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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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カーネマンのきっかけ

 カーネマンとトヴァスキーの研究に弾みをつけたのは,あるランダムな事象だった。1960年代の中ごろ,当時ヘブライ大学の新参の心理学教授だったカーネマンは,いささか退屈な仕事を引き受けることに同意した。それは,イスラエル空軍の飛行教官たちに行動修正の理論と,飛行訓練へのその応用について講義するという仕事だった。カーネマンは,前向きな行動に報酬を授けることは効果をあげるが,失敗を罰することはそうではないことを,十分納得いくように説明した。ところが,受講生の1人が言葉を返してつぎのような意見を述べた。そしてこのことがカーネマンにあるひらめきをもたらし,以後何十年ものあいだ,彼の研究の指針となる。
 「私は,見事な操縦には,訓練生たちをしばしば暖かく褒めてきましたが,すると次回は決まって悪くなります」と,飛行教官は言った。「また下手な操縦には生徒たちを怒鳴りつけてきましたg,おしなべて次回は操縦が改善されます。ですから,報酬はうまくいくが罰はそうではない,などと仰らないでください。私の経験はそれとは合致しません」。他の教官たちもみな同意見だった。カーネマンには,飛行教官の経験は真実であるように聞こえた。しかし一方でカーネマンは,報酬は罰よりもうまくいくことを証明した動物実験を信じていた。
 彼はこの明白な矛盾をあれこれ考えた。そして突然ひらめいた——怒鳴ったあと改善が見られることは確かだが,見かけとは違い,怒鳴ったことが改善をもたらしたのではないのだ,と。
 どうしてそんなことが?その答えは,「平均回帰」と呼ばれる現象にある。平均回帰とは,どんな一連のランダムな事象においても,ある特別な事象のあとには純粋の偶然により,十中八九,ありきたりの事象が起こる,というもの。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.13-14
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)
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超心理学者のルート

 これらは繰り返し語られるテーマである。超心理に興味を見いだした科学者は,最初かなり熱狂的にとり組むのである。科学的見地からすれば,超心理の実体はきわめて重要なのである。そして一見したところ,それはそれほどこみいったものには見えない。超心理実験の多くは,少なくとも原理的には,滑稽なほど単純なのである。だから,新参の研究者はしばしば,それまでの研究者は能力が足りなかったか,問題にしっかり向き合っていなかったのだと,ひそかに思いこむのである。しかし,2〜30年,難問をかじってみると,研究者は少し年を重ねて賢くなり,温和な意見を言うようになるのだ。超心理が本当に存在すると確信しながらも,同時に超心理現象は大いなる謎だと理解している,そう認めるようになる。
 私の感触では,この難問についてウィリアム・ジェームズが妥当な考え方をもっていた。1897年の自著で,彼は「心理学,生理学,医学の分野では,神秘主義者と科学主義者の論争が最終的に決着するときはいつも,事実については神秘主義者が正しく,理論については科学主義者が上をいく」と述べている。

ディーン・ラディン 竹内薫(監修) 石川幹人(訳) (2007). 量子の宇宙でからみあう心たち:超能力研究最前線 徳間書店 p.312

潜在的抑制

 たとえば,パブロフの犬の学習について考えてみよう。パブロフは,犬にベルの音を聞かせてその直後に餌を与える,という手順を繰りかえして,ベルの音だけで唾液が出るように犬を条件づけた。ところが,最初ベルの音を聞かせても,餌を与えなかったならば,どうだろう。犬は,ベルの音は何も意味がないと,それを無視するようになるだろう。もしそうなってしまった後に,唾液が出る条件づけを試みると,かなり苦労するにちがいない。犬はすでにベルを「無視すること」を学んでしまっているからである。このベルの無視が潜在的抑制であり,それゆえに新しい学習がさまたげられるのである。
 潜在的抑制は,私たちの脳のなかでも重要な役割を果たしている。それは作業の同時遂行を可能にしている。たとえば私たちは,高速道路を運転しながら,同乗者とおしゃべりし,コーヒーをすするという作業を,3つ同時に注意することなく並行して行えるのである。運転をするときは何に注意を向ければよいのか(そして何に注意を向けなくてよいのか),前もってしっかり学習しておかないと,すぐに情報の洪水がおそってきてパニックになってしまう。
 健全な人間は,巧みに潜在的抑制を行っている。逆説的に聞こえるかもしれないが,脳が不必要とみなすものによって感覚意識が抑制されればされるほど,私たちはより一層安定して集中できるのである。だから,もし潜在的抑制が弱いと重大な問題が起きる。潜在的抑制は,統合失調症患者について詳しく研究されている。というのは,統合失調症の主要な症状が,まったく関係がなくても,どこでも意味ありげな関連性を知覚してしまうことだからである。潜在的抑制の低下は,無関係な情報を無視することの障害と見られるので,それによってゆがんだ関連づけを説明できる。

