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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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予測したことを経験する

 多くの心理学的実験が示しているように,人は予測したことを実際に経験することがしばしばある。また,われわれは歓迎できない事実を説明するのが驚くほど得意である。いままで困難な状況を言葉によって切り抜けたことがないだろうか?例えば,仕事の同僚からの予想外の挑戦に出会い,それに驚くほど雄弁に反駁して新しい有効な議論に到達し,敵を撃退した経験はないだろうか?作り話をするのはすべての文化に共通で,一貫した話——一貫性のもう一つの側面——を作り上げたいという衝動はすべての人種に共通の特性と思われる。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.187
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)
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ウェーブの法則

 単純な例の多くは,関係する個人の意志や認識を完全に無視し,人びとを「知性なき主体」として扱うと最も理解しやすい。スポーツイベントで見られるウェーブについて考えてみよう。この現象が初めて世界の注目を浴びたのは,1986年にメキシコで開催されたサッカーのワールドカップでのことだった。そもそもはラ・オーラ(スペイン語で「波」の意)と呼ばれていたこの現象は,一群の観客が次々に立ち上がっては腕を上げ,すばやく着席するというものだ。その効果は実に劇的である。普段は液体の表面に起こる波を研究している物理学者のグループがこの現象に興味を抱き,巨大なサッカー場で起こったラ・オーラのフィルムを集めて研究してみた。すると,こうした波は時計回りに伝わっていくのがふつうで,つねに「秒速20席」で進むことがわかった。

ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.40
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

月の錯視

 まず間違いなくほとんどの人は,地平線に昇る(あるいは沈む)月は,頭上の月よりもはるかに大きく見えると感じる。実験の結果によると,地平線上の月は,頭上の月と比べて,2倍から3倍大きく見えるという。
 この効果は,数千年前にはすでに知られていた。アリストテレスは紀元前350年ごろ,この効果について書いている。さらに,ニネヴェにあった王家の図書館から発掘された粘土板にも,月の錯覚についての記述があるが,これはアリストテレスより300年以上前に書かれたものだ[ニネヴェは紀元前8世紀〜7世紀にさかえたアッシリア帝国の首都。現在のイラクにある]。
 現代の大衆文化は,この効果についていろいろな説明がされている。最もよくあるのは,次の3つの説だ。ひとつ目は,地平線上の月は,実際に観測者に近いため大きく見えるという説。ふたつ目は,地球の大気がレンズの働きをして,月を拡大するため大きく見えるという説。そして3つ目は,地平線上の月を見る場合,地平線上にある木や家などとつい比べてしまうため,大きく見えるという説だ。
 例の台詞を言おうか?こうした説は間違いだ。

フィリップ・プレイト 工藤巌・熊谷玲美・斎藤隆央・寺薗淳也(訳) (2009). イケナイ宇宙学:間違いだらけの天文常識 楽工社 pp.113

心は量れません

 人の心は量れませんと老人は言った。
 「秤に掛けることも,物差しを当てることも出来ますまい。升でも汲めない。心の尺度は皆違いますから,心の中では針で刺した程の傷で死ぬ程痛がる者も居れば,袈裟懸けにざっくり斬られても我慢が出来る者も居る。だから見合っているかどうかは,他人には判りませんよ」

京極夏彦 (2009). 前巷説百物語 角川書店 pp.358

ジェイムズの意見

 ジェイムズは心霊研究についての最後の評論で,この活動に潔白さのようなものを期待するのは不公平かもしれないと述べている。人間の企てというのは,多少なりとも欺瞞が含まれているものだ。ときに曖昧な物言いをするのは——すなわち真と偽,善と悪のあいだの微妙な線上をさまようのは,人間性の一部なのだ。
 「人間の特性は,“誠実か不誠実か”の二者択一をするにはあまりに複雑で,ぴしりと一方には絞れないのである」ジェイムズはそう述べ,偉そうな顔をしている科学でさえ欺瞞と無縁ではないと指摘する。「科学者自身——講演会などでは——実験とは失敗するものだという周知の傾向にしたがうより,いんちきをするものである」
 例としてジェイムズが思い出すのは,おなじみの物理実演だった。外部にどんな力がかかろうと,重心は不動だということを示す装置を使う実演である。ところが,さる同僚がその装置を借りたところ,実演中ずっと重心がぐらついていた。そうですか,ともち主は言ったという。「実を言うと,この機械を使うときは,重心に釘を打ち込んでおいたほうがいいんです」
 装置をこっそり安定させたからといって,重力の法則がなくなるわけではない。それと同じで,職業霊媒がいかさまを行ったからといって,本物の超自然現象の可能性がなくなるわけではない。ことによると,詐術は真実を裏付けるのに役立ってさえいるかもしれない。

