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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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心理主義授業

 心理主義というのは,「あなたらしさは何?」「やりたいことは何?」と,いわゆる自分探しに重きをおくタイプだ。大企業に就職すれば,誰もが幸せというわけではない。だから,1人ひとりの「価値観」にあった企業選びが大事だというわけである。
 VPI職業興味検査をはじめとする心理検査の結果を使い,学生個人と特定の職業を結びつけてみせたりする。VPI職業興味検査はハローワークでも用いるごく一般的な就職支援の手法だが,就職が目前に迫っているわけでもない大学定額年次にこれをやらせる。マインドマップを作らせたり,独自に編み出した心理テストを用いる人もいる。
 小ネタで使うぶんには構わないが,それらを中心に据えてくるから困りものだ。
 検査がはじきだした個々の価値観に基づいて進路を選べたらあなたは幸せですよね,というスタンスで授業を進める。これはその「価値観」の中に職業選択の正解があるという前提にしている点でヘンなのだ。
 大学生はまだ自分の外側の社会をほとんど知らない。その段階であたかも算術のように出た心理検査の結果を「正解」かのように伝えてしまうと,ますます自分の内側ばかりを見たがり,これから知るべき外の世界に目を向けなくなる。
 本物の心理学者や臨床心理士だったら,そんな危ういことを決してしない。

沢田健太 (2011). 大学キャリアセンターのぶっちゃけ話:知的現場主義の就職活動 ソフトバンク クリエイティブ pp.42
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キャリア教育の現状

 結局どこの大学でも,心理学,経済学,経営学といった隣接領域の教員を拝み倒したり,キャリアセンターの者が職員教員のような形で授業を受け持ったり。そして,それでも絶対的に教員数は足りず,相当数のコマを先述の「業者」の関係者とか,ブランド企業をリタイアした人事経験者とかに任せることになった。
 隣接領域の教員担当の場合には,単にキャリア教育の名がついた各専門の授業になりがちだ。元人事や元エリートビジネスマンの授業は。「社員時代の自慢話や偉そうな説教ばかり」と学生の不満が噴出しがちである。挙句の果てには,学生から「これが大学教育ですか?」と心配までされる始末である。
 私からすれば,まあ,どちらも予想できた話で,学生には「単位を落とさない程度に,適当にね」と小声でアドバイスするしかない。

沢田健太 (2011). 大学キャリアセンターのぶっちゃけ話:知的現場主義の就職活動 ソフトバンク クリエイティブ pp.40

キャリアセンター職員がすること

 現に“やる気のある”キャリアセンター職員が,やっていることの基本形はこうだ。
 ここにひとつの求人がある。この求人はキミに合うよと学生を呼び出す。提出書類の作成を手伝い,面接のシミュレーションを行い,ムリヤリにでも受けさせる。内定ゲットまでひたすら伴走する。
 そんなベタベタの就職支援も,私は一部あっていいと思っている。
 大学としては就職実績となり,学生はフリーターにならずに済む。合理的な支援だ。
 ただし,就職支援の現場でそうするするとうまくいくケースなんてたいしてない。就職活動期に支援できることは限られている。本人次第である部分が大きい。
 だから低学年時のキャリア教育に力を入れましょう,となる。
 そして,呪文のように繰り返す。

沢田健太 (2011). 大学キャリアセンターのぶっちゃけ話:知的現場主義の就職活動 ソフトバンク クリエイティブ pp.33-34

自分らしさの強要

 ここまで見てきたように,若者が仕事に「やりたいこと」「自分らしさ」を求めるというのは,若者の勝手な思い込みとは言えないものだ。社会全体が若者に「やりたいこと」「自分らしさ」を求める構造になっている。
 このような世界において若者が3年で辞めるのは,決して仕事がつらいという理由からではないのだ。やってみた仕事が「やりたいこと」ではなかった,もしくは「自分らしさ」が出ないと思うから若者はすぐに会社を辞めるようになったのだ。それは甘えではなく,価値観の変化だ。
 まじめに親や教師の言うことを聞いて実践しようという若者ほど,「自分らしさ」や「ほんとうの自分」について考えさせられることを余儀なくされ,社会から逸脱せざるを得ないのが現代なのだ。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.132

