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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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役目

これまでのキャリア教育の主流は,正社員としての就職支援にはきわめて熱心であったが,非正規雇用の世界に入っていく者のことは,,基本的には「脇」に置いてきた。本来“あるべきではない存在”として扱ってきたと言ってもよい。
 そうだとすれば,それは結局,過酷な労働市場の現実に,若者たちの一部をまさに“裸のまま”送り出してきたのも同然である。せめていくばくかの「防備」を固めさせたうえで,社会の現実に漕ぎ出ていけるようにするのが,キャリア教育の役割であろう。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.157-158
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これで大丈夫?

こうしたやり方の弊害は絶対にあると思うのだが,ひとつ,僕が非常に怖いと思っている点に,フリーターとの対比で正社員の「安定性」を際立たせるような手法は,生徒や学生のなかに,“正社員にさえなれれば,大丈夫だ(何とかなる)”という感覚を植えつけてしまうのではないか,ということがある。
 しかし,実際には,何とかならないことが多い。どんな大企業であっても倒産してしまったり,経営危機に陥ったりすることは,いくらでもありうる。現に,希望退職をはじめとする人員削減(人件費コストの圧縮)によって,なんとか当座をしのいでいるような大企業は,いくらでも存在しているではないか。

 帝国データバンクによれば,企業の設立から倒産(廃業)までの平均年数を計算してみると,時期にもよるが,ほぼ30年超になるという。長いようにも見えるが,これは,個人が生涯働き続ける年数よりも実は短い。“寄らば大樹の陰”のように,「正社員」という身分が絶対的に頼りになる時代ではもはやないのである。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.143-144

可能性を

若い人たちへ。
 キャリアプランを書いたことがあるかもしれない。あるいは,これから書くことになる可能性も。
 その時には,自分が描いてみた「人生」が,実は想像しているよりもはるかに多様で豊かな選択肢が存在することすら知らずに,そのうちの“ごく一部”をなぞったものになっているかもしれないという可能性に気づいてほしい。
 そうした「狭さ」や「殻」を打ち破るためには,この社会の現実やそこに生きる人々の“生きざま”について,もっともっとよく知り学ぶことが必要だろう。これだけ情報化が進んだ時代なのだから,学校や教師が指導してくれなくても,アンテナさえ張っておけば,自ら学ぶチャンスはいくらでもある。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.133-134

順番

個人的な提案ではあるが,流行りのキャリア教育が,<「やりたいこと(仕事)」の選択→その職業(仕事)について調べ学習>といったベクトルでの段階論に立っているとしたら,そんなことはすぐにもやめたほうがいい。そうではなくて,「やりたいこと」探しと,さまざまな職業(仕事)調べとは,同時並行的に,相互に影響を及ぼしあうように取り組まれるべきであろう。
 職業(仕事)についてのいろいろな選択肢を知り,そのどれかに興味を持つ。そうしたら,その職業(仕事)について深く調べてみる。その結果,違うなと思ったら,また別の選択肢について興味を寄せてみる。そうしたら,今度はその職業(仕事)について……。求められるのは,こうした学習の繰り返しであり,「自己理解」と「職業理解」との往復関係をつくりあげることである。
 結果として,在学中に「やりたいこと(仕事)」が決まらなくても構わない。「専門職(専門的職種)」に就きたいのであれば,ある時点で決めておく必要があるかもしれないが(——それだって本当は新卒時点ではなく,途中からの参入も可能なのだが),それ以外の若者にとっては,困ることなんてない。むしろ,決めていなくても,いろいろな選択肢(仕事)について理解していることのほうが決定的に重要である。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.76-77

半数以下

高校入学者が100人いたとすれば,どこかの段階までの教育機関をきちんと卒業し,新卒就職をして,そして3年後も就業継続をしている者は,実は41人しかいない。このグループは,“まっすぐなキャリアを歩んでいる人”という意味で「ストレーター」と名づけたいと思うが,それは,実は半分以下でしかない。かつての日本社会においては,ストレーターこそが多数はであったし,それが社会的な「標準」でもあった。しかし,今では(大学院等に進学した6名を加えてもなお)半数以下なのである。
 逆に言えば,同世代の半分強は,学校段階においてか就労においてか,どこかでつまづいたり,立ちすくんで滞留したり,やり直しを余儀なくされたりしている。これが,今どきの若者たちのキャリアである。彼らが生きていくのは,こんな状況の時代なのである。
 まずは,このことをしっかりと頭に叩きこんでほしい。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.26-27

