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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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足切り

 人気企業,大手企業のなかには,プレエントリーではなく,応募書類のエントリーシートが数万通を超える企業もある。そんな大量のエントリーシートを前にして,採用担当はどうするか。多くの場合は「学歴による足切り」のような対応をせざるをえない。なぜなら,採用担当にさける人数・時間にかぎりがあり,とてもさばききれないからだ。なかには,日本を代表する大手メーカーのように現場の管理職を千人以上巻き込み,全員のエントリーシートを読んでいる企業もあるのだが。
 エントリーシートの段階に関して言うと,「事務系でいうなら,偏差値63以下の大学は落とすことにしている」(大手電機メーカー)など,極端な学歴切りにつながっている。

常見陽平 (2012). 親は知らない就活の鉄則 朝日新聞出版 pp.57
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親からの電話

 都内女子大のキャリアセンター長は「親からの相談のような,クレームのような電話はよくかかってくる」と疲れをにじませる。過去にあった保護者からの強烈な電話のひとつは,地方在住の母親からかかってきたこんな内容だったという。
 「学芸員の資格を取得しても,私の娘はちっとも地元では就職できない。どういうことなのかきちんと説明してくれないか?せっかく大学に行かせたのに。責任とってほしい」
 こう電話でまくしたてたそうだ。
 この女子大では,図書館の司書や,学芸員の資格をめざすことができる。おそらくこの母親は,「就職に安泰」と思って,この女子大に子どもを入れたのだろう。
 だが,「大学入学=学芸員の資格がとれる」はわかるにしても,「学芸員の資格がとれる=地元で就職できる」わけではない。だいたい少し調べれば,地元に学芸員の求人が少ないことくらい,大学に入る前からわかっていたことではないだろうか。

常見陽平 (2012). 親は知らない就活の鉄則 朝日新聞出版 pp.25-26

終わった産業

 日本の学生は,企業のうわべの人気だけを気にしすぎるという大問題だ。これが,正しい行動ならばいいだろう。しかし,往々にして,将来自分の首を絞めることにつながる。
 なぜなら,人気企業とは,現時点が最盛期であり,その後は停滞期に入るケースが多いからだ。そうした企業を志望するということは,「終わった産業」に入ることと同義なのだ。
 ただ,学生はいつの時代もその過ちを繰り返してきた。
 1950年代ならば3白(砂糖・製紙・セメント)と石炭,1960年代なら造船,鉄鋼,1980年代ならJAL,そして現在ならさしずめマスコミだろう。
 私は,トヨタの相談役であり,同社中興の祖である奥田碩氏が話した,以下の様な言葉を覚えている。
 「私の時代は,できる人たちはみな3白に就職していった。私はデキが悪かったから,たまたま愛知にある田舎企業にしか就職できなかった。その企業が今では世界一となっている」
 同じことは,1990年代にも起きている。今度はテレビと新聞が広告メディアとして退潮期にさしかかり,代わってインターネットが主役に躍り出始めた時期だ。時代の空気を読んで,サイバーエージェントや楽天,ヤフーなどの企業がこの時期に立ち上がっている。
 ただ,それでも旧来メディアへの志望熱は冷めず,学生たちが本気でイーコマース系に動き出したのは,それから10年ほど時が過ぎてからだ。
 この繰り返しからは,なかなか抜け出すことはできないと思う。なぜなら,今全盛の産業が「終わった産業かどうか」は通り過ぎてからでないとわからないし,「これから花開く明日の産業」についても同じことが言えるからだ。
 さて,なぜ私は,いまこの「終わった産業」についてこの場で話しているのか。
 それは,日本の大学生が「人気企業(終わった産業)」にしがみつき,「不人気企業(明日の産業)」を敬遠しているその裏側で,不人気産業は,優秀で辞めない外国人学生を戦力化し,将来の海外進出の先兵にしようとしているからだ。

海老原嗣生 (2012). 偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 朝日新聞出版 pp.184-186

考える力を

 大学のキャリアセンターに呼ばれて行くと,そこでは「白い靴下は面接ではNGですか」「自分のことを語るとき,『私』と『自分』とどちらを使うべきですか」,こんな話ばかりを聞かれる。
 そんなことよりも,企業が望むのは,的確に相手の質問意図をとらえ,それに対して,説得力の高い応答を,素早く,しかも簡潔に行えることである。そういう力は,「面接対策」ではなく,学問・学究活動をしながら十分磨ける。この部分は,大学教育と融合が可能なはずだ。こうした,本質的な考える力の養成ならば,スキル教育を重視する専門学校とも一線を画すことができるだろう。
 つまり,考える力を鍛えるよなシラバスを作り,そのシラバスの題材として,経済や法律や文学などを利用すれば,大学教育と社会人力養成は相反さない。そうすれば,学生も学業に力を入れる。
 逆に,現状のような「就職活動を後ろ倒しにする」などという本質的ではない対症療法を繰り返していても,決して学生は学業に力を注ぎはしないだろう。

