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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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二文字学部

 ところで,この時代の大学関係者は,経世済民からとった経済という言葉に馴染みはあったにしても,「法」科大学や「農」科大学で一文字学部名称に慣れていたから,「経済」学部という二文字学部名称をやや奇異におもったかもしれない。軽いイメージももったかもしれない。
 第二次世界大戦後は「社会」学部や「教育」学部など二文字学部は自然になる。「政治経済」学部や「獣医畜産」学部のような四文字学部も多くなってくる。それでもいまから20年ほど前,四文字学部は全体(四年制大学)の2%にすぎなかった。当時は五文字学部がひとつあっただけ(「人文社会科」学部)。
 ところがいまでは,四文字学部どころか,「国際文化交流」学部や「情報社会政策」学部のような六文字学部もある。「ソフトウェア情報」学部のように,カタカナと漢字が混じり,相当長い学部名もある。四文字以上とカタカナ混じり学部は四年制大学全体の17%(平成11年)も占めるにいたっている。いまや二文字学部は「奇異」や「軽い」とおもわれるどころか,伝統的あるいは守旧的な学部名称になってしまった。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.38-39
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教育の立ち遅れ

 しかし一方,中国の教育制度はこの頃の欧米に比べていちじるしく立ち遅れていることは議論の余地がなかった。中国の教育制度は今から千年ほども前の宋代を頂点とし,以後はだんだん下り坂となって,衰退の一路を辿るのみであった。明清時代になって,中央に太学,地方の府県に国立学校が設けられたが,有名無実でなんら実質的な教育を行なわなかった。教育を民間に任せ放しの実情であったので,次第に時代おくれのものになり,社会の進歩に取り残されてしまった。
 その民間の教育をともかくも継続させたのは科挙が存在するからであるが,この科挙が本当に役に立つ人材を抜擢するには不十分であることは,中国でも古くから指摘されていた。経学のまる暗記や,詩や文章がいったい実際の政治にどれだけ役立つであろうか。それは単に古典的な教養をためすだけにすぎない。官吏として最も大切な人物や品行は,科挙の網ではすくいあげることができない,というのが古来の科挙反対論であった。
 しかしそれならどうすればよいかという段になると,他に適当な方法が見つからない。科挙は昔から行なわれてきたもので,科挙の及第者の中から立派な人物も多く出ているから,これでいいではないかという常識的な現状維持論が勝利を占めるのである。そして中国が東亜における唯一の強国として羽振りをきかしていた間はまだそれでもよかった。
 ところがヨーロッパに産業革命以後の新文化が起こり,その圧力が遠く東亜に波及してくると,もう安閑としてはおれなくなった。新しい世界情勢に対応するには新しい知識,新しい技術の習得が必要である。この形成を見てとっていち早くそれに順応し,成功したのは東亜諸国の中では日本である。維新政府は1872年,学制を発布し,次々に学校をたてて欧米にのっとった新教育を始めた。以後の急速な日本の発展はこの新教育制度に負うこと多大である。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.203-204

教育抜きの制度

 科挙の特徴は,何よりもそれが教育を抜きにした官吏登用試験であるという点にある。歴代の王朝は金のかかる教育をすっかり民間に委譲して,民間で自然に育成された有為の人物を,ただ試験を行なうだけで政府の役に立てようというのである。これははなはだ虫のいいやり方であるが,試験の精神そのものには異議を挟む余地はなく,また試験制度そのものは長い時間の経験を経て世界に類の無いほど完備した外形をとるようになっている。
 官吏を採用するに試験を行なうということは,ヨーロッパなどではつい最近まで考えられなかったことである。そこには封建的な風習が長く根強く残っており,官吏は家柄によって採用されたり,あるいはもっと原始的な売官制度が行なわれ,官吏の地位を落札で行なうようなことが長く続いていた。民主主義の最も進んだイギリスにおいて官吏任用に試験を用いるに至ったのは,1870年以後のことであり,アメリカはさらにおくれて1883年のことであった。以後各国がみなこれに倣ったが,実はかかる官吏登用試験制度の開始は中国の科挙の影響を受けたのだという見方が有力である。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.203

