読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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いま注目を集めているアクティブラーニングというのは,生徒を能動的に授業に参加させて(「能動的」に「させる」という表現自体が自己矛盾ですが),グループで議論しあったり,共同で作業するというといった学習方法を指します。アクティブラーニングが授業のバリエーションの1つとしてあるのはよいでしょうが,そればかりを強調して一律に実施すると,かえって学習の多様性が損なわれてしまう可能性があります。例えば,一人で本を読むことは受動的な学習に見えますが,自己と対話しながら知識を吸収していくのは重要な活動ですし,これによって自分の才能を開花させていく生徒も確実にいるわけです。何かが「流行る」ときは,その流行によって光の当たらないものにこそ,注意を払い,光を当てる必要があります。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.166
子どもがある先生に出会い,ぜひともこの人に習いたいと思った,この学校の校風や教育方針にぞっこんなど,個人的な事情で進学先を決めるのはよいでしょう。けれど,偏差値が高いとか世間的な評判がいいとか,そうした理由で学校を選んでも大した違いはありません。
そんなばかな,と思うでしょう。じゃあ,なんで一生懸命勉強して偏差値の高い大学に入ろうとするのか,と。しかし教育経済学の双生児研究はこのことをものの見事に説明してくれています。一卵性双生児でもちがう大学へ行くきょうだいがいます。中にはレベルの違う大学に行くことになってしまったケースもあります。一卵性双生児は遺伝要因も共有環境も同一ですから,その二人の差は,いわば同一人物が環境の違いだけでどのくらい異なる結果をもたらすのかという,絶対にすることのできない統制実験が,自然に成り立っているのです。
それによると差がありませんでした。もちろん通常は偏差値の高い大学の卒業生のほうが生涯賃金は高くなります。しかし偏差値の高い大学と低い大学に別れ別れに通うことになった一卵性双生児で収入を比較すると,その間に差はなかった。おかしいじゃないかと思われるでしょう。からくりはこうです。収入の差は,通った大学のレベルによるのではなく,もともとの能力によるものなのです。このような双生児は,ここでいう非共有環境(そこには偶然も含まれます)によって,たまたま行く大学のレベルがちがってしまった。しかし遺伝的素質や共有環境は同じ。それが7~9割の能力を規定します。大学ごとの一般的な能力水準は,偏差値の高い大学のほうが高いので,大学間で比較すると,偏差値による収入の格差が生まれます。しかしそもそも学生の能力水準がもともと異なるからであり,大学が異なるレベルの教育をしたからではないのです。
このことから,学歴や大学のレベルは,実質的にどんな教育を受けたかの指標ではなく,どの程度の能力をもっているかの指標(シグナル)にすぎないというシグナリング理論が成り立つわけです。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.157-158
困難にもめげず,笑える作品を書きたいと思う若い書き手がいるなら,私からのアドバイスはこうだ――。
盗め。
面白いとわかっているアイデアを盗んで,自分が知っていてなじんでいる設定でそれを再現してみよう。オリジナルとはじゅうぶんに別ものになるはずだ。なにしろ書いているのがきみなのだから。そしてすぐれたお手本を下敷きにすることによって,やっているうちによい脚本を書く規則が少しずつわかってくる。ほかの芸術家の「影響を受ける」のがすぐれた芸術家なら,「盗んで」から盗んだことを隠すのがコメディ作家だ。
ジョン・クリーズ 安原和見(訳) (2016). モンティ・パイソンができるまで―ジョン・クリーズ自伝― 早川書房 pp.213
過去には,大学院志望の学生を気後れさせるIQはいくつだったのだろうか?修士取得者の平均IQが125だったとすると,その下限は117.6だったと推定できる。これは,時代とともにIQが上昇するという事実について,きわめて重要な情報を提供してくれる。1960年から2010年の50年間に,大学院に入学可能なIQの下限が117.6から103に下がり,その差は14.6ポイントである。その間のIQ上昇はどれくらいだったのだろうか?WAISの場合,1953年~54年から2006年の間に16ポイント上昇している。この52.5年を50年に減らして換算すると,15.2ポイント上昇したことになる。
これら2つはほぼ同じ数値である。このことは,最近の50年間のIQ上昇によって,専門職や準専門職に就くのに必要なIQの下限が15ポイント低下したことを意味している。つまり,IQ上昇には現実社会における職能レベルにおいて,見返りがあったのである。医師,経営者,銀行家,大学講師,技術者などの専門職や準専門職は,50年前まではIQが15ポイント高い人々の職業であり,このレベルのIQの人々は,もちろん今日にでもこれらの仕事をこなすことができる。そうだとすれば,次のような反論が出るかもしれない。すなわち,それらの仕事は今日ではそんなに認知的要求が高い仕事ではなくなったのではないかという反論である。しかし,私の医学系の同僚たちは,今日の医師は昔よりも多くの科学についての知識が必要だと言い,商学系の同僚たちは,今日の経営者は幅広い知識に基づく企画力が必要だと言い,経済学系の同僚たちは,今日の投資着運行の銀行家は複雑な知識を駆使する認知的熟達者だと言っている。もちろん私の仕事である大学の研究者も,しっかり講義もし,研究もしなければならないので,昔に比べると非常に多くの知識を持っていないと務まらない。
以上を総括すると,次の結論を導き出すことができる。すなわち,大学や大学院入試の合格yラインが下がったことは,20世紀の認知的進歩が決して幻想ではなく,現実であることを示す最も確かな証拠なのである。
(Flynn, J. R. (2013). Intelligence and Human Progress: The Story of What was Hidden in our Genes. New York: Elsevier.)
ジェームズ・ロバート・フリン 無藤 隆・白川佳子・森 敏昭(訳) (2016). 知能と人類の進歩:遺伝子に秘められた人類の可能性 新曜社 pp.120-121
ヘクラーが指摘するように,「ほとんど知られていないが,道義的見地から軍事力を縮小した一連の前例」が存在する。その前例が示しているのは,理解に至る道――すなわち,戦争を,殺人を,そして社会における人間の生命の価値をどう考えるか,その選択権は私たちが握っているのだという,その理解に至る道なのである。近年,人類はこの選択権を行使して,核による滅亡の瀬戸際から身を退いた。同様に,殺人を可能にする技術を社会から遠ざけることもできるはずだ。教育と理解が第一段階だ。そしてやがてはこの暗い時代を過去のものにして,いまよりも健全な社会,いまよりも自己についてよく知っている社会を作り上げることができるだろう。
だがそれに失敗すれば,残された可能性はふたつしかない。かつてのモンゴル帝国や第三帝国と同じ道をたどるか,レバノンやユーゴスラビアと同じ道をたどるかだ。次の世代も,また次の世代も,同類たる人間の苦しみにたいしてますます脱感作されて育ってゆくなら,そのほかの可能性などありえない。私たちは,社会に安全装置を掛けなおさねばならないのである。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.504-505