学業の価値

へたな資格を取るのに比べても,学業はずっと有利だ。今は大卒なんて当たり前,これからは大学院出であることが,「かつての大学」と同じ有利さを持つだろう。今でもそういう職種は多い。今はそうでなくても,大学院での経験は絶対に無駄にはならない。高卒の人には,大学の価値がわからないのと同じように,大卒の人には,大学院の価値がわからない。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.82

将来の夢

子供に将来の夢を語らせるような機会が多い。小学生の卒業アルバムなどにも,その種のことを作文で書かせたりしている。将来の夢という言葉と裏腹に,何故かほとんど例外なく「どんな職業に就きたいか」ということを子供たちは答えてしまう。おかしな話だと僕は思う。子供だったら,もっと「一日中遊んでいたい」とか,「宇宙を冒険したい」とか,あるいは「大金持ちになって,自分の庭に遊園地を作りたい」というくらい書いても良さそうなものだが,せいぜい,スポーツ選手になりたいとか,ダンスの先生になりたいとか,どうも仕事の種別に子供たちは拘っているようだ。
 こうなるのは,大人が悪いと思う。子供が小さいときから,「大きくなったら何になるの?」なんて尋ねたりするのだ。両親ではなく,祖父母とか,伯父伯母とか,あるいは近所の年寄りとかに多いだろう。二十代くらいの若者は,子供にそんな馬鹿な質問はしない。まだ自分も半分子供だから,その問いかけの虚しさから抜けきっていないためだ。自分がかつて答えた夢に,まだ少し未練をもっていて,現実との間で藻掻いているためだ。それが年寄りになると,もう世捨て人に近づいているから,「この子が立派になるまで自分は生きていられるかしら」といった無責任さから,その場限りの夢の様な答を,ただ言葉として聞きたいだけなのである。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.38-39

内気を直そうとする

 社会学者のウィリアム・ホワイトは1956年のベストセラー『組織のなかの人間』(岡部慶三・藤永保訳)で,親や教師がどのようにして内気な子供を矯正しようとしたかについて述べている。「ジョニーは学校にうまくなじめません。担任の先生が言うには,勉強のほうはまあまあなのに,社交性の面がはかばかしくないとのことです。友達はひとりか2人だけで,どちらかといえばひとりでいるのが好きだそうです」ある母親がホワイトにそう話した。そうした教師の干渉を親は歓迎するとホワイトは書いた。「少数の変わった親を別にすれば,たいていの親は学校が子供の内向的な傾向など偏狭な異常を直そうとすることを歓迎している」

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.46
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

インターンシップ

 日本のインターンシップはアメリカから導入された制度でありながら,アメリカのそれとは大きく異なる。アメリカについては,2003年版の『国民生活白書』にわかりやすい説明が出ている。それによれば,アメリカでは,100年も前からその必要性が唱えられており,普及が推進されてきた。そのため,ほとんどの学生は在学中に1回はインターンシップを経験する。ノースイースタン大学の例で見ると,学生は,大学の産学協同教育プログラムのもとで,在学中に大学が斡旋する職場でフルタイムとして働く。その間,学生は有給インターンシップとして学資を稼ぎながら,なおかつ大学の卒業資格を得ることができる。ただし,卒業に必要な単位を取得するまでに,最短でも5年間を要する。

盛岡孝二 (2011). 就職とは何か:<まともな働き方>の条件 岩波書店 pp.41

実験的態度での観察

 教育者が被教育者を絶え間なく観察することは不可能なことであろう。幼稚園や保育所はもちろんのこと,小・中・高校などでも教師は個々の児童・生徒について知識をもち,観察を怠らず,その行動傾向を正しく理解することを求められている。しかし,1日のうちの限られた時間だけの,しかも,少数の教育者が多数の被教育者を抱えている状況のなかでの観察は,効果的な教育に必要な事実を誤りなく集め,活用することを求められても無理な注文といわざるを得ないであろう。そこで実験的観察が必要になるのである。もちろん,人為的な刺激が被教育者にとってマイナスの効果をもつ可能性があってはならない(たとえば,試しに体罰を加えてみるなど)が,十分検討の結果導出した仮説にもとづいて,刺激を与え,その効果をみることをすすめたい。効果的教育は「実験的態度での観察」から生まれるのであろう。

