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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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ナウルの大学

 ナウルの大学,海沿いにあるサウス・パシフィック大学(USP,南太平洋大学)は,まるで小学校のような雰囲気だ。1階には図書館とコンピュータ室があり,2階はがらんとした野外教室となっている。これがナウルの大学なのだ。フィジーのスバには,USPの本校がある。USPは,太平洋にある島々をイメージしている。つまり,太平洋の島々に住む人々が大学レベルの知識を身につけることができるように,オセアニア地域全体にたくさんの附属校があるのだ[USPは,1969年にフィジーやツバルなどの島嶼国12カ国が資金拠出して共同設立した高等教育機関である]。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.111-112
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いじめの防止には

 生徒間のいじめを防止することはきわめて困難だと,山崎博士はいう。なぜなら,幼い子供たちは,自分の親やその他の大人たちが,会社,工場,といった職場あるいはPTAの会合などで使っている戦術をそっくり模倣しているだけだからだ。「いまやいじめは,どこででも見られる現象である。組織的かつ継続的に行なわれ,そのやり口も卑劣で目立たないものになっている。いじめにおいては,3つから4つの集団が複雑に関係しあっており,いじめる集団,いじめられる集団,いじめの実行者を背後で操る集団……そして巻きこまれないように,いじめ行為をただ傍観している集団が存在する」不登校児に関する研究のなかで山崎はそう結論している。
 もちろん,アメリカなど,ほかの国の教室や校庭でも,いじめは発生しているが,その特徴や頻度の点で,日本のいじめははるかに残忍で,致命的な結果をもたらすのだ,と山崎はいう。日本人は人種的,民族的,文化的な絆で結ばれた単一民族であり,みんなが同じ思考や価値観を共有している,というのが国家的定説になっている。この単一民族国家というイデオロギーが,異質な者に対する攻撃を正当化しやすくしているのである。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.88-89

教養主義の死

 わたしが教養主義の死を身近でつくづく感じさせられたのは,大学の授業で旧制高校の生活について触れ,教養主義についていくらかの説明をしたときのことである。ある学生が質問をした。「昔の学生はなぜそんなに難しい本を読まなければならないと思ったのか?それに,読書で人格形成するという考え方がわかりづらい」,という率直な,いや率直すぎるともいえる質問に出会ったときである。
 わたしのほうは,旧制高校的教養主義をもういちどそのまま蘇らすべきなどという気持ちはないにしても,読書による人間形成というそんな時代があったこと,いまでも学生生活の一部分がそうであっても当たり前だ,と思っている古い世代である。「読書で人格形成するという考え方がわかりづらい」というのは,そんなわたしのような世代にはやはり意表を突く質問としかいいようがなかった。しかし,それだけにあらためて教養主義の終焉を実感することになった。
 そうはいってもいまの学生が人間形成になんの関心もないというわけではないだろう。むろんかれらは,人間形成などという言葉をあからさまに使うわけではないが,キャンパス・ライフが生きていく術を学ぶ時間や空間と思っていることは疑いえないところである。しかし,いまや学生にとっては,ビデオも漫画もサークル活動も友人とのつきあいもファッションの知識もギャグのノリさえも重要である。読書はせいぜいそうした道具立てのなかのひとつにしかすぎないということであろう。あらためていまの学生の「教養」コンセプトを考えなければならないとおもうようになった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.237-238

教養の脱価値化

 大学紛争後の大学生たちはこう悟った。学歴エリート文化である特権的教養主義は知識人と大学教授の自己維持や自己拡張にのせられるだけのこと,大衆的サラリーマンが未来であるわれわれが収益を見込んで投資する文化資本ではない,と。
 かつては教養主義の啓蒙的・進歩的機能が強いぶん,教養主義の(エリートのノン・エリートに対する)境界の維持と差異化の機能が目に見えにくかった。たとえ目にみえても自明で会議の対象とはならなかった。教養知が技術知と乖離し,同時に,啓蒙的・進歩的機能を果たさなくなることによって,こうした教養主義の隠れた部分,あるいは不純な部分が前景化したのである。
 マス高等教育の中の大学生にとっていまや教養主義は,その差異化機能だけが透けて見えてくる。あるいは,教養の多寡によって優劣がもたらされる教養の象徴的暴力機能が露呈してくる。いや大衆的サラリーマンが未来であるかれらにとって,教養の差異化機能や象徴的暴力さえ空々しいものになってしまった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.214

