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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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やってみよう

 極意というものはなく,ただただ,試してみよう,やってみよう,ということである。子供の頃を思い出そう。好奇心を取り戻し,新しいものに興味を持ち,今まで見なかったものを見て,聞かなかったことを聞いて,行かなかったところへ足を運んでみる。新しいことをすれば,きっとなにか新しいものが見つかる。それだけでも少し楽しくなる。
 さらに,それについて考えてみよう。もっと自分にできることはないか,自分が望んでいるものは何だろうか,それを実現する方法はないのか,何をすれば近づけるだうろか,とどんどん考える。考えて考えて考えぬく。考えれば,なにか思いつく。間違っていても良い。試してみれば,間違っていることはわかるし,それがわかることも前進である。間違っていた,とわかったときの楽しさを知ることになるだろう。失敗して,大笑いできるはずだ。人が用意したコースならば腹が立つが,自分が決めた道ならば,絶対に腹は立たない。そういうふうに人間はできているのである。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.79-80
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自分たちのやり方

 転校する中でぼくが学んだこと。それは,転校しない子どもたちは,かれらのやり方が自然のやり方だと思っており,かれらのものの見方が,どこでも通用する見方だと考えがちだということだった。集団の力というのは恐ろしい。どこへ行っても,そこのやり方があり,それ以外のやり方は否定される。ある学校では友だちを呼び捨てにしていたが,転校先の学校では「くん」づけ,「さん」づけで呼んでいて,思わず呼び捨てにして怒られて,情けない思いをした記憶もある。正に,郷に入ったら郷に従え,なのである。

松井彰彦 (2010). 高校生からのゲーム理論 筑摩書房 pp.155-156

どう感じるかばかり

 数字というのは,それがどもくらいのものなのかを伝えることができる最もわかりやすい指標だ。ところが,多くの人は数字を拒絶してしまい,「その数字を人間(みんな)がどう感じるのか」ということを知りたがる。水道管が破裂した事故を報道するTVでは,何リットルの水が流出した,という数字を伝えればわかるところを,周囲の人たちにインタビューをして,どれくらい凄かったのか,ということを語らせようとする。そういう「人々の印象」を伝えることが,「正しい情報」だと考えているようにさえ思える。マスコミの報道を見ていると,この「印象」「主観」情報の比率がどんどん高くなっているのではないかと感じる。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.55

わからなくても点が取れること

 わからない子にわからせるのが教育である。しかし,今の教育は,「わからなくても点が取れる」ことに重心があるように思えるのだ。たとえば,算数などでは,「つるかめ算」とか「旅人算」といった「名称のある手法」を前面に出し,理解ではなく,機械的に答を導けるように「訓練」する。それで,本当に数を扱う能力,未知のものを求める力を育てることにつながるだろうか?

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.48

数字を知る

 つまりは,数字をまず知り,それを評価することが大事だ。数字ほど,具体的なものはない。「10メートルの津波が来る」という情報がもたらされたとき,「それは具体的にどれくらい危険なのですか?基準を超えていますか?どれだけの被害が予想されますか?」といった質問をするよりも,今自分がいる場所と,自分の体力と,周囲の状況から,それが「自分にとって危険か安全か」を判断することが,貴方を救うだろう。つまり,それが「科学」なのである。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.45

データとメソッド

 学科で教わることは,以上のように2種類ある。きっちりと分かれるものではないけれど,大別すると,「データ(情報)」と「メソッド(方法)」だ。
 前者では,データを正しく自分にインプットし,それが必要なときに的確に取り出せる能力が求められる。これはたとえるならば,自分の頭脳という倉庫に,沢山の材料をストックし,それらをきちんと整理している状態を目指している。材料の名前や性質などの「知識」と,それらを関連づける「整理」が要求される。
 これに対して,後者は,それらの材料を用いて加工する「方法」を覚えることになる。算数や数学というのは,一言でいえば「方法」なのである。
 実は,国語も,算数と同じように「方法」を学ぶべき分野だと思われる。つまり,イメージを言語にし,思考を文章として組み立てる「方法」が,国語で習得すべき基本的な能力だろう。しかし,今の国語教育は,テストに出しやすく,採点がしやすい問題に囚われているため,子供のうちに論理性を学ぶような機会がない。そもそも,国語を教える先生が文章の達人ではない,という問題が大きいだろう。漢字が書けるとか,読めるとか,そういった手法の前段階の瑣末な知識のインプットに終始している。算数でいうと,数字の書き順とか,読み方を繰り返し習っているレベルだ。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.35-36

