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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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これでは学べない

 ここで,ふつうの人びとの生活について考えてみよう。わたしの母は長年秘書をしていて,秘書になる前にタイピングを習った。数か月の練習で,1分に70単語をタイプできるようになったが,そこで壁にぶつかり,秘書をしているあいだにそれ以上伸びることはなかった。理由は単純だ。このスピードが仕事にありつける水準で,ひとたび働きはじめてしまうと,上達することが大事であるとは思えなくなったからだ。タイプしているときは,べつのことを考えていた。
 これがほとんどの人のやり方だ。自動車の運転などといった新しい課題を習うときは,技術を身につけるために集中する。最初は時間がかかるしおぼつかないし,動作が意識的に制御される。だがなじむにつれて技術は潜在記憶に取り入れられ,あまり考えなくなってしまう。ハンドルを握ってほかのことに関心を向け,運転する。これが心理学者の言う「自動性」だ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.105-106
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目的性訓練が必要

 1990年代に,フィギュアスケートの実体をよく浮かび上がらせる研究がおこなわれた。一流スケート選手と二流以下のスケート選手では,遺伝子にも性格にも家庭環境にも大きなちがいは見られなかった。ちがいがあったのは練習の種類だ。すぐれたスケート選手たちはつねに現在の能力をこえるジャンプを試みるが,ほかのスケート選手たちはそれをやらない。
 注目してほしいのは,一流のスケート選手がより難易度の高いジャンプに取り組んでいるだけではないことだ.すぐれた選手にはどのみちむずかしい難易度の高いジャンプが求められる。肝心なのは,一流スケート選手が自分のすぐれた技量から見て,もっと難易度の高いジャンプに挑戦することだ.結論は直感にそぐわないものなのだが,事実を浮き彫りにしてくれる。つまり,一流のスケート選手は練習のなかで,もっと多く転んでいるのだ。
 目的性訓練とは,少しばかり力がおよばなくて実現しきれない目標をめざしてはげむこと。現在の限界をこえる課題に取り組んで,くり返し達成に失敗することだ。傑出とは,快適な領域から踏み出し,努力の精神をもってトレーニングにはげみ,艱難辛苦の必然性を受け入れることにかかっている。じっさい,進歩は必然的な失敗の上に築かれる。これはプロのパフォーマンスにかんするもっとも重要なパラドックスだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.94-95

手が届かない程度の目標

 あらためて述べておこう。世界に通用する水準のパフォーマンスは,少しばかり手が届かないところにある目標に向けて,そのギャップの埋め方をはっきりと意識して努力することで得られる。やがて,たえまないくり返しと深い集中をもってギャップが埋められ,そしてまたほんの少し手が届かない新たな目標がふたたび設定されるのだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.92

「普通の人」の姿

 自動車を運転するとき,なにが起こるのだろうか?たしかに多くの時間を運転につぎこんでいるが,それは知識の獲得につながっているだろうか?懸命に上達しようと努めているわけでもない。それどころか,ほかのことを考えている。夕食はなんにしようか考えたり,同乗者には話しかけたり,ラジオを聴きながらハンドルにかけた指でリズムをとったりしている。実質的には自動操縦で運転しているのだ。
 極端な例のように聞こえるかもしれないが,これは驚くほど多くの人びとに当てはまる(これほどひどくないにせよ,ちがいはほんのわずかだ)。仕事をこなしていても——いくぶん,あるいはすっかり——うわの空になっていることがしばしばある。かたちだけやっているのだ。だから(多数の研究が示すように)多くの活動では,かけた時間の長さと腕前の関係がごく弱くなっている。深い集中をともなわなければ,ただの経験はすぐれた技量に変わらないのだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.87

比べる相手を間違えている

 神童にみんなが驚くのは,彼らを——同じ時間をつぎこんで練習してきたほかの演奏者ではなく——人生を同じかたちで費やしていない,ほかの同年代の小人達と比べてしまうからだ。本質的なポイントをはずした背景のなかで彼らの技能を評価するものだから,彼らが奇跡の才能をもっていると勘違いしてしまうのだ。神童たちの小さな体や愛くるしい顔を目にすると,大人になってもほとんどの人が積み重ねられないほどの練習を経て,その頭蓋骨のなかで脳がつくりあげられて——知識が深まって——いることを忘れてしまう。6歳のモーツァルトを同じ年齢の子どもと比べずに,3500時間の練習を積んだ音楽家と比べていれば,まったく並はずれているようには見受けられなかっただろう。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.65