就職活動が旅になってしまう

 前出の久木元は,若者たちの「やりたいこと」が見つからない理由にも触れている。
 若者にとっての「やりたいこと」というものは,社会経験や他人とのコミュニケーションの中から見出していくものではなく,「本人の内部にのみ存在し,本人だけが発見しうる」ものだからなのだという。
 これはどういうことなのだろうか。通常,学校が学生に就職の手助けをする際に行うことは,学校に来ている求人票を提示したり,OBを紹介したりといったものだろう。学校と企業の間で一定数の人員を送り込む「斡旋」も,今は数は激減したが,なくなったわけではない(これは主に高校の場合)。しかし,現代の若者にとっての「やりたいこと」は,就職課に張り出された求人票の中から選び取るものではなく,自分の内面から発見するものなのだという意識が強く存在するのだ。
 つまり,この論に従えば,就職活動=自分の内面を知る旅=「自分探しの旅」ということになってしまう。それでは「やりたいこと」を見つけることは,非常に困難な作業となり,ますます仕事から遠ざかってしまうのである。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.114-115

目的さえあれば

 しかし,世間のフリーターが増えることを快く思っていない層との最大の食い違いは,この辺にある。快く思わない人たちは,学校を卒業しても就職しない若者たちに対して違和感を持っているが,実際にフリーターになっている若者たちは,「目的」さえあればいいと考えているのだ。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.111-112

革命的リーダーは

 いろいろな経営者の自叙伝を読むと,人格的に優れており「なるほど,この人のもとで働きたい」と思うようなすばらしい人物像が描かれているが,はっきり言ってそのほとんどは,編集者とライターと広報担当者が合作した「虚像」にすぎない。
 実際のところ革命的なことを成し遂げるリーダーの多くは,ある種の人格破綻者であるか,あるいは新興宗教の教祖のような自己愛の塊である。そして,そうした強烈なリーダーが率いるからこそ,組織は成功するのである。

瀧本哲史 (2011). 僕は君たちに武器を配りたい 講談社 pp.203

狂気の人

 学校では「みんなの上に立つ人はすばらしい人」と習うが,現実の歴史では,そういう「すばらしい人」が,人の上に立ってなにか大きなことをなしたことはほとんどない。
 日本人の多くは,謙虚ですばらしい人格を持ったリーダーを好むが,そういう人は実際にはリーダーにはなれないのである。歴史に名を残すレベルの企業を作ったようなリーダーというのは,みなある種の「狂気の人」であることが多いのだ。

瀧本哲史 (2011). 僕は君たちに武器を配りたい 講談社 pp.197

「自由にしろ」

 先日,私は地元の小学生のサッカーの試合を眺めていた。コーチは,グラウンドの外から子供達に向かって「早めにパスしろ」「右に動け」等,ずっと大声で叫んでいる。大人から細かく指示が出てきて,それに従わないと怒られるのだから,試合をやっている子供達も,自分で考えようとする意識がなくなってくる。
 ところが,試合の最後の方で,コーチは子供達に「もういい。お前達の自由にしろ。自分で考えて何とかしろ」と怒鳴った。「自由にしろ」と言われても,子供達は「自分達が何をしたいのか」とは考えない。「コーチが自分達に何をさせたいのか」ということを必死に考えている。その挙句,ますます自分の意志で動けなくなってしまう。「自分達で考えろ」「自由にしろ」と言いながら,いつまでたっても子供は自分の意志をもつようにはならない。サッカーに限らず,他のスポーツや習い事でも,大人が子供に接する態度に似たような傾向が見られる。

深田和範 (2010). マネジメント信仰が会社を滅ぼす 新潮社 pp.153

高校の評価=進学

 高校では,偏差値の高い難関校,特に国公立大学や一部の有名私大にどれだけの合格者を出すかが,進路指導の最優先課題になっています。偏差値×合格者数という掛け算の考え方が優先され,生徒一人ひとりの希望がどのようにかなえられ,入学した大学での経験が生徒の未来にどのように結びつくかといった観点は,後回しにされてしまいがちです。「この大学にどうしても行きたい!」と本人が強く望んでいても,高校の先生がそれに反対する。本人の志望とは関係なしに,国公立大学の受験を促したり,AO入試に必要な書類を用意してくれなかったりする。これは私が,大学の入試担当者から聞いた実際の話です。その担当者は,「学校の先生に反対されていて……私,どうしたらいいんでしょうか」と半泣き顔で訴える高校生の姿を見て,高校の「進路指導」に憤りを覚えたとのことです。
 実のところ,高校教員の方々も非常に気の毒です。というのも高校関係者はいま,中学の教員や保護者から,「名門大学に,何人進学させたか」という軸だけで評価されているからです。そうでなければ,誰だって前述したような「指導」はしたくないでしょう。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.161-162

