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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「教育」の記事一覧

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学生数の多さのメリット

 早稲田が学生数4万5000人,慶応が2万8000人と両校ともに多くの学生を抱えている。特に早稲田のマスプロぶりがめだつ。当然ながら多くの卒業生が社会に出る。多くの卒業生がいれば,そのなかから才能豊かで,かつ頭角を現す人が多くなる可能性は高い。政治家や経営者の輩出についても,この卒業生の多さは有利に作用すると述べたが,組織に入らず個人としてリーダーや有名人となる人が出てくる可能性も高まる。小さな大学であればそれだけ人数が少ないので,めだつ人の数も少なくなる。
 早稲田はこの点で傑出しており,個人の才能と努力が結実して,各分野のリーダーを多く輩出している。このことが世に知られるにつけ,こうした世界で活躍したいと希望する人が,早稲田に入学したいと思うのは自然なことである。
 以上をまとめると,卒業生の数が多いことは,それらのなかから傑出した人を輩出する可能性を高めるが,学校の名声が高まると,それにつづこうとする有能な若者が入学してくることも忘れてはならない。大学の評価が確立されると,入学してくる学生の質がよくなることを意味しているのである。

橘木俊詔 (2008). 早稲田と慶応 名門私大の栄光と影 講談社 pp.49-50
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眠っている才能

 「眠っている才能」などという表現を耳にすることがあるが,もしも本当に,何億人かにひとりの才能がどこかに埋まっていれば,その才能は必ずひとりでに輝きだして,埋もれてしまうことを拒むはずだ。きっと誰かに発見されるはずなのである。だから,本物の才能がどこかで眠り続けているはずはないし,残念ながら,その才能の持ち主があなたである確率もほぼゼロに等しい。

押井 守 (2008). 凡人として生きるということ 幻冬舎 p.150

権力の金属疲労

 今の社会に住む者のやり切れない想いは,おそらく,小学校の5,6年生からすでに芽生える。この頃から,こういう巨大な「権力」の中で,個人の無力さを思い知らされることに起因しよう。
 しかし,立ち止ってさらによく考えてみると,そういう緻密な「権力」の構造にもあちこちに「金属疲労」のようなヒビが入りはじめているのではないか。そして,そのヒビが,種々の条件で集中して現出しているのが家庭を含めた教育現場ではないか。動物を愛護し,子どもを可愛がり,狭い国土の中でお互いに気を使い合い,極力ことを穏便に済まそうとするわが国の伝統にもかかわらず,学校というもっとも理想の実現に近いはずの場において,それとは逆の営みが日々行われ,深刻化してゆく。この中で耐えている子どもや青年には気の毒だが,この矛盾の中にこそわれわれは巨大な現代社会の「権力」の「金属疲労」を実感しうるのである。


江森一郎 (1989). 体罰の社会史 シリーズ・子どものこころとからだ 新曜社 pp.260-261.

日本人の体罰は欧州に比べ少なかった

 来日した西洋人が,日本の教育や体罰をいかにみていたかは,比較史的観点からもきわめて興味深い。ここではツンベルク以降の著名な記録を,石附実『教育博物館と明治の子ども』などを参考にして紹介してみたい。
 まず,有名なドイツ人で長崎出島オランダ商館医師シーボルトの『シーボルトの最終日本紀行』(1859,安政六年)のものから。
 「西洋にある様な,学校の処罰は少しもなく,その上我国の様に,先生から体罰を受けるような日本の門弟は,是がために不名誉となって恐らくはその家庭から放逐されてしまうであろうし,又学友の眼には悪人となるであろう。児童教育にあっても,少なくとも知識階級には全然体刑は行われて居ない,是がため,私は我国で非常に好まれる鞭刑を見たことがなかった」。
 幕末のイギリス外交官オールコックの『大君の都』では
 「(日本人は)決して子どもを撲つことはない。文化を誇る欧羅巴の国民が,哲学者たちの賢明なる注意を他にして,その子どもたちに盛んに加える,この非人道的にして且つ恥ずべき刑罰法を,私は日本滞在中見たことがなかった」。


江森一郎 (1989). 体罰の社会史 シリーズ・子どものこころとからだ 新曜社 pp.83-84.