試験の限界

 どうも試験というものには,その効果に一定の限界があるらしい。あまりに競争が激しくなってくると,もう厳密に答案の出来不出来の差等をつけることができなくなり,合格してもまぐれあたり,落ちるのは不運ということになって,そこに不正のつけこむ隙もでてくるのである。しかしながら,ほかに適当な方法がないとすれば,できるだけこれを公正に行なうように努力しながら守りたてて行くよりほかに道はない。中国歴代の政府は,少なくも天子自身はあくまで試験の公正を守り通したかったのである。そして世間の方でもとやかく非難しながらも,科挙に多大の関心を示し,社交界第一の話題に取りあげたのは,天子の公正な態度に一縷の期待を寄せていたためにほかならないのである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.197-198

教育は金がかかる

 このように学校制度がせっかく設けられながら,科挙制度を圧倒して完全にこれに代わることができなかったのは,何といっても経済的な事情からであろう。教育は,元来,金のかかるものなのである。南宋に入ると,太学は規模の点では北宗に比べてずっと縮小されている。政府はえてして教育のような,すぐ目前に効果の現れない仕事には金を出したがらないものである。
 以後,中国の歴史は教育に関しては,時代の進展に対して逆方向をとった。明清時代には,中央には太学,地方には府学,県学があったが,それは名ばかりで実際の教育を行なわなかった。学校制度はかえって科挙制度の中に組み込まれてしまい,学校試は科挙の予備試験として利用されるのが実情であった。だから実際には,学校がなくなって科挙だけに還元されてしまったといっていい。科挙も金がかからぬことはないが,学校教育に比べるとずっと安くつく。非常にイージー・ゴーイングな政治が,せっかく北宗時代に芽ばえた学校教育制度をおしつぶしてしまったのである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.190

大盤振る舞い

 科試の成績は歳試と同じように6等に分かち,1,2等の優等生は問題なく郷試に赴く資格を与える。もっともこの資格はただ1回かぎりのものである。第3等は上位の5名ないしは10名だけ郷試に応ずる資格を与えるが,それ以下は不合格である。しかし郷試の直前に,学政がもう1度彼らを集めて補欠試験を行ない,各府ごとに前の合格者とほぼ同数の者を通過させる。ただしこれは試験場の収容可能人員をにらみ合わせた上である。
 郷試に赴く資格を認められた生員を挙子という。挙子の数は,郷試に合格を予定された定員1名につき,その54倍ないしは88倍と定められているが,もし試験場に余裕があればさらに挙子をふやすことができる。これを大収,大盤ぶるまいと称した。結局合格者1人につきおよそ100倍の挙子が郷試に赴くことになるのが常である。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.56

学校と科挙

 学校制度と科挙制度とはがんらい異なった性質をもつものであって,これを混同してはならない。学校は生徒を教育する機関であり,そのために教官が配属されているのであるが,本来,学校に長い間在学し,何度も学力試験をうけると,その優秀な者は学校を出て直ちに官吏になる試験を行なって官吏の資格を与える制度であった。そしてその試験官には臨時に任命された委員がなったのである。
 しかるに後世この両者が混同され,官吏となるには科挙によるのが最も早道であり,科挙を受けるためには学校の生員でなければならぬから,ただ科挙の前段階として学校へ入る入学試験を受けるようになってきたのである。しかもその希望者が多いので,政府はこの入学試験を何段階にも分けてふるい落とさざるを得なかった。こうして入学試験がだんだんむつかしくなると,それがあたかも科挙の予備試験のようになってしまった。
 しかし本来の制度は制度としてそのまま続いてきているのである。そして学校の教育的立場から実施する歳試という学力試験があるが,これこそ学校試の本体であったのだが,それが選抜試験でなく,単なる学力試験であるために,段々とその存在が無視されることになったのである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.46-47