海老原嗣生 (2012). 偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 朝日新聞出版 pp.169-170

やめない

 人気大手企業は,応募者を学歴(大学名)で選抜している。それをいくら「差別だ」と学生やマスコミが批判したとしても,やめることはないだろう。なぜなら,こうした企業には万単位の応募者が来ているので,何かしらの機械的なスクリーニングを行わないかぎり,選好実務が進まないからだ。その機械的スクリーニングとして,学校名はかなり有意性が高い。厳しいようだが,これが企業の論理なのだ。

海老原嗣生 (2012). 偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 朝日新聞出版 pp.61

受けてみなくちゃ?

 「といったって,受けてみなければwからないじゃないですか。人気企業を受けるのに別にお金がかかるわけでもないんだから」
 そう,就職ということに関しては,まるで相場観がないのが普通の学生なのだ。
 ひるがえって考えてほしい。少し野球がうまいからといって,「受けて見なければわからないから」とプロ野球選手を志望する学生はまずいないだろう。彼らは,リトルリーグで夢砕かれ,中高では名門校に入れずまた挫折し,名門校に進んでも甲子園には届かず……。そう,大学に入るまでに何度も砂を噛む思いをしている。だから,相場観が見についているのだ。
 同じようにちょっとカワイくて歌がうまいからと,AKB48に入れはしないことを多くの女子学生はわかっている。地方の高校で少しデキるからと,東大を受ける学生もいない。皆,小さな頃から何度も挫折を経験し,「ちょっとやそっとじゃ無理」ということがわかっているからだ。
 こうした「相場観形成」がまったくなされず,若者は大学3,4年生になって初めて就職の厳しさを知る。
 こんな状態で,親やキャリアカウンセラーが,口を酸っぱくして「社会はそんな甘いもんじゃない」「多くの人が中堅中小企業で働いている」と説得しても,やはり学生は納得はしない。だから,狭き門の向こう側にいる企業は,対応できないほどの大量の応募者と対峙することになる。かくして企業は,学校名や学部名などの「レッテル」による選別をするしかなくなっていくのだ。

海老原嗣生 (2012). 偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 朝日新聞出版 pp.48-49

名ばかり名門大学生

 昔のように「難関校を出ていれば,基礎学力についてはある程度粒ぞろい」というような考え方は,企業の採用担当からは潰えていくことになった。
 そこから,企業側は「名ばかり名門大学生」対策に追われることになる。
 まだ内定にはほど遠い段階で,筆記試験を課す企業が増えた。その上,従来の言語(国語),非言語(算数)だけでなく,一般常識も加える企業が増えている。エントリーシート(応募趣意書。以下ES)の内容が,自己PRや応募動機といったありきたりなものから,時事問題や科学分野の話などに振られだしたのも,理由の一端はそこにある。
 さらに,応募の早い時期からグループディスカッションにより,思考力,論理性などを厳重にチェックするのもごく一般的となっている。みな,「名ばかり名門大学生」対策の一環ともいえるだろう。
 近年,とみに「就活の厳選化」が叫ばれるようになったのはこうした経緯があるからだ。
 ただ,それを知らない大人たちの間では,「採用が厳選化したのは,高いレベルの“リーダーシップ”“問題発見能力”“コミュニケーション能力”が必要とされるからだ」などととらえられている節がある。
 たしかに,そうした言葉を語る企業の採用担当も多い。しかし,年功序列型が多い大手企業が,本気でそんな「出る杭」ばかりを採用するとはとうてい思えない。そんな「ハイレベル」な基準は,企業により好き・嫌いが分かれるところなのだ。

海老原嗣生 (2012). 偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 朝日新聞出版 pp.32-33

両方

 教育の重要性,環境の重要性はいうまでもありません。遺伝を理由に人を差別してはならないというのも当然のことです。しかしだからといって,遺伝による個人差があるという事実を無視したり否定しようとするのは,いかにそれが善意と正義に満ちたものであっても,知的に誠実であるとは言えないはずです。必要なのは,まさに「遺伝も環境も両方論」,つまり遺伝の影響をきちんとみすえたうえで,環境とのかかわりを理解し,設計していくことしかない。この結論は論理的に必然の帰結としかいいようがありません。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.56-57

