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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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狩りと同じ

 支持率が低迷している時に政治家が有権者の気をそらせたがるように,本当の敵がいなくても敵をでっち上げることができる。オタクをあぶり出して迫害することで,上の階級にいる子供たちはより強く結束する。よそ者を攻撃すればみな仲間になれる。いじめの最悪の形態が集団の中で生まれるのはそのせいだ。どんなオタクに聞いても,個人にされるいじめはいかにひどくても,集団でやられるよりましだと言うだろう。
 オタクにとって慰めになるとすれば,それは人格とは何の関係もないものだってことだ。一緒につるんでオタクをいじめる子供たちは,男たちがつるんで狩りに行くのと同じことを,同じ理由でやっているんだ。オタクを本当に嫌っているわけじゃない。ただ何か追いかけるものが必要なだけなんだ。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.12
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人間の領域は

 では,いったい人間はどの能力において戦えばよいか,というと,コンピュータが苦手で,しかもその能力によって労働の価値に差異が生まれるようなタイプの能力で戦わざるをえないのです。
 コンピュータは知識を蓄積したり,手順どおりの作業をしたり,大量データから傾向をつかみとることが得意です。つまり,暗記と計算とパターン認識を最も得意とするのです。一方で,脳の働きのうち,論理と原語を駆使して高度に思考し表現する仕事は苦手です。また,人間の多くにとって容易な,見る・聞く,感じるなどの五感を使った情報処理も比較的苦手です。
 身体性を必要とするような職業は,知的な作業部分よりも,むしろ,見る・聞く・感じるなど人間が無意識かつ連続的に行っている情報処理の部分がネックになり,ロボットによる代替は当面は難しいでしょう。どちらかというと,このような無意識下での連続的情報処理は人間が行い,それを言語による命令やレバーの操作,あるいは脳からの直接的な信号によって機械に伝えて作業を行うほうが早道だろうと思います。つまり,身体性を要求するような職業分野では,人間と機械となんらかの方法によって合体させるパワードスーツやアンドロイド,さらにはサイボーグのほうが大きな意味を持ってくると考えられます。
 一方,身体性を必要とせず,また直接に生産活動に携わらないホワイトカラーの仕事は,コンピュータの本格的な登場によって,上下に分断されていくことでしょう。つまり,人間であれば多くの人ができるがコンピュータにとっては難しい仕事と,コンピュータではどうしても実現できず,人間の中でも一握りの人々しか行えない文脈理解・状況判断・モデルの構築・コミュニケーション能力等を駆使することで達成できる仕事の2種類に,です。

新井紀子 (2010). コンピュータが仕事を奪う 日本経済新聞出版社 pp.190-191

批判対象

 意外に思うかもしれませんが,かつての総中流社会で,いまのニートのように年長世代から厳しいバッシングにさらされたのは,一部の大学生でした。かれらはレジャーランド化した大学で,親のすねをかじりながら毎日気楽に遊び暮らして,ろくに知識を身につけることもなく,ただ大卒というカードを手にするためだけに4年間を過ごしている,とみられていました。そうした点が,大学に行きたくても行けなかった年長世代から批判されたのです。それはまた,高校卒業後ただちに就職して高度経済成長を下支えした数多くの同年代の勤労青年たちと比べると,人生設計がしっかりしておらず,気楽さが目立つという批判でもあったわけです。
 ところがいま,目的や計画をみつけられず,働くつもりもない若者の一部は,とりあえず大学に行こうとも考えていないのです。昭和のモラトリアム大学生は,平成のニートよりは人生のことをまだしも考えていたということができるかもしれません。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.215-216

何が良いことか

 誤解を恐れずにいうならば,それは親子ともども大学に進学しない世代間関係が繰り返されることも,かならずしも理不尽ではないということです。確かに親子とも高卒という人生は,階層の上下という見方をすると,下半分にとどまることを意味しますが,そこでの親子関係は多くの場合,安定しています。社会的に高い地位につく可能性は減りますが,その代わり,同じ生活の基盤を世代間で受け渡すことができるからです。裏を返せば,子どもが親を上回る学歴を得た場合,親元を離れて「別世界」の仕事に就くことが多く,生活のスタイルも親子別々になってしまうというリスクがあるのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.201