目的は醜態

 かれらのただのサラリーマンという人生行路からみると,教養など無用な文化である。教養はもはや身分文化ではない。かれらはこういいたかったのではないか。「おれたちは学歴エリート文化など無縁のただのサラリーマンになるのに,大学教授たちよ,おまえらは講壇でのうのうと特権的な言説(教養主義的マルクス主義・マルクス主義的教養主義)をたれている」,と。かれらは,理念としての知識人や学問を徹底して問うたが,あの執拗ともいえる徹底さは,かれらのこうした不安と怨恨抜きには理解しがたい。だから運動の極点はいつも教養エリートである大学教授を断交にひっぱりこみ,無理難題を迫り,醜態をさらさせることにあった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.210-211

大学紛争の不思議

 このようにみてくると,大学紛争の解釈も別様になる。わたしはいまでもあの大学紛争をとても不思議におもう。この点については,別のところ(『学歴貴族の栄光と挫折』など)に書いたが,大事なことなので少し補筆しながらくりかえすことをお許しいただきたい。
 なぜ不思議かというと,紛争の担い手だった大学生は「学問とはなにか」「学者や知識人の責任とはなにか」と,激しく問うた。しかしさきほどみたように,大学進学率は同年齢の20パーセントを超え,30パーセントに近づこうとしていた。大学生の地位も大幅に低下していたし,卒業後の進路はそれまでの幹部社員や知的専門職ではなく,ただのサラリーマン予備軍になりはじめていた。そんな大学生が,知識人とはなにか,学問する者の使命と責任をとことんつきつめようとしたところが腑に落ちないのである。
 あの問いかけは,大学生がただの人やただのサラリーマン予備軍になってしまった不安と憤怒に原因があった。そして,大学紛争世代は,経済の高度成長による国民所得の増大を背景にした大学第一世代,つまり親は大卒でなく,はじめて大卒の学歴をもつ世代が多かったことを解釈の補助線とすると,了解しやすくなる。
 大学紛争世代である団塊の世代(1946−50年生まれ)の高等教育進学率は約22パーセント。かれらの親を1916−20年生まれとすると,この世代の高等教育進学率は約6パーセント。そこで,大まかな計算ではあるが,つぎのように試算をしてみよう。1916−20年生まれの高等教育卒業者とそうでない者との子供数が同じとし,高等教育卒業者の子供がすべて高等教育に進学したと仮定すると,団塊世代の大学進学率22パーセントのうち6パーセント,つまり大学生の27パーセントは,親が高等教育卒業者ということになる。そして,73パーセントの大学生は,親が高等教育を経ていない高等教育一世になる。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.208-209

学歴上昇感

 1960年代半ばころから,大卒者の人生行路は,しだいにただのサラリーマンになりはじめていたのだが,まだ特権的な「学卒」という言葉もあった。大学生にとっての教養知識人の物語と大学生の実人生に距離が広がりはじめていたが,亀裂にまではいかなかった。そして,このころの大学生の保護者の学歴は義務教育か,せいぜい中等教育程度である。ほとんどの大学生の親は高等教育を経験していない。大学に進学すればそれだけで大きな上昇感を抱くことになった。そうした上昇感がそれ(学歴上昇感)に見合った身分文化への接近を促す動機づけになった。大学生の身分文化こそ教養主義だったのである。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.203-204

教養主義の再生産

 フランスやドイツ,イギリスなどでは,人文教育を受けた者がエリート中等教育学校であるリセ(フランス),ギムナジウム(ドイツ),パブリック・スクール(イギリス)の教師になり,教養と教養信仰を再生産したが,日本の教養主義も文学部卒業生が旧制中学校や高等女学校,旧制高校の教師になることによって伝達された。旧制中学校や女学校などの教師は,高等師範学校や師範学校,私立大学,専門学校出身の教師が多かったが,旧制高等学校になると,教師の半数以上は帝国大学出身の文学士だった。文学部卒の教師によって感化された学生が旧制高校や文学部に進学し,その後教職について,教養主義を再生産するという循環も成り立っていた。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.96