デボラ・ブラム 鈴木 恵(訳) (2010). 幽霊を捕まえようとした科学者たち 文藝春秋 pp.472-473

ティチナーとジェイムズ

 ティチナーとジェイムズは長年アメリカの心理学界を引っぱってきた。どちらもドイツの偉大な実験主義者ヴィルヘルム・ヴントの指導を受け,それぞれの大学に最初の心理学研究室を設けている。
 だが,ティチナーの心理学の考え方はジェイムズのものとはまるでちがった。彼は構造主義理論の提唱者だった。水の分子が水素と酸素で出来ているのと同じように,精神は思考や感情といった構造物でできているという考え方である。ティチナーの見るところ,精神にはテレパシーという構造物も,心霊交信の中枢も,はいる余地がなかった。

デボラ・ブラム 鈴木 恵(訳) (2010). 幽霊を捕まえようとした科学者たち 文藝春秋 pp.356-357

W.ジェイムズの苦言

 ウィリアム・ジェイムズはそのころ,マイヤーズのような考えのほうが,科学的心理学の専門家が提唱する意見よりも興味深い——少なくとも独創的である——と考えていた。その不満をハーヴァードの学長チャールズ・ウィリアム・エリオットへの手紙にぶちまけ,心理学は若い科学のくせに,退屈で,気がめいるほど新味のない学問分野だと酷評している。
 彼はウィスコンシン大学のジョーゼフ・ジャストロウを例にあげた。ジャストロウは心霊研究に一家言あり,すぐれた実験も行っているものの,「狭量な知性の持ち主で……不愉快なほど偏屈」だ。コーネル大学のエドワード・ティチナーは,いまのところ自分と喧嘩してはいないが,考えに独創性がないし,「オックスフォード出身にもかかわらず,科学的にも文学的にもすこぶる野蛮で,すぐに喧嘩腰に」なる。イェール大学でいちばんと言われる心理学者は浅薄だし,シカゴ大学には有望な心理学者がひとりいるものの,若すぎてこれといった業績がない。
 コロンビア大学のジェイムズ・マキーン・キャッテルについては,人間の知能テストを開発したその業績をジェイムズも認めていた。だが,心霊研究に対するキャッテルの偏狭ぶりには失望した。とりわけ,心霊研究を支持していることをキャッテルに公然と非難されたときは。キャッテルはSPRの活動を,迷信の闇におおわれて見通しのきかない泥沼にたとえていた。

デボラ・ブラム 鈴木 恵(訳) (2010). 幽霊を捕まえようとした科学者たち 文藝春秋 pp.325-326

ジャストロウの心霊実験

 アメリカの科学者たちもまた,心霊主義者の主張をひとつひとつ突き崩してきた。たとえば,霊感のある人間は磁気信号を検知するなみはずれた能力を力の源にしている,というよく知られた説もそのひとつである。
 調査にあたったのは,ウィスコンシン大学のジョーゼフ・ジャストロウだった。ジャストロウは簡単な実証から始めた。まずダイナモを使って大型の磁石を帯電させ,磁場を発生させる。それから,隣の部屋に座った自称霊能者に,いつ磁場が強くなり,いつ弱くなったかを言わせる。
 最初の実験では驚くほど明確な相関関係が表れ,本当に磁波を“感じ”られる被験者もいるのだろうか,とジャストロウは不安になった。
 だが,しだいに別の可能性に気づきはじめた。彼自身も,ときおりダイナモのうなりと,磁場が消える際の小さなカチッという音を耳にしたのである。そこで,ダイナモと磁石を遮音材でおおってから,何度も実験を繰り返した。ヘンリー・シジウィックばりのねばり強さを見せたのである。
 遮音した磁石と10人の霊媒を使って行なわれた1950回の実験では,すべて否定的な結果が出た。ジャストロウはこう書く。「われわれが実験したかぎりでは,磁場に対する感受性はいっさい明らかにならなかったと結論する」
 これら職業霊媒はなんら特別な才能を持っておらず,最悪の場合は嘘つきの詐欺師であり,最良の場合でも,自己欺瞞を引き起こす心の病の犠牲者である。それが彼の結論だった。

