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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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もっともらしさ

 超自然現象に対する信奉がこれほど幅を利かせている理由は,そのもっともらしさにありそうだ。超自然現象がもっともらしく思えるのは,私たちが信じたいと思っていること,あり得ると既に確信していることと符合するからである。しかも,人生の薬味になる奇妙で不可思議な出来事もすべて,超自然現象と考えれば説明がつく。どんな考えや思い込みでも広まることは広まるだろうが,人の心に根を下ろし,納得させることができるのは,私たちが可能と考えていることと共鳴するものに限られる。これが本当に肝心な点なのだが,しばしば見落とされている。私たちはさまざまな考えを受け入れもはねつけもするが,その根拠について考えるのはまれであるからだ。受け入れの条件は,私たちが既に理解していることと一致する考えであること,そうでなければ,つじつまが合わないからである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.37-38
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)
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意志は再帰的プロセス

 伝統的な想定に基づくと,最大化する行為者はどれもただの計算機であり処理装置にしか思えない。でも異時点間の交渉モデルだと,意志は再帰的なプロセスだ。こう考えると,原理的な予測不可能性と,決断プロセスへの自己関与の両方が解決する。当人は,自分が将来何をするか自分でも絶対確実にはわかっていないので,現在の選択を精一杯の予測に基づいて行う。でもこの選択自体が予測に影響してくるので,行動を行う前に予測し直し,それが変われば選択もそれに応じて変わる。回復中のアル中は,飲酒に抵抗できるという期待を抱く。でもこの期待には自分でも驚くほどがっかりさせられてしまい,それに気づいた時点でこのアル中は自分の期待に対する自信を少し失う。もし期待が自分のアルコール渇望に対抗できる水準以下に下がったら,その失望は自己成就的な予言となりかねない。だが,この見通しそれ自体が,選好される以前の時点で恐ろしく感じられたら,この人はアルコールへの渇望が強くなりすぎる前に,他のインセンティブを探してそれに対抗しようとするだろう。それにより酒を飲まないという予測も強まり,等々——これがすべて,実際に酒を手にする前に起こる。この人の選択は,万物が厳密な因果律の連鎖に従っているという意味ではまちがいなく事前に決まっている。でもその選択を直接的に左右するのは,各種の要素の相互作用だ。そのそれぞれは事前に十分わかっていても,それらが再帰的に作用しあうために結果は予想がつかなくなる。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.196-197

異時点間の交渉

 ここでもやはり,異時点間の交渉がこのギャップを埋められるのではないか。実は,決定論と自由意志との論争は,報酬vs.認知論争の一例らしい。これは異時点間の交渉という理由づけがないために決着がつかなかったのだ。自由意志の論争で欠けている一片は,再帰的な自己予想プロセスであり,そのために自分自身の心も確実には予測できなくなっているのだ。
 この予測不可能性は,しばしば自由意志の核心にあるとされていた。たとえばウィリアム・ジェイムズの有名な例では,自分の決断が自由であると特徴づけるのは,自分の行動がどうなるか——たとえば帰宅するときにオックスフォード通りを通るかディヴィニティ通りを通るか——が事前にはわからないことだった。でも,自由意志の支持者のほとんどは,自由な選択は外部の決定要因からは原理的に予測し得ないものでなくてはならない,と主張するだろう。予測できるけれどまだ知られていないだけの選択は,自由ではないと述べるだろう。この主張はまちがいなく,選択が外部から知り得るなら,他人がそれを知ることもできる——邪悪な天才や全能の神,あるいは完成された科学や心理学ならそれを知り得てしまう,という気味の悪い含意からきている。決定論を排除するもう一つの理由は,その選択が原理的にであれ事前に知り得るなら,そこには自分何も関わっていないことになるからだ。再帰的な自己予測理論は,こうした反論に答えねばならない。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.194-195

利益の序列

 社会集団の構成員に序列ができるように,利益にも序列ができる。ただし人は利益の序列とは言わず,別の言い方をするだろう。たとえば習慣とか価値の上下関係とか。ラジオである番組がかかったらベッドから起きて,職場では雑誌を読まず,タバコは食事の後だけにするといった行動は,別にいちいちそうしなかった時の前例の影響を計算しなおした結果ではない。以前に起きた競合の結果をそのまま受け入れたからだ。なぜときかれたら,あれこれ「そうすべきだから」といった理屈や,そうしないとなんだか気持ち悪いから,という程度のことしか言えないだろう——だれも見ていなくても信号無視をしない人は,何か意識的な理由があってそうしているわけではない。でも,その気持ちの悪さを生み出したのは,最終的には異時点間の交渉なのだ。回復したアル中は,意識的には酒を飲みたいとは思わないかもしれない。でもその事実を決めたのは,やはり自分自身との暗黙の交渉の歴史だ。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.169-170