文学部の比率

 しかし,文学部生の学生全体に占める割合はそれほど多くはなかった。戦前の帝国大学で文学部があったのは,東京帝大と京都帝大だけである。東北帝大と九州帝大においては法文学部として存在しただけである。しかも,学生数全体に占める文学部生の割合も少なかった。東大の場合は,1918(大正7)年までの文科大学卒業生数2061人。法科大学卒業生(7557人)の3分の1にも満たない。東大全体(1万9200人)の11パーセント弱である。同じことは京大についてのいえる。文学部生の割合は京大卒業生の8パーセント弱にすぎなかった。
 私立では,文学部は,早くから東京専門学校(早稲田大学),哲学館(東洋大学),國學院などにあったが,そこでも法,商,政治,経済などの社会科学系が圧倒した。文学部系学生の割合は少なかった。1918年(大正7)年の私立専門学校在学生の専攻割合は,63パーセントが法律・政治・経済などの社会科学系である。文学系の在学生は8パーセントにすぎなかった。
 戦後,新制国立大学の創設や私立大学の創設,新設学部の設置があいついだ。とくに1960−75年の高等教育の拡大は目覚ましかった。このころもっとも設置数が多かったのは文学部である。それは,女子の高等教育進学率の増大による受け皿になったことや文学部の設置基準が他の学部に比して緩い基準だったことによる。しかし,文学部の設置は,新設大学や単科大学,女子大学に多かった。小規模大学に新設されることが多かったのである。だから,大学生全体に占める文学部生のシェアはそれほど伸びたわけではない。1965年でみると,4年制大学生数全体(約90万人)の10パーセント程度のものだった。しかし,学生数全体に占める割合がそれほど大きくなくても,いや大きくなかったからこそ,文学部はアカデミズムや教養主義の奥の院だった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.88-89

大学生の革新政党支持

 当時の大学生の革新政党支持は,京都大学に限らなかった。1952(昭和27)年に,慶応義塾大学政治学会で「今回の選挙で何党に投票したか」という調査をおこなっている。2年生でみると,自由党25パーセント,改進党6パーセント,右派社会党19パーセント,左派社会党16パーセント,共産党5パーセント。革新系が40パーセントであるときに,保守系は31パーセントにすぎない(『三田新聞』1952年10月10日号)。
 だから,大卒を採用する企業は,いまからみれば過剰なほど赤化学生を警戒した。1950年代の入社試験問題には,「社会主義とわたしの立場」とか「イールズ声明(左傾教授学外追放に関する声明)について所見を述べよ」「吉田首相はキョウサンシュギ国に対しどんな考えをもっているか,あなたはどんな考えをもっているか」「対日講和と安全保障について論ぜよ」というような論文試験問題が出題されている。これは知識をためす試験ではない。いわんや思考力をみる試験でもない。試験という名のもとにおこなわれる思想調査である。このような就職試験がおこなわれたことは,さきに触れた当時の大学キャンパス文化からして企業が赤化学生をいかに恐れ,避けたいとおもったかの現れである。1955(昭和30)年の就職ガイドブックのなかで食料品関係の有名企業は採用方針をつぎのように書いている。「思想関係と同時に健康を重視し,入社直前にも身体検査を行なう。学問の基礎をしっかり身に着けた学生が好感を持たれ,いわゆるアプレ的な性格の持主は歓迎されない。むしろ地味な感じのする学生の方がよい」(『大学篇就職準備事典 昭和31年版』)。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.68-69