ディーン・ラディン 竹内薫(監修) 石川幹人(訳) (2007). 量子の宇宙でからみあう心たち:超能力研究最前線 徳間書店 pp.90-92

音声言語によるメリットは手が空くこと

 従って,音声言語が進化したのは,手の模倣的表現の自由度が上がったためではない。むしろ何か別の活動に手を使えるようになったためであろう。チャールズ・ダーウィンはあらゆることを考えていたようだ。「われわれは指をまるで精巧な機械のように使うことができる。訓練を積んだ人なら,講演で話される内容を手話に翻訳して聾の人に伝えることができる。素早く話されるすべての単語を伝えることが可能だ。その一方で,手を使えないと,つまりは別のことで手を使っていると,かなり深刻な不便が生ずる」とダーウィンは述べた。赤ん坊を抱いていたり,運転していたり,買い物袋をぶら下げていたりして手を別のことで使っていると,手を使ったコミュニケーションは困難になる。当たり前である。だが,そんなときでも話すことはできる。なお,この問題に対する手話話者の工夫は驚くべきものだ。しかし,言語に存在するさらに大切な利点は,手を使った作業で使われるテクニックを,誰かに説明することと関わるのだろう。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.329-330

人間は仲間を容赦なく殺す動物である

 ビンガムはタダ乗りを防止するコストは,離れたところから殺傷したり怪我を負わせたりする手段を持つことで大幅に軽減されると論じた。だが,私にはこれが決定的な要因であるとはあまり思えない。だが,私にはこれが決定的な要因であるとはあまり思えない。ビンガム自身も言うように,コストがメンバーの間で共有されるなら,1人あたりの損失は大幅に減少するからである。10頭のライオンが1匹のタダ乗りライオンをやっつけるにはたしいたコストはかからないだろう。人間でも同様だ。重を持った0人の男が,1人の裏切り者を始末するのはそれほど難しくない。1人ずつで見れば返り討ちにあうリスクは決して大きくない。そうとはいえ,協力関係の維持を考えるとき,単に離れたところからでも殺傷できるという理由で,銃を持った人間はライオンより勝っていると言えるだろうか?
 その可能性は確かにある。1つの可能性として,協力関係がより高度な武器の発明につながったことが考えられる。実際,ホミニンの進化の大部分は武器づくりの競争と言うこともできる。われわれの武器は,単純に石を投げるところからはじまった。やがて槍,そして弓と矢を使うようになった。さらに,銃,爆薬,核兵器へと進歩(この表現が正しいなら)した。また,ビンガムは人間が伝統的な敵より,むしろ協力関係にある仲間を容赦なく殺すことを示す統計を引用した。この統計は驚くべきものだった。20世紀には,少なくとも1億7千万人,最大の見積もりでは3億6千万人が自国の政府によって殺害された。このような残酷な時代が終わってくれたことはありがたい。一方,20世紀の大戦における死亡者数はたった4200万人なのだ。カンボジアではクメール・ルージュの時代である1975年から1979年に,人口のおよそ3分の1が殺された。これは大規模な協力関係を維持するコストの極端な例だろう。だが,カート・ヴォネガットの言葉にあるように,そういうものなのだ(So it goes)。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.158-159

人間が急ぐ理由

 サバンナにいる他の種が,捕食者から逃れるためにできることは感覚を研ぎすますことだけだ。鋭い感覚で敵を察知し,すばやい足で逃げるのである。またほとんどの捕食者は空腹の時だけ狩りをする。狩りも物理的あるいは身体的な手がかりに依存している。それを使って獲物にねらいをつけ,追い詰めるのだ。対照的に,ホミニンは生存のために認知的方略を進化させた。他の種が身体を使うなら,人間は頭を使うというわけだ。ホミニンの狩りでは前もって獲物の活動を予測し,危険を最小にとどめ,攻撃が成功する可能性を最大に高めようとする。トム・サダンドーフは「お腹がいっぱいになったライオンはシマウマにとってまるで怖くはないが,腹一杯の人間はおそらく相当に恐ろしいものだろう」と述べている。おそらく,このために人間には時間がないのであろう。悲しくなってしまうくらい,われわれは時間に追われている。なにせお腹が減っていなくとも,食べ物を探し求めてしまうのだから。いくら忙しくとも,たっぷり時間を使ってスーパーマーケットで買い物をしてしまうのも同じ理由だ。他の動物はもっと優雅に(あるいはダラダラと)時間を使っているように見える。そう,ネコなんかはうらやましい限りだ。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.154-155

無用で交換可能な市場

 要するに,私たちが報酬なしでも喜んですることは,給料のための仕事以上に私たちを幸せにしてくれる。私たちは食べていかなければならないが,マズローの言うとおりで,生きるとはそれだけではない。創造的かつ評価される方法で貢献する機会は,マズローがすべての願望の中で最上位に置いた自己実現にほかならず,それが仕事でかなえられることは少ない。ウェブの急成長は,疑いなく無償労働によってもたらされた。人々は創造的になり,何かに貢献をし,影響力を持ち,何かの達人であると認められ,そのことで幸せを感じる。こうした非貨幣的な生産経済が生まれる可能性は数世紀前から社会に存在していて,社会システムとツールによって完全に実現される日を待っていた。ウェブがそれらのツールを提供すると,突然に無料で交換される市場が生まれたのである。