信念からルールへ

 同じように,人々は麻薬について,単に自分は手を出さないという明確なルールを作るのではなく,一度手を出したら抜けられなくなってしまうという信念を作り上げる。この信念は,次のようなプロセスで醸成されることが多い——ある権威が,抜けられなくなるというのは事実だと教える。ところが,それに反する証拠に出くわす。たとえばたまにドラッグを使っただけの元麻薬利用者についての統計とかだ。するとその人は,それを信用しなかったり,黙殺したりする。それはその反証の質が低いと思えたからではない。単にその証拠が扇動的な気がしたからだ。この信念は,もともとはありのままの生物学的事実に関する推測を述べたものでしかなかったのに,それが部分的に個人的ルールに変わったわけだが,でもやはり信念の形を取り続けている。それがルールに変わったかどうかだけ知りたければ,その反証を信じなかった理由が,それが事実として不正確だからか,それとも「麻薬に甘い」ように見えるからかを自問してみればいい。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.163

道徳状態

 道徳状態はしばしば,外的事実の認識に翻訳される。昔は,結婚しているかどうかは予防接種を受けているかどうかに等しい判断材料となっていた。結婚は実質的に物理的な事実であり,駆け落ちによって内密に行われたものであっても,人の内面を変えるものであって,あらゆる犠牲を払っても実現されるべきものだった。同じように,処女は非処女とは違う種類の人間だった。今日では,動物を食べることが道徳的にまちがっているという認識は,肉に対する嫌悪となってあらわれるし,中絶の問題は,胎児が「本当に」人かどうか,などという議論となる。すでによく知られている胎児の性質をもっと研究すると,その「事実」の白黒がつくとでもいうように。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.163

半々であること

 2人の人が利益を繰り返し山分けする場合,半々とか6対4とか9対1とかいろいろ分け方は可能だ。でも明確な一線は半々の一線となる。酒を控えたいなら,1日2杯とか3杯とか「酔いがまわるまで」とかいろいろな線の引き方はあるけれど,他から突出した一線とは,一滴たりとも口にしない,というものだ。もし食べる量を減らしたいなら,各種ダイエットからどれか選んで,そのダイエット方式の指示(Xカロリー以上は食べるな,Yという食物群からはXグラム以上は食べるな)をもっとはっきりしたものに変えて守りやすくできる(タンパク質だけ,液体だけ,果物だけ)。でも,まったく食事をしないのは不可能だから,本当に明確な一線は存在しない。アル中から立ち直る人に比べて過食症から立ち直る人が少ないのは,このせいかもしれない。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.144-145

関心の操作

 タイミングよく目を背ければ衝動に負けずにすむ場合は,明らかに存在する。問題は,短期の利益は長期の利益より関心の操作がうまい,ということだ。ある誘惑の存在を認識しないほうが長期的な利益には資するけれど,短期的な利益としては,その誘惑に負けた場合の長期的な影響についての情報を遮断したほうが得だ。長期の利益と短期の利益が競合するとき,関心操作は諸刃の剣となる。実はフロイトやその支持者たちが開発した心理療法の多くは,抑制(意識的にある思考を避けること),抑圧(無意識ではあるが,ある目標のためある思考を避けること),否認(ある思考の持つ意味合いを避けること)といった手段を自分が使っていると患者に認識させるためのものだった。自分をだますことさえやめれば,人はあっさり理性的・合理的になれるのだ,とフロイトは考えた。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.116

自己観察

 読者のみなさん自身も,こうした競合を体験できるかもしれない。今度,歯に詰め物をするなどかなり痛い体験をするときに,局部麻酔なしでやってもらおう。自分の思考の流れと,すさまじい何も考えられないほどの痛み体験との間の競合がわかるし,刺激(つまり歯の研磨)が絶え間なく続けば続くほど,そちらに流されたい衝動がますます強くなるのもわかる。この観察で何が重要かというと,痛みというのも選択の市場において,快楽の機会と同じように支配権をめぐって努力しなくてはならないということだ。もちろん痛みを特徴づけるのは,だれもそれを欲しがらないということだが,でもそこには癖や中毒の持っている特徴と共通する部分がかなりある——癖や中毒というのは,基本的には求められないけれど,でも一時的には選好されるので問題を引き起こすような選択だが,痛みにもその特徴があるのだ。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.88-89