学生運動の温床

 専門学校や大学は,専門教育機関である。就職を控えている場所である。それに対して,高等学校は,大学までのモラトリアム期の学校だった。モラトリアム期間は,学生運動の温床になりやすい。第二次大戦後の新制大学で,学生運動が1−2年生の教養課程で活発で,専門課程に進学すると一部の学生しか関与しなくなり,沈静化したように。
 しかし,左傾活動が高等学校を中心としたものであったことをモラトリアム空間・時間のせいだけにはできない。せいぜいが必要条件である。ほかならぬ左傾活動への水路づけを説明したことにはならない。マルクス主義を呼び込む文化的条件が必要である。旧制高校のそれまでの教養主義が呼び水になったのである。
 マルクス主義が知的青年を魅了したのは,明治以来,日本の知識人がドイツの学問を崇拝してきたことが背後にあった。しかしそれだけではない。マルクス主義は,ドイツの哲学とフランスの政治思想,イギリスの経済学を統合した社会科学だといわれた。合理主義と実証主義を止揚した最新科学だとみなされた。したがって,マルクス主義は,教養主義にコミットメントした高校生に受容されやすかった。受容されやすかったというよりも,マルクス主義は教養主義の上級編とみられさえしたのである。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.50

教員かマスコミ

 就職は,マスコミを第一志望としていたが,難しいから,一般企業も探さなければならなかった。しかし,当時,教育学部や文学部の学生に受験機会をあたえる大企業はほとんどなかった。あたりまえのように指定学部制がとられていたのである。教育学部や文学部は教員になるか,あるいはマスコミなどに就職するものであって,企業に就職するなど世間の人も当の学生もほとんど考えていなかった。大学の学部は進路と重なっていたのである。そのせいだろう,わたしが入学したころの教育学部や文学部は,法学部や経済学部と比べれば格段に入学しやすかった。卒業すれば就職難が待っているのだから当然だろう。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.20-21

入試科目へ

 国体明徴の言説は論壇や出版界だけでなく,入学試験にまでおよんできた。昭和9年に官立高等商業学校校長会議は,「入学試験ニ際シテハ試験科目中ニ『国史』を加フルコト」を決定し,翌年から,官立公立高等商業学校で国史が入試科目になる。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.183

誠実だからこそ

 中西は話に熱中すると,吸いかけていた煙草をよく消さないで洋服のポケットに入れて,ポケットから煙が出てしまうというほどのいわゆる「アブセント・マインデッド・プロフェッサー」(考え事に熱中して他のことをすっかり放念する教授の意)の典型だった。学問が好きな愛すべき誠実な教授だったが,とても気が弱いハムレット教授だった。ハムレットだからこそ,ひとつの派閥で筋をとおせなかったのである。慢性派閥病の経済学部の中で苦悩し,階段でたたずんでいたことも一再ならずの逸話が残っている。
 そういえば昭和40年代の全共闘運動がキャンパスを席巻したときに,中西教授のような誠実なハムレット教授がよくいた。全共闘運動が勇ましいときには,全共闘運動シンパとなり,落ち目になると秩序派に変わった教官である。たしかに,あとになってそうした教授の動きだけをみると,機会主義者のようではあるが,当人の主観世界に寄りそってみれば,事情はまったく反対であった。かれらはきわめて「誠実」な教授だったから,そのときの空気に正義を感じてしまう。空気が変われば,新しい空気に馳せ参じなければいけないとおもう。誠実であればこそ状況に振り回されてしまうのである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.180-181

みな仲間外れはイヤ

 こうしたキャンパス文化のもとでは,マルクスやレーニンを知らないのは言語道断。いくらかでも異論を唱えればバカ者扱いされた。戦後の大学に昭和初期のキャンパス文化が再現されたのである。だから,保守派教授は,学識いかんを問わず,無能で陋劣な教授にみられがちだったし,左派に同情的な教授はそれだけで話のわかる良心的教授だった。左翼に媚びているとおもわれる教授も少なくなかった。いまとなってみれば,「仲間はずれになるのがいやだった」のは学生だけではない。教授たちも同じ圧力にさらされていたのである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.144-145