教育現場の実情

 いま,この国の父母の半数が大卒学歴であるのに,子どもたちの半数しか大学進学をめざさないというのが,教育現場の実情です。もはや小中学校は子どもたちの学歴を引き上げる装置ではなく,大卒と非大卒が半々の比率である親たちから子どもを預かり,再び半々に振り分ける「交通整理」をするところへと役割を変えているのです。わたしたちは,この現実を正確に理解したうえで,「教育格差」として語られている小中学校での出来事を考え直す必要があるのではないでしょうか。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.186-187

親から子へ

 現在,親たちの義務教育に対する期待に大きなばらつきが生じているのは,ある意味で歴史の必然です。かつての大衆教育社会では,どんな生まれの子どもでも,学校教育を受けることで,中卒や高卒の親よりも高い学歴に進んでいました。ですから当時の家庭の多くは,わが子が学校に適応できるように努めていましたし,学校がわが子の大学進学を可能にしてくれるだろうと期待し,わが子をほぼ全面的に委ねていたわけです。ですから,あの時代にはモンスター・ペアレントなど存在しようがありませんでした。
 しかし,学歴分断社会になると,大卒の親と非大卒の親とで,異なる教育方針をもつ傾向が顕著になってきます。しかも家庭教育を重視する教育政策によって,その違いはさらにはっきりしたものになりつつあります。
 経済成長が著しかった時代は,親子の学歴の関係や,教育方針の階層による違いも,そうした社会の大きな変化に隠れてさほど目立ちませんでした。それがいまはストレートに教育現場に表れるようになっているのです。
 いま,この国の父母の半数が大卒学歴であるのに,子どもたちの半数しか大学進学をめざさないというのが,教育現場の実情です。もはや小中学校は子どもたちの学歴を引き上げる装置ではなく,大卒と非大卒が半々の比率である親たちから子どもを預かり,再び半々に振り分ける「交通整理」をするところへと役割を変えているのです。わたしたちは,この現実を正確に理解したうえで,「教育格差」として語られている小中学校での出来事を考え直す必要があるのではないでしょうか。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.186

お金に変わる

 加えて,社会的な上下関係といったとき,子ども時代であれば成績や偏差値を,大人になってからは給与額をイメージして,この2つしか眼中にない人が,いまの日本にはずいぶんたくさんいるということもあります。かつては「いい学校に行って,いい会社で働く」という考え方がそれなりにリアリティをもっていましたが,いまは働くということが強調されなくなり,「親がお金で子どもの学歴を手に入れる。学歴が将来の子どものお金に変わる」というように考えられているのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.120

不平等を認識しやすい

 この本の主題である学歴を例にして,もう少し具体的にいいましょう。以前は「中卒学歴の親のもとに生まれたAさんが高校に行き,高卒学歴の親のもとに生まれたBさんが大学に進んだ。どちらも同じように親よりも高学歴になる時代だ」ということで,双方が円満な気持ちになることができていました。けれどもいまは「高卒学歴の親のもとに生まれたCさんがまたしても高卒,大卒学歴の親をもつDさんがまたしても大学進学した。上下関係が世代を越えて続いている」というように,不平等を認識しやすい状態になっているのです。
 豊かさの拡大期にはみんながポジティブな気分でいられたのですが,高原期が続くことによって,子どもが親を越えられない時代に入ると,わたしたちの階層や地位のイメージは,徐々に醒めたものになっていきます。そしてこれから先,親と子の豊かさの水平的な関係が続くかぎり,いまの「格差社会」は,そう簡単に解消されるわけなどないのです。これもまた,階級・階層の「不都合な真実」の1つに数えられるかもしれません。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.109-110

学歴振り分けシステム

 18歳の進路選択への一点集約という日本型学歴社会の特徴は,国際的にみると珍しいものです。先進工業国のなかでこのパターンで学歴形成を続けている社会は,日本と韓国以外にはありません。ちなみに日本の若年成人の高校卒業率は約91%ですが,韓国の高校卒業率はなんと99%です。
 欧米ではどうなっているかといいますと,学歴を振り分けるしくみは,進級するごとに徐々にライバルの数が減っていく,生き残り競争(多分岐型)になっています。このかたちの社会では,義務教育を終えて早々と社会に出た低学歴層が,成人のなかに一定数います。その数はアメリカで約13%,フランスで約21%,イタリアでは約38%にのぼります(『学歴と格差・不平等』)。また,大学や短大(高等教育)も制度が違うため,序列や入学の難しさが日本とは少し異なります。簡単にいうなら,いろいろな水準の学歴集団を作りだすしくみになっているのです。階級や民族についてははっきりした境界線があるのに対し,学歴は細かく分かれているというのが,日本と大きく異なる点です。
 ひるがえって考えると,日本社会でたった1本の学歴分断線によるシンプルな切り分けが成立しているのは,大卒層,非大卒層それぞれの内部に質の違いがあって,それが上下の違いや横並びの違いを受けもっているため,この境界線にかかる歪みがやわらげられているからです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.49-50