傑出した技能の原因

 1991年にフロリダ州立大学の心理学者アンダース・エリクソンとその同僚2人が,傑出した技能の原因を調べる史上もっとも徹底した調査を実施した。
 被験者——ドイツの高名な西ベルリン音楽アカデミーのバイオリニストたち——は3つの集団に分けられた。最初のグループは,傑出した学生たちのグループだ。国際的なソリスト(独奏者)になることが期待され,音楽演奏の頂点をきわめた少年少女たち。すばらしい才能のもち主,特別な音楽の遺伝子をそなえて生まれてきた幸運な若者とされる人びとだ。
 2番目のグループは,きわめて優秀だがトップになれるほどではない生徒たち。世界最高のオーケストラで演奏することになるだろうが,スターのソリストになれるとまでは期待されていなかった。そして最後はいちばん能力の低い生徒のグループ。音楽の先生になりたくて勉強しているティーンエージャーたちで,入学基準はほかのグループの生徒に比べるとはるかに緩い。
 これら3グループの能力水準は,教授たちの評価にもとづくもので,コンクールなどでの成績といった客観的な指標にも裏づけられている。
 さんざん苦労しておこなったインタビューの結果,エリクソンはどのグループの生徒も経歴は驚くほど似通っており,系統的なちがいはまったくないことをつきとめた。生徒たちが音楽の練習をはじめたのはみな8歳くらいで,そのころから正式なレッスンを受けている。最初に音楽家になろうと思ったのは15歳になる直前くらい。教わった音楽教師の数は平均で4.1人。バイオリン以外に学んだ楽器の数は1.8。
 だが,このグループのあいだで1つだけ,すさまじく予想外にちがっているものがあった。そのちがいがあまりに大きくて,エリクソンたちにしてみれば,まるで飛び出してくるかのようだった——それは,彼らがまじめに練習してきた累計時間だ。
 20歳になるまでに,最高のバイオリニストたちは平均1万時間の練習を積んでいた。これは良いバイオリニストたちより2000時間も多く,音楽教師になりたいバイオリニストたちより6000時間も多い。この差は統計的に有意どころか,すさまじいちがいだ。最高の演奏家たちは,最高の演奏家になるための作業に,何千時間もよけいに費やしていたわけだ。
 だが,それだけではない。エリクソンはまた,このパターンに例外はないことを発見した。辛抱強い練習なしにエリート集団に入れた生徒は1人もいなかったし,死ぬほど練習してトップ集団に入れなかった生徒もまったくなし。最高の生徒とそのほかの生徒を分かつ要因は,目的性のある練習だけなのだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.16-17

何と言うか?

 9歳のエリザベスは,初めての体操競技会に向かうところだった。すらりとして,しなやかで,エネルギッシュなからだは体操選手にぴったりだったし,本人も体操が大好きだった。もちろん,競技に出場することにちょっと不安はあったが,体操は得意なので,きっとうまくできると思っていた。入賞してリボンをもらったら部屋のどこに飾ろうかしら,なんてことまで考えていた。
 最初の種目は床運動で,エリザベスは1番目に演技した。なかなかすばらしい演技だったが,途中で採点方法が変わったりして,入賞をのがしてしまった。他の種目でも健闘したが入賞には手が届かず,1日を終えてリボンをひとつももらえなかったエリザベスはすっかり落ちこんでしまった。
 あなたがエリザベスの父(母)親だったどうするだろうか。

 (1)お父さんはおまえが一番うまいと思う,と言う。
 (2)おまえがリボンをもらうべきなのに判定がおかしいのだ,と言う。
 (3)体操で勝とうが負けようがたいしたことではない,と慰める。
 (4)おまえには才能があるのだから次はきっと入賞できる,と言う。
 (5)おまえには入賞できるだけの力がなかったのだ,と言う。