中村陽吉 (1991). 呼べばくる亀:亀,心理学者に出会う 誠信書房 pp.163-165

恣意的解釈

 人間の教育においても,教育する側が教育を受ける側について,教育前はもちろんのこと,教育の進行中にも慎重に観察することが大切だと思う。被教育者のもっている資質,おかれている条件,行動傾向,さらには教育的刺激への反応のしかたなどについての観察なしに学習を強要しても成果はあがらないであろう。しかし,観察のむずかしさは,K.ローレンツ博士のように対象を絶え間なく観察できればよいが,人間同士のばあいはそうもいかない。たとえ,母親と乳児との間でも冷静な態度の絶え間ない観察を求めることはムリであろう。私も「カメ」を絶え間なく観察したわけではない。どうしても目を惹く行動だけに注目して,それをつないで恣意的解釈をしがちである。親が幼いわが子の言動をみて天才ではないかと喜んだりするのは,この典型的な例であろう。

中村陽吉 (1991). 呼べばくる亀:亀,心理学者に出会う 誠信書房 pp.161

個性に即した教育

 個性を伸ばすには,まずもって,それぞれの個体(個々の人や生物)の特徴を正確に捉えねばならない。そして,その個性に即した刺激を与えていかないと個性は伸びないであろう。同じ刺激に対しても,異なる個性の持ち主であるそれぞれの個体は違った反応をするからである。個性を伸ばす教育を実現しようと思えば,まずもって個性に即した教育を目指さねばならないものと考える。

中村陽吉 (1991). 呼べばくる亀:亀,心理学者に出会う 誠信書房 pp.157

定員の自由化を

 しかし入試制度に関して入試問題より重大と思われるのは入学定員の問題である。先述したとおり,現在は定員内であればどんな受験生でも原則合格させなければならないというルールが有る。そのため高校で学ぶ気がまったくない生徒や普通高校での勉強についていけない能力の生徒も合格させざるを得ない事態を引き起こしている。
 実際に現場にいる教師は,このルールにいつも歯がゆい思いをさせられる。教育へ「民営化」視点を導入し,個々の学校の競争と効率化を煽るのなら,この定員内全員合格のルールの可否を各学校に委ねてほしいと切に願う。中学校からも「あれだけやりたい放題やっていてすんなり高校に入ってしまったら他の生徒に示しがつかない。ぜひ落としてほしい」といわれている生徒,入っても周囲に迷惑をかけるだけとわかっている生徒を入れざるを得ない専攻会議の辛さ,重苦しさはたまらないものがある。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.112-113

貧困が背景に

 修学旅行やスキー学校など宿泊を伴う学校行事の際には,保護者から保険証の写しを提出してもらうことになっているが,これがなかなか集まらない。提出物にルーズということもあるのだが,それ以上に健康保険に加入していない家庭が多いからだ。毎年結局は全員分の保険証が集まらず当日を迎え,途中で事故がないか心配しながら引率に行くことになる。
 当然,日頃も具合が悪くとも医者に行けない訳で,何か病気になってもほとんど医者にかからない。人生で最も体力のある高校時代なのでなんとか過ごしているようだが。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.56

余裕なし

 教師が自分の能力や活動を反省し改善していくのは絶対に必要なことだ。恥ずかしい話だが,教える熱意のまったく感じられない,教科書をそのまま書かせたりするだけ,あるいは生徒の理解力も考えず,教師の虎の巻ともいうべき指導書をそのまま教える教師もいる。そんな無益な教師をたたき直すためにも反省・改善は不可欠だ。しかしそれには,素晴らしい授業を行う教師・学校を視察・研究に行くとか,自分の教科に関連する研究の最先端を学ぶ,正しく効果的に伝達するためのプレゼンテーションスキルを学ぶ,正しく効果的に伝達するためのプレゼンテーションスキルを学ぶ,さらに学校という閉ざされた場に留まりがちな教員に様々な社会的体験を行なわせるといいった方法が有効であると思う。現実の教育現場では。ことに「底辺校」ではこのような研修や体験を行う余裕がまったくないといっていいほどない。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.98

受験料って,自分で払うんですか?

