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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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「こころ」の秩序空間

 「こころ」の秩序空間においては,他人に咎を突きつけたり,言いわけをしたりする政治闘争は,行為が法や正義にかなっているかどうかではなく,もっぱら「こころ」を問題にすることによってなされる。たとえば,「あいつはムカツク」とか「ジコチュウ(自己中心的)」といった告発は,行為ではなく「こころ」を主題とした告発である。
 「こころ」を秩序化の原理とした生活空間では,いつも他人から「こころ」をあげつらわれ,たがいの「こころ」を過度に気にし,不安定な気分で同調しなければならない。普遍的なルールや正義ではなく,「こころ」や「気持ち」に準拠してクレームをつける場合,攻撃する側は,あらゆる方向から「こころ」を見られ,自分の「こころ」に反応する他人がどういう悪意を持つかわからず,それにより自分の運命がどう転ぶかわからない不安を全方位的に生きる。そして弱者は「友だち」に対してひたすらビクビクと「反省」の身振りをするのだが,それが強者にはめっぽうおもしろいのである。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.175
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他者コントロールによる全能

 それに対して他者は,自己とは別の意思を有しており,独自の世界を生きている他者である。だからこそ,いじめ加害者は,他者の運命あるいは人間存在そのものを,自己の手のうちで思い通りにコントロールすることによって,全能のパワーを求める。思いどおりにならないはずの他者を,だからこそ,思いどおりにするのである。これを,他者コントロールによる全能と呼ぼう。
 他者コントロールによる全能には,さまざまなタイプがある。いじめによるものは,そのうちのひとつだ。他者コントロールによる全能にふける人は,いじめと境界が曖昧な,近接したジャンルの他者コントロールに血道をあげていることもある。
 たとえば,世話をする。教育をする。しつける。ケアをする。修復する。和解させる。蘇生させる。
 こうしたケア・教育系の「する」「させる」情熱でもって,思いどおりにならないはずの他者を思いどおりに「する」ことが,好きでたまらない人たちがいる。
 このタイプの情熱は,容易に,いじめに転化する。というよりも,しばしばいじめと区別がつかないようなしかたで存在している。いろいろ細かく世話をしたがる情熱を周囲にぷんぷん発散している人は,他人を思いどおりに世話するお好みの筋書きを外されると,悪口を言ったり,嫌がらせをしたりする側にまわるものである。
 他人を自分が思い描いたイメージどおりに無理矢理変化させようと情熱を傾け,それを当人に拒否されたり,周囲から妨げられたりすると、「おまえが思いどおりにならないせいで,わたしの世界が壊れてしまったではないか」という憎しみでいっぱいになる。「わたしの世界を台無しにしたお前が悪い。そういうお前を,台なしにしてやる」というわけである。この思いどおりにならない者への復習もまた、しばしば教育や世話の名のもとに行われる。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.76-77

むかつく!

 少年たちは,何に対しても「むかつく」と言う。しかしじつのところ,当の本人たちも,自分が何に「むかついて」いるのかわかっていない。
 この「むかつき」は,「おなかがすいた」「歯が痛い」「あいつに嫌なことをされたけど,仕返しをすることができないからくやしい」といったものではない。また,何をしたら解消するといったものでもない。親とけんかしても/しなくても,男子と女子が仲良くしていても/していなくても,理科室のにおいがしても/しなくても,彼らは「むかつき」続けるだろう。
 この「むかつき」は,何かに対する,輪郭のはっきりした怒りや不満ではない。そうではなくて,「存在していること自体がおちつかない」,「世界ができそこなってしまっている」ような,漠然とした,いらだち,むかつき,おちつかなさ,である。こういう,いわば存在論的な不全感に直面したときの,かけ声が,「むかつく!」なのである。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.67-68