 今の社会では,子どもの自尊心を育むことの重要性ばかりが強調され,さかんに子どもを失敗から守りなさいと言われる。そうすれば,そのときは子どもを落ちこませずにすむかもしれないが,長い目で見た場合には弊害が出てくるおそれがある。なぜだろう。
 では,先ほどの5つの反応を,マインドセットの観点からとらえて,そこに潜むメッセージに耳を傾けよう。
 1つめ(お前が一番うまいと思う)は,そもそも本心を偽っている。一番でないことは,あなた自身よくわかっているし,子どもだって知っている。こんな言葉をかけても,挫折から立ち直ることもできなければ,上達することもできない。
 2つめ(判定がおかしい)は,問題を他人のせいにしてしまっている。入賞できなかったのは本人の演技に問題があったからで,審判のせいではない。わが子が,自分の落ち度を他人になすりつける人間になってもいいのだろうか。
 3つめ(体操なんてたいしたことではない)は,少しやってみてうまくできないものは,ばかにしてかかることを教えている。子どもに伝えたいのはそんなメッセージだろうか。
 4つめ(おまえには才能がある)は,この5つの中でもっとも危険なメッセージかもしれない。才能がありさえすれば,おのずと望むものに手が届くのだろうか。今回の競技会で入賞できなかったエリザベスが,どうして次の試合で勝てるだろうか。
 5つめ(入賞できるだけの力がなかった)は,この状況で言うにはあまりに冷酷な言葉のようにも思われる。あなたならそんなふうには言わないのではないだろうか。けれども,しなやかマインドセットのこの父親が娘に言ったのは,そういう趣旨のことだった。
 実際にはこう言ったのだ。「エリザベス,気持ちはわかるよ。入賞めざしてせいいっぱい演技したのにだめだったのだから,そりゃ悔しいよな。でも,おまえにはまだ,それだけの力がなかったんだ。あそこには,おまえよりも長く体操をやっている子や,もっとけんめいにがんばってきた子が大勢いたんだ。本気で勝ちたいと思うなら,それに向かって本気で努力しなくちゃな」

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.174-176

暗黙のメッセージ

 ほめ方について,もうひとつ付け加えておきたいことがある。子どもに「あら,ずいぶんはやくできたのね!」「まあ,ひとつも間違えなかったじゃない!」と言うと,どのようなメッセージが伝わるだろうか。親はスピードや完璧さを高く評価している,というメッセージである。けれども,スピードや完璧さは,難しいことに挑戦する場合の敵。こういうほめ方をすると,「すばやく完璧に」できれば賢いと思われるのなら,難しいことには手を出すまい」と思うようになる。では,子どもがすばやく完璧に,たとえば数学の問題などを終えたときには何と言えばいいのだろう。ほめずにおいた方がいいのだろうか。そのとおり。そういうとき,私ならこう言う。「あら,簡単すぎたようね。時間をむだにさせちゃったわ。今度はもっと実になるものをやりましょう」

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.171-172

学ぶチャンスを活かす

 この疑問に答えるべく,思春期初期の子どもたち数百人を対象に実験を行なった。まず生徒全員に,非言語式知能検査のかなり難しい問題を10題やらせた。ほとんどの生徒がまずまずの成績。終わった後でほめ言葉をかけた。
 ほめるにあたっては生徒を2つのグループに分け,一方のグループではその子の能力をほめた。「まあ,8問正解よ。よくできたわ。頭がいいのね」といったぐあい。そう言われた子どもたちは,アダム・ゲッテルと同じく,有能というレッテルを貼られたことになる。
 もう一方のグループでは,その子の努力をほめた。「まあ,8問正解よ。よくできたわ。頑張ったのね」といったぐあい。自分には何かすぐれた才能があると思わせないように,問題を解く努力をしたことだけをほめるようにした。
 グループ分けをした時点では,両グループの間に差が出はじめた。懸念されたとおり,能力をほめられた生徒たち(<能力群>と呼ぶことにする)はたちまち,こちこちマインドセットの行動を示すようになったのだ。次に取り組む問題を選ばせると,新しい問題にチャレンジするのを避けて,せっかくの学べるチャンスを逃してしまった。ボロを出して自分の能力が疑われるかもしれないことは,いっさいやりたがらなくなったのである。
 努力をほめられた生徒たち(<努力群>とよぶことにする)は,その9割が,新しい問題にチャレンジする方を選び,学べるチャンスを逃さなかった。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.103-104

勉強方法のちがい

 どの学生もよく勉強したが,勉強方法に違いがみられた。大多数の学生がやっているのは,まず教科書と授業ノートを読んで,わかりにくければもう一度読み返し,掃除機さながらに片っ端から丸暗記していく方法である。こちこちマインドセットの学生の勉強法はまさにこれだった。それで良い点が取れないと,化学は苦手だと思いこんでしまう。「やれることはすべてやったんだから」と。
 とんでもない。しなやかマインドセットの学生の勉強法を知ったらびっくりするのではないか。私ですら驚いたのだから。
 しなやかマインドセットの学生は,学習意欲をかきたてる方法を自分で工夫していた。やみくもに丸暗記するのではなく「講義全体のテーマや基本原則をつかむ」努力をし,「ミスしやすいところでは完全にマスターできるまで反復練習」した。試験で良い点を取ることにではなく,しっかりと理解することに目標を置いていた。じつは,これこそが良い成績をとれた理由なのであって,もともと頭が良かったわけでも,予備知識が豊富だったわけでもない。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.92-93