多忙な教員

 日本の高校教員はとにかく多忙です。それは,調査結果で「教員の時間不足」と回答した教員が62パーセントもいたことからもわかります。例えば都立校の教員は,冬休みの間に300通もの調査書を手書きで作成していたりします。進路指導に使える時間はかなり限られています。授業やその準備,生活指導,学校行事などイベントの準備・運営,そのほか多種多様な雑務に追われながら,毎年のように増え続ける大学情報のすべてを把握し,担当する高校生全員に対してアドバイスをしていく。これは,ほとんど不可能なのではないかと思います。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.153

AO入試推薦の敬遠

 AO入試や推薦入試が,高校の教員に敬遠される背景には,大きく以下のような理由があります。
 第1に,指導が面倒くさい,または指導できない。つまり,志望理由書の書き方やプレゼンの指導には手間がかかるし,そもそも指導できる教員が少ないという事情です。
 第2に,クラスの和(?)を乱す。つまり,早々と合格した生徒が,その後,進学に向けてがんばっているクラス全体の雰囲気を乱す。別の言い方をすれば,合格した生徒を,教員が勉強させられない。
 第3に,進学実績が増えない。つまり,一般入試なら複数校の合格を出してくれる生徒が,たった1〜2校で受験を終えてしまい,高校にとって損失になる。
 これらは,実際に高校の関係者からよく聞く話です。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.143-144

高校の合格実績を伸ばすため

 入試の変化に関連して,本質的な問題とは別に,関係者の予期しなかった問題も起こっています。AO入試や推薦入試を受験したくても受験できない,受験することを許されない高校生がいるのです。
 評定平均が足りないとか,大学が求める選択科目を履修していないとか,そういった,条件を満たしていない生徒のことではありません。むしろ逆。評定平均もバッチリで,模試などでも高得点をたたき出す。そんな成績優秀な生徒たち,高校で「特進コース」や「難関大学進学クラス」といったクラスに在籍している生徒たちです。
 学校によって事情はまったく異なるので一般化はできないのですが,こういった進学クラスの生徒に,AO入試や推薦入試(公募制,指定校制など)への出願を禁じる高校というのが,実は少なからず存在しているのです。
 特に指定校推薦枠への制限は顕著だと聞きます。あるいは,推薦への出願は認めつつ,「でもその代わり,必ずセンター試験を受けなさい」とか「一般試験も受けなさい」などと指導するケースです。
 理由は明らかで,高校の「合格実績」を伸ばすためです。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.142-143

機能していますか

 アメリカでは,学生を集める責任を負っているのはアドミッションズ・オフィスです。入学生の量と質を確保できなければ,それは彼らの責任です。
 一方,教員は,アドミッションズ・オフィスが集めた学生を預かるわけですから,入学させた学生が十分な成果を出せなければ,「せっかく全国から一流の学生を集めたのに,十分な教育成果が上げられていないじゃないか。教員は何をやっているのだ」と,アドミッションズ・オフィスから批判されます。お互いに,お互いの仕事を監視し合う体制です。
 もちろん,教員とアドミッションズ・オフィスは連携していて,「いま,こういう教育が必要になってきているから,今後はこうした意欲や能力のある学生を集めてほしい」とか,「最近の入学希望者には,こうした経験が不足してきているようだ。教育サイドで,こうした点を補ってくれないか」などのやりとりをしています。
 「あなたに合格を出すが,その代わり入学後にこの講義を履修し,一定以上の成績を修めることが条件です」という「条件付き入学」をアドミッションズ・オフィスが出すこともあります。ここからもわかるとおり,彼らは単なる入試事務の担当者ではなく,教育を扱うプロフェッショナルなのです。
 日本でもアメリカにならい,入試課の名称を「◯◯大学アドミッションズ・オフィス」などに変更する例が見られますが,ほとんどの大学では,実情は以前と変わらぬ「入学試験付帯業務実行課」です。
 そして責任の所在も,相変わらずあいまいです。受験生が集まらなかったという理由で責任を問われた入試課長や理事長を,私は知りません。また,入学した学生の学力を向上させられなかったという理由で,教務担当の責任者や教員がマイナス評価を受けたという話も,聞いたことがありません。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.127-128

