忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

従うこと

 30年の教師生活をとおして,私はある興味深い現象に気づいた。学校は,世の中の創造的活動から取り残されている。もはや科学者が科学のクラスから生まれるとか,政治家が公民のクラスから生まれるとか,詩人が国語のクラスから育つなどと思っている人はいない。
 実際,学校は命令に従うことしか教えていない。優しく,思いやりのある多くの人びとが,教師として,助手として,管理者として働いているにもかかわらず,彼らの努力は学校の抽象的な論理に押しつぶされている。教師たちが奮闘する一方で,学校は精神病にかかったかのように,分別のかけらも示さない。学校がチャイムを鳴らすと,詩を書いていた生徒はノートを閉じ,別の教室へ移動して,今度は進化論を覚えなければならないのである。

ジョン・テイラー・ガット 高尾菜つこ(訳) (2006). バカをつくる学校:義務教育には秘密がある 成甲書房 pp.44
PR

知的な依存

 5つ目の教育方針は「知的な依存」である。子どもたちは,何事も自分で判断せず,教師の指示を待つように教えられる。彼らが何を学ぶべきか,彼らの人生に何が必要かなど,重要な判断はすべて専門家が行なう。専門家とは,私のような教師であったり,その背後にいる「影の雇い主」であったりする。実際,こうした判断はむしろその雇い主の仕事で,私の仕事は彼らの命令を実行し,逸脱者を罰することだ。学校にとって,優等生と劣等性の違いは,こうした思考のコントロールがどれだけ行き届いているかによる。

ジョン・テイラー・ガット 高尾菜つこ(訳) (2006). バカをつくる学校:義務教育には秘密がある 成甲書房 pp.26-27

無関心

 3つ目の教育方針は,「無関心」である。私は,たとえ子どもたちが何かに興味を示しても,あまりそれに夢中にならないように教える。そのテクニックはじつに巧妙だ。まず,私は念入りに計画を立て,子どもたちを私の授業に熱中させる。彼らは興奮して立ち上がったり,私に褒められようと活発に競争したりする。教室が熱気に包まれるのを見るのは嬉しいもので,生徒はもちろん,私までもが気分が高揚する。しかし,いったんチャイムが鳴ると,子どもたちにはそれまでやっていたことをすべて中止させ,ただちに次の授業の準備をさせる。彼らは電気のスイッチのように,素早く頭を切り替えなければならない。私のクラスでも,他のどのクラスでも,重要なことは何一つやり遂げられたことがない。生徒たちがまともにやり遂げるのは学費の納入くらいのものだ。

ジョン・テイラー・ガット 高尾菜つこ(訳) (2006). バカをつくる学校:義務教育には秘密がある 成甲書房 pp.24

社員教育!

 私は,ある社員教育トレーナーの言葉を思い出した。彼は新入社員の教育で3日間狭い部屋に閉じ込めて,一睡もさせなかった。すると,自然に集団催眠のような状態になり,面白いほど教育の効果が上がったという。
 「さらに,食事を摂らせないと,血糖値が下がって,思考力が劣ってくるから,受講者をマインド・コントロールする最高の条件が揃うわけです」

福本博文 (2001). ワンダーゾーン 文藝春秋 pp.113

ドブに

 また,ある女子学生が授業に来なくなったので,心配して家に電話をしたら,母親が電話に出て「家には居ません」と。
 「アルバイトにでも行っているのですか?」
 「アルバイトはしていません」
 「では,どこに居るのですか?」
 「わかりません」
 先生,しばし絶句。「わかりません,って,それでいいんですか?」
 出席日数が不足気味,このままでは卒業にひびきますよと注意し警告を発しているにもかかわらず,結局,本人学校に現れず,仕方がないので再び電話を入れた。すると,くだんの母親,自分の監督不行き届きを棚に上げ,あろうことか,言うに事欠いて,「まったく,これではカネをドブに捨てたようなものです」と。
 先生,受話器を持つ手をワナワナと震わせ,学校は,俺は,ドブかよ!と思いながら,それでもなんとか冷静に対応したそうだ。ナンセンスマンガを見るよりも超面白く,超くだらない。でも,それが現状なのだ。

