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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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ロールシャッハを学ぶ院生に伝えるべきこと

 包括システムの最近の問題を軽視したり,言い訳したりして,その訓練をし続けている大学院課程は,次のような多くの語られないメッセージを学生たちに伝えていることを銘記すべきである。

・未出版の,公共の吟味にかけることができない研究を参照することによって,科学的議論を強化してもよい。
・データに重大な誤りがある場合,それを他の科学者が吟味できないように隠してもよい。
・よく研究されていないうつ病尺度を臨床現場で使用する目的で売り込んでもよい。またこの尺度が多数の追試研究で支持されなかったとしても,それが妥当であると主張してもよい。
・検査スコアが独立の研究チームの追試によって支持されなくても,それを法廷に持ち込んでもよい。
・あるテスト基準が毎日多くの患者に対して用いられていても,その基準に問題があることを公表することを何年間も差し控えてもよい。

 次の世代の臨床心理学者のために,よりよい職業的および科学的営みのモデルが示されるべきであるという私たちの提言が,極端にすぎるとみられることがなければよいのだが。

J.M.ウッド,M.T.ネゾースキ,S.O.リリエンフェルド,H.N.ガーブ 宮崎謙一(訳) (2006). ロールシャッハテストはまちがっている—科学からの異議— 北大路書房 p.252
(Wood, J. M., Nezworski, M. T., Lilienfeld, S. O., & Garb, H. N. (2003). What’s Wrong with the Rorschach?: Science Confronts the Controversial Inkblot Test. New York: John Wiley & Sons.)
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絶えずこねている粘土のようなもの

 「脳の活動は,たえずこねている粘土のようなものです」。わたしたちがなにをしても,この粘土のかたまりを形作ることになる。ただし,と彼はつけ加えた。「粘土の四角いかたまりからはじめて,それを丸いボールにして,また四角にもどすことはできるでしょう。でも最初と同じ四角にはなりません」。
 似たように見えて,同一ではない。新しい四角のかたまりは,分子の配列がちがっている。言い換えれば,同じ行動であっても,それをおこなうときが異なれば,使う回路も異なる。神経の問題や心理的な問題をかかえた患者が「治った」としても,患者の脳は「最初にあったとおりの状態」にもどることはない。
 「脳システムに備わっているのは可塑性であって,伸縮性ではないのです」パスカル-レオーネはよく響く声で言った。伸縮性のあるゴム紐は伸びて,かならずもとの形にもどる。その過程で,分子構造が変化することはない。可塑性のある脳は,なにかに出会い,相互作用があることでたえず変化する。
 そこで問題が生じる。脳がそれほど簡単に変化するなら,どのようにして過度の変化から守られているのか?脳が粘土にたとえられるくらい変化するなら,どうしてわたしたちはわたしたちのままでいられるのか。わたしたちは,遺伝子によって,ある程度までは一貫性を保つことができる。さらに,反復も一貫性を保つために有効である。
 パスカル-レオーネはこんな比喩を使って説明してくれた。脳は,冬に雪が積もった丘陵のようなものだ。斜面や岩,一面の雪景色は,遺伝子であり,あらかじめあたえられている。山をソリで滑り降りるとき,わたしたちはソリを操って斜面の下にたどりつく。このときの経路は,ソリの操り方と丘の特徴によって決まったはずだ。どこにたどりつくかは,あまりにたくさんの要因が絡んでいるために,予想することは難しい。
 「でも」とパスカル-レオーネは言う。「斜面を二度目に滑降すると,最初の経路付近を滑ることになっているのに気づきませんか。まったく同じ経路ではないけれど,ほかの経路よりもそれに使いところを滑ったのです。そして,その日の午後,斜面を登っては滑り,登っては滑り,をくり返していたらどうでしょう?何度も通った筋もあれば,あまり通らなかった筋もあるはずです。経路によってばらつきがでるのです……あなたが作った道筋ができていて,そこからはずれるのは難しくなっている。その道筋を決めたのは,もはや遺伝子とは言えないのです。

ノーマン・ドイジ 竹迫仁子(訳) (2008). 脳は奇跡を起こす 講談社インターナショナル Pp.246-247.