自分は向かない

 このように,理系の人の多くは,単に「ものを覚える」という勉強が面倒だと感じているだけだろう。だから,文系の学科を「不得意」とは自覚せず,「やる気になれば,いつでもできるもの」と考えているのである。
 したがって,文系の人が「理系の人間は変わっている」と思っているほど,理系の人は「文系の人は変わっている」とは考えない。文系と理系を意識するのも,文系の人のほうが多いはずだ。
 その証拠に,理系の中にしばらくいると,ここでもまた,理数科目の不得意を感じる場面があって,「自分は文系なのかな」と意識する人が現れてくる。僕の観測では,たとえば工学部の学生の半分以上が,これを感じることがあるみたいだ。高校生までは数学や物理ができたから,なんとなく理系の学科へ進んだけれど,もしかして自分は不向きなのでは,と将来に不安を抱き,相談に来る学生がとても多い。
 ちょっとわからなくなると,「自分は向かない」と処理してしまう。これは,諦めが良いというのか,あっさりしているというのか,どうも日本人の傾向なのかな,と思えてしまう。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.31-32

教育とは関係ない

 ヘルシンキ大学のマルヤーナ・リンデマンが先頃,この信念と理性の2次元モデルと素朴な直感的理論が担っている役割の検証を行った。成人フィンランド人3000人余を対象として,直感的推論とスーパーセンスの調査を実施したのだ。まず,調査対象者に超自然信念現象信奉について質問した。ここで言う超自然現象信奉は宗教的なものと非宗教的なものの両方である。次いで,直感的な誤概念も評価した。世界の物理的,生物学的,心理学的な側面について,調査対象者が抱いているアニミズム,目的論的推論,擬人化,生気論,中心概念の混乱に関する質問を行ったのだ。いずれも,子どもたちが独力で自然に推論するので,誤概念につながることもある分野である。質問の内容は,「夏になって気温が上がると,花は咲きたいと思うのでしょうか?」,「古い家具は昔のことを知っているのでしょうか?」といったもので,締めくくりに,直感的な反応と熟慮した上での分析的推論のどちらの思考スタイルを好むか尋ねてみた。
 その上で,スーパーセンスを強く感じる成人を懐疑的な成人と比較したところ,信じやすい人のほうが,ある概念カテゴリーの属性を別のカテゴリーにも誤ってあてはめる傾向が強いことが分かった。たとえば,古い椅子は昔の出来事を覚えている(無生物に心的属性を持たせる),思いは他人に伝わる(心理状態に物理的属性を持たせる)といった答えが多かったのは,信じやすい人たちだった。目的論的に見ると混乱の度合いがいっそう強く,アニミズムと擬人化の傾向も強く見られた。また,信じやすい人には生気論者が多く,物事は世界とつながっているという意識をいだいていた。彼らは教育水準が低かったのかと思うだろう?答えはノーだ。全員,大学生だったのだから。しかも,他の合理性を測る尺度で評価した結果も,疑り深い学生と大差なかった。つまり,同一人物が合理性と超自然現象信奉とを兼ね備えているということである。彼らはエリートと言えども,直感的な思考法を好む,あるいは直感的な思考法に頼りやすいただの人だったのだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.359-360
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

高等教育への圧力

 さて,最近,高等教育が大事だという風潮が高まるにつれ,大学を増やす余裕のある多数の高所得層・中の上(アッパーミドル)所得層で,高等教育を求める不健全な力が強く働くようになってしまった(すでに紹介した数字が示すように,スイスはまだこの力に侵されていない)。大学入学者の割合が“臨界点”を超えるや,まともな職につくためには大学へ行かなければならないという状況が生じる。たとえば大学出が人口の70%という社会では,大学を出ていなければ「自分は能力ヒエラルキーの最下位3分の1に属している」と暗に宣言していることになり,それは就職活動にとって有利なこととは言えない。だから人々は,仕事には絶対に必要にならないことを学んで“時間を浪費する”とわかっていながら,大学に行くのである。

ハジュン・チャン 田村源二(訳) (2010). 世界経済を破綻させる23の嘘 徳間書店 pp.252-253

大学進学率

 スイスは世界で最も工業化が進んだ数少ない最富裕国のひとつだが,驚くべきことに,富裕国のなかでは大学入学率が最も低いのだ。実は群を抜いて低い。1990年代前半まで,スイスの大学入学率は他の富裕国の平均の3分の1ほどしかなかった。1996年になってもまだ,OECD諸国の平均の半分以下だった(16%vs.34%)。ただ,それ以降は,ユネスコのデータによると,かなり上がっていき,2007年には47%にまでなる。しかしスイスの大学入学率はいまなお富裕国中最低であり,フィンランド(94%),アメリカ(82%),デンマーク(80%)といった最効率の国々と比べるとはるかに低い。また,興味深いことに,韓国(96%),ギリシャ(91%),リトアニア(76%),アルゼンチン(68%)といった,スイスよりはだいぶ貧しい国々と比べても,かなり低い。