「まだ」教えていません

 コロンビア大学のうちの学部では,世界中の入学志願者の中から,毎年6名の大学院生を受け入れている。みんな驚くほど試験の点数が高く,成績はほぼ完璧で,有名教授のべたぼめの推薦状を携えてやってくる。他の一流校からの誘いも受けていたりする秀才ぞろいである。
 ところがたった1日で,自分を別人のように感じはじめる学生がいる。昨日まで自信満々の優等生が,今日はみじめな劣等生。いったいどうしたというのだろう。教授たちの長い出版物リストを見ては「うわあ,自分にはとてもそんなことはできない」。学会で発表する論文を提出したり,助成金申請のための研究計画案を作成している上級生を見ては「うわあ,自分にはとても無理」。試験の点数やA評価の取り方は知っていても,どうすればこんなことができるのかはまだ知らない。学生たちはこの「まだ」という点を忘れているのである。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.43

2つのマインドセット

 自分の能力は石版に刻まれたように固定的で変わらないと信じている人——「こちこちマインドセット」の人——は,自分の能力を繰り返し証明せずにはいられない。知能も,人間的資質も,徳性も一定で変化しえないのだとしたら,とりあえず,人間としてまともであることを示したい。このような基本的な特性に欠陥があるなんて,自分でも思いたくないし,人からも思われたくない。
 教室でも,職場でも,人づきあいの場でも,自分の有能さを示すことばかりに心を奪われている人を私はこれまでおおぜい見てきた。ことあるごとに自分の知的能力や人間的資質を確認せずにはいられない人たち。しくじらずにうまくできるだろうか,突っぱねられやしないか,勝ち組でいられるだろうか,負け犬になりはしないか,といつもびくびくしている。
 それとは違った心の持ちようもある。
 初めに配られた手札だけでプレイしなくてはいけないと思えば,本当は10のワンペアしかなくても,ロイヤルフラッシュがあるかのごとく自分にも他人にも思いこませたくなる。けれども,それを元にして,これからどんどん手札を強くしていけばよいと考えてみたらどうだろう。それこそが,しなやかな心のもち方,つまり,「しなやかマインドセット」なのである。その根底にあるのは,人間の基本的資質は努力しだいで伸ばすことができるという信念だ。もって生まれた才能,適性,興味,気質は一人ひとり異なるが,努力と経験を重ねることで,だれでもみな大きく伸びていけるという信念である。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.16-17

リサーチと論文の割合

 これに関連する問題ですが,博士学位を取得するにあたってのコースワークの占めるウェイトと研究う・論文の占めるウェイトに,両国にかなりの違いがあるように思います。今日のアメリカの場合,Ph.D.の取得にあたってリサーチと論文の占める割合は,オーバーマイヤー氏からの私信によりますと,実験系で約50%,臨床系で20〜25%であろうということです。残りがコースワークの比重ですから,これがかなり高いことが分かります。しかしわが国の場合,伝統的に博士論文というものはその人の研究の集大成なので膨大なものでなければならないという考えが強く,その影響は,アメリカ型の課程博士と大学院制度になった今日にも多少残っているのではないでしょうか。それと,上記のようにコースワークの充実度が低い分だけ,わが国では博士学位取得に占めるリサーチと論文の割合を80〜90%程度に見る人が多いのではないかと思います。

J.ブルース・オーバーマイヤー 今田寛 (2007). 心理学の大学・大学院教育はいかにあるべきか 関西学院大学出版会 pp.43

ハーバードの寮って

 タイラーは思わず笑ってしまった。ジェニー,ケリー,ジニーの3人は,2年生では誰が見ても,美人ベストスリーだ。3人は,1年生の時もルームメイトだった。誰と誰がルームメイトになるかは無作為に決められることになっているはずなのだが,誰も,そんなことは信じていなかった——特に,1年生の時,彼女たちの寮室に,下5桁が“3-FUCK”になる電話番号が割り当てられてからは,偶然だと思う者はいなくなった。ハーバードの寮の管理事務所は,そういう妙な悪ふざけをするので有名だった。類似した名前の学生が同室にされるということも多かった。タイラーが1年生の時には,「バーガー」という名前と「フライズ」という学生が同室になっていたし,それから「ブラック」と「ホワイト」という組み合わせの部屋が少なくとも2つあった。そして,キャンパスでベストスリーのブロンド美女,ジェニー,ケリー,ジニーが同室で,しかも電話番号は“3-FUCK”というわけだ。おそらく誰かクビにしたほうがいいのでは,と思われる。