新しい技能を身につける法則

 パスカル-レオーネは,TMSを使用して運動野をマッピングし,「点字を読む指」の脳マップが,もう片方の人さし指よりも大きく,また,点字を読まない人の人さし指よりも大きいことに気づいた。被験者が,1分間に読める語が多くなるにしたがって,その運動野マップも大きくなることもわかった。しかし,なによりも驚くべきは,1週間ごとに起こる変化だった。これは,点字以外の技能を身につけるときにも参考になるにちがいない。
 被験者は,毎週金曜日(その週の学習を終えたとき)と月曜日(週末の休みのあと)にTMSでマッピングを受けた。パスカル-レオーネは,金曜日と月曜日で,変化がちがうことに気づいた。実験開始当時から,金曜日のマップは急速かつ劇的に大きくなる。だが,月曜日になると,もとの大きさにもどってしまう。金曜日のマップは,6ヵ月間,大きくなりつづけた。だが,どうしても月曜日になると,もとの大きさにもどってしまうのだ。半年経っても,金曜日のマップは依然として拡大したが,最初の6ヵ月ほどではなくなった。
 月曜日のマップは,これと反対のパターンを示した。訓練をはじめてから6ヵ月は変化がなかった。だが,その後,だんだんと拡大していって,10ヵ月で学習曲線が平らになった。被験者が点字を読むスピードと相関関係があるのは,月曜日のマップのほうだった。また,月曜日の変化は金曜日のように急激になることはなかったが,安定していた。10ヵ月経って,点字を習っていた生徒たちは2ヵ月の休みをとった。休暇を終えてもどったときに,ふたたび生徒たちのマッピングをすると,2ヵ月前の月曜日のマップと同じだった。毎日の訓練により,その週には急激で短期的な変化が生じる。だが,週末をはさんだり,数カ月の休暇を経ても依然として残っているのは,月曜日のマップに見られる永続的な変化なのである。
 パスカル-レオーネは,月曜日と金曜日に異なった結果が得られたのは,可塑性のメカニズムが異なるせいではないかと考えた。金曜日の急速な変化は,現存するニューロンの結合を強化し,回路の表面を剥がした結果だ。ゆっくりとした,より永続的な月曜日の変化は,真新しい構造が作られていることを示唆している。おそらく,新しいニューロンの結合ができ,シナプスが芽を出しているのだ。
 この「ウサギとカメ」効果から,新しい技能を身につけるには,なにをやらなければならないかわかるだろう。テストのための一夜漬けなど,短い訓練によって成績をあげるのは比較的簡単だ。これは,おそらく現存するシナプスの結合を強化しているからだ。だが,詰めこんだものは,すぐに忘れてしまう。手にいれるのもたやすければ,失うのもたやすいニューロンの結合であり,急速にくつがえされてしまう。向上を維持し,技能をしっかりと身につけるためには,ゆっくりとした地道な努力が欠かせない。それが,おそらく新しい結合を作るのである。もし学習者が,進歩がないとか,「ザルのように」端から忘れてしまうと思っているのなら,「月曜日の効果」が得られるまで継続して学習する必要がある。点字を読む生徒たちは,この効果が得られるまでに6ヵ月かかった。のろのろと学んでいく「カメ」タイプの人が,「ウサギ」タイプの友だちよりも,よく習得できることがあるのも,これによって説明できるだろう。「急ぎ足の勉強」では,学習したことがしっかり身につかない。学んだことを固定化するには,持続的な学習が欠かせないのである。