不当な行為集

 院試は入試最後の本試験なので,最も厳格に実施されねばならぬとされている。多数の童生を一緒に集めるため,互いに静粛を保たせ,また不正行為を防止しなければならない。そのために学政は十個の異なった印を用意し,童生に不当な行為ありと認めた時は,直ちにその場にきて答案紙の上にその内容に応じてそれぞれの印を押すのである。十個の印とは,
<移席> 自己の席を離れること。童生は1回かぎり,飲茶及び出恭(小用)のために座席を離れることを許されるが,その時には答案用紙を係員のもとに提出しておき,用が終わった後に受領して書き続ける規定になっている。しかし童生はその手続きがめんどうである上に時間も惜しいので,多くは不浄壺を持ちこんで座席の下において用を足すという。もし無断で座席を離れたときには,直ちに係員が来て,答案の書きかけのところへこの印をおす。
<換巻>両人が互いに答案紙をとりかえること。あらかじめ共謀し,学力ある者を頼んで代作してもらおうとしたのではないかとの嫌疑がかかる。
<丟紙>答案紙,または草稿紙を地面におとすことはそもそも不謹慎な行為である上に,常に換巻の機会をつくることが多い。
<説話>話しあい。
<顧盼>四方八方を見まわして他人の答案をのぞきこむこと。
<攙越>他人の空席を見つけて割り込むこと。
<抗拒>係員の指図にしたがわないで反抗すること。
<犯規>答案作成上におかした規則違犯。
<吟哦>口の中でぶつぶついうこと。特に詩を作る時に韻をととのえるためにやることが多いが,これは他の童生の迷惑になることおびただしい。
<不完>日没になっても答案が未完成の場合は,その最後のところへこの印をおす。いつのまにか,誰かが書きたしておかぬともかぎらないからである。
 答案の上にこのような印が1つでもおされたからといって必ずしも直ぐ不正が行われた証拠とはならないが,試験官の心象を害すること多大であり,まず落第は免れない。ほかにいくらでも優秀な答案が出ているからである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.38-39

学政

 清代,中国本部の各省には最高行政官たる総督と巡撫がおかれていたが,なおこの外に学政なる高官が任命されていたことを忘れてはならない。学政とは提督学政の略で,また提学ともよばれていた。これは教育行政長官の意味である。
 教育は原理としては最も重要視され,教育行政は他の行政と切り離してこの学政の手中に委ねられていた。学政の官位は概して総督,巡撫よりも低い者が任ぜられるが,彼は決して総督,巡部の属官ではなく,これと対等の権限を有する。というのは,学政は3年の任期を定めて天子から直接,各省に赴任せしめられたもので,総督,巡撫が天子に直属するのと同じように学政も天子に直属するからである。もし総督,巡撫の行為が不適当だと思えば,これを天子に対して弾劾することもできる。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.35

昔のハーバード

 ところで,ハーヴァード大学といっても,当時は今のように制度化されておらず,そもそも入学試験すらなかった。入学以前の学歴も問われず,ある少年が18歳になっていて,指導を受けたいと思う教授の許可を得られれば入学することができた。在籍期間もさまざまで,18か月から30か月というのが普通であった。学位も,学生の準備が十分であると教授が認めれば,試験を受けて取得することができた。共通のカリキュラムもなく,ただ指導教授の指導を受けるだけであった。その後,1869年にジェームズの最初の師であるエリオットがハーヴァード大学の学長になり,カリキュラムを整備し,入試制度を作ったのである。自由選択科目を導入するなどしたエリオットは,学生から古典を奪った「今世紀最大の教育上の犯罪者」とまで呼ばれるほどの改革を行なった。彼は「伝統的なカレッジの在り方に根本的な変革を加え」,その影響は他のカレッジにまで及んだ(潮木, 1993)。後にジェームズは,エリオットに招聘されてハーヴァードで生理学を教えるようになるが,それはエリオットが導入した選択科目としてであった。