ベン・メズリック 夏目大(訳) (2010). facebook:世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 青志社 pp.87-88

ハーバードのコア科目

 ハーバードのコア科目は必修というだけでなく,学校側にとっては学校の「思想」「哲学」を体現したもの,と言える。学生は皆,全授業時間の少なくとも4分の1はコア科目を履修しなくてはならない。その背後には,ハーバードに来たものは全員が偏りのない教養を見に着けるべき,という思想が隠されている。コア科目は,外国文化,歴史,道徳,数学,科学,社会,などの分野に分かれている。その理念は確かに素晴らしいのだが,コア科目の実態は,その崇高な理念からはほど遠い。誰一人,その科目に関心を持って履修するわけではないために,授業の内容はどうしても「最大公約数的」なものにならざるを得ないからだ。たとえば,歴史学など,人文科学系の講座では,民間伝承や神話などを学ぶ,というくらいで深く専門的なことを学ぶような講座はない。講義中,ほとんどの時間を寝て過ごす学生も多くなってしまう。そういう人文科学系の講座は,ふざけて「ギークのためのグリーク[グリーク=Greekにはギリシャ語,という意味と同時に,理解できないもの,という意味がある]」などと呼ばれることもある。反対に,物理学の初歩を学ぶような講座は,「詩人のための物理学(Physics for Poets)」と呼ばれる。人類学系の風変わりな講座がいくつもあるが,どれも浮世離れし過ぎていて,実生活にはほとんど,いや,まったく役立ちそうもない。コア科目があるために,ハーバードの卒業生のほとんど全員が,ヤノマミ族を扱った講座を少なくとも1つは受ける。ヤノマミ族は,アマゾンの熱帯雨林で今でも石器時代さながらの生活をしている気性の激しい少数部族である。ハーバードの卒業生の中には,政治学や数学のことはよく知らないという者もいるが,ヤノマミ族について尋ねれば,彼らの気性が激しいこと,部族内で抗争がよく起きること,長い棒で戦うこと,派手なピアスをつける風習があること,そのピアスは,ハーバードスクエアのスケー度ボード場でたむろしている連中よりもすごいことなどは全員が知っている。

ベン・メズリック 夏目大(訳) (2010). facebook:世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 青志社 pp.54-55

何がラッキーかはわからない

 いま思うと,オーディションというのは,その役柄に合っているかどうかを見ているにすぎない。しかし,落とされると,自分のすべてを否定されたような気になるものだ。
 平気だと言いつつも,やはりショックだった。薬丸も,僕には声をかけづらかったという。
 普通なら入試などで体験する“不合格”の挫折を初めて味わった。
 そのときに選ばれた3人が2年後にシブがき隊になることを思えば,たしかに大きな岐路といえる体験だった。
 だが,あのとき受かっていたら,僕は少年隊に入ることも,ミュージカルに携わることもなかっただろう。
 いま僕が言えるのは,人生で何がラッキーで何がそうでないかは,簡単には決められないということだ。

東山紀之 (2010). カワサキ・キッド 朝日新聞出版 pp.87

何を重視しているのか

 学校は本来,学習サポート・サービスを若い市民に提供する組織であり,勉強を教える場であるはずだ。しかし,分数やアルファベットも理解せずに中学を卒業する者がいても,多くの教員は(困ったことではあるにしても)学校(コスモス)が崩壊したとは感じない。しかし,学習サポート。サービスを受けるクライアント(生徒)が,当然の市民的自由として髪を染めたり,ピアスをしたり,制服を着なかったりすると、教員たちは、学校が汚され、壊されたような被害感と憎しみでいっぱいになり,それがとてつもない大罪であるかのように騒ぎ立てる。
 学校は,制服を着せ,靴下の色や髪の長さまで強制し,運動場で「気をつけ」「前へならえ」をさせたりすることで,生徒を「生徒らしく」しようとする。その生徒の「生徒らしい」隷属のかたちによって,単なる学習サポート・サービスを提供するための組織の敷地に,聖なる「学校らしい」学校が顕現する。なぜ生徒が茶髪にしてはいけないのかというと,それは聖なる「学校らしさ」が壊れるからである。
 このように考えると,「生活指導に熱心」な教員たちが示す,あたかも生徒の命よりもスカートの長さや靴下の色(「生徒らしさ」)のほうが大切であるかのような,あの大げさなムードが理解可能になる。学習サポート・サービスを提供する従業員(教員)が,「生徒らしく」ないと感じたサービスの受け手(生徒)に,被害感(恥辱感)を感じて「キレ」て,暴力をふるったり,怪我をさせたりする犯罪が後を絶たないことにも説明がつく。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.206-207