アドミッションズ・オフィスの役割

 アメリカの大学のアドミッションズ・オフィスは,学生募集のすべてを扱う専門部署です。その大学のミッションに沿って,必要な学生を集める。これが彼らの任務です。
 どんな学生を,どういう戦略で,どのように集めるか。その計画から実施までをとりしきるプロフェッショナル・チームです。だから,志望者を試験で選抜するだけでなく,大学によっては全米を飛び回り,有望な学生をスカウトしてくる権限を持っているスタッフもいます。優秀な学生を集められなければ,責任を追及されるからです。
 大学の規模にもよりますが,アメリカの大学教員は,日本の教員ほど,学生募集にタッチしません。入試問題が必要になったときにそれを作ったり,面接を担当したりすることはありますが,基本的には「アドミッションズ・オフィスに依頼されたから,彼らの意図に応えられるような問題を作った」というスタンスです。
 アメリカの大学で「学生募集」と「教育」とが分業化されていることには,大きな意味があります。それぞれの業務に緊張感と責任を持たせるため,そして,それぞれの業務について高い水準の仕事をさせるためです。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.126-127

もう半分終わっている

 毎年1月,センター試験当日になると,テレビなどがその様子を報じます。会場からレポーターが「いよいよ受験シーズンがはじまります。受験生の皆さんにとっては,今日からが勝負です」といった型どおりのコメントを出します。
 しかし,これは真実ではありません。というのも,センター試験を迎える頃には,半数を超える生徒の進学先が決定しているからです。
 2010年度の大学入試の結果,私立大学に入学した学生のうち,一般入試で入学したのは48.1パーセント。なんと半分もいません。残りの内訳を見ると,付属高校からの内部進学や指定校推薦などを含む「推薦入試」での入学が40.9パーセント。そしてAO入試が10.5パーセントです。これに帰国子女試験での進学者などがわずかに加わります。
 国公立大学を含めても,一般入試での大学進学者は55.2パーセントに過ぎません。AO・推薦入試に挑戦した後,一般入試に取り組み,そちらで進学先を決める受験生もいますので,少なくとも受験生の半数近くは,何らかの形でAO・推薦入試を体験しているというのが実態です。
 この事実は,あまり一般に知られていません。ですから,高校生やその保護者の方々にご説明すると驚かれます。それどころかメディアの方でも,「受験は冬から」と思われている方が少なくないようです。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.124-125

過去の大学生とは違う

 「大学生にここまでする必要があるのか」と驚く方も多いかもしれませんが,それは現場を知らない,もしくは「ユニバーサル・アクセス時代」をまだ受け入れていない方の感想です。いまの大学生は,もうオトナがイメージするかつての「大学生」ではありません。
 単に教科試験の点数が低いという問題ではなく,学ぶ能力,学ぶ姿勢が,すでに過去の大学生と違うのです。「大学生にもなれば,手取り足取り勉強を教えられる立場ではない。必要なことを自分で学ぶのだ」といった大学生像は,もう通用しません。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.89-90

20点で合格

 センター試験は,60点(100点満点換算)が平均になるように調整されているのですが,なかには20点台で合格を出す大学もあります。
 すべてマークシート方式の択一問題ですから,科目によっては問題を読まずに全問,同じ数字を塗りつぶしても20〜30点はとれるかもしれません。「20点台」という点数は,それくらい衝撃的な数字です。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.87

今の大学教育

 明るくコミュニケーションをとりながら,グループで研究を進め,大きな声でハキハキと自分の考えや研究成果をプレゼンする。これが,いまの大学教育が向かっている一つの方向です。企業の就職面接や,社会人基礎力で示されている「理想的なビジネスパーソン」像そのものです。 

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.63

AO入試

 AO入試は,ともすると「一般入試のための大変な受験勉強をしなくても入学できる」という,楽な印象を高校生に与えます。そこに目をつけ,「学力はなくても,やる気さえあれば入学してください」とAO入試をアピールする大学が増えてきているのです。
 実際には,一般入試の難関校はAO入試でも難関ですし,AO入試で楽に入れるような大学は,一般入試でも楽に入れてしまいます。考えてみれば当たり前です。ひどい定員割れを起こしているような大学は,一般入試でどんなに低い点をとった受験生でも合格を出すでしょう。

倉部史記 (2011). 文学部がなくなる日 主婦の友社 pp.37

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