18世紀の日本

 以上,18世紀の体罰論の大勢をみてきたが,この時期の体罰論調を締め括るものとして,安政四(1775)年に来日した,スウェーデン出身のオランダ東インド会社医官で植物学者であったツンベルクの次のことばがふさわしいと言えよう。

 彼等(日本人)は,決して児童を鞭つことなし。……(日本では)ヨーロッパの文明国民の往々児童に課する如き残酷苛烈なる罰を,かつてみたることなし。


江森一郎 (1989). 体罰の社会史 シリーズ・子どものこころとからだ 新曜社 pp.68-69.

サンダーソンの教育

 サンダーソンは,生徒をやる価値のある熱狂から隔てかねないという理由で扉への施錠を忌み嫌ったが,そのことは,教育に対する彼の全体的な態度を象徴していた。ある生徒は,自分がやっている課題に熱中するあまり,午前2時に図書室(もちろん鍵はかかっていない)で本を読むために,しょっちゅう寄宿舎からこっそり抜け出していた。校長は図書室で彼を捕まえ,この規律違反に大声で叱責した(彼の気性の激しいのは有名で,彼の有名な格言のひとつは,「腹が立つとき以外は罰してはならない」であった)。またしても,その生徒自身がことの次第を語っている。

 雷は通り過ぎた。「ところで,君はこの部屋で何を読んでいたのだ?」。私は自分をとりこにしている研究のことを話し,昼間は忙しすぎて,そのための勉強をする時間がないのだと言った。そうか,そうかと,彼は理解してくれた。彼は私がつけていたノートをざっと見て,それで彼の心は決まったようだ。彼は私の横に座って本を読んだ。それらの本は,冶金学的な工程の発展を扱ったものだった。そして,彼は,発見と発見の価値,知識と力に向けて人類がやむことなく手をのばしつづけること,知ってつくりたいというこの願望の意義,そしてその過程において私たちが学校でしていることについて語りはじめた。私たちは語りあい,彼はこの静かな真夜中の部屋で,1時間近く話をしてくれた。それは私の人生で最も偉大で,最も人間形成に役立つ時間の1つだった。……「さあ,部屋へ帰って寝なさい。このことについては,私たちは昼間に少し時間を見つける必要があるね」。

 あなたはどう思うかわからないが,私はこの話を読んで,危うく涙がこぼれそうになった。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 pp.104-105.

白黒争い

 さて,1977年に改訂された指導要領に基づき,いよいよ1981年から中学の英語の授業は週三時間に減らされることになる。この頃から,コミュニケーション重視の指導法が勢力を得,それが文法軽視の傾向を生み出すことになる。國弘正雄,村松増美といった英語の名人が,こぞって文法の重要性を説いたにもかかわらず,まさに彼らのような「英語を使える人材」を理想として改訂されたはずの指導要領の結果,中学の学習から文法が切り捨てられていくのは,まさに皮肉としか言いようがなかった。
 さらに,文法軽視の傾向が顕著になるに従って,コミュニカティブ・アプローチそのものを悪玉扱いする識者が現れるわけだが,「英語教育大論争」の「実用英語vs.教養英語」といい,今回の「コミュニケーション重視vs.文法重視」といい,この分野の論争が,えてして単純な「白黒争い」に堕してしまうのは悲しむべきことである。なぜ,文法を軽視せずにコミュニケーション・スキルを上げる方法が議論されないのか,不思議でならない。これでは『ジャック・アンド・ベティー』や『アメリカ口語教本』の時代から,ただの一歩も前進していないではないか。

晴山陽一 (2008). 英語ベストセラー本の研究 幻冬社 pp.124-125.