癖と中毒

 癖と中毒とでは,特徴づける選好期間にはっきりした境界の一線はない。満足しきった喫煙者が,タバコに火をつけてはもみ消す動作を繰り返すのは,選好期間の長さから見て中毒の範囲と癖の範囲との境界くらいだろう。自分のステロタイプ的な自己刺激症状をひたすら続ける知恵遅れも似たようなものだ。
 癖の例は重要だ。非常に嫌な事として体験されるものですら,報酬とその欠如の繰り返しだけで組み立てられるということを示すからだ。一時的選好の期間が短くなるにつれて,それは「自分自身の」ものだという主観的な性質,つまり精神分析家が「自我親和的」と呼んでいる性質を失うようだ。だがそれでいながら,それを選択するときにあなたがそこに参加しているのは明らかだ。別に掻いたり,口の中の傷をつついて悪化させたり,爪を噛んだりする必要はまったくない。そうしなくても肉体的に痛いわけじゃないし,我慢すればやがてその衝動自体がなくなる。それでもそうした活動は堅牢だ。こんな例があるなら,もっと短い期間しか続かない一時的選好がどんなものかを検討するのも有益だろう。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.84

癖の報酬性

 癖が報酬制を持つと言ったら,このことばの直感的な意味合いから逸脱気味になるかもしれない。だが,「報酬」ということばの最も基本的な意味——つまりそれに先立つ行動を繰り返したくなるのもすべてという意味——で考えれば,この種の行動を維持させるものには報酬性があると言わざるを得ない。実はこの一見不合理なパターンは,伝統的な報酬とそれを与えない期間とを繰り返せば動物にも引き起こせてしまう。
 行動実験で,ハトが一定量の穀物を得るのに必要なボタンつつきの回数をだんだん増やしてみよう。必要つつき回数が一定量を超えても,ハトたちはつつき続けるが,つつく機会そのものをなくすような選択肢があるとそっちを選んだ。さっき挙げた人間と同じように,そのハトはひたすらつつき続けるけれど,でも同時に,そのつつき行動を引き起こす刺激を避けようとする。この誘惑とその回避というプロセスなんかなくても,ハトたちとしては,必要なつつき回数が増えすぎて割に合わなくなった時点でつつくのをやめればすんだ話だ。同じように,サルをコカイン漬けにする実験でも,時にサルたちはコカインが手に入らなくなるような選択をする。でも,それが入手できるときには,がんばってそれを入手しようとする。
 散歩が好きだとしよう。散歩ルートには二種類ある。1つは3キロ,1つは4キロほどだ。でも3キロの道のほうには50メートルごとに,ちょっと道からそれたところに5円玉が置いてある。4キロの道のほうには何もない。5円玉を拾うのにいちいち道からそれてかがみ込むのが60回ほど繰り返されると,3キロ歩くのに1時間ほどかかって,その分の苦労とひきかえに1時間で300円ほど手に入る。4キロの道のほうも1時間かかる。よほど金に困っている人でもない限り,ほとんどの人は5円玉なしの道を歩きたがる——少なくとも何回か経験した後ではそっちを選ぶようになるだろう。もちろん,5円玉をいちいち拾わないぞと決心することもできるけれど,これには余計な努力が必要になる。この散歩の不愉快さは,ちょっとでも楽しい空想にふけりはじめたと思ったら5円玉が視界に入ってきて注意がそれることからくるのはまちがいない。5円玉が道の最初か最後に5メートル間隔でまとめて置かれていれば,不愉快さはかなり減るだろう。
 癖は,この5円玉を拾いたいという衝動と同じく,選択の市場の中でほかの衝動と競合する。そして癖が時には勝つということは,基本的な選択プロセス——報酬——が起こった証拠だ。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.81-82