多数に流れる

 そして,杉森は当時の高等学校の左傾的雰囲気に追随した自らの心理をつぎのように分析している。こうした雰囲気では,共産主義に疑問を感じていた者でも,激しい嘲笑と罵倒をおそれて沈黙せざるをえなかった。左翼の英雄気取りの指導者に違和感と疑問を覚えながらも,正義を御旗にしたかれらに反抗することは,「時代を理解しない頑固者」というレッテルを貼られることになる。革命がくるにちがいないとおもったことはたしかだが,他方では「仲間はずれになるのがいやだったのだと思う」と。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.142

派閥の温床

 大学教授の仕事は研究室や教室という独立王国の中でおこなわれる。日常的コミュニケーションの必要と機会が少ない。にもかかわらず人事は選挙だからたえず同僚間の票読みをしなければならない。自分にかかわる人事であれば,票固めもしなければならない。誰が賛成したか,白票を投じたかは無記名投票だからわからない。疑心暗鬼が生まれやすい。陰謀(集団)の存在も「妄」築されやすい。
 学者という,いささか偏屈な,ということは思い込みの強いキャラクターとあいまって,大学は派閥菌繁殖の温床なのである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.125

私語の問題と連動するのは

 学生の私語が問題となったのは,たしかに大学の大衆化と消費社会がはじまる時代だったが,複写機の普及があり筆記学問がなくなり,他方で,休講をよくないことだとしはじめた時代——多くの大学で休講の理由を掲示板に記載するようになり,休講をした場合は補講をしなければならなくなった時代——と対応していることに着目したいものである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.50

私語が少なかった理由

 私語のない(少ない)秘密が大学の講義がいまよりも魅力があったからではないことは,これまでみてきたとおりである。それでも昔の大学教授が私語に悩まされなかったのは,高等教育進学率が同年齢のせいぜい数パーセント以内という超エリート高等教育の時代だったことや,勤勉や忍耐が美徳であった時代背景によるものであろう。しかし,理由はそれだけではないだろう。なにか仕掛けがあったはずだ。案外,休講の多いことが退屈な授業の緩衝材になっていたのではないだろうか。
 私にもおぼえがあるからである。よく休講する教官がいたが,また来週休講かとおもえば,せめて,開講されているときはしっかり聴いてノートをとっておこうという気になったからだ。
 しかし,昔の大学に私語が少なかったもっと大きな理由は,日本の大学の授業形態が,教授が教壇でいうことをひらすらノートに筆記する「口授筆記」だったからだろう。
 こういう講義形態や学問伝達については,学生を「筆耕生」や「タイプライター」「筆記労働者」に対する「講義筆記」や「筆記学問」と呼ばれ,批判されていた。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.47-48

当然の開講の遅れ

 そもそも,学生便覧に書いてある授業開始日よりも実際の開講日が1週間程度遅れるのは,ヨーロッパの大学の慣習にしたがったのだという説もある。アカデミック・カレンダーのDates of Termと実際に講義のあるDates of Full Termのちがいで,両者のズレの期間は教官と学生が講義と受講のための気構えをふくめた準備の期間なのだという説(小野山節「教官の開講日と授業開始日のズレ」『京大広報』557号,平成13年)である。しかし,私の京都大学の経験では,第1回目が休講になるどころか,2回目からはじまる授業もまれだった。4月終わりから,なかには5月はじめに第1回目がはじまる授業さえあった。
 これは京都大学だけの傾向だけではなく,東京大学でもそうだったようだ。敗戦後の女子東大生のパイオニアであった影山裕子(昭和29年東大経済学部卒,もと日本電電公社本社経営調査室調査役)は,入学して教授の休講が多いのでびっくりした。「1年を平均すると,3分の1は休講だったように思う。休講でない時も,30分遅く来て20分早く切り上げて帰る」,と当時の休講模様について書いている(『わが道を行く』)。
 だから学生は開講日の掲示をよくみる必要があった。京都大学の新学期の掲示が開講日方式でなくなった時期は,学部によってちがったようである。私の学んだ教育学部では,昭和60年に私が教官として赴任してきたときにも開講日を掲示する方式だった。私立大学講師から転任してきた私には開講日方式の告示に奇異な感じがしたことを覚えている。京都大学教育学部で開講日方式がなくなったのは平成に入ってからだったとおもう。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.45-46

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