100パーセント理解しあえないのが当然

 さて,この点をもう一度確認しておきましょう。「自分のことを百パーセント丸ごと受け入れてくれる人がこの世の中のどこかにいて,いつかきっと出会えるはずだ」という考えは,はっきり言って幻想です。
 「自分というものをすべて受け入れてくれる友だち」というのは幻想なんだという,どこか覚めた意識は必要です。でもそれは他者に対して不信感を持つことと決してイコールではないということは,ここまで読んでくれた皆さんになら,きっと理解していただけるはずですね。
 価値観が百パーセント共有できるのだとしたら,それはもはや他者ではありません。自分そのものか,自分の<分身>です。思っていることや感じていることが百パーセントぴったり一致していると思って向き合っているのは,相手ではなく自分の作った幻想にすぎないのかもしれません。つまり相手の個別的な人格をまったく見ていないことになるのかもしれないのです。
 きちんと向き合えていない以上,関係もある程度以上には深まっていかないし,「付き合っていても,何かさびしい」と感じるのも無理もないことです。
 過剰な期待を持つのは辞めて,人はどんなに親しくなっても他者なんだということを意識した上での信頼感のようなものを作っていかなくてはならないのです。
 このことと少し関連するのですが,このところ,自分を表現していくことに対して,すごく恐れのある人が多くなっているのではないかと思うのです。
 思春期というのは多かれ少なかれそういうものですが,それはなぜかというと,「百パーセントわかってもらいたい」とか,あるいは「自分の本当のところをすべてきちんと伝えたいじゃないか」と思ってしまうことが原因なのではないかと思います。それもやはり,「百パーセントの自分を丸ごと理解してくれる人がきっといるはずだ」という幻想を,知らず知らずのうちに前提しているためです。
 むしろ「人というものはどうせ他者なのだから,百パーセント自分のことなんか理解してもらえっこない。それが当然なんだ」と思えばずっと楽になるでしょう。だから,そこは絶望の終着点なのではなく希望の出発点だというくらい,発想の転換をしてしまえばいいのです。

菅野 仁 (2008). 友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 筑摩書房 pp.126-129.

ディベートはファンタジー

 ディベートなんてのを中高生にやらせてる学校もありますけど,あれもどうかなと思うんですよねえ。ディベートってのは,お互いが公平な立場で,同じ土俵に立って議論するというルールを設定してるから,論理力を使ったある種のゲームとして成り立つんであって,ありゃ,ファンタジーなんです。魔法の呪文がハリー・ポッターの小説の中でしか効果がないように,議論もディベート大会の会場でしか役に立ちません。実社会では公平な立場で議論をする機会などないぞ,と釘を刺しておかないとオトナになってから痛い目に遭うのは生徒のほうです。
 ことに,儒教倫理が根深くはびこり,たった一歳違うだけでも先輩,後輩,と呼び合うほど上下関係にうるさい日本では,公平な立場での議論を期待するのは無理でしょう。やはり,他の手段が必要です。