ノーマン・ドイジ 竹迫仁子(訳) (2008). 脳は奇跡を起こす 講談社インターナショナル Pp.233-235

樹木の循環系

 樹木の循環系に関する知識は,一般にはなじみが薄いと見えて,その働きについては,いまだにあいまいな話がまかり通っている。人類が植物に頼っていることを思うと,なんとも馬鹿げた話なのだが……。
 教える立場からすると,特に植物と菌類との関係を説明する際,手にとれるものを使って学生たちに話すと効果があるので,植物の幹の説明にはいつも腕の話を持ち出すことにしている。仮定の実験だが,私は「君の腕のひじの上を紐で固く縛ってみろ」と言う。「腕の血管が膨らんできたら,指でそれをなぞってごらん。血液の逆流を防いでいる弁がわかるはずだ。睡眠薬があったら,たっぷり飲んで2,3時間寝込んでもいいが,朝まで紐を緩めないでそのままにしておくと,目が覚めることには,縛った腕先が気持ち悪いほど変色しているはずだ。もし,その止血帯を長い間そのままにしておいたら,腕は壊疽になり,腐って落ちてしまうぞ」と話す。アメリカグリが胴枯病にかかったときも,これとまったく同じ状態に陥るのである。


ニコラス・マネー 小川真(訳) (2008). チョコレートを滅ぼしたカビ・キノコの話:植物病理学入門 築地書館 p.18

必要とされる奨学金政策

 家計への教育費負担を軽減し,教育の格差を是正するためには,授業料を下げたり,奨学金を充実させることが有効であることはすでに述べたとおりである。ほとんどの先進国では,返済する必要のない給付奨学金制度がある。これに対して,現在の日本では,学部段階では,授業料免除以外に公的な給付奨学金はない。しかし,現在の日本の公財政の状況を考えると。税の引き上げなどをしなければ,給付奨学金のような教育に対する公財政支出を増やすことは難しい。この隘路に対して,貸与奨学金(学資ローン)が有効であると考えられている。実際過去10年間,日本学生支援機構の有利子貸与奨学金は爆発的に増加している。しかし,現在のような低金利時代にはあまりピンとこないかもしれないが,金利が上がれば有利子奨学金の場合には利子の負担もばかにならないことも考慮しなければならない。
 また,奨学金がもし単なるローンとりわけ民間金融機関ローンであれば,営利のためには,利子率にはリスク・プレミアムを加えることになり,その分だけ返済額は大きくなる。これが低所得層にとって不利になることは言うまでもない。この点への配慮も今後の大きな課題であろう。
 さらに,これまで明らかにしてきたように,将来のローン負担を恐れて貸与奨学金を借りない親や学生も存在することを示している。この問題に対処するためには,目的と対象を限定した給付奨学金が必要ではないかと考えられる。アメリカのベル給付奨学金のように,経済的必要性にのみ基づくニードベースの奨学金が,教育の機会均等の点からは最も有効であると考えられる。しかし,現在の日本の状況では,完全なニードベースの給付奨学金は公正の観点から受け入れがたいのではないだろうか。日本学生支援機構の奨学金(貸与)は,日本育英会の時代から育英(メリットベース)と奨学(ニードベース)の2つの基準を併用してきた。この点からもニードベースだけでなく,これにメリットベースの基準を加えた給付奨学金が日本の現状にふさわしいと考えられる。これまでのエリート型の「育英奨学」に代わる高等教育の大衆化に対応した奨学金政策が必要であろう。

小林雅之 (2008). 進学格差ー深刻化する教育負担ー 筑摩書房 p.174-176

家計は進学を規定する

 高校生の進路に対する学力の影響と所得階層の影響は非常によく似ている。つまり,多くの人が薄々感じているかもしれないが,学力が高いほど,そして所得階層が高いほど大学進学率は高い。進路を詳細にみると,学力と並んで,家計の経済力の大きさは進学を規定する,きわめて重要な要因であることが改めて確認できる。

小林雅之 (2008). 進学格差ー深刻化する教育負担ー 筑摩書房 p.52

大学の役割

 イノベーションを進めるためには大学が積極的に参加することも必要であるが,大学の役割はそれだけではない。遠い将来に役に立つかもしれない研究,あるいはとうてい役に立つとは思えないような研究をするのも,大学の重要な役割であるはずだ。経済成長力だけに価値を置いているような人から見れば,無駄としか思えないような研究をしている人が大学にはたくさんいる。ローマ法王の成立,アラビア語の文法,古今和歌集の解釈,銀河系の成立,発光物質,森林の再生など,産業界の人から見れば,「選択と集中」の対象外としか考えられないのではなかろうか。しかし,このような研究がなくなれば,日本は底の浅い,文化力のない国になってしまうに違いない。