三浦衛 (2009). 出版は風まかせ—おとぼけ社長奮闘記— 春風社 pp.230-231

居たくない

 大学で教えていると,突然プイと立って教室を出て行こうとする学生がいるから,「きみ,ちょっと待ちなさい」と呼び止めた。
 「は!?」
 「どうしたの?」
 「居たくない」
 「居たくないって,きみ…居たくないから出て行くとしても,挨拶すべきじゃないのか。失礼しますとか何とか」
 「どうして?」
 「どうしてって,それが礼儀じゃないですか」
 「はあ。じゃあ,失礼します」
 先生の話を聞いているうちに,学生の馬鹿ヅラが目に浮かび,もらい怒りでこっちまで体が震えた。

三浦衛 (2009). 出版は風まかせ—おとぼけ社長奮闘記— 春風社 pp.229-230

なじめば不要

 ここで注意してもらいたいのは,抽象的な表現を理解するときに,いつも仮想的身体運動をともなっているわけではないことである。ある抽象的な文章に最初に出会ったときは,いちいち頭のなかで何らかのイメージを作って理解しながら,ゆっくりと読み進んでいくが,この場合は,仮想的な身体運動を行っている。しかし,その抽象的な文章になじめば,とくにイメージを作らなくても理解でき,なめらかに読めるようになる。この場合には仮想的身体運動をしていない。

月本 洋 (2008). 日本人の脳に主語はいらない 講談社 pp.72

イメージを描く

 われわれは,何かを理解したときには,なんらかのイメージを頭の中で作ることができる。それが作れないときは理解できないということである。そしてそのイメージを作るときには想像力を使っている。たとえば「黄金の山」は現実には存在しないが,想像はできる(日銀の地下の金庫に金塊の山があるのかもしれないが)。しかし「丸い四角」は想像できない。現実に存在しないばかりでなく,どのようにしてもイメージを作ることができないのである。
 理解の際にイメージを作るというのは,空間的なものばかりではない。聴覚的,触覚的なものもあるし,さらには,抽象的な文を理解するときでも,われわれはなんらかのイメージを頭の中で描いている。たとえば「理解」できたと思うときのイメージであるが,これは,具体的なイメージの時もあれば,あいまいなイメージの時もある。抽象的な文を理解したときは,漠然としたイメージである。
 このように,われわれは,その言葉を聞いてイメージを作れれば,理解できるという。このような理解を想像可能性と呼ぼう。

月本 洋 (2008). 日本人の脳に主語はいらない 講談社 pp.20

登りながら山を作る

 研究者が一番頭を使って考えるのは,自分相応しい問題だ。自分にしか解けないような,素敵な問題をいつも探している。不思議なことはないか,解決すべき問題はないか,という研究テーマを決めるまでが,最も大変な作業で,ここまでが山でいったら,上り坂になる。結局のところこれは,山を登りながら山を作っているようなもの。滑り台の階段を駆け上がるときのように,そのあとに待っている爽快感のために,とにかく山に登りたい。長く速く滑りたい,そんな夢を抱いて,どんどん山を高く作って,そこへ登っていくのだ。
 卒論生も修論性も,指導教官の先生が作った山に登らせてもらい,そこを滑らせてもらえる。ほら,こんなに楽しいんだ。だから,君も山を作ってみなさい。そう言われて,投げ出されるのが,博士課程だということになる。
 だけど,自分で作った山の方が絶対に面白いだろう,ということはもうわかっている。予感というよりも,それは確信できる。喜嶋先生が登らせてくれた山は,もの凄く高くて,周りのみんなの山や滑り台がよく見えたし,山を作っている人の姿も眺めることができた。
 この「高さ」というのは,けっして研究の有名さではない。話題性でもない。研究費を沢山獲得するようなテーマが高いわけではない。言葉を逆にして,深いと表現しても同じだ。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.292-293