ワーキングメモリ容量

 現代の教育理論のいくつかでは,子供は小さな研究者であるべきで,自ら問題を探し出し,最終的にそれを解く知識を探すとされる。すばらしいことだ。しかし,ワーキングメモリ能力が弱ければ,こういう教え方は悲惨な結果を生むだろう。材料を自身で整理するためには,ワーキングメモリにプランを保持している必要がある。教師が子供にするべきことを指示するよりよほど難しい。さらに,たくさんの子どもが,それぞれに好きな課題をやっている場合,教室の騒がしさのレベルはずっと高くなる。この点を考えると,このような教え方は,単にワーキングメモリの負担を増やすだけで,ADHDの子どもはさらに大幅に立ち遅れてしまうことに鳴る。

ターケル・クリングバーグ 苧阪直行(訳) (2011). オーバーフローする脳:ワーキングメモリの限界への挑戦 新曜社 pp.135-136

真実は不完全

 警告をしておこう。学生の中には,科学者や教師が常に正しいと信じきっている人もいる。そうした学生にとっては,専門家とみなされている人たちが,意図的ではなかったにしても,重大な間違いをよくおかしているということを見せられると,腹立たしくなることもあるだろう。自分が読んだり教わったりしたことに疑問をもちはじめると,確かなものが足元から崩れるような感じがするだろう。失うものの代わりに,新しい絶対的な真実をあなたに与えることは,私にはできない。しかし,大切なのは,絶対的真実と思っていたものが,不完全なものであり,あるいは存在さえしていないということを知ることである。実際よりもたくさんのことを知っていると思うよりも,自分の知識の限界を知っているほうがよいだろう。
 また,批判的に考えるスキルを身につけると,何も残らなくなるというわけではない。そうではなく,批判的思考スキルによって,研究を積極的に把握するための貴重な能力をたくさん得るのである。そして,積極的な気持ちで研究にアプローチすると,どの研究が合理的に行われているのか,どの研究者が自分たちのバイアスを見極めて,それを正直に認めようとしているのかがわかる位置につけるだろう。
 実験場の過誤を見いだしても,驚いてはいけない。結局のところ,この世界にあるものすべてについて,絶対的な確実性をもって知ることはできないのだ。当然,誤りは最小にすべきであるが,できるのはその程度なのだ。研究者にとって重要なのは,可能な限り正確であることだが,実験者のバイアスが混じって,研究方法や結果が本当に意味している以上の結論を出さないように気をつけることである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.28-29

架空バイト

 出費が嵩む教授の間で,昔々からコッソリ行われてきたのが,研究費の中から学生にアルバイト謝金を支払い,仕事をしてもらった分を除いたお金の一分を,“合意の上で”上納してもらうという手である。
 工学部という組織には,実験がつきものである。教授・助教授は,年3500時間働いても足りないくらい多くの仕事を抱えているから,自分で(時間がかかる)実験をやっている余裕はない。かつては,実験助手や教務補佐員というポストがあって,これらの人に仕事を頼むことが出来たが,公務員の定数削減が進む中で,これらのポストは削られてしまった。
 一方,助手は一人前の研究者だから,手足としてこき使うことはできない。こうなると,実験やプログラミングを頼めるのは,大学院生だけである。
 大学院生は,日頃から指導を受けている教授に頼まれれば,イヤとは言いにくい。権威が10分の1に落ちたとはいうものの,教授の頼みを断れば,指導が手抜きになるかもしれないし,時給1000円程度であっても,自分の役に立つ仕事を手伝ってお金をもらえるなら悪くない。運が良ければ,ほとんど仕事をせずにお金をもらえる場合もある。
 仕事をしない学生にアルバイト代を払うことは禁じられている。しかし,仕事をしたかしないかを認定するのは,仕事を依頼した教授である。学生は出勤簿に印鑑を押しさえすれば,仕事をしたことになるのである。
 学生アルバイトには,週20時間までという制限があるから,支払えるお金は月に7〜8万円が限度であるが,働かなかった分を上納してもらえば,年に20万くらいになる。これだけあれば,極貧学生の生活補助など,自分の懐から出ていく様々な出費の半分くらいは取り戻せる——。
 このようなことは,やらない方がいいに決まっている。しかし80年代までは,相当数の教官がこれをやっていた。ある程度の研究費を持っていて,何人もの大学院生を抱える教授の中で,このようなことをやったことは一度もない,と言い切れる人はどれだけいるだろうか(高潔な纐纈東大名誉教授は,絶対にやらなかっただろうが)。
 事務官はこのようなことを知っていたはずだが,見て見ぬふりをしていたのは,工学部教授が自分の懐を痛めていることを知っていたためだろう。
 この種の“犯罪”が広く世間に知られるようになったのは,90年代に入ってからである。それまで秘やかに行われていたものが,大規模かつあからさまに行われるようになったからである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授の事件ファイル 新潮社 pp.130-132