囲い込みの廃止を

 学級や学校への囲い込みを廃止し,出会いに関する広い選択肢と十分なアクセス可能性を有する生活圏で,若い人たちが自由に交友関係を試行錯誤できるのであれば,「しかと」で他人を苦しませるということ自体が存在できなくなる。
 たとえば,大学の教室では,だれかが「しかと」をしようとしても,それが行為として成立しない。何やら自分を苦しめたらしい疎遠なふるまいをする者には魅力を感じないので,他の友ともっと美しいつきあいをする,という単純明快な選択を行うだけですべてが解決する。「しかと」をしようとする者は,相手を苦しめるどころか,単純明快に「つきあってもらえなくなる」だけである。
 市民的な自由が確保された生活環境であればあるほど,コミュニケーション操作で人を苦しめようとする者は,コミュニケーションがじわじわ効いて相手が被害者になる前に,単純明快につきあってもらえなくなる。被害者の候補は,邪悪な意志をただよわせた者たちから遠ざかり,より美しいスタイルの友人関係に親密さの重点を移していく。たったそれだけのことで,コミュニケーション操作系のいじめは効果を無化されてしまうのである。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.203

囲い込みの弊害

 学校のクラスに朝から夕方まで囲い込むことは,酷い「友だち」に悩む者に対して,次の二者択一を迫ることを意味する。この苦しさは,友を選択できる自由な人間には理解しがたい苦しさである。
 すなわち,ひとつめの選択肢は,過剰接触的対人世界にきずながまったく存在しない状態で数年間,毎日朝から夕方まで過ごす,というものだ。迫害してくる「友だち」とつきあうのをやめる。そして,数年間,朝から夕方まで,人間がベタベタ密集した狭い空間で,人との関係がまったく遮断された状態で生きる。声,表情,身振り,その他,さまざまなコミュニケーションが過密に共振し接触する狭い空間で,ひとりだけ,朝から夕方まで,石のように感覚遮断をしてうずくまっている状態を,少なくとも1年,長ければ数年間続けるのだ。これは,心理学の感覚遮断実験と同じぐらいの耐え難い状態だ。
 もうひとつの選択肢は,ひどいことをする「友だち」に,魂の深いところからの精神的な売春とでもいうべき屈従をして,「仲良く」してもらえるように自分の「こころ」を変える,というものだ。つまり,過酷な集団生活を生き延びるために,自己が自己として生きることをあきらめ,魂を「友だち」に売り渡す。そして,残酷で薄情な「友だち」のきずなにしがみつく。
 大部分の生徒は,後者を選ぶしかない。
 学校に限らず,人間にとって閉鎖的な生活空間が残酷なのは,このような二者択一を強いるからだ。
 また,しかとや悪口(ぐらいのこと!)で自殺する生徒がいるのは,このような生活空間で生きているからだ。市民的な空間で自由に友を選択して生きている人にとっては痛くもかゆくもないしかとや悪口が,狭い空間で心理的な距離をとる自由を奪われ,集団生活のなかで自分を見失った人には,地獄に突き落とされるような苦しみになる。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.178-179

仲良くできなくてごめんなさい

 自分がいじめグループの標的になるや,今まで仲の良かった「友だち」が見て見ぬふりをしたとか,手のひらを返したようになったとか,攻撃の先鋒に転じたといったことは,よくあることだ。学校共同体では見て見ぬふりが普通で,助けるほうが珍しい。また多かれ少なかれ他人がそういう目にあっているのを目撃することになる。「かかわりあい」が強制され,いじめグループと縁を切ることができない学校では,被害者を助けようとすると後でどんな「かかわりあい」が待っているかわからない。
 こういう残酷で薄情な共生の現場で,いじめ被害者はよく,「仲良くできなくてごめんなさい」と泣く。そして,裏切り迫害する「友だち」に「仲良くしてもらおう」と必死になる。学校の弱者は「みんなとうまくやっていけるように自分の性格を変えなければ」と思う。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.176

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