高い位置に立った人だけ

 とても不思議なことに,高く登るほど,他の峰が見えるようになるのだ。これは,高い位置に立った人にしかわからないことだろう。ああ,あの人は,あの山を登っているのか,その向こうにも山があるのだな,というように,広く見通しが利くようになる。この見通しこそが,人間にとって重要なことではないだろうか。他人を認め,お互いに尊重し合う。そういった気持ちがきっと芽生える。
 だから,なにか1つの専門分野を極めつつある人は,自分とは違う分野についても,かなり的確な質問ができるし,有益なアドバイスもできる。僕はまだよくわからないけれど,大学の先生という職業が成り立っているのは,こういう原理だと思える。小中高までの先生が,広い知識を持った人であるのとは対照的だ。それは,研究というものに対する姿勢というのか,分野を越えて通用する普遍的な手法,あるいは精神が存在するためかもしれない。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.290

若いときは信じることができた

 それでも,小さいものならば,ほんのときどき掴み取ることができるものだ。
 ああ,これだ,きっとこれで近づける,という感触に出会う。そういうものが幾つか集まれば,そこそこの研究成果になっていく。
 大学院生の頃の僕は,まだそんな経験をしていない。ただ,問題を解いているだけのことで,神様が出した試験問題くらいにしかイメージしていない。ただ,今になって思うのだけれど,若いときには,「これは解けるはずだ」と信じることができた。そこが若い研究者のアドバンテージだ。研究者が若いうちに業績を挙げる理由は,ここにある。年齢が増すほど,解けない例を知ってしまうから,もしかして,これは無理なのではないか,と疑り深くなり,それに比例して,少しずつ研究の最前線から退くことになる。これは,自信がないという状態とはまったく違う。研究は,気合いや自信で進められるものではないからだ。
 40代になれば,ほとんどの研究者は第一線から退いた状態になる。後進に引き継ぎ,自分は研究費を獲得するための営業に回るか,弟子を束ねて会社組織のようなものを築き上げ,トップに君臨する経営者としてアイデンティティを示すのか,それは人や分野によって様々だけれど,いずれにしても,もう研究者ではなくなっていることは確かだ。学会や協会などから業績を評価されて,表彰されるようなことはあっても,いくら新聞で取り上げられ有名になっても,もう現役の研究者ではない。このあたりは,例は悪いが,軍隊でもスポーツでも同じだ。載っているのは,例外なく最前線の若者なのだ。本を書いたり,テレビでコメンテータとして登場するのも,かつて研究者だった人。現役の研究者には,そんなことをする暇はない。自分の前にある問題と戦うことで精一杯だし,それが最も楽しいから,誰もその場から離れようとしない。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.196-197

思考≒運動

 考えるという行為は,運動に似ている。ランニングすることと,思考することは,躰の使っている部位が違うだけで,あとは同じだ。ランニングの場合,目的地があるわけではない。目的地があると,それは労働に近いものになる。同じように,考えて求められる答が定まっているものは,明らかに労働だ。数学の問題を解くのも,競技として捉えればスポーツといえるけれど,やはり答が決まっているから,ある種の労働といえる。頭脳労働という言葉があるではないか。頭脳労働というのは,計算機に任せることが可能な仕事のことだと僕は思う。しかし,研究における思考は,こういった労働ではないから,いくら計算機が発達しても,真似ができないだろう。筋道がなく,方法も定かではなく,それどころか答が存在するのかどうか,解くことができるのかも保証がない,それが研究における思考である。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.194-195