デボラ・ブラム 鈴木 恵(訳) (2010). 幽霊を捕まえようとした科学者たち 文藝春秋 pp.185-186

基礎の軽視

 基礎から専門分野へ,また,科学に基づいた応用を用いる職業へというふうに心理学が大きく展開しているわけですが,これによってある人たちは,もう基礎研究というのはあまり必要がないのだといいます。そしていくつかのスキルとテクニックを実践者として身に付ければよいのだという人もいます。しかし,そうして科学的な根拠がだんだんと失われていくなかで,いろいろなリスクが生まれてきます。新しい職業としてのサイコロジスト,これは専門技術と心理的介入法を教育訓練されているわけですが,その土台となっている科学の基礎,基本がわからずやっている人がだんだんと増えてきました。
 さらに悪いことに,このように非常に狭い範囲での訓練しか受けていないサイコロジストは新しい現象が出てきたとき,また,それに関する新しい科学が出てきたときに,それに対処することができなくなっています。こうしたことが,学部教育より上の,実践・応用サイコロジストの専門教育において議論されていることです。

J.ブルース・オーバーマイヤー 今田寛 (2007). 心理学の大学・大学院教育はいかにあるべきか 関西学院大学出版会 pp.19-20

創発

 ここで無視することのできない,とくに重要な概念が「創発」である。
 この用語が指す遺伝的形質は,驚いたことに家族には共通でない。例としては,リーダーシップ,さまざまなタイプの天才,ソシオパシーや境界性パーソナリティ障害といった精神病理学的症状などであろう。
 こうしたことが起きる理由を理解することはそれほどむずかしくない。たとえば,優れたリーダーシップとビジョンをそなえた優秀なCEOと,10代の頃体操選手としてオリンピックで金メダルを取ったかわいらしい妻が,10人の子供がいる大家族を作ったとしよう。われわれは何を想像するだろうか?
 子供たちは両親からそれぞれ半分ずつ遺伝子を受け継ぐが,どのような組み合わせになるかを前もって知ることはできない。
 父親のビジネスの才とリーダーシップの一部が,VAL/VAL型のBDNF対立遺伝子がもたらす並外れた記憶力と,長い方のSERT遺伝子を2つ持ったLONG/LONG型の冷静さのおかげだとしよう(もちろん,他にも多くの遺伝子がかかわっているが,ここでは議論を簡単にするためにこうしたい)。幸運なBDNFとSERTの組み合わせのおかげもあって,彼は頭の回転が早く,何が起きても冷静でいられる。
 一方,体操選手の妻は,短いSERTを2つ持っている(SHORT/SHORT型としよう)ために心配症で,しかしMET/MET型のBDNFのおかげで意外におっとりしたところもある性格でいられるとしよう。それでも彼女の記憶力が夫に遠くおよばないことは確実である。
 これらの遺伝子に関して,父からVALとLONG,母からMETとSHORTを受け継ぐため,10人の子供たちが両親とまったく同じ組み合わせをもつ可能性はない。こうしたわずかなちがいだけで,両親の成功を,あるいは,別の状況であれば失敗を,再現しなくなる可能性は十分ある。しかも,ここで考えたのはたった4つの遺伝子だけなのにである!
 人格に本質的な差をもたらす,まだ知られていない多くの遺伝子数は,200だろうか?2000だろうか?さらには,まだほとんど解明されていないが,ジャンクDNAに隠された制御情報も忘れてはいけない。人格に関係するゲノムをまったく同じ組み合わせで両親から子どもへわたすことはまずできない。

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.146-147

サイコパス,ソシオパス

 反社会的な人物もソシオパスも,後悔やその他の道徳的感情を覚える能力がない,したがって反社会的・犯罪的行為に良心の呵責を覚えない人間を指す言葉である。
 社会学者は,一般にソシオパスという言葉を使い,ソシオパシーとは後天的な行動,たとえばギャングのように「反社会的なサブカルチャーによって社会化された」人間の行動だと考えている。生物学者は,反社会的な人物という言葉を使い,その行動は先天的で変えられないものだと考えている。心理学の専門家のあいだではどちらを用いるか合意ができていない。
 サイコパスには正邪の区別がついている。ただ,そのように行動しないだけなのだ。傑出した神経学者であるジョルジ・モルは言っている。
 「反社会的な人物のきわめて驚くべき点は,正邪を区別する能力があることだ。しかし,適切な行動とは何かという知識に中身が伴っておらず,生活の行動指針としての影響は仮にあったとしてもわずかである。反社会的な人物は,善を知ることと善を行うことが別であるという,もっともよい例だ」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.94

