失していた。「おいおい,これって人事案件で,非常勤講師の経歴や個人情報といった丸秘の内容が含まれているんじゃないの」とスタッフと話をしたのでよく覚えている。民間であれば,持ち回りで起案決済が行われる内容のものである。この起案は,私のところに回るような案件ではない。
 しかし,関係すると思われるところはすでに捜したのであろう。それでも見つからず,どこへ回っているかわからないため,相当な数の人間にあてて,探索メールが流されていたようなのだ。民間企業の人事部門の人たちにとっては,とても考えられないような話だと思う。私がエイリアンと表現した意味が,よくおわかりいただけるものと思う。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.16-17

責任逃れ

話を戻そう。それでは,何か問題があったら責任を取るのかといえば,責任は一切取らない。先ほども述べたが,授権しないで,ハンコの数だけ多いのは「無責任体制です」と言っているのと同じである。「赤信号,みんなで渡れば怖くない」ということばがある。ここは,まさにこれである。私のいた民間企業の場合,課長が通常は起案者となり,関係部門があれば,その関係部門の責任者だけの承認で済んだ。課長決裁であれば,お金がかかっても課長のハンコが1つだけなのである。問題が発生したらこの課長の責任となる。大変シンプルであった。ここでは,責任を逃れるために多くの人間が起案にハンコを押しているとしか思えない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.16

楽しくない

どうも,この頃は,「楽しく学ぼう」というような幻想を追い求めすぎていないだろうか。はっきり言って,勉強は楽しいものではない。考えることだって,どちらかといえば苦しいことだ。のんびりとリラックスしているときにアイデアが浮かぶよりも,忙しくて必死になって考えているときのほうが,断然発想することが多い。ただ,忙しいとそれを吟味する時間がないので,見過ごしてしまうだけである。テスト勉強をしているとき,試験の前夜などに,やりたいことを思いついたり,やる気が湧いた経験はないだろうか。ちょっとしたストレスの中で,人間の頭脳は,面白いことを思いつき,実際に使えるアイデアが出てくることが多い。酒を飲んで良い気分のときには,残念ながら,頭からはなにも出てこない。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.184

大学の先生とは

世間の人は,大学の先生とは,社会から隔絶された環境にいる人間で,現実社会の厳しさを知らないだろう,と想像しているはずだ。ところが実際には,大学の先生は,会社でいえば,社長も社員もバイトも含めて,全部の仕事を1人でしなければならない。営業も広報も人事も秘書もすべて自分でする。技術もマネージメントも人に任せることはない。また,大学の運営の仕事があり,学会の委員会がある。これは政治ではないか,と思える仕事も多々ある一方では,お客が訪ねてくれば,自分でお茶を淹れて出さなければならない。代わりに電話に出てくれる者はいない。教授でも,コピィは事務室まで自分で撮りにいくのである。
 だから,普通の会社員よりは,世間というものをたぶん理解しているだろう,と僕は思う。ただ,人間関係がこじれたときに,「あいつとはつき合わない」という選択ができる。自分の研究,自分の研究室という逃げ場があるからだ。また,なにをしていても,首を切られることがない。その最低限の安全が保証されている点も,自由でいられる大きな要因だろう。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.135-136

評価してやる

もう1つ,子供が突飛なことを言ったら,それを評価してやることが大事だと思う。「馬鹿なこと言っているんじゃない」などと無下に否定してはいけない。
 いつだったか,(たしか新聞の投稿で)子どもが満天の星空を見て,「蕁麻疹みたい」と言ったことに対して,「近頃の子供は夢がない」と嘆く論調のものがあったが,とんでもない話である。その子供の発想は素晴らしい,と褒めなければならない。星空は綺麗なものという固定観念に囚われている方が,明らかに「不自由」な頭の持ち主であろう。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.129

痺れるくらい凄まじい体験

つるかめ算が凄いところは,「もし,つるの脚が4本だったら」と想像するところにある。そんな4本足のつるはこの世にいない。それでも,問題を解くために,それを想像するのが人間の「凄さ」なのである。痺れるくらい凄まじい発想ではないか。この凄まじさを体験することこそが,算数の醍醐味であり,教育の本質といって過言ではない。考えただけでも,身震いするような素晴らしい体験になるだろう。子供たちにこの「痺れるくらい凄まじい体験」をさせられる算数の先生はいるだろうか?