経験すればいいのか

 こういう世界にはいられない,という人たちが,少しずつ去っていく。そんな光景を,僕は幾度も見た。恵まれた人の場合は,少しだけ関係のある分野の研究所か,メーカの開発部に就職口を見つけて大学を去っていく。学科の歓送会では,出ていく人は「今までの経験を活かして」と挨拶をする。たまたま横に立っていた喜嶋先生が,僕に囁いたことがある。
 「そんな経験のためにここにいたのか」
 喜嶋先生なりのジョークかもしれないから,僕は先生に微笑んで返したけれど,じっくりとその言葉を考えてみると,こんなに凄い言葉,こんなに怖い言葉はない。
 良い経験になった,という言葉で,人はなんでも肯定してしまうけれど,人間って,経験するために生きているのだろうか。今,僕がやっていることは,ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.152

世界初の結果を導く行為

 つまり,「研究」というのは,まだ世界で誰もやっていないことを考えて,世界初の結果を導く行為……,喜嶋先生のようにもっと劇的な表現をすれば,人間の知恵の領域を広げる行為なのだ。先生はこうもおっしゃった。
 「既にあるものを知ることも,理解することも,研究ではない。研究とは,今はないものを知ること,理解することだ。それを実現するための手がかりは,自分の発想しかない」
 「論文」には,世界初の知見が記されていなければならない。それがない場合には,それは論文ではないし,研究は失敗したことになる。もちろん,世界初の知見であっても,ピンからキリまである。それを評価するには,実はその発見があった時点では無理かもしれない。初めてのことの価値は,基準がないからわからない場合が多いのだ。特に,それが新しい領域における最初の一歩の場合にはそうなる可能性が高い。それでも,もちろん手応えというものがある。これは凄い発見なのか,それとも些細な確認に過ぎないのか,ということはだいたいわかるだろう。それを研究した本人だったらなおさらである。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.100

課題を探す困難さ

 これは,すべてのことにいえると思う。小学校から高校,そして大学の3年生まで,とにかく,課題というのは常に与えられた。僕たちは目の前にあるものに取り組めば良かった。そのときには,気づかなかったけれど,それは本当に簡単なことなのだ。テーブルに並んだ料理を食べるくらい簡単だ。でも,その問題を見つけること,取り組む課題を探すことは,それよりもずっと難しい。特に,簡単にできるものを選ぶ,といった選択ではなく,自分の役に立つものを見つけようとすると,無駄にならないよう妥協しなくなる分,さらにハードルが上がる。でも,研究という行為の本当の苦労はこういった作業にある,ということも,その後,少しずつだけれどわかってきた。喜嶋先生はこのとき,僕たちにそれを教えようとしたのだろう。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.92-93

神様はここに

 僕が知っている良い大人というのは,にこにことして僕の言うことを聞いて頷いてくれる,褒めてくれる,でも,結局は僕の言葉の意味するところを理解しているのではなくて,笑顔で聞き流しているだけなのだ。誰も,僕の疑問には答えてくれなかった。それはもう子どもの時からずっとずっとそうだったのだ。唯一の例外は,図書館の本だけ。僕にとっては,本だけが本当の「大人」だった。それらは,生きているかどうかもわからない人たちが書いたものだったから,雲の上の神様と同じ感覚だ。
 だから,神様たちはここにいたのか,というふに,僕は大学という場をイメージしたのだと思う。世の中は捨てたものではない,とやっと信じることができた。20代の前半でこのことを知ったのは,本当に「救い」だった。知らないまま社会に出ていたら,僕はずっと人間の価値がわからないまま生きていくことになっただろう。心のどこかでは必ず人を疑っている人間になってしまっただろう。大袈裟ではなく,この歳になってやっと信じられるものを見つけた気がしたのだ。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.70

何をしているのか?