学歴分断線

 しかし,これはあくまで人びとの心のなかでの学歴社会の見渡し方のしくみです。社会調査のデータによって現代社会を鳥瞰したときに,いちばんくっきりとした学歴の分断線がどこにあるかという関心とは異なります。社会全体を客観的にみる場合の大きな論点は,東大と京大の間,早稲田と慶應の間,関西学院大学と関西大学の間,新潟大学と富山大学の間,大東文化大学と亜細亜大学の間などにある学校歴の細かな差を考えることにはありません。それは世の中の半数を占める高卒層にとってはどうでもいいことなのです。
 そこで,大学名を見極めるという大卒層特有の関心事から離れ,社会的に最も意味の大きい学歴の境界線を考えるならば,やはりそれは,大半の現代日本人が18歳の春に通過する学歴分断線に他ならないということになるのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.45-46

境界線

 しかし,そこで高等教育の政策を考える人たちは,あることに気が付きました。それは,四年制大学への進学門戸の「バルブ」を全開にしても,進学希望者はせいぜい同年人口の50%程度しかいないということです。慎重に右肩上がりの傾きを調整してきたわけですが,結局大学進学率50%のところには,調整しなくても頭打ちになるような「ガラスの天井」があることがわかったのです。
 それにしても,どうしてこのような「ガラスの天井」があるのでしょうか。また,どうしてそれは40%や60%ではなく,50%なのでしょうか。その理由については,社会学や教育社会学,経済学などで,さまざまに考えられています。しかし何が主たる原因なのか,いまのところ確定的なことはわかっていません。
 いま確実にいえるのは,日本社会では,大学側の門戸の広さ,少子化による18歳人口の漸減,大卒者を受け入れる産業界の雇用の数,高校生の進学希望,親の進学希望など,大学進学にかかわるいずれの要素をとっても,この境界線がほぼ50%あたりで均衡するように作用しているということです。つまり,大卒/非大卒フィフティ・フィフティというのは,政策上の手を加えることで簡単に変えられるものではなく,現代日本社会のさまざまなものごとが,がっちりと組み合わさって生み出されている比率なのです。そしていま,この比率が親世代と子世代の間で受け継がれ,同じかたちで繰り返されているのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.26-27

親と同じ学歴へ

 昨今の学歴社会は,親の学歴がこのように著しく高まってきたという点で,「子どもは親より学歴が高くなる(する)のは当たり前」と考えてきた昭和の学歴社会とは,まさに隔世の感があります。しかも,先ほどのアメリカとの比較からわかるように,国際的に見渡しても,親世代のこれほど高い教育水準を背景にして大学受験がなされている社会は,そう多くはありません。
 ところが,高い学歴水準にある親たちを人生のスタート・ラインにしているにもかかわらず,いまの子どもたちをみると,18歳の進路選択時になんと2人に1人が大学・短大進学を希望していないのです。ここからわたしたちは,昭和の日本人を駆動していた「子どもは親より学歴が高くなる(する)のは当たり前」という学歴や受験に対する心構えが,現在では少なからぬ親において失われていることを知ることができます。実際,いま日本人の7割は,親が高卒ならば子も高卒,親が大卒ならば子も大卒というように,親と同じ学歴を得るようになっています。わたしたちの社会は,だれもが競い合うようにしてどんどん高学歴化していく段階を脱してしまったのです。むしろわたしたちはいま,学歴競争・受験競争の過熱状態ではなく,学歴に対して少し冷めた構えをもっているということができるでしょう。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.20-21

パンのための学問

 「学問の府」としてのドイツの大学を範としたといいながら,帝国大学は,そこでは蔑視されていた「パンのための学問」を志向する,その若者たちを入学させ,この時期最も高い社会的地位を与えられていた,官僚の世界へと送り出す役割を果たしていた。立身出世のための大学——それがこの時代の,そしてその後も長く社会に支配的な,帝国大学観に他ならなかった。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.236