厳しいのは若者だけ

 流動性が高いアメリカでは,2流大学の1流教授は,たちまち1流大学に引きぬかれてしまう。また業績が上がらない2流大学は解雇され,3流大学に流れていく。ひとたび3流大学でティーチング・マシーンになったら,研究者としてカムバックする道は閉ざされる。
 この結果,スタート地点ではピカピカだった。博士の多くは,10年後には行方知れず,あるいは“透明人間”になってしまうのである。
 学生も同じである。優秀な学生には1流大学から奨学金が出るから,2流大学には入らない。また成績が悪い学生には,たちまち退学勧告が出る。能力と実績による完全な輪切り社会,それがアメリカの大学なのである。
 “識者”の中には,ひとたび准教授になれば,遅かれ早かれ教授に昇進する日本の大学は甘い,と批判する人がいる。しかし処遇が厳しいのは,アメリカでも若者だけであって,ひとたびテニュアを手にしてしまえば,地位は安泰である。
 アメリカの名門デューク大学に勤める友人に聞いたところでは,テニュアを手に入れたあと,業績不振が理由で解雇された人は1人もいないということだ。つまりアメリカの大学も甘いと批判される日本と,それほど違わないのである。
 ついでに言えば,年齢による定年制を廃止したアメリカの大学は,70歳超の教授が溢れる“老人天国”である。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授の事件ファイル 新潮社 pp.39-40

学位工場製

 経歴詐称と言えば,長寿人気番組「笑点」でおなじみの,三遊亭円楽師匠(現円楽,もと楽太郎のことです)が頭に浮かぶ。この人の頭の良さには,かねがね経緯を払ってきたが,忙しい合間を縫って博士号を取り,かつてヒラノ教授も非常勤講師を務めたことがある,「税務大学校」で講義を担当していると聞いて,1万時間かけて博士号を取ったヒラノ教授の敬意は尊敬に変わった。
 ところが円楽師匠の博士号は,「アメリカンM&N大学」なる「ディプロマ・ミル(学位工場)」が出したものだと知って,尊敬は崇拝にグレードアップした。
 ディプロマ・ミルというのは,まったく勉強しなくても,お金さえ出せば学位を出してくれるビジネスである。たとえば,「アダム・スミス大学」という格調高い名前を持つ大学の場合,1万8000ドル払えば,2年ほどで博士号を出してくれる。
 円楽師匠はシャレのつもりで取った,と言っているそうだが,完全に担がれたヒラノ教授は,さすがは円楽と唸ったのでした。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授の事件ファイル 新潮社 pp.36-37

そんなオキテは無視せよ

 いじめっ子は,自分たちのオキテが解体され,叱られるのをとても恐れるんだ。だから彼らは,「チクリは最低な行為」「告げ口するのは卑怯者」といったオキテを作って,互いを見張ったり,自分たちを正当化したりしようとする。
 そんなオキテは,無視して構わない。例えば,集団でしめしあわせた無視,侮辱,デマや中傷といった,軽度のいじめであれば,学校の先生に対応を要求してもいい。もちろん先生は,こうした要求があったら,その情報提供者が誰かを,絶対にいじめっ子に伝えてはいけない。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.81

「いじめられる側も悪い」?

 「いじめられる側も悪い」なんていう発言をよく聞いたりしないかい?「抵抗しないから悪いんだ」「周りをイライラさせているのがいけないんだ」「もっと明るくならなくちゃ駄目だ」「本人にだって責任があるんだ」。でも,この手の発言って,そもそも間違っているし,加害者のためになっていて,むしろ有害なんだ。

 「いじめられっ子にも責任がある」という発言の多くは,どうしてそうなったのかという「理由」と,誰の責任かという「責任」ともごちゃまぜにしてしまっている。

 例えば,君が図書館に行ったときに,たまたま自転車に鍵をかけないでいたら自転車を盗まれたとする。そのことを誰かに言ったら,「それは君が悪いよ」と冷たく突き放されてしまった。でも,これって,おかしくない?悪いのは,どう考えたって盗んだ犯人だ。君は悪くないはずだ。