権力交渉

 代替報酬が別の時点で提供されるとき,それぞれは自分の利益を作り出す。1つの利益が他を追い払えるのは,他の報酬が支配的になるのを妨げるような持久力のあるコミットメントを残せる場合だけだ。ダイエット利益が何らかの手を使って,私がアイスクリームに近づかないよう手配できたら,アイスクリームの割引見通しはダイエットからの報酬の割引見通しを決して上回らなくなり,ダイエット利益は実質的に勝ったことになる。だが,アイスクリームの価値がダイエットの価値から飛び出すたびに,アイスクリーム利益は何日にもわたる我慢の成果を台無しにしかねない。究極的に人の選択を決めるのは,単純な好みではない。それは僅差の法案が実際に可決されるかどうかを決めるのが,その議会での単純な投票力だけではないのと同じことだ。どっちの場合にも,戦略こそがすべてなのだ。
 このプロセス——表現手法が限られているために必要となった権力交渉——こそが,人を統治する唯一のものらしい。哲学者や心理学者は「自己」という統治機関を持ち出したがる。この自己というやつは,自律的だったり,分裂したり,孤立したり,脆かったり,幾重にも縛られていたり等々ということになっているが,別にそれが本当に器官として存在する必要はない。人の各種報酬から生まれる,多数の行動傾向を統一に向けてうながす要因というのは,それらが実質的に同じ部屋に閉じ込められているのだ,という認識なのかもしれない。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.66-67

報酬の時期

 さらに,双曲割引を補正すべく各種の手口を学習したところで,それは一次的選好実験の障害にはならないことがわかった。原型的な代用報酬であるお金——なぜ「代用」かといえば,それは被験者たちが後で自分の欲しい物を買えるようにすることでしか影響を持たず,さらに代替案の計測と比較をうながすからだ——ですら,Dに応じて選好が変わる。同じ部屋にいる多数の人に,コンテストに入賞してすぐに換金できる100ドルの小切手と,保証つきだが3年間は現金化できない200ドルの小切手とどっちを選ぶか尋ねてみると,半数以上はすぐに100ドルもらうほうがいいと述べる。じゃあ6年後の100ドルと9年後の200ドルではどうかと尋ねると,ほとんど全員が200ドルを選ぶ。でも,後者は前者と同じ選択を6年手前で行ったに過ぎない。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.53

割引曲線の実験

 被験者の割引曲線が交差するかどうかを試す実験は簡単だ。被験者に,D時間後にもらえる小さな報酬と,そのD時点からさらに一定期間のL時間すぎた後にもらえる同種のもっと大きな報酬とでどっちがいいかを聞くだけだ。被験者は,選択を行った時点からD時間後に小さな報酬をもらうか,あるいはD+L時間後に大きな報酬をもらうことになる。選択肢の割引が伝統的な理論通りの指数曲線になっているなら,両者の曲線は幾何学的に合同で,各時点での比率は一定だ。一方,Dが大きいときには未来の大きな報酬を選ぶけれど,Dが小さくなったら小さい目先の報酬を選ぶということなら,その人の期間選好は,指数関数よりしなった割引曲線となっているはずだ。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.51-52

自己破壊的行動

 ずっと昔から哲学者たちは,強欲が悪習である理由の一つとして,それが自己破壊的だという点に気がついていた。つまり,富をせっかちに求めすぎると,人は長期的にはかえって貧しくなってしまう。高等動物すべてにおいて,この報酬の重みづけ機構が基本的に同じなら——こう思うからこそ,たとえばラットでドラッグ中毒の試験をしたりするわけだが——定量的な実験では明らかにこの自己破壊的な現象が見られる。たとえば,ハトは近い将来の手軽な少量のエサよりも,遠い将来の大量のエサを選ぶ。でもその近い将来の少量のエサがいますぐ目の前にある場合には,そちらを選んでしまう。そして目先の少量のエサという選択肢をもたらす色つきボタンの他に,それを将来的に無効にするような別の色つきボタンを用意しておくと,ハトの一部は実際にそちらのボタンをつつくことで,自分にとって不利だが魅力的な選択肢を避ける——つまりハトですら,目先の小さな報酬に流されがちなのはよくないと認識しているわけだ。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.49-50

不確実性

 世の中の事象は全て不確実性を帯びていますから,事務の仕事も不確実性を前提として受け入れ,それに対応できるように臨機応変に進めるべきです。あらかじめ決められた手順を機械的に実施するだけのマニュアル人間には実際の仕事はこなせないのです。
 不確かさを意識すれば,事務の各工程が果たすべき任務は,「仕事の不確かさを問題のない範囲内に収めること」と言えます。