教授陣

 文科大学の発足以降に任命された教授集団は,再任された木村と重野を含めて17名だが,こうした東京大学時代の整備の遅れを反映して,量・質ともに貧弱であることを免れなかった。17名のうち,東京大学卒業・文部省留学生というコースをたどって,文科大学に着任したのは,田中稲城(図書館学),井上哲次郎(哲学),坪井九馬三(史学),日高真実(教育学)の4名だけ,しかも田中と日高は,明治26年以前に他に転出している。それ以外の留学経験を持つ教授としては,神田乃武(英文学),元良勇次郎(心理学),中島力造(倫理学)がいるが,いずれも東京大学とは関係のない,私費留学による外国大学の学位取得者であった。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.221

東大文学部

 人材養成が遅れていたのは,文科大学も同様である。それは東京大学時代の文学部が,性格の曖昧な学部だったことと関係している。
 文学部の編成は,史学,哲学及政治学科と和漢文学科の2科で発足したが,前者は「史学科は,教授にその人を得る能は」ないという理由で,明治12年哲学政治学及理財学科と名称変更された。明治14年に哲学科が独立して3科編成となり,さらに18年には和文学科と漢文学科が分かれ,また政治学科と理財学科が法学部に移された。この間の卒業生35名の専攻を見ると,哲学1名,和漢文学3名を除いて,他はすべて政治学ないし理財学専攻であった。
 これに対して文学部時代に任命された教授8名のうち,外山正一を除く7名はすべて,和漢文学の担当者で占められており,政治学・理財学関係は,全面的に外国人教師に依存していたことがわかる。その外山が,留学帰りとはいうもののミシガン大学で何年か勉強しただけで,哲学,心理学,史学,社会学と何でも教えている。外国人教師もまた,政治学・理財学のほか哲学・倫理学まで担当した。ハーヴァード大学出身のアーネスト・フェノロサの例に見るように,特定の専門分野の研究者というのはほど遠く,リベラルアーツ・カレッジの教師に近かった。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.219-220

蛸壺化の理由

 高等学校や専門学校の教員としては,学士の称号があれば十分とされ,帝国大学の場合にも,大学院や研究科に何年か在籍したあと(学位の有無と関係なく)助教授に任用され,さらに数年後に教授候補者として3年程度欧米諸国に留学,というより「遊学」し,帰国後は教授に昇任し,さらに何年かたてば「推薦」により博士号を授与されるというのが,一般的なキャリアであった。したがって初期の留学生と違って,彼らには欧米の大学で必死に学び,学位を取得して帰る必要もなかった。大学院で5年間学ぶことも博士号を取得することも,アカデミック・キャリアをたどるための必要不可欠の条件ではなかったのである。大学院という制度はその後も長く,日本の風土にはなじまないままであった。
 ただ,それでは大学院という制度が不要であったかといえば,そうではない。より深く高度の学術を学びたいと考える若い世代の学生たちがつねに一定数あり,しかも彼らが研鑽に励むための宿り場がなければ,大学と学問の安定的で持続的な発展は望みがたい。組織としては未整備であっても大学院という制度の存在が,とくに文学や理学のような基礎的な学問領域において,次世代の学者の孵卵器として重要な役割を果たしていたことは疑いない。
 そこに欠けていたのは将来の大学・高等教育機関の教員や研究者を,自覚的かつ組織的に育成しようという明確な意図である。そしてそのことが大学内では徒弟制度的な,大学間ではたこつぼ的で分断的な,学者の養成システムを生み出し,学閥をはびこらせる原因となり,その結果として横の連帯感に乏しい学者の世界,「学界」が作り上げられていくのである。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.199-200

学士試問規則

 こうして明治15年には,東京大学に新たに「学士試問規則」が定められ,「学部卒業者中志願の者に限り,其の学力を考試して学士の学位を授与する」ことになった(『東京帝国大学五十年史』上冊,496ページ)。
 ただしこの「規則」は一度も実施されぬまま東京大学は帝国大学になり,明治20年公布の「学位令」によって,学位の種類は博士と大博士の2つと定められた。このうち大博士は,実際には授与されたことがなかったから,以後,第二次大戦後の学制改革により修士学位の制度が設けられるまで,学位といえば博士号をさすことになった。学士は学位ではなくなり,大学卒業者に与えられる称号に過ぎないという時代が,ごく最近まで,1世紀余り続いたのである。学士が,正規の学位として認められるようになったのは,1991年になってのことである。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.193