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.45

言われなくても

個性や可能性を伸ばしていくためには,その子自身が,自分は算数が得意だ,スポーツが得意だ,絵を描くのが好きだ,など,何か自分の中で好きなこと,人よりも優れていると思えることを自覚し,それを軸に自分ならではの価値や役割を見出し,自信を積み重ねていくというプロセスがあります。この中で子どもは,自分の自我やアイデンティティを確立していきます。
 子どもたちは,基本的に大人からの評価を得ようと努力しています。しかし,その子その子の出来具合もありますし,個性もあります。大人の尺度で批判したり,他の子どもと比較することは,子どもたちが自信をなくすことにつながります。
 我々は子どもの運動会で,「がんばれ!がんばれ!」あるいは「走れ!走れ!」などと応援しがちですが,言われるまでもなく子どもたちはがんばっているし,一生懸命走っているのです。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.227-228

今後の教育

国が描いている今後の教育に,無理はないでしょうか。
 今後の日本をリードする,あるいは国際的な競争に耐えうる人材の教育や育成,という方針はわかるのですが,対象となるのは現実的には一握りの子どもたちにすぎないのではないかと思ってしまいます。大多数の子どもとその親は,現在の生活の維持や安定を求めるだけで精一杯のように思います。
 一方で一握りの子どもたちは,公立の学校教育に頼ることなく,家庭での早期教育にはじまり,私立学校への入学を選択したり,塾などの民間の教育を受けることが当然のようになってしまいました。そうした親や子どもに選択される一部の学校は,国の掲げるのと同じような目標を掲げて邁進し努力しています。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.187-188

公立一貫校

もうひとつ触れておきたいことがあります。最近,公立の小中一貫校ができてとても人気があるようですが,実際に行った親御さんも私も現場を見て,これは非常に問題が大きいと思いました。子どもたちにとって学校生活は重要な部分ですが,長い人生の一期間にすぎません。家庭環境も,目標も,多種多様です。そのようななかで,9年間という義務教育の時間,同じところで過ごすことは,うまくいった場合はいいのですが,うまくいかなかった場合の代償が,あまりにも大きいのではないかと思います。
 親の考え方も生活環境もばらばらの子どもたちが,より広い地域から集まり,9年間も一緒で,しかも上から押し付けの教育をこなしていくのは,子どもにとっては大きなストレスになると思います。私立,および国立大学の付属の学校でも,9年間一緒に過ごしますが,こちらはある程度,子どもたちの家庭環境や目標が似ています。しかしこうした付属の学校でも,学校や同級生との間に悩みを抱えてしまえば,学校生活のストレスは大きくなります。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.124-125

自尊感情を高める

最近では,学校関係者の研修のためのマニュアル本でも,「自尊感情を高める」などという項目がよく出てきますし,特別支援教育でも,「自尊感情を保つ」ということはよく話題になります。学会などでは,もともと自尊感情というのは注目されていましたが,学校の先生の研修会などで目立つようになってきたのは最近のような気がします。
 ですから,最近の学校の先生は,「自尊感情という概念は必要であるし,いまの子どもたちは自尊感情が低い」というようなイメージを少なからず持っている方は多いと思います。しかし,子どもたちの自尊感情の低さが,説得力のあるデータとして示されている,ということはなかなかありませんでした。調査者の独自のオリジナルなデータのようなものであったり,小規模な調査がほとんどだったということです。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.33-34

機会を

たとえば近年,教員免許の更新制や教職大学院など,教師が現場を一時的に離れて大学などで研修する機会をつくる動きが出ている。これを現職研修のような教師の役割遂行のための機会としてだけ位置づけることは,教師役割に教師を縛りつける危険性がある。
 むしろ,せっかくの現場を離れる機会を,たとえば教職の立場をいったん離れてより自由な観点からいろいろ研究するというような,教師としての役割遂行中断の機会として生かすことはできないだろうか。これを発展させれば,たとえば教師にサバティカル(1年程度,現場を離れて自由な研究を行う期間)を保証することなども考えられよう。大学院や研究所などでの教員の再研修を,そうした教師の遂行中断性を保証する場として位置づけていくことが求められる。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.198