エキスパートの条件

 専門家を専門家たらしめるものは,いったいなんだろうか。
 米軍のエリートの場合,それは「深い思索」であると言えるだろう。チェスの名手などの超一流のプロのように,優秀な軍事パイロットは,ひとつの出来事が5つ6つ先まで及ぼす影響をとっさに把握する能力をもっている。問題を深く掘り下げられ,しかも瞬時にそれをやってのける力。だが,どうすればこの能力を手に入れられるのか?
 「膨大な記憶の集積によるところが大きい」とフロリダ州立大学の心理学教授,K・アンダース・エリクソンは言う。エリクソンは「エキスパート」のエキスパートである。30年以上にわたって,ウエイターからチェスの指し手,パイロットや音楽家にいたるまで,さまざまな分野の専門技能を研究してきた。そして分野にかかわらず,エキスパートにはいくつか共通点があると指摘する。
 第1の共通点は,「幼少期にはじめていること」。世界レベルの専門家は,6歳前からその分野に深くコミットしている。
 第2の共通点は,「身体面でも頭脳面でも,生まれもった能力は人が思うほど重要ではないこと」。たとえばIQ(知能指数)テストでは,芸術や科学や高度な専門職における達成度の個人差をとくには説明できない。また身長を別にすれば,健康な成人がスポーツで優秀な成績をあげるのに,生まれつきの素質が必要だとの証拠はほとんどない。
 重要なのは練習だ。エキスパートはたくさん練習する。分野を問わず,世界レベルの専門家になるには10年間の持続的な努力を要するという点では,おおかたの研究結果が一致している。
 エリクソンと同僚の調べたエキスパート集団のひとつに,バイオリニストがある。若手と中堅で最高レベルのバイオリニストたちは,いずれも20歳までに1万時間を超える練習をこなしていた。これとは対照的に,同年代でさほど成功していないほかの2つのグループは,それぞれ2500〜5000時間しか練習していなかった。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.229-230

『心を読む』こと

 私はつねづね,この他人の心を理解する仕組みのモデルはあまりに複雑にすぎると思っていた。それに,まあ当然ではあるだろうが,この説を提唱する人々(もちろん学者のこと)の一般的な思考様式に,この説明自体が瓜二つなのもいただけない。私が理論説に疑念を抱くのは,わたしたちが他人の心理状態をほとんど淀みなく,とくに深く考える必要もなしに理解しているのをこの目で観察してきているからだ。私たちがもっとずっと単純な,はるかに労力の少ない方法で仲間の心理状態を理解できるようにと,自然はそう取り計らってきたのではないか——こんな考えをセミナーなどで紹介したいときに私がよく使うのは,<ハリー・ポッター>シリーズの第5巻,『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』に出てくるハリーとセブルス・スネイプ教授の会話である。(おそらくほとんどの親と同じく,私のこのシリーズを娘の命令で読みはじめたものの,すぐに自ら夢中になってしまった)。この場面では,じつにいやらしい魔法使いであるヴォルデモート卿が,自分の悪の計画に利用するための重要な情報を得ようとして,ハリーの心の中に入り込まんとしている。一方,スネイプ教授はハリーに「閉心術」なるものを教えることになっている。読んで字のごとく,他人が自分の心の中に入り込むのを阻止できるようにする術だ。
 「闇の帝王は……他人の心の中から感情や記憶を引き出す技術に非常に長けている」
 ハリーはびっくりして,興奮した声で言う。「彼は心が読めるのですか?」
 「きみには機微というものがないのかね,ポッター……『心を読む』なんて言うのはマグルだけだよ。心は本ではないのだ」
 私は決してスネイプが好きではないが,彼のハリーへの返答は,他人の心の理解についての私の見解をみごとにまとめてくれていると言わざるを得ない。そう,心は本ではないのだ。私たちは他人の心を「読んで」いるのではないと思うし,こういうプロセスをどう捉えるかについての先入観がすでに含まれているような言葉を使うのはやめるべきだと思う。たしかに私たちは世界を読み解いているが,決して他人の心を——この言葉が使われる通常の意味では——読んでいない。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.94-96