パオロ・マッツァリーノ (2007). つっこみ力 筑摩書房 p.72

人生はボクシングのようなもの

 生きることの厳しさは,お金を稼ぐようになると始まるのではない。お金を稼ぐことで始まって,それが何とかなれば終わるものでもない。こんな分かり切ったことをむきになって言い張るのは,みんなに人生を深刻に考えてほしいと思っているからではない。そんなことは,ぜったいにない!みんなを不安がらせようと思っているのではないんだ。ちがうんだ。みんなには,できるだけしあわせであってほしい。ちいさなおなかが痛くなるほど,笑ってほしい。
 ただ,ごまかさないでほしい,そして,ごまかされないでほしいのだ。不運はしっかり目を開いて見つめることを,学んでほしい。うまくいかないことがあっても,おたおたしないでほしい。しくじっても,しゅんとならないでほしい。へこたれないでくれ!くじけない心をもってくれ!
 ボクシングでいえば,ガードをかたくしなければならない。そして,パンチは持ちこたえるものだってことを学ばなければならない。さもないと,人生が食らわす最初の一撃で,グロッキーになってしまう。人生ときたら,まったくいやになるほどでっかいグローブをはめているからね!万が一,そんな一発をくらってしまったとき,それなりの心構えができていなければ,それからはもう,ちっぽけなハエがせき払いしただけで,ばったりとうつぶせにダウンしてしまうだろう。
 へこたれるな!くじけない心をもて!わかったかい?出だしさえしのげば,もう勝負は半分こっちのものだ。なぜなら,一発お見舞いされても落ち着いていられれば,あとのふたつの性質,つまり勇気とかしこさを発揮できるからだ。ぼくがこれから言うことを,よくよく心にとめておいてほしい。かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかないし,勇気をともなわないかしこさは屁のようなものなんだよ!世界の歴史には,かしこくない人びとが勇気を持ち,賢い人びとが臆病だった時代がいくらもあった。これは正しいことではなかった。
 勇気ある人びとが賢く,賢い人びとが勇気を持つようになってはじめて,人類も進歩したなと実感されるのだろう。なにを人類の進歩と言うか,これまではともすると誤解されてきたのだ。

エーリッヒ・ケストナー(作) 池田香代子(訳) (2006). 飛ぶ教室 岩波書店 p.23-25.


使ってみよ

いつか高校生の投書に,「logのように世間でいらないものを」というのがあった。これは,「logを使わない世間」のほうが誤っている。ぼくはあまり進歩主義者ではないので,世間でもっとlogを使うべきだとまでは思わない。しかしながら,数学苦手少年をがっかりさせて悪いが,logを使う世間になって,それが使えないと困るようになるかもしれない。ただしそれは,考えようによっては,どうでもいいことだ。世間に出てlogを使うことがないなら,なぜ今使うてみようとしないのか。世間でビートルズを聞くことがないなら,今聞いておこうというのと同じことだ。


森 毅 (2006). 指数・対数のはなし 異世界数学への旅案内[新装版] 東京図書 p.171

数学で何を学ぶか

 数学で何を学ぶか,なんてそういう題の本もぼくは出したことがあるのだが,単純に言うなら,数学の世界を知ることとしか言いようがない。そうした世界があるのだから,そこを知ってみよう,というだけのことである。


森 毅 (2006). 指数・対数のはなし 異世界数学への旅案内[新装版] 東京図書 p.168

評価のポイント

 小学校から大学までの数学の先生の集まっているところで,座興に,
 32.43×84.21=2730.9303
について,
 1) 273.09303 2)2730.9313 3)2730.9309 4)2730.9243
ぐらいの答を,10点満点で採点してもらったことがある。
 おもしろい現象は,小学校の先生が一番きつくって,5点以上はつけない。大学の先生だと,2)〜4)はたいてい7点か8点,甘い人になると,10点をつけてしまう。もっと甘い人だと
 32×84=2688
を答にしていても5点ぐらいつける。これに反して,逆転するのは,小数点を打ちまちがった1)で,小学校の先生が4点か5点,大学の先生が0点から3点,という傾向がある。
 べつに,これは採点基準があるわけではない。最後が3×1で3にならぬのはおかしい,なんて採点ほうだって可能である。大学の先生でも,解析か数論かで,いくらか気分が違ったりする。それでも,小学校では,小数に誤差の気分があまりなく,大学に向かって,誤差の気分がついていく,といった傾向ぐらいは見える。計算のアルゴリズムの正確さか,数に対する感覚か,そのどちらかを重視しているかということもある。

森 毅 2006 指数・対数のはなし 異世界数学への旅案内[新装版] 東京図書 Pp.25-26

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