藤波尚美 (2009). ウィリアム・ジェームズと心理学:現代心理学の源流 勁草書房 pp.13

ゴーマン・レポート

 「ゴーマン・レポート」とは,カリフォルニア州立大学元教授,J.ゴーマン氏が作った大学ランキングのことである。最新の1998年版ではアメリカを除く総合ランキングで東京大は48位,法学分野で38位とある。しかし,その根拠がさっぱりわからない。教員や学生の質,財務状態,図書館の質などに基づくランキングと著者は記すが,評価基準や得点の算出方法が明示されていない。なんら合理性がなく,トンデモ本と断言していい。
 だが,情けないことに「ゴーマン・レポート」は国からも信頼され,日本の「産業育成」「教育重点化」の格好の資料となっている。東大48位について,経済産業省は自ら作成した「今後の技術革新新システムの重要課題」(04年)で引用し,文部科学省も国会の質疑で「謙虚にそういう点は受けとめる必要がある」と答えている(03年)。
 外国からの評価ならばトンデモ本まで気にしてしまう,日本の悪いクセである。

小林哲夫 (2007). ニッポンの大学 講談社 p.17

なんでもクリエイター

 デザイン専門学校が学生にアピールしているキーワードは,やはり「デザイナー」「クリエイター」である。そしてここ十年くらいは「クリエイター」が大人気である。「クリエイター志望集まれ」「技術とセンスを伴ったクリエイターの時代」「将来を担うクリエイター集団の育成」……。学校によっては,ビジュアルデザイナーをビジュアルクリエイター,インテリアデザイナーをインテリアクリエイター,ウェブデザイナーをウェブクリエイターと,何でもかんでもクリエイターをつけて,言葉のイメージに弱い若者のおびき寄せに必死である。アーティストはやはり天分がないとなれないと,みんな思っている。だいたいデッサンがこんな下手クソでは,アーティストなんて無理だろうと。それに,よほど好きで仕方ない人でない限り,食べていける見通しがほとんど立たないようなことに,今の若者は手出しをしない。まずそれで生活できるかどうかである。それを考えると,クリエイターという職業は彼らにとって魅力的に映るらしい。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.147-148

たどり着けない

 情報をプールする相互につながった知性と処理能力がこれからどうなるか,しっかり考えなければならなくなるのは,知識を処理する人間の能力がどんどん拡大することについて,また別の心配が突きつけられているためでもある。我々が知識を獲得する今の速さを単純に延長すれば,人間の能力は危機に向かうことになるらしい。現時点では,中等教育には6年ほどかかり,理系の学生が数理科学の先端がどうなっているかがわかりはじめるだけのものを身につけるまでには,さらに3年の大学教育が必要になる。自力で知識への貢献ができるようになるには,ふつうさらに2,3年はかかる。この教育の道筋は,もちろん,科学研究用に最適化されているわけではない。それは万人に合うようになっていなければならない。当然,人間の理解のいろいろな最先端の1つに達するまでには相当の時間と努力が必要だ。たいていの学生はとてもそこまでは達しない。知識が深まり,広がれば広がる分,先端に達するために必要な時間も長くなる。この状況は,専門化を進めることによって対処して,先端として目指される部分をどんどん狭くするか,教育訓練の時間を長くするか,いずれかによってのみ対処できる。いずれの選択肢も完全にそれで満足できるというものではない。専門化が進めば,この<宇宙>についての理解が分断される。予備訓練の期間が長くなれば,創造力があっても,成果のはっきりしない長い道のりに踏み出すのが遅れる人が多くなる。何と言っても,自分が研究者としてやっていけないということがわかる頃には,他の職業に移るには遅すぎるということもあるだろう。さらに深刻なのは,科学者として生きる最初の創造的な期間を,わかっていることを消化し,研究の先端にたどりつくために費やすことになるという可能性ではないか。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.182-183
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

岡本先生の苦言

 大学院倍増計画のひずみは本書の所々で指摘した。取材過程でも,20年前ならとうてい入学できない層が,博士課程に入ってしまっている例もしばしば耳にした。
 あるいは,広島大学大学院教育学研究科(発達臨床心理学)教授である岡本祐子氏のように,「……ちょっと広島大学の恥を申し上げるようですが,私達教員は院生を手とリ足とり論文を指導し,投稿論文の修正対照表までチェックしてやり,こちらが手とリ足とり学位を取らせてあげるというのが実情です。そういう意味で,私達は院生のレベルが非常に下がってきたということは実感しているわけです」という指摘もある。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.229