ハジュン・チャン 田村源二(訳) (2010). 世界経済を破綻させる23の嘘 徳間書店 pp.251

模倣と独自性

 気づかず模倣することは,ほぼ間違いなく悪いデザインをもたらす。どこから自分のアイディアが来たのか知らない場合,たぶんあなたは模倣者の模倣をしている。ラファエルは19世紀中ごろの美術界を席巻したため,その時代に画家を志した者のほとんどは彼を模倣していた。しかも模倣の模倣が何回も行なわれた。ラファエル前派が反発したのはラファエル自身の作品よりも,総いった風潮であった。
 志ある人は単なる模倣では満足しない。センスの成長の次の段階では意識的に独自性を出そうとする。
 最も偉大な作り手たちは,ある種の滅私状態に達するのではないかと私は思う。彼らは正しい答えを知りたいだけなのだ。そしてもし,答えの一部が誰かによって発見されていたのなら,それを利用しない手はない。誰かの仕事を借りても自分のビジョンは曇らないという十分な自信があるのだ。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.147

ストレッチ

 考えもできないようなことを考えようとすることは,それによって得られる考え以上の効用がある。それはちょうどストレッチ運動みたいなものだ。走る前によくストレッチしておけば,普通に走るよりもずっと違う体勢を容易に取ることができるだろう。他人が聞いたら身の毛がよだつようなあまりに常軌を逸したことを考えられるようになっていれば,常識の箱のほんの外側を散歩するくらいわけもない。そして人はそれを革新的だと言うだろう。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.50

共感能力

 共感能力は,おそらく良いハッカーと偉大なハッカーの,たったひとつの最も重要な違いだろう。ハッカーのなかには非常に賢いが,共感するということにかけては全く自己中心主義の人々がいる。たぶんそういう人が偉大なソフトウェアをデザインするのは難しいだろう。ユーザの視点で物を観ることができないからだ。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.35

人の身になって

 私は子供のころ,いつも,人の身になってものを考えなさいと教えられた。実際にはそう言われる時はいつでも,自分のしたいことじゃなくて他人の望むことをしなさい,という意味だった。だから共感なんてつまらないものだと思って,私はそれを磨こうとはしなかった。
 だが,なんてこった。私は間違っていたんだ。他人の身になってものを見るというのは,本当は成功の秘密だったんだ。それは自己犠牲を意味するとは限らない。他の人のものの見方を理解したからって,その人の利益のために行動しなくちゃならないとは限らないんだ。特定の状況では,例えば競争をしている時は,全く逆の行動をしたいと思うだろう。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.34

ハックしながら

 ハッカーがハックしながら学ぶという事実は,ハッキングと科学がどれだけ違うかということを示すもうひとつの手がかりだ。科学者は科学をしながら学ぶのではない。実験と課題をこなしながら学ぶのだ。科学者はまず完璧な仕事から,つまり誰か他の人が既にやったことを再現することから始める。そうしているうちに独自の仕事ができるレベルに達するのだ。一方,ハッカーは最初から独自の仕事をする。ただ最初は下手くそだろう。ハッカーはオリジナルから始めて上手になってゆく。科学者は上手になることから始めてオリジナルになってゆく。
 もの創りが学ぶもうひとつの方法は先例から学ぶことだ。画家にとって美術館は技法の先例の宝庫だ。偉大な画家の作品を模写することは,何百年もの間,画家の教育課程の一環となってきた。模写することで,絵がどのように描かれているかを詳しく見るようになるからだ。
 作家も同じようなことをする。ベンジャミン・フランクリンはアディスンとスティールのエッセイを要約し,それを再現しようとすることで書くことを学んだ。レイモンド・チャンドラーは同じことを探偵小説でやった。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.30-31