ノリの秩序

 彼らの小社会では,ノリながらやるのであれば,何でも許されるが,「みんなから浮いて」しまったら,何をやっても許されない。中学生たちはその場その場のみんなのノリをおそれ,かしこみ,うやまい,大騒ぎをしながら生きている。
 いじめで人が死んだり自殺したときですら,生徒たちは「かっこいい」と拍手喝采したり,堂々と「遊んだだけよ」と言うことがある。「どうしていじめたのか」と尋ねられて,加害生徒が,「おもしろかったから」とか「遊んでいた」といったふうに答えることもある。このようなとき,彼らは「自分たちなり」の遊びとノリの秩序にしたがって,文字通り「おもしろい」からいじめている。
 ここで「遊んだだけ」というときの遊びは,「自分たちなり」のノリの秩序に従いながら,ノリを次々と生み出す。このような秩序状態のもとでは,「みんな」の遊びに逆らうことは強烈なタブーである。また,遊びであればすべてが許される。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.41

独自の「良し悪し」

 このような小社会では独特の「よい」と「悪い」が成立している。彼らは,自分たちなりの独自の「よい」「悪い」に,大きな自信と自負を持っている。それは,きわめて首尾一貫したものだ。
 この倫理秩序に従えば,「よい」とは,「みんな」のノリにかなっている,と感じられることだ。
 いじめは,そのときそのときの「みんな」の気持ちが動いて生じた「よい」ことだ。いじめは,われわれが「いま・ここ」でつながっているかぎり,おおいにやるべき「よい」行為である。いじめで人を死に追い込む者は,「自分たちなり」の秩序に従ったまでのことだ。
 大勢への同調は「よい」。ノリがいいことは「よい」。周囲のノリにうまく調子を合わせるのは「よい」。ノリの中心にいる強者(身分が上の者)は「よい」。強者に対してすなおなのは「よい」。
 「悪い」とは,規範の準拠点としてのみんなのノリの側から「浮いている」とかムカツクといったふうに位置づけられることだ。自分達のノリを外した,あるいは踏みにじったと感じられ,「みんな」の反感と憎しみの対象になるといったことが,「悪い」ことである。
 「みんなから浮いて」いる者は「悪い」。「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は「悪い」。「みんなから浮いて」いるにもかかわらず自信を持っている者は,とても「悪い」。弱者(身分が下の者)が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは,ものすごく「悪い」。
 それに比べれば,「結果として人が死んじゃうぐらいのこと」はそんなに「悪い」ことではない。他人を「自殺に追い込む」ことは,ときに拍手喝采に値する「善行」である。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.39-40

「学校的」秩序

 現行の学校制度のもとでは,市民社会の秩序が衰退し,独特の「学校的な」秩序が蔓延している。それは世の識者らが言うように,無秩序なのでも秩序過重なのでもなく,人間関係が希薄なのでも濃密なのでもなく,人間が「幼児化」したわけでも「大人びた」わけでもない。ただ,「学校的」な秩序が蔓延し,そのなかで生徒も教員も「学校的」な現実感覚を生きているのである。人々が北朝鮮で北朝鮮らしく,大日本帝国で大日本帝国らしく生きるように,学校で生徒も教員も「学校らしく」生きているだけのことだ。この人道に反する「学校らしさ」が,問題なのである。
 いじめの事例は,人間を変えてしまう有害環境としての「学校らしい」学校と,そのなかで蔓延する「学校的」な秩序をくっきりと描き出す。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.26

ディプロマ・ミルがよく使う手

 すでに述べたように,アメリカの大学は,州の認可を受け,同時に,高等教育基準認定協議会のお墨付きの認定団体からアクレディテーションを受けないと非認定大学となる。
 ディプロマ・ミルは,もちろんそうした認定団体から基準認定を受けることができないため,代わりに,以下の手口をよく使う。

 (1)偽の認定団体(アクレディテーション・ミル)を作って認定を偽装する
 (2)アメリカでは基準認定されていると偽証する
 (3)accreditation(基準認定)以外の,incorporation(設置認可),approval(学位授与),authorization(設置認可),certification(資格認定)など似た言葉を巧みに使って認定されているように思い込ませる

小島 茂 (2007). 学歴汚染:日本型学位商法の衝撃 展望社 p.109

信用があるように見せる

 ディプロマ・ミルの生命線はいかに信用があるように見せられるかという点にある。そのための手口の1つが,名の知られた諸機関とあたかも関係があるように見せかけることである。
 ところが,国際諸機関の中には,応募すれば,だれでもどの機関でも,受け入れるところが少なくない。くだんのユネスコも申し込めばだれも自由に参加でき,資格のチェックもない。非認定大学やディプロマ・ミルも会員になっている。こうしたことを知らない人は,ユネスコと関係があるのだからと,ついつい信用してしまう可能性がある。しかし。オレゴン州はユネスコの大学リストを信頼できないと述べている。