超平等主義社会

 学会で高く評価される論文を書いたり,学会賞をもらうような著書を刊行しても,それが直接的な経済的利益に結びつかないのが,通常の文系大学専任教員の世界なのである。理系の一部の教員のように,すごい発明,特許,産学共同研究などによって,儲かる(?)ことも文系ではまずない。教育的創意工夫があって,人気のゼミを運営していても,あるいは,まったく人気のないゼミとなっても,給与体系には影響はない。場合によっては,博士号や学術的単著(本)がなくて,学会や業界や社会での一般的評価が高いとは言い難い教員にもかかわらず(なので?),“長”と付く,(一応)管理職を喜々として拝命している人の話も耳にする。ビジネスの世界とは比べものにならないくらいの,“超平等主義社会”が賃金面で該当するのが現在の大学業界となっている。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.190-191

大学業界に向いているのは

 まとめると,大学業界に向いている性格は,人を蹴落としてまでえらくなりたくないという人である。「教授以上の職階はない」と見なしてもかまわないし,学部長や「◯◯長」という役職は,同業者によって「すごい」とか「立派」とか必ずしも思われないのである。人によっては,教授になるのすら,雑務が増えて嫌う者もいよう。
 ヘタに教授に昇格してしまったり,「◯◯長」の付く役職に奉られると,むしろ,「大変やな」とか「ようやるな」とか,同情されるかもしれない。それよりも学会や社会での活動に精を出していたり,優れた研究をまとめたりするほうが高く評価される場合も多々あるのである。この点が,民間企業や官公庁などと著しく異なる。弘兼憲史のマンガ『島耕作』のように,係長→課長→部長→取締役→常務→専務→頂点の社長と“出世”しなくても,給与体系にすごく大きな差がつくわけでもなく,大学内ではまったく問題ない。それが大学教授の世界なのである。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.180-181

40人と知り合え

 良いコネがあるほど将来的には就活に有利になる。これは洋の東西を問わない。実際,アメリカの大学就活ハンドブックによると,ほとんどの分野には100名程度の有力研究者がいて,その100名とコネを作ることを積極的に勧めている。それら100名とは,専門的な本を書いたことがあり,(IFの高い,著名な)学術論文を出版している,学会(学界)活動を活発にやっている研究者だとされている。 
 分野にもよるだろうが,この教えは,日本の大学業界にも当てはまる。100名がムリなら,アメリカと日本の人口比からしても40名程度の有力者と懇意にしていると,大学業界の中で将来が開けよう。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.110

単独執筆

 要するに,「一国一城の主」的色彩の濃い,文系大学教員の研究業績評価はなんといっても,「論文・本・報告書などがどのくらい書けるか」ということにある。そこでは理系と違って,共同執筆よりも単著とか単独での研究が圧倒的に多い。そのために,大学教員になっても,(必ずしも学術論文だけでなくても)自分の研究成果を単独でまとめられるという能力を示せれば,ポイントはグンと高まるのだ。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.81-82

大学採用人事

 一般化すると,大学採用人事は,学部卒採用人事と正反対である。すなわち,民間企業などでの新卒一括採用方式は,学部生の潜在力に注目して,採用後の社内研修やオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)により,社風や職種に合う人材を,ある程度の期間をかけて育成していくというものである。それに対して,大学業界では,新卒にまったくこだわらない(むしろ新規の大学院修了者や博士号取得者は就活で不利になる!)反面,「即戦力」になる人材が求められる。たとえば,定年65歳の大学で「教授職」で新しい採用人事をする場合,年齢も35〜60歳くらいまでの幅での採用が可能となる。そのことが就職に有利に働く場合と不利になる場合があろう。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.43

自慢話はきつい

 その一方で,採用する大学側が教職歴にこだわる理由はわからないでもない。僕自身,大学教授に転身してから思うことだが,授業というのは説明の上手い下手だけで判断できるものではない。また,どれだけ貴重な経験をした実務家でも,経験だけで1学期の授業15コマをもたせることは非常に難しい。1コマ=90分の間,サラリーマン時代の自慢話を聞かされる学生も辛い。

中野雅至 (2011). 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記:大学教授公募の裏側 光文社 pp.176

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