スケッチと同じ

 例えば大学で私は,コンピュータに手を触れる前に紙の上でプログラムを完全に理解しなければならないと教わった。でも私はそういうふうにはプログラムできなかった。私が好んだやり方は,紙の前ではなく,コンピュータの前に座ってプログラミングすることだった。しかも,辛抱強くすべてのプログラムを書き上げてから正しいことを確認するなんてことはせずに,めちゃくちゃなコードをおっぴろげて,それを次第に形にしてゆくのだった。デバッグとは書き間違いや見逃しを捕まえる最終段階の工程だと教わったけれど,実際に私がやっていたのは,プログラミングそのものがデバッグという具合だった。
 そのことで私はずいぶんと長い間,引け目を感じていた。ちょうど小学校で教わった鉛筆の持ち方と違う持ち方をしていることに引け目を感じていたのと同じように。他のものを創る人々,画家や建築家がどうやっているかを見れば,私は自分のやっていることにちゃんと名前が付いていると気付いていただろう。スケッチだ。私の知る限り,私が大学で教わったプログラミングのやり方は全部間違っていた。作家や画家や建築家が創りながら作品を理解してゆくのと同じで,プログラマはプログラムを書きながら理解してゆくべきなんだ。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.26-27

残酷さと退屈さ

 これといった基準がないところに順位を付けなければならない場合,何が起きるかというと,堕落したゲームが始まるのだ。「人気取り競争」とでも呼べばいいだろうか,米国のほとんどの学校で起きているのはまさにそれだ。生徒の順位は,本物のテストではなく,自分がどれだけ順位を上げられるかという能力によって決まる。ルイ14世の宮廷のようなものだ。外敵がいないから,子供たちはお互いを敵とするんだ。
 外部に能力を試すはっきりしたテストがあれば,一番下の階級にいても苦しくはない。フットボールチームのルーキーはベテランプレーヤーの能力に腹を立てたりはしない。むしろいつかそうなりたいと思うだろうし,先輩に学ぶ機会があれば喜んで学ぶはずだ。先輩も上に立つ者の責務,つまりノブレス・オブリージュを感じるだろう。そしてもっと重要なことは,メンバーの地位はどれだけ対戦相手に対して戦えるかによって決まり,お互いの足をどれだけ引っ張れるかによって決まることはないということだ。
 宮廷の階級は全く違ったものだ。この種の社会は中に入る者すべてを悪くする。下の者が上を称賛することもないし,上に立つ者が責任を感じることもない。殺るか殺られるかだ。
 米国の中学校で作られる社会もまさにそれだ。そうなるのは,子供を毎日特定の時間,一箇所に閉じ込めておく以上の本当の目的を学校が持たないからだ。私が当時気付かなかったことは,いや,ごく最近まで気付かなかったことは,学校生活の2つの恐怖,つまり,残酷さと退屈さの根はひとつだったということだ。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.18-19

学校と刑務所

 現代のティーンは,ファストフードのような安い労働力を使う産業以外では役に立たない。実際,そういう業種はまさにその事実を利用することで拡大したんだ。他のほとんどの職業ではティーンはかえって足手まといになるだろう。でも,まだ監督なしで放っておけるほど成長しておらず,誰かが見ていなければならない。だとしたら,一番効率の良い方法は彼らを一箇所に閉じ込めておくことだ。そうすれば数人の大人が全員をみられる。
 この説明だけを聞けば,誰だって,ああ刑務所の説明をしているんだなと思うだろう。違うのは,時間になったら帰してもらえるということだけだ。そして,多くの学校がまさに刑務所と化している。それが問題なのだ。学校の表向きの目的は子供を教育することだが,それをちゃんと行なわせるための圧力はどこからもかからない。だから多くの学校で行われている教育はひどいもので,子どもたちは真面目にそれを受けようとはしない。勉強のできる子供たちでさえもだ。ほとんどの時間,全員が,生徒も教師も,決まった動きを機械的に繰り返しているにすぎない。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.18

どちらがイカれているか

 世間では,賢い子供たちがこの年代に「普通の」子供たちの中で一緒に過ごすことが良いことだと信じられているようだ。そうかもしれない。でも,他の皆がいかれているせいで,オタクが浮いて見えるというケースだってあるにはある。リーダーが敵のプレイヤーに見立てた人形を観客に向けて投げ込み,それがずたずたに引き裂かれるのを見たのを覚えている。何か奇妙な種族の儀式を目撃している探検家になった気分だった。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.15

人気中心

 人気者になるには注意力が必要だ。そして,賢い子供には,そんなことに回せるムダな注意力など残っていないのだ。たまたまルックスが良いとか,生まれついて運動能力が高いとか,人気者の兄弟だとかそういうものでもなければ,オタクになるしかない。だから賢い人々の人生は,そうだな,11歳から17歳の間,最低になるんだ。この年代の生活は他の年代よりもはるかに人気の有無を中心に回っている。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.11

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