黒木登志夫 (2009). 落下傘学長奮闘記 大学法人化の現場から 中央公論新社 p.287

空疎な言葉が踊る

 行政や識者たちを動かしているのは間違いなく,コミュニティの崩壊と規範意識の喪失を嘆く「道徳」的な熱情だ。だからこそ,あらゆる場面で,家庭や地域社会の再活性化がノスタルジックに叫ばれるのであり,「愛」や「こころの教育」などといった空疎な言葉が踊ることになるのだ。
 だが,こうした情熱の難点は,かつてコミュニティなるものが密にあり,規範意識が確固としてあったとされる時代のほうが,先にあげた統計が示すように,凶悪で猟奇的な犯罪が桁違いに多く発生していたという,きわめて単純な事実である。


芹沢一也 (2009). 暴走するセキュリティ 洋泉社 p.57-58

人類の進歩に貢献する

 次女が高校入試の面接のときに,「将来の夢は何ですか」と聞かれて,「人類の進歩に貢献する」と答えたんです。普通は,「資格を取って保母さんになる」というような答えが返ってくるのかもしれませんが,それで次女の面接の担当だった先生はどうしたか。目をそらして「じゃあ,○○さんは?」と隣の子に矛先を移した。うちの娘は完全にスルーされた。
 そのとき次女は「何か燃えた」と言います。何に燃えたのかというと,生徒がそういうことを言ったら普通,反応が来てしかるべきでしょう,と。「あなたの言う,人類の進歩に貢献するとはどういうことなんですか」などと聞いてくれれば,その問いに精一杯答える準備があったのにと悔しがる。
 長女のときはこんなふうじゃなかった。長女が行っていたのは古い歴史がある都立高校で,その高校からは各方面で活躍した人がいっぱい出ている。面接のときに,長女は「わたしも,この偉大な伝統の一部になる」って高らかに宣言したら,卒業式のときに国語の先生が「Mさんの面接の受け答えを今でも覚えている。素晴らしかった」と言ってくれました。

鈴木光司・竹内 薫 (2009). 知的思考力の本質 ソフトバンク クリエイティブ p.160-161

重大な局面では「やっていいこと」をせよ

 太平洋戦争の記録を読んでいて,僕がとても気になるのは,「やってみなければわからない」という言葉です。当時の日本人は重大局面でしばしばそう口にしましたが,これは単に経験のない人間が口にする言葉です。
 重大な局面において「やってみなければわからない」ことをやってはいけません。「やってみなければわからないこと」は教育の場でこそやるべきです。
 教育の場では失敗が許されます。やってみて,しくじって,反省をフィードバックして学び,またやってみる。このような学習のサイクルを通じて人は,自分のできることを知り,眼前の問題を的確にとらえる能力を高めて,何をやってよいのか,何をやってはダメなのかを経験的に知ります。そして重大な局面においてはできるだけ,「やっていいこと」をする。そのためのトレーニングが教育です。

鈴木光司 (2009). 情緒から論理へ ソフトバンク クリエイティブ p.187-188

ほめるのは本来自然な気持ち

 ほめるという行為は,本来,自然な気持ちのあらわれです。「ほめる教育」におけるほめるという行為は,この点において異なります。自然な気持ちのあらわれなどではなく,ほかのねらいをもったきわめて意図的な行為です。
 相手の活動・行動・行為あるいはその結果に感心して,「じょうずだね」「おもしろいね」「すごい!」「よくがんばったね」などとほめるのは,自然な気持ちのあらわれです。本心からそう思い,そしてそれを言葉にしてあらわしているにすぎません。なにか別の意図やねらいがふくまれているわけではない。なにかのためにほめるのではなく,ほめたいからほめるのです。
 それにたいして,「ほめる教育」の場合には,ほめることそのものは本来の目的ではないのです。本来の目的は,ほめることを通して相手に影響をあたえることです。相手の心と行動に影響を与え,やる気を出させたり,自信をもたせたり,伸びていくようにする----。つまり,こちらが望んでいるような方向へと向かわせることがねらいなのです。そういう意図のもとにほめるわけです。いわば,下心のある行為です。本心からほめることとは,明確に区別される行為なのです。

伊藤 進 (2005). ほめるな 講談社 p.82-83.