 進学希望者にしばしば質問されるのが,「受験料は自分で払うのか」ということである。この質問には2通りの意味があって,その1つは受験料を学校が払ってくれるのかと思っている恐ろしい誤解の確認という意味である。同様に「入学金は誰が払うのか」という質問をされたこともある。もう1つは,自分で払うことはわかっているが,どこで・どうやって払うのかという意味の質問である。つまり,銀行や郵便局で振込をしたことがないのである。「底辺校」に限らず高校生の年齢では,そんな経験がないと思われる方もいらっしゃるかもしれないが,保護者はどうなのかという疑問は残るであろう。なぜ保護者が教えないのだろう。なぜ保護者に聞かないのだろうと,指導をしながら教師はいつも不思議に思う。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.47

夢や希望

 「底辺校」の生徒や親に接していると,彼らには本当に夢や希望がないことに気づく。仮にもっていたにしても,いつまでたっても幼児期に見た夢,「大きくなったらテレビアニメのヒーローになりたい」といった不可能な夢,あるいは一攫千金の夢を,文字どおり夢見ているのだ。実現不可能な夢を見ることが思うようにならない現実からの逃避なのかもしれない。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.71

底辺校の英語教育

 生徒たちの苦手意識は英語に集中する。アルファベットを書けない生徒がいることは先に挙げた。特に「b」と「d」の区別ができない生徒が多いという。ひらがな同様これらを学ぶ最初の段階で,周囲がほんの少しこの児童・生徒を見て注意し指導していれば防げる躓きだと思うのだが。動詞の過去形などの変化がわからない。be動詞と他の動詞を一緒に使ってしまうというのは当たり前の例となっている。英語教師もなんとか基礎力をつけようと努力しているが,一向に改善される気配がない。従って高校3年生になっても曜日の名前や月の名前を書かせる試験問題が出され続けることになる。
 「底辺校」にもALTと呼ばれる外国人語学教師が配属される。彼らの生の声を聞いてみるといい。様々な学校で授業を行う彼らこそ,現在の高校生の学力差を体感していると思う。「底辺校」では彼らは本当に暇そうである。授業が成立しない状況であることも多いので,日本人教師はALTと授業しようとしない。また生徒も英語に苦手意識があり無関心でもあるので,積極的に彼らに接しようとしない。一日中職員室で読書をしているALTもいるのだ。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.45

近代史の無知

 多くの「底辺校」の生徒にとって,近代史はブラックホール状態である。まず授業でそこまで進めないし,仮に進めたとしても複雑な国際関係が理解できない。近年の,緊張を増しているアジア近隣諸国との関係の中で「日本人は過去について知らなさすぎる」という批評を受けることがあるが,至極もっともである。学んでいないのか,学んでも覚えなかったのか,少なくとも「底辺校」の生徒は無知といってよい状況なのだ。そして,自分で学ぼうとする努力も,現時点ではまったくしていないのだから。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.44

ひらがなが

 国語の学力に関しては漢字能力の欠如が巷ではよく話題になっているが,もっと根本的な能力に欠けていることを感じる。ひらがなが書けない生徒同様にカタカナが書けない生徒も少なからずいる。字の書き方が乱暴だからではなく,元々知らなくて「ヨ」「ヲ」の区別がつかない生徒もいる。「あいうえお」の語順さえ完璧でない生徒もいるが,もっとひどいのは「いろは」である。高校生なら「いろは」を学ぶ機会が既にあったであろうと思う高校教師の思いは誤解であった。ほとんど全員の生徒が「いろは」の語順を知らない。

朝比奈なを (2006). 見捨てられた高校生たち:公立「底辺校」の実態 新風舎 pp.41-42

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