イモ洗いは模倣ではない

 「イモ洗い」をするニホンザルの例を考えてみよう。この行動はある早熟の個体から始まって,やがて群れ全体に広まったと見られている。当初,これはサルが新しい行動を模倣できる証拠であると見なされたが,ついで,この行動は模倣学習の厳密な定義にあわないのではないかという反論が出された。より厳しい基準にしたがえば,模倣学習には自分の運動レパートリーになかった新しい動きを実行している他者を観察し,その観察によって新しい動きを学習することが必要になる。一方,サルの「イモ洗い」行動はこのような説明も可能となる。最初のサルがイモを洗っているあいだ,それを観察しているサルの注意は水に向けられる(この場合の水を強化刺激という)。そして次回,観察していたサルがイモを手にして水に近づき,水中でイモをいじくっているあいだに働いた単純な試行錯誤メカニズムが,サルにイモの洗い方を学習させたのではあるまいか。それなら模倣学習とは見なされない。模倣学習はもっと高位の学習方法なのである。イモ洗いの習慣が一般に予想されるほど急速に広まらなかったことを考えると,むしろこちらの保守的な説明のほうが正しいようにも思える。この事例や,類似のいくつかの事例から,動物の行動を研究する科学者のあいだではさまざまな意見が出されたが,いまのところ科学者の大多数はイモ洗いをニホンザルにおける模倣学習の強力な証拠だとは見なしていないと言っていいだろう。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.55-56

ポジティブ感情と免疫力向上?

 ポジティブな自己解釈をするもう1つの例は,スーザン・セガーストロームの場合である。彼女はケンタッキー大学の教授で,ポジティブ心理学の「聖杯」かもしれない研究によって,2002年にテンプルトン賞を受賞している。その研究とは,ポジティブな感情と免疫系との関連の可能性に関するものだ。免疫系は,がんの治療には明らかな役割をもたないが,風邪などの感染症の克服にはたしかに重要である。しかし,ポジティブな感情と免疫系とが関連しているかどうかについては別の問題だ。マーティン・セリグマンは関連していると主張し,「幸せな人」は「それほど幸せではない人よりも免疫系がよく機能する」と書いた。セガーストロームは,1998年の論文で,おもな免疫細胞レベルから判断すれば,楽観主義は免疫力の向上に関係していると報告した。だが,その3年後に発表した別の論文では,「矛盾する発見があり」,ある環境のもとでは,楽観的な人は悲観的な人よりも「免疫力が劣る」としている。
 しかし,その研究に関する彼女の談話を掲載した新聞を読んでも,彼女の結論が否定的であること,あるいは,少なくとも「肯定的だとはいえない」ことは,わからないだろう。2002年のニューヨーク・デイリーニューズ紙のインタビューで,彼女は,楽観主義の健康への有益性は「かなり大きい」とし,「たいてい楽観主義者のほうが感情をうまく調整できる」だけでなく,「楽観主義者のほとんどは病気に対する免疫反応がより強い」と語っている。私は,2007年にセガーストロームに電話インタビューをした。そのときの彼女の言い分によれば,メディアなどに圧力をかけられてネガティブな結論を封じたわけではないという。だが,受賞歴のことを話題にしたとき,彼女はこういった。「テンプルトン賞の受賞には……ヌル・リザルトでは何ももらえませんよ」

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2010). ポジティブ病の国,アメリカ 河出書房新社 pp.201-202

ポジティブ心理学への批判

 心理学者からも,ポジティブ心理学への批判の声が上がっている。歯に衣着せない意見を述べているのが,ボードイン・カレッジの教授のバーバラ・ヘルドだ。彼女は,黒髪を長く伸ばした人目を引く女性で,ユーモアのセンスにあふれ,『笑うのをやめて,不平不満をあげつらおう』[原題 Stop Smiling, Start Kvetching]という不敵な題名の自己啓発本の著者でもある。彼女は,2003年にポジティブ心理学国際サミットにパネリストとして招かれたとき,笑ってる顔にバツ印のついたイラストのTシャツを着てあらわれ,セリグマンとディーナーにも同じものを着るように勧めたのだ。そんな彼女がとりわけ問題だと考えている点の1つに,ポジティブ心理学が「ポジティブな妄想」を幸福と安寧を得る手段として認めていることがある。「ポジティブ心理学の務めは,楽観的になりなさい,スピリチュアルになりなさい,親切に,快活になりなさいなどと人びとに命じることではない。むしろ,こういう資質の(おそらくは現実性をそれほど犠牲にせず,健康,成功に対して)もたらす結果について論じることなのだ」。彼女のいうように,「あらゆるタイプのポジティブ心理学者は,この学問が厳密な科学であることをやっきになって宣伝している」。ならば,彼らはどうして「現実と客観」とを捨て去るようなまねをするのだろう?彼女の主張では,ポジティブ心理学者のなかには,「認識のダブルスタンダード」を採用し,客観的で,偏向のない科学をうたいながら,日常への「美観への偏向」を是認している者がいるという。


バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2010). ポジティブ病の国,アメリカ 河出書房新社 pp.193

モーツァルト効果の現実

 「モーツァルト効果」は都市伝説化し,大勢の人がモーツァルトの音楽を聞くとさまざまな能力が向上し,その効果は永続的で,乳幼児にも効き目があると信じ込んだ。だが,1990年代が終わって21世紀に入ると,状況は一変した。まず,ハーヴァード大学のクリストファー・チャブリスが,ラウシャーによるもともとの実験をなぞったすべての実験結果を集め,この効果は(実際に存在すると仮定して),当初考えられていたよりもはるかに小さいと結論した。そして,べつの研究では,実際に効果があるとしてもモーツァルトの2台のピアノのためのソナタ・ニ短調に限定されたものではなく,このタイプのクラシック音楽から生まれる一般的な幸福感と結びつくものだと指摘した。またある研究者は,被験者にモーツァルトの音楽と,それよりもっと悲しい音楽(アルビノーニのアダージョ・ト短調)を聞かせて効果を比較し,やはりモーツァルトの効果のほうが上であることを発見した。
 だが研究チームが,音楽がいかに参加者の気持ちを沸き立たせ,しあわせにするかをほかの音楽で対照実験したところ,モーツァルト効果が急に消えてしまった。さらにべつの研究では,モーツァルトを聞いたときの効果と,スティーヴン・キングの小説『死のスワンダイブ』の朗読テープを聞いたときの効果とが比較された。キングよりモーツァルトのほうが好きだと答えた参加者は,思考能力テストではキングの小説を聞いたときのほうが,成績がよかった。しかもモーツァルトよりキングのほうが好きだと答えた参加者も,小説の朗読を聞いたあとのほうがいい成績をとった。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2010). その科学が成功を決める 文藝春秋 pp.236-237

ポジティブ心理学への批判

 10年ほど前から,「ポジティブ心理学」なる新しい学問を支持する人びとは,楽観主義,あるいはポジティブな態度をもってすれば,がんはもちろん,体の不調のほとんどを克服できると主張している。だが,コインらが指摘するように,その理屈は,よくいっても当てにならない。幸せな心と健やかな体とを関連づける——前向きな考え方によって免疫機能が高まることを示す——理論上の要にしても,数年前にさんざん叩きつぶされた。ケンタッキー大学のスーザン・セガストローム准教授が,本人にも意外に思える発見をした。深刻な病気をわずらっているときなど,きわめて大きなストレス要因を抱えている場合には,楽観主義が免疫機能に悪影響を及ぼすこともあるというのだ。

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2009). スーパーリッチとスーパープアの国,アメリカ:格差社会アメリカのとんでもない現実 河出書房新社 pp.158-159

意識することはできる

 過去を説明する話を考え出したり,将来に対する曖昧なストーリーに確信をもつようになったりすることは簡単だ。また,そうした努力に落とし穴があるということは,われわれはそれを企てるべきではないということを意味しない。しかし,われわれは直感的誤信に陥らないようにすることができる。われわれは,解釈も予言も,懐疑心をもって見るようになれる。われわれは出来事を予言する能力に頼るのではなく,出来事に対応する能力に,柔軟性,自信,勇気,忍耐のような人間的性質に,より多くの重要性を置くことができる。そしてこのようにすれば,われわれは,自動的な決定論的枠組みの中で判断するのを食い止めることができる。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.299-300
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

観察できるのは1点のみ

 われわれが成功とか失敗とかを目にする場合,われわれはたった1点のデータ,つまりベル曲線上の1点を観察しているにすぎない。観察しているその1点が,はたして平均値を表しているのか異常値を表しているのか,当てにできる出来事なのかまれな出来事なのか,われわれにはわからない。しかし最低でもわれわれが知っておくべきことがある。それは,標本点は標本点にすぎないということ,つまり,それを単純にリアリティとして受け入れるのではなく,標準偏差という文脈の中で,あるいはそれを生み出した可能性の幅の中で,それを見るべきであるということ。ワインの格付けが91点でも,同じワインが繰り返し格付けされたり別の人間によって格付けされたりするときに生じるバラツキの評価がなければ,その数字は無意味である。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.212
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

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