 確かに,君が鍵をかけていれば,自転車を盗まれる確率は減ったかもしれないし,これからも自転車に乗り続けられたかもしれない。でも,それはあくまで,盗まれてしまった「理由」が,「鍵をかけなかったこと」にあったという話であって,君が「悪い」とか,君に「責任がある」とかっていう話とは別のはずだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.56

いじめの言い訳

 自分のやったイジメ行為への批判を「なんでもないこと」にするために,いじめっ子はしばしば,次のようなパターンのイイワケを好んで使う。

1.「いじめの事実を否定する」
 これはいじめじゃなくて,単なる遊びやふざけ。だからたいしたものじゃない。ちょっといきすぎたかもしれないけれど,騒ぐほどのものじゃない。

2.「いじめられっ子のせいにする」
 いじめられっ子こそ悪い。性格が悪く,ウソもつき,周囲を嫌な気持ちにさせているのだから,これは受けて当然の攻撃であり,制裁。いじめではないし,むしろ相手のため。

3.「逆ギレする」
 なんの筋合いがあって説教できるのか。あなたの言うとおりにする必要はない。善人ぶっているけれど,あなただって人間なんだし,悪いことをまったくしていないわけじゃない。完璧な人などいないのだから,叱る資格なんてない。

4.「自分の責任を否定する」
 自分は,そそのかされたり,強要されたりと,やむをえずいじめの状況に巻き込まれただけ。やりたくてやったわけではないし,自分には責任がない。

5.「自分たちだけのオキテを主張する」
 自分はあくまで,仲間内で決めたオキテにしたがっているだけ。リーダーやみんなの気持ちにしたがっているのだから,自分には責任がない。みんなで決めたことなんだから,当然の仕打ち。

 こうしたイイワケを使うと,あたかもいじめを「良いこと」であるかのように偽ることができるし,自分が傷つかなくてすむ。うしろめたさを感じることなく,いじめを楽しむことができてしまうんだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.53-55

2通りの意味

 いじめっ子はしばしば,2とおりの意味に受けとれるような裏攻撃を好んで選ぶ。
 例えばいじめっ子が,いじめられっ子の肩を抱いて,「今日も一緒に帰ろうぜ!」とか「修学旅行のとき,一緒の班になろうよ!」とか「ゲーム貸してくれるよね?約束したもんね?」なんて言葉をかける光景を思い浮かべてほしい。事情を知らない周囲の人間から見たら,いかにも仲の良い姿に映ることだろう。

 でも,いじめられっ子は,いじめっ子とふたりっきりで帰ると,裏で嫌な目にあうことを知っているし,荷物持ちや宿題なんかを全部やらされるのがわかってるし,まだクリアしていないゲームを「借りパク」(借りたまま盗むこと)されるのが目に見えている。一見すると普通の光景でも,本人はとても苦痛を受けているような,とてもズルい攻撃。それが裏攻撃なんだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.47-48

限定された集団内で

 いじめは,同じ場所で,長い間,顔を合わせなくてはならない集団の中で生じやすい現象だ。例えば北海道の人が沖縄の人をいじめる,ということはまず起こらない。ネットで悪口を書くことはできても,それだけではいじめとは呼ばれない。
 人間関係でトラブルがあっても,そこから簡単に逃れられないような状態でこそ,いじめは深刻化しやすい。学校だけでなく,職場は簡単に変えられないし,地域も簡単に変えられないし,親族を選ぶこともむずかしい。そういう人間関係を入れ替えにくい状況が,いじめを生きながらえさせてしまう。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.35

ノリの順位

 いじめは,「そこにいるみんなの言うことは絶対」という状態を,とても強引なやりくちで作り上げてしまう。
 ただでさえ学校は,「ノリがいいか/ノリが悪いか」で,その人の見えない順位が左右されてしまいがちな空間。みんながノリでいじめられっ子をいじり,いじめられっ子の反応が悪いと,さらにいじめる。周囲の人間も,そのノリに感染して,一緒になっていじっていく。
 もちろん,日本の法律には「態度罪」「表情罪」なんて存在しない。態度が悪いとか,顔が気に食わないとかを理由に行なわれる攻撃は,ただの「私刑(リンチ)」だ。だけど,間違ったルールが通用してしまう仲間内では,それがまかりとおってしまうんだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.22-23

排除ではなく飼育

 多くのいじめは,排除のためじゃなくて,飼育のために行われている。「嫌いなヤツ」を追い出すためではなく,相手を「弱いヤツ」のままでいさせて,オモチャのようにして攻撃し,反応を楽しみ続けることを目的としているんだ。

内藤朝雄・荻上チキ (2010). いじめの直し方 朝日新聞出版 pp.17-19

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