メリトクラシー

学校での学力の形成を支えている原理は,メリトクラシー(能力主義)である。メリトクラシーとは,もともとは,生まれや身分によって地位が決定された前近代社会から個人の業績(メリット)によって地位が決定される近代社会への転換によって広がった原理である。それは,生まれや身分によってではなく能力と業績によって社会的な地位が諸個人に配分されるという,近代的社会編成原理を指す概念として用いられてきた。しかし20世紀以降になると,メリトクラシーは,単なる個人の業績に基づく地位配分という原理にとどまらず,そのような人材の地位配分を人々が正統なものとして受け入れそれによって社会に包含されるようになるという,平等化と社会統合の機能を有するものとしても,とらえられるようになった。
 学力という言葉は,このような地位配分と社会統合というメリトクラシーの2つの機能を併せ持つものとしてとらえられてきた。たとえば,学校で「勉強をして学力を身につける」というとき,それは,能力を身につけて就職し,仕事のできる人間になる(地位配分)という意味と,一人前の社会人,市民になって周りから大人として認められるようになる(社会統合)という意味の両方を含んでとらえられてきた。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.142-143

所得や学歴で

また,教育社会学者の耳塚寛明は,「お茶の水女子大学21世紀COEプログラム(誕生から死までの人間発達科学)」の研究で,大規模調査のデータにもとづいて,子どもの学力が親の所得や学歴に強く規定されていることを明らかにした。耳塚は,イギリスの社会学者フィリップ・ブラウンの論をひきながら,日本は「富を背景とした親の願望」が子どもの学力を規定するペアレントクラシーの社会に突入しつつあることを指摘する。ペアレントクラシーの社会は,能力と努力が学力を規定するメリトクラシーの社会とは異なり,子どもたちがスタートラインの異なる競争に放り込まれている,「平等な競争という前提が保証されていない社会」である。このような社会では,学力の格差は「社会的競争ルールや社会構造自体に由来」するものであるから,格差緩和のために優先されるべき政策は,所得格差の緩和などそうした「社会構造自体」の改革であり,「仮定でのしつけの重要性」ではないと述べる(耳塚, 2007a)。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.104

多元能力主義

身に付けるべき能力を人によって完全に分けてしまうのが多元能力主義という認識だと思うが,極論すると身分制社会のようなものに戻ってしまいかねない。それはありえない話だとしても,ポスト近代社会における平等性をどのように確保し,教育を公共的なものにしていくか。そこに学力の問題を絡めて考えなければならないので,それでこそ,学校や公教育というものの役割が出てくる。
 習熟度別のようにやることが許容されるような分野と,それが許容されえないというか,みんなで一緒にやったほうがいいものとがあるということも,おそらくこの点と関わっている。

小玉重夫 (2013). 学力幻想 筑摩書房 pp.59

将来の職業

「大きくなったら何になる?」という質問は将来の職業を尋ねている質問である。子どもが誤解をして,「ウルトラマンになる」などと答えたら,大人は笑いながら「かわいいね」と言うだろう。そうした反応を見て,子どもは自分の間違いに気づいてゆく。自分が将来なりたい職業を聞かれているのだということを学習する。
 当初,子どもは「ケーキ屋さん」とか「お花屋さん」とか自分の好きなもの,自分の欲求と直結した職業名でもって回答するだろう。しかし,そのうち,「医者」とか「弁護士」とか「ピアニスト」とか社会的な人気の高い職業名で答えるようになっていく。大人たちは「それはすごいな,頑張りなさい」と褒め,励ましてくれる。社会的威信の高い職業は「いい職業」「立派な職業」なのである。さらに時間が経つと,子どもたちは社会的威信の高い職業は難易度も高いことを知り,自分の能力や才能などを考慮しながら,進路の調整を行うようになる。このとき新たに導入されるのが「個性」や「自分らしさ」という観点である。職業は,他の社会的役割がそうであるように,たんに社会的要請に応えるためのものではなく,自己呈示のチャンネルだからである。かくして現代の若者たちは「自分らしい職業」「自分に向いた職業」を志向することになる。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.74-75

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