ほめる教育は価値付け

 この「ほめる教育」の視点は,じつは,「ほめられるところがあれば価値があり,そうでなければ価値がない」という価値観にもとづいています。多分,「ほめる教育」推奨派の人たちはこのことを明確には認識していないのではないかと思います。しかし,はっきり認識しておくべき点です。
 一見,どこにもほめるべきところがないような子どもがいたとします。「ほめる教育」では,それでもどこかにほめてやるところがないかを探します。そして,なんとかほめてやる----。
 それによってはじめて,その子には価値が生じたのです。ほめられるようなところがひとつもなければ,その子には価値がないわけですから,とにかくすこしでもいいと思われるところを探してほめる。それで価値を付与する。

伊藤 進 (2005). ほめるな 講談社 p.47-48

よいところを無理に見つける教育の弊害

 すこしでもよいところを見つけてほめる----この「ほめる教育」の接し方は,子どもや若者をつねに「よいー悪い」の評価の対象として見るということを意味します。子ども・若者の行動を「よいー悪い」という点において価値づける評価のものさし(尺度)を,頭のなかにつねに用意しておく。子どもや若者がなにかをしたら,即座にそのものさしをあてはめる。そして,すこしでもプラスの値がふくまれていたら,よくできたとか,がんばったねどとほめる----。
 そういうことをやっているのです。これは,ひとりの人に接する接し方としては,かなりかたよった接し方だということを認識しておくべきです。このような評価のものさしをあてはめることなどしないで,その人のありのままの姿をそのまま受けとめて接するということだって十分に可能なわけですが,それとは遠くかけ離れた接し方なのです。


伊藤 進 (2005). ほめるな 講談社 p.46-47

理工系への興味は教えられて高まるものではない

 本物の理工系人間,特に工科系の人間は,出発点からして違っている。彼らにモノづくりをさせるため,ああしろこうしろと教える必要はない。言われなくても作ってしまうからである。教育する前から,モノづくりの衝動があるのだ。才能のある本物の理工系人間は,しばしば教える側よりも優秀である。彼らは,誰に教わるでもなく,自分の思うままに学び,実践し,技術を習得していく。彼らは,社会状況がどうなっても,理工系を選択するに違いない。社会的に有利だろうが,不利だろうが,そんなことはこれらの選択を変える力をもたないだろう。金融のほうが儲かる?それがどうした。彼らは,モノをつくるために生まれてきたのである。金勘定など二の次なのだ。

神永正博 (2008). 学力低下は錯覚である 森北出版株式会社 p.93

学力低下の原因は大学が定員を減らさないから

 こうなると,A大学では,これまでと同様のレベルの学生も入学しているものの「いままでよりもできない学生も入学」することになる。B大学,C大学では,これまで獲得できていた成績上位者が,上のレベルの大学に行ってしまうだけでなく,下位の学生が入学してくることになり,「全体のレベルが低下」することになる。これは,どの大学の先生も「これまでよりできない学生」が増えたと感ずることと矛盾しない。これは,

 これまでと高校生の学力レベルが全く変わらなかったとしても,大学の入学定員を減らさなければ,大学志願者数が減るごとにどの大学においても学生の学力は下がる

 という当然の事実に過ぎない。
 この単純なモデルの意味するところは,学力が低下して見えるのは,少子化に連動して大学の定員が減っていないからだ,ということなのである。
 注意して欲しいのは,これはたとえば,大学の教員すべてにアンケートをとって,「最近の学生の学力はどうですか」と聞いたとき,全員が「できなくなった」といっているにもかかわらず,学生の学力は集団として何も変化していない,ということなのである。このような場合,個々の意見の平均が全体の質を反映しないのである。

神永正博 (2008). 学力低下は錯覚である 森北出版株式会社 p.38-39.