小島 茂 (2007). 学歴汚染:日本型学位商法の衝撃 展望社 p.74

ディプロマ・ミルの条件

 ディプロマ・ミルは非認定大学であるが,非認定大学がすべてディプロマ・ミルというわけではない。ディプロマ・ミルを見分ける方法として,「インターネットでMBA・博士号を取る」(日経BP社)で,著者の笠木恵司氏は,以下の2点をあげている。

 (1)その大学の取得単位数が他の大学で互換できるか?
 (2)その学士号で他の大学院に進学できるか?

 私は大学教員であることもあって,さらに,

 (3)その博士号で他のアメリカの大学(認定大学)に教員として採用されるか?


小島 茂 (2007). 学歴汚染:日本型学位商法の衝撃 展望社 pp.22-23

可能性の排除は楽なこと

 従来の考え方に閉じこもり,ほかの可能性を排除するのは,信じがたいほど楽なものです。周りには,踏みならされた道にとどまり,塗り絵の線の内側にだけ色をつけ,自分と同じ方向に歩くよう促す人たちが大勢います。これは,彼らにとってもあなたにとっても快適です。彼らにとっては自分の選択が正しかったことになり,あなたにとっては簡単に真似できる秘訣が手に入るのですから。けれども,こうしたやり方は,人をがんじがらめにします。

ティナ・シーリング 高遠裕子(訳) (2010). 20歳のときに知っておきたかったこと:スタンフォード大学 集中講義 阪急コミュニケーションズ pp.206

期待以上のことをするという決意

 光り輝くとは,いつでも期待以上のことをすると決意することです。裏返せば,期待される最低限のことしかしないのは,その機会を自分で台無しにしていることになります。学校の訓示みたいだと思われるかもしれませんが,これは真実です。逃した機会を足し合わせると,大赤字になります。おなじ100ドルを,利回りが5パーセントと105パーセントの商品に投資した場合の違いを想像してみて下さい。時を追うごとに,その差は大きくなります。これが人生に起きていることなのです。自分が投資したことは,自分に返ってきます。そして,日々,その結果が蓄積されているのです。

ティナ・シーリング 高遠裕子(訳) (2010). 20歳のときに知っておきたかったこと:スタンフォード大学 集中講義 阪急コミュニケーションズ pp.192

キャリアは振り返ると筋が通っている

 後からみると,ほとんどの出来事や発見は,焦点が合ったように明確になります。自分のキャリアは,フロントガラスではなくバックミラーで見ると辻褄が合っている,とランディ・コミサーは言っています。この見方は,たいていの人にあてはまります。自分のキャリア・パスは,振り返ってみると,ちゃんと筋道が通っているのです。でも,将来の道はぼやけていて,不確実なことの連続です。視界が開けないとイライラしてきます。それでも,大きなチャンスが巡ってくる確率を上げるように行動することはできるのです。

ティナ・シーリング 高遠裕子(訳) (2010). 20歳のときに知っておきたかったこと:スタンフォード大学 集中講義 阪急コミュニケーションズ pp.131

能力と市場と仕事

 情熱を傾けられるものがあり,能力もあるけれど,それを活かす市場がない,という場合があるかもしれません。たとえば絵がうまくて描くのが好きだとか,サーフィンのボードづくりが好きで波乗りが得意だとしても,こうした才能を活かす市場は小さいのが実情です。自分が夢中になれることを仕事にしようとすると,欲求不満に陥るのは目に見えています。仕事にするのではなく,すばらしい趣味だと考えた方が賢明でしょう。
 逆に、能力があり,それを活かせる市場が大きいのであれば,その分野で仕事を探すべきだと言えます。たとえば,実績のある会計士なら,財務諸表を作成できる人間のポジションはつねにあります。世の中のほとんどの人は,こうして生活しています。自分のスキルを使える仕事があるけれど,早く家に帰って,自分が好きなこと——趣味に没頭したいと思っています。週末や休暇を指折り数えて待っています。あるいは引退の日を待っているかもしれません。