慶應義塾の受難の時代

 義塾の利点は,独自の中等教育の過程を置いて,というより英語教育重視の高等普通教育を行なう従来の義塾を基礎に,専門教育を開始した点にある。その義塾出身者に入学試験によって選抜された外部生をあわせて,初年度には59名が入学した。「大学部」は発足時から,英語による専門教育を受けるに十分な,学力の高い学生を持つことができたのである。
 ただし,中等教育に相当する義塾の高等普通教育の課程である「正科」の卒業者が,入学者の半数近くを占めたのは最初の年だけで,その後は外部からの入学者を大きく下回り,20名に満たない年もあった。しかも学生数が当初予定した300人はおろか,100人にも満たない時期がその後も長く続いた。とくに文部省の「特別認可」を受けなかった法律科は不振を極め,在学者数は10人前後で推移しており,募金によって作られた折角の基金も,次第に取り崩しをせざるを得ない状況に追い込まれていく。
 この時期すでに私学の雄とみなされていた慶應義塾ですらこのような困難な状況にあったのだから,他は推して知るべしである。わが国の私学にとって,「大学」への道は遠かった。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.157-158

師範学校

 教員養成の役割を担う師範学校について,高等・尋常の別が設けられたのは,明治19年の「師範教育令」によってである。尋常師範学校では小学校,高等師範学校では師範学校(および中学校等)の教員養成というのが,その与えられた役割であった。各府県に1校置かれた尋常師範学校は入学資格等からするとき,中学校とほぼ同一水準の学校であったから,高等教育機関と呼びうるのは東京に置かれた唯一の官立高等師範学校だけということになる。この学校はもともと小学校教員の養成を目的に設立されたものだが,明治8年には,中学師範学科を開設して中学校教員の養成を開始していた。
 中学校をはじめとする中等学校の教員は,医師や法律家に準ずる,近代社会の主要な専門的職業のひとつである。その教員をどのように養成するのか。明治5年の学制は,中学校の教員について「大学免状ヲ得シモノニ非サレは,其任ニ当ルコトヲ許サス」と規定して,大学による養成システムを構想していた。しかし,大学そのものがまだ設置されていない時点で,それは空文に過ぎず,その空白を埋めるために中学師範学科が設置されたものと見てよい。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.120-121

学費の高騰

 しかし,その「帝国の大学」でなぜ奨学金だったのか。
 この時代,ドイツをはじめヨーロッパの大学では授業料は基本的に無償であった。ところがわが国の大学も専門学校も,官立でありながら私費を原則としていた。日本型グランド・ゼコール群は官費生制度をとっていたが,それは卒業後の長期にわたる奉職義務と引き換えであったことはすでに見たとおりであり,しかもその官費生制度は短期間に次々に廃止されていった。東京大学には給費・貸費の制度があったが,その恩恵にあずかる学生の数は限られていただけでなく,明治18年には森文相によって,授業料がそれまでの月額1円から2円50銭に一挙に引き上げられ,貧乏士族の子弟が多数を占める学生たちに衝撃を与えた。
 当時の文部省の高級官僚で,明治26年には帝国大学総長にもなる浜尾新によれば,貧乏学生を教育しても,卒業後「徒ニ月俸ニ恋々シテ,僅ニ一身一家ヲ維持スルヲ謀ル」にとどまり,「到底完全ノ専門家タルノ実力ヲ顕ハス」ことはできない,これからは「中等以上ノ資格ヲ備フル人民ニシテ,十分ノ学資ヲ有スル者ノミヲ養成」するほうがよいからだというのが,その授業料引き上げの理由であった(天野, 2005年, 53ページ)。
 帝国大学の最低年俸が400円という時代の明治22年に,森文相がその授業料をさらに月額10円にまで引き上げると宣言して,学生たちに大きな衝撃を与えた。官立学校は「皆国家ノ必要ニ由テ設立スルモノ」だから,おおむね「其経費ハ国庫ヨリ支弁」するが,「修学スル生徒ハ亦,其自己ノ教ヲ受クル報酬トシテ,其授業料ヲ払フハ固ヨリ当然ノコト」ではないか,というのである。なにやら昨今の国立大学の授業料をめぐる議論を聞くような話だが,このドラスティックな値上げ案は,森の暗殺という思いがけない事件で沙汰やみとなり,授業料は据え置かれることになった(同書, 55ページ)。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.106-107

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