ゆとり教育導入のタイミング問題

 ゆとり教育がフィンランド型の教育に近い線を狙っていたのだとすれば,理念そのものには大きな問題はないように思える。筆者の考えでは,ゆとり教育が受け入れられず,現場が混乱した決定的な要因は,導入のタイミングが悪かったことである。中央教育審議会第一次答申(1996年7月)には,受験戦争によって子どもたちの生活からゆとりが失われているという趣旨の指摘がある。答申は1996年だが,問題が発生していたのは,これ以前であり,受験戦争の激化がゆとり教育導入に対する追い風になっていたのは間違いない。
 しかし当時でも,人口統計を眺めてみれば,少子化が起きることははっきりしていたはずである。少子化につれて,受験が緩やかになり,受験については自動的に「ゆとり」が発生する。少子化のタイミングでは,ゆとり教育を導入しないほうがよかったと言わざるを得ない。逆に言えば,子どもの数がどんどん増えているという状況であれば,ゆとり教育に対する抵抗もずっと少なかったに違いない。子どもの数が増えている時代には,つめこみ教育が批判されており,ゆとり賛成派が多数派だったのだ。

神永正博 (2008). 学力低下は錯覚である 森北出版株式会社 p.35

高校までの内容は十分に高度

 高校までに習うことというのは,世間で了解されているよりも,はるかに高度なのである。それは,量的にも膨大であり,仕事にも相当使えるものが多い。よくいわれることであるが,中学や高校で習う英語さえしっかりわかっていれば,通常の英語の本ならばほとんど何でも読むことができるし,もちろん,数ページ程度の英作文も楽々できるはずである。しかし,ほとんどの人が高校を卒業しているにもかかわらず,これがほとんどできないことを考えてみれば,高校英語がいかに高い水準であるかがわかるだろう。

神永正博 (2008). 学力低下は錯覚である 森北出版株式会社 p.50

学習の基本は模倣

 読んでおもしろかったもの,自分の好みにあうなと思ったものを,手本にして文章を書くというのは有効なトレーニングである。それは自分らしさの微塵もない物真似にすぎない,と言う人がいるかもしれないが,学習の基本は模倣することにあるのだ。真似ているうちに,だんだん自分の文章というものができあがってくるのだ。


清水義範 (2004). 大人のための文章教室 講談社 p.191

利口そうに書く

 人は文章を書く時,ついつい利口そうに書きたくなる。それは当然のことで,それがうまくできたら名文になるのだが,失敗すると目もあてられない悪文になるというおそろしい一面がある。学者などが知識をひけらかし,奇をてらい,しばしば言葉足らずに自分にしかわからない難解な文章を書くのがその例である。


清水義範 (2004). 大人のための文章教室 講談社 p.93


脳と教育

 教育を「中枢神経回路を構築する過程」とみる態度は,民主主義的教育には不可欠な次のことを見すごしてしまう可能性がある。
 たとえば,教員の教え方やテキストの問題。教育プログラムを生徒個々人に合わせて柔軟に変えたり見直したりすべきこと。何を学ばせるかはその生徒の文化的背景や社会環境によって変わってくること。学びやすい環境や人間関係を構築すること。学習が実社会とのつながりによって動機づけされるべきこと。学ぶ目的と内容の決定に生徒自身を参画させるべきこと。一般教育が個人の自律性を養成するものである限り,知識の獲得や価値の習得と同時にそれに対する批判的態度を身につけさせるべきこと。知を個人の専有物とは考えずに,共同で制作し共有するものと考えること。学ぶ意欲は問題解決にこそあり知識を注入されることにはないこと。教育自身が現実の問題解決に貢献しなければならないこと---。
 民主主義的な教育哲学がこれまで培ってきたこれらの理念に対する考慮は,先の脳科学的な教育観に見出せるだろうか。
 脳テクノロジーの教育への応用そのものは,批判すべきことではない。しかし管理主義的な発想から生み出された脳テクノロジーが心理主義に陥ることは必然である。とくに,欧米ではなく,日本の教育システムの中に脳テクノロジーが導入されたときには,社会のために個人を教育するといった復古的な教育観を助長する可能性が高いように思われてならない。新しいテクノロジーは,古くさい考えを実現する手段を与えてしまうだろう。


河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.206-207.

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