ティナ・シーリング 高遠裕子(訳) (2010). 20歳のときに知っておきたかったこと:スタンフォード大学 集中講義 阪急コミュニケーションズ pp.120-121

リスクを選んで取る

 何か新しいことに挑戦しようとするなら,積極的にリスクを取る姿勢が必要です。ただし,リスクは取るか取らないかの二者択一ではありません。心地いいリスクもあれば,不愉快なリスクもあるはずです。自分にとって心地よいものは,危険性を割り引いてリスクだとすら感じないのに,不愉快なものは必要以上に警戒する可能性もあります。たとえば,スキーで斜面を急滑降するとかスカイダイビングが好きな人は,こうした活動をリスクが高いとは思いません。もしそうだとすれば,身体的に大きなリスクを取っているという事実が見えていないのです。わたしのように身体的なリスクを取りたくない人間は,スキーに行っても山小屋でホットチョコレートを飲み,飛行機に乗れば座席ベルトをしっかり締めて座っています。逆に,大勢の前でスピーチをするといった社会的なリスクを取るのが平気な人もいます。わたしはそのタイプで,リスクだとは思っていません。でも,嬉々としてスカイダイビングに興じても,パーティで乾杯の音頭をとるなどもってのほか,という人もいるのです。

ティナ・シーリング 高遠裕子(訳) (2010). 20歳のときに知っておきたかったこと:スタンフォード大学 集中講義 阪急コミュニケーションズ pp.114

自分に許可を与えればよい

 リーダーになろうと思ったら,リーダーとしての役割を引き受けることです。ただ自分に許可を与えればいいのです。組織のなかに穴がないか探す。自分が欲しいものを求める。自分のスキルと経験を活かせる方法を見つける。いち早く動こうとする。過去の実績を乗り越える。チャンスはつねにあり,見つけられるのを待っています。誰かに声をかけられるのを待ちながら,慎重に様子を見るのではなく,チャンスはつかみに行くのです。がむしゃらに働かなければいけないし,エネルギーも使います。意欲も必要です。でも,これこそがリーダーをリーダーたらしめている資質であり,指示待ちの一般人とは違っているところなのです。

ティナ・シーリング 高遠裕子(訳) (2010). 20歳のときに知っておきたかったこと:スタンフォード大学 集中講義 阪急コミュニケーションズ pp.86

アイデアを発展させる演習

 とはいえ,実際にブレイン・ストーミングに参加した経験があるなら,そんな風にうまくいかないことはご存知でしょう。言い出しっぺは自分だ,このアイデアは自分のものだという感覚からはなかなか抜けられません。『Improv Wisdom(即興の知恵)』を書いたパトリシア・ライアン・マドソンは,「アイデアに悪いものなどない」と「ほかの人のアイデアを発展させる」という2つの命題を両立させる,すばらしい演習を編み出しました。まず,グループを2人組に分けます。ひとりがパーティを計画し,もうひとりに提案します。提案された方は,どんなアイデアも否定し,どうしてダメなのか理由を言わなくてはなりません。たとえば,「土曜の夜にパーティをしよう」と誘われたら,「ダメ。美容院に行かなくてはいけないから」などと答えるのです。これを2,3分続けると,提案する方はフラストレーションが溜まりますが,その一方で,なんとか相手にイエスと言わせるアイデアを思いつこうと頑張ります。しばらくしたら役割を交代し,いままでノーと答えてきた人が,パーティの案を考えることにします。提案された方は,今度はすべてイエスと答え,なにか付け加えなければいけません。たとえば,「土曜の夜にパーティをしよう」と言われたら,「そうしましょう。わたしはケーキを持っていくわ」などと答えるわけです。これをしばらく続けていると,思いも寄らない飛躍をすることになります。パーティが開かれる場所が海中やよその惑星だったり,見たこともない料理や,奇抜な余興が用意されたりすることになります。その場のエネルギーが高まり,気持ちが高揚し,数え切れないほどのアイデアがつぎつぎと生まれます。

ティナ・シーリング 高遠裕子(訳) (2010). 20歳のときに知っておきたかったこと:スタンフォード大学 集中講義 阪急コミュニケーションズ pp.57-58