 きっと,ここだけではない。僕がまだ行ったことのない研究室や実験室でも,大勢がこんなふうになにかに打ち込んでいるのではないだろうか。
 みんな,いったい何をしているのだ?
 調べているのか,試しているのか,探しているのか?
 少なくともそれは,教室で先生の話を聴き,試験でそこそこ無難な解答を書いて,単位が取れればそれで万事OK,という世界とは違っている。今まで見てきた学校というのは,全部このパターンだった。想像だけれど,会社でも工場でも,だいたいの職場は,みんな同じだろう。労働というのは,そういうものだ。いわれたとおりノルマをこなす。時間が過ぎたら終了。そこで,解放感を味わう。そういう世界だ。
 でも,ここには,大学には,僕がまだ知らない世界がある。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.68

試験について

 試験というのは,非常に短時間で,その人間の頭脳の能力を試す手段の1つだ。もし,試す人間が少数ならば,質問をしたり,考えをきいたりすれば良い。でも,大勢を一度に相手にする場合には,同条件で効率の良い方法を採らざるをえない。小論文や応用問題のような方法も存在するけれど,1問に消費される時間が長すぎるから,僅か数問しか出題できないし,そうなると,とても狭い範囲の能力しか試せない。これでは運不運,不公平が出てしまう。広範囲の能力を短時間で公平に試し,しかも短時間で評価,採点ができる方式となると,これはもう,どうしても選択問題に近いものになる。マークシート方式が増えたのはこのためだ。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.48-49

共通点があるだけで

 2003年に2人のアメリカ人心理学者,グレッグ・ウォルトンとジェフリー・コーエンが興味深い実験を考案した。イェール大学学部生の一団に,解くことができない数学の問題を与えたのだ.しかけが1つ施してあった。前もって学生たちには,かつてイェール大学で数学を学んだネイサン・ジャクソンという人物が書いたレポートを読むように言いわたしてあった。表向きは数学科について若干の予備知識を与えるという口実だったが,じつはこれが研究者2人の策略だった。
 じつはジャクソンというのは架空の学生で,じっさいにレポートを書いたのはウォルトンとコーエンだった。「ジャクソン」はレポートのなかで,どんな仕事に就くべきかわからずに大学に来て,数学に興味をもち,現在ではある大学で数学を教えているという経歴を語っていた。レポートのなかほどには,ジャクソンの個人情報を一部記したコマがあった。年齢,出身地,学歴,誕生日。
 さて,うまいのはここからだ。半分の学生については,ジャクソンの誕生日にはその学生じしんと同じに変えてあった。残りの半分の学生には変えていないものがわたされていた。「数学に長けた人間と誕生日が同じ,というなんの関係もないことが,動機を刺激するかどうか調べてみたかったのです」と,ウォルトン。学生たちはそのレポートを読んだうえで難問を解くように求められたのだ。
 ウォルトンとコーエンが驚いたことに,ジャクソンと同じ誕生日の学生たちの動機水準は少々上がったり,はね上がったりしたどころではない。激増したのだ。誕生日が同じ学生たちは,そうでない学生たちに比べて65パーセントも長く解けない難問に取り組み続けた。また,数学にたいしてもかなり積極的な態度を見せ,じしんの能力をより楽観的にとらえていた。はっきりさせておくと,学生たちはジャクソンのレポートを読むまで,数学に取り組む姿勢はみな同じだった。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.130-131

ひらめきは高潮

 こういったパラダイムシフトはどこから生まれるか?揺ぎないように見受けられる制約をのりこえて成績を変えてしまうような,こうした創造的跳躍はいかにしてあらわれるのか?アイザック・ニュートンの怪しげな逸話(りんごが頭にぶつかって重力の理論を思いついたという例のあれだ)を受けて,それが青天の霹靂のように突然ひらめくのだ——でたらめで気まぐれでまったく説明しがたいものなのだ——とつい考えてしまいがちだろう。たしかに考えてみれば,ひらめきの瞬間というのは,非常に神秘的なところがあるのだ。
 だが念入りな研究の結果,創造的なイノベーションはかなり一貫したパターンをたどることがわかった。傑出性と同じで,目的性訓練の苦難から生まれるのだ.エキスパートは,自分の選んだ分野にとても長いことひたっているために,創造的なエネルギーが充満するとでも言ったらいいだろうか。べつの言い方をすれば,ひらめきの瞬間は青天の霹靂ではなく,専門分野に深く没頭したあとに湧きおこった高潮なのだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.109

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]