中田 亨 (2011). 「事務ミス」をナメるな! 光文社 pp.60

個別のミスは

 フロイトは,ミスを心理学的に意味深い現象と認めつつも,種々雑多なミスをいちいち拾い上げて分析しすぎることは,適切ではないと考えました。ある人が起こした細々としたミスから心理を探り,それらを統合してその人の心の全体像を描き出そうとすることは,こじつけにおちいる恐れがあるからです。

中田 亨 (2011). 「事務ミス」をナメるな! 光文社 pp.44-45

自己分析とは

 それらを概観すると,自己分析とは,自分自身の過去を振り返り,また現状を整理しながら,自分自身がどのような人間であるのかを,まず把握・理解する。続いて,社会に出ていく上での自身の人生ビジョンをイメージする。ここまでが狭義の自己分析だ。そして,どんなところでどんな仕事をすることが,自己分析から得られた自己イメージと合致するのかを考え,志望企業,職種,働き方を決定していく。さらに,本番に向けて「自分はなぜその会社を選んだのか」「自分はなぜその会社・仕事にふさわしい人間なのか」をプレゼンテーションする準備をする,という具合だ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.81

立ち止まり考えること

 個人同様,社会は立ち止まって考える動機となるなんらかの要因(意識的か無意識的かは別として)が常に必要である。ナチスドイツのように,この動機付けのバランスが,考えるためにとどまることをしない方向の場合には,霊的概念は,たとえそれが個人的経験によってはっきりと否定されたとしても,暴力的行動を余儀なくさせる。ユダヤ系ドイツ人が見えてなかった訳ではない。彼らの多くは明らかに尊敬されるべき専門家であり,高潔で誠実かつ信頼すべき人達であった。しかし,ユダヤ人は汚れて病んでおり,邪悪なほど貪欲だという否定的固定観念が広く行き渡り,文化の一部にまでなったため,それは多くの反証を無視してしまった。彼らは,認知の風土の異なった領域に付託されるか(「友人のダニエルは典型的なユダヤ人ではない」),あるいは無視され,接触が限定されて(例えばゲットーを利用して),固定観念が否定される可能性のある出会いが回避されるかいずれかである。ナチスの党員はもっと過激で,ユダヤの人達は最も基本的な人間としての尊厳を受けているとはもはや見えないほど,生活の質が低下させられた。外見は汚れるよう強いられ,時には病気に罹り,ナチスのユダヤ人観が強化され,迫害者の確信がさらに強められて,増強する非人間化の悪循環は最終的に大量殺人を招いた。そして殺人にとどまらず,疾病に対処する昔からの方法である埋葬と焼却による感染者の完全な抹殺を要した純化が追求された。熱心なナチス党員にとって,ユダヤ人の移住は適切な選択ではなく,抹殺のみが感染源を除去することができる方法だった。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.291-292
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

警報が行動をエスカレートさせる

 状況によっては,そのような行動過程が正しいこともあり,われわれは火事からは退き,捕食者からは逃げる。しかし時には,まず初めに操作するものが誤った警報を鳴らすことで単純な行動過程を引き起こしたがために人々の行動過程が単純になることもある。感化の専門家は,その被害者が特定の行動(被害者が望むか否かにかかわらず)をとるように圧力を加えるために警報を鳴らす。ヒトラーが現れるずっと以前には,反ユダヤ主義の霊的概念に感染した人達は単にユダヤ人を忌むべきであると言っただけではなかった。ヨーロッパ(イギリスを含む)におけるユダヤ人虐待の恥ずべき歴史が示しているように,彼らは「問題」の解決を提案し,多くの場合それを実行した。ナチスを鼓舞した誹謗的ユダヤ主義は馬鹿げており,論理の欠落や証拠の欠如にあふれている。当時これを指摘したのは何人かの勇敢な声であった。しかしほとんどのドイツ人は,自分たちが信じたいと思うことを信じた。彼らの感情はすでに刺激され,彼らの文化に広く分布する反ユダヤ主義によって,ユダヤ人であることの霊的概念が彼らにとって取り返しが付かないひど汚れたものである(主として恐れと嫌悪によって)というところまで入り込んでいた。ナチスのプロパガンダは地に落ちて実りを生んだ。最も強力に主張された合理的議論でさえ,潮流を起こすことはできなかった。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.291
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

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