経験が邪魔をする

 過去の災害経験が,個人やコミュニティに,新たなる災害への免疫をもたらすという事実は,これまで多くの人々によって,繰り返し指摘されてきたところである。
 だが,この種の免疫は,心理学の言葉を使うと「般化」しないのである。免疫効果が災害因の枠を越えて拡大しない。
 たとえば,洪水に対して被災経験がある場合についてみると,洪水の被災経験のある人は,新たな洪水に対しては,ある程度の自信をもって切り抜けられるとしても,津波や地震に対してはその経験は役に立たないし,自信ももてない。かえって,被災経験がアダとなって害を及ぼす場合さえある。
 また,洪水の被害に繰り返し遭う場合のように,過去に経験したのと同じ災害因に出会う場合でも,災害の規模やその発生のしかたが過去と著しく異なる場合には,せっかく獲得した免疫もほとんど役に立たない。
 これは,私がある放送局のディレクターから聞いた話だが,
 「2000年の8月の愛知県の岡崎の豪雨では,不幸にして3人の死亡者が出た。その中の1人は,キッチンの流しの上で難を逃れようとしたが,水が天井まで達したために,犠牲となってしまった」
 という。
 この人は,2000年の東海豪雨のときにも,同じように流し台の上に避難したそうである。この時には,水は首のあたりにまで達したが,それ以上,水位は上がらなかったそうで,そのときの成功経験が災いしたのではないかという。そのようなことも,現実にはあるのだ。

広瀬弘忠 (2009). どんな災害も免れる処方箋:疑似体験「知的ワクチン」の効能 pp.143-144

知的ワクチン

 マス・メディアが与える知識では不十分である。学校教育の中で行われる防災知識教育も十分ではない。知的ワクチンの中に含まれなければならない最も重要な要素は,危険と結びつく感情や情動を換気するしくみである。特に,危険に対する「恐れ」を生み出すワクチンを作り,これを積極的に利用することが求められる。

広瀬弘忠 (2009). どんな災害も免れる処方箋:疑似体験「知的ワクチン」の効能 pp.127-128

大学の学費上昇=貧乏人は来るな

 大学教員ですので言いにくいことではありますが,大学の学費は,物価の上昇率よりもずっと速く上昇しています。
 例えば,1975年度,国立大学の授業料は年間3万6000円でした。これが2008年度では,授業料が53万5800円(現在,国立大学は独立行政法人化されているため幅がありますが,この数字が標準額です)になっています。私立大学で同じように比べてみると,18万2677円だった授業料が,84万8178円になっています(学部学科で違うので,あくまで参考ですが)。
 この34年で,国立大学の授業料は,額面で約14.88倍,私立大学は約4.64倍になっています。ところが,消費者物価指数をもとに,物価が何倍になったかをみてみると,約1.83倍にしかなっていません。
 いかに大学の学費が高くなっているかがわかります。今や国立大学でさえ,初年度にかかる入学金と学費の合計は,80万円を超えます。理由はどうあれ,大学教育が昔に比べて数倍もの価値があるものになったとは言い難く,どうみても高くなりすぎている,といわざるを得ません。これでは,貧乏人は大学に来るな,といわんばかりではありませんか。

神永正博 (2010). 未来思考:10年先を読む「統計力」 朝日新聞出版 pp.83-84

教育レベルと非科学信奉

 しかし,教育程度が高まれば,超常的信奉が一様に高まるというわけではない。教育程度が高まると,宗教的な超常的信奉,たとえば,天国,地獄,悪魔,創造説などはかえって低下するのである。政治学者トム・ライスによる2003年の報告では,宗教と超心理の信奉の比較をしている。その調査は1200人の回答者を対象に行なわれ,分析結果では,教育程度があがると,宗教的な超常的信奉は低くなる一方,超心理信奉は逆に高くなったのである。この事実は2003根rんのハリス・ポールの調査でも確認された。近年の超心理信奉の増加は,教育レベルが平均的に高く,特定の支配的宗教がないスウェーデンでも見られている。

ディーン・ラディン 竹内薫(監修) 石川幹人(訳) (2007). 量子の宇宙でからみあう心たち:超能力研究最前線 徳間書店 pp.81-82

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