クリス・アンダーソン 高橋則明(訳) (2009). フリー:<無料>からお金を生み出す新戦略 日本放送出版協会 p.251

アマチュアの制作への動機づけ

 アマチュアの創作意欲を動機づけるのは,お金でなければなんなのだろうか。贈与経済を動かしているのは寛大な心だ,と多くの人は思っているが,ハイドが南太平洋の島の住人を観察したところ,彼らは強い利他主義者でもなかった。つまり,アダム・スミスは正しかった。啓発された利己主義こそ,人間のもっとも強い力なのだ。人々が無償で何かをするのはほとんどの場合,自分の中に理由があるからだ。それは楽しいからであり,何かを言いたいから,注目を集めたいから,自分の考えを広めたいからであり,ほかにも無数の個人的理由がある。

クリス・アンダーソン 高橋則明(訳) (2009). フリー:<無料>からお金を生み出す新戦略 日本放送出版協会 p.250

情報の段階構造

 今や<欲求段階説>としてよく知られるマズローの答えはこうだ。「すぐに別(高次)の欲求が現れ,生理的空腹に代わってその肉体を支配する」。マズローの5つの段階の一番下には,食べ物や水などの生理的欲求がある。その上は安全の欲求で,三段目は愛と所属の欲求,四段目が承認の欲求で,最上段が自己実現の欲求である。自己実現とは,創造性などの意義あるものを追求することだ。
 同様の段階構造が情報にも当てはまる。ひとたび基本的な知識や娯楽への欲求が満たされると,私たちは自分の求めている知識や娯楽についてより正確に把握できるようになり,その過程で自分自身のことや自分を動かしているものについてもっと学ぶことになる。それが最後に私たちの多くを,受け身の消費者から,創作に対する精神的報酬を求める能動的な作り手へと変えていく。

クリス・アンダーソン 高橋則明(訳) (2009). フリー:<無料>からお金を生み出す新戦略 日本放送出版協会 p.239

確実な信念から遠ざけるバイアス

 実際のところ,状況はこれよりももっと悪いかもしれない。何世紀もの間,哲学者たちは,心の管理のこうした失敗が人々をおかしな信念に導くと述べてきた。しかし,心がどのようにはたらくかを解明するために,哲学者たちがもっていた道具は,内省と推理だけだった。心理学者たちがこれらの道具を実験でおきかえてはじめて,明快で確実な信念から私たちを遠ざけるようにさせる,一連の心的プロセスが発見された。たとえば,次に挙げるものだ。

・多数意見(コンセンサス)効果 人は,ある光景を見た時に,その印象を他の人が述べることに合わせる傾向がある。たとえば,ある顔を見た時に,怒りの表情として感じても,まわりの人々がその顔を軽蔑の表情として見ているのなら,それが軽蔑の表情に見えると言ってしまう。
・誤った多数意見効果 多数意見効果とは逆に,ほかの人々も自分と同じ印象をもっていると誤って思ってしまう傾向のことを指す。たとえば,ある光景を見た時に,その光景を見たほかの人々も自分と同じような感情を抱いていると思ってしまう。
・生成効果 自分が生成した情報は,見たり聞いたりしただけの情報よりもよく記憶されている。特定の光景を思い浮かべて自分から報告した細部は,実験者から指示された細部よりも,あとでよく思い出せる。
・記憶の錯誤 実験心理学者にとって,偽の記憶を作り出すことは簡単にできる。この場合に,人は,実際には想像した項目であるにもかかわらず,見たり聞いたりしたと直観的に思ってしまう。同様に,自分が特定の行為をしているところを何度も想像するうちに,その行為を実際にしたという錯覚が生じる。
・情報源のとり違え 特定の状況におかれると,情報源について混同することがある(自分の推論だったのか,それともほかのだれかの判断だったのか?聞いたのか,見たのか,それともなにかで読んだのか?)これが,その情報の確かさの評価を難しくする。
・確証バイアス いったん仮説をもってしまうと,それを確証するように見える肯定的な事例に気づきやすくなり,そうした事例を想起しやすくなる。逆に,否定的な事例には気づきにくくなる。肯定的な事例はその仮説を思い出させ,証拠とみなされる。否定的な事例はその仮説を想起させず,したがって証拠とはみなされない。
・認知的不協和の低減 人は,以前の信念や印象の記憶を,新しい経験に照らして再調整する傾向がある。もし新しい情報がある人物の印象を形成するなら,たとえ以前の判断が実際にはそれと逆であっても,自分が最初からその印象をもっていたと思う傾向がある。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.390-391
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

心理学のおもしろさは方法論にある

 ちなみに,こうした行動実験のノウハウは心理学だけが持つものである。心理学以外で,人間や他の動物の行動をきちんと精密に測定できる分野はほとんどない。しかもこれまで述べた例からわかるとおり,心理学の測定方法は創意と工夫に満ちている。心理学の魅力の大部分は方法の魅力であると筆者は思う。その方法論によって心理学は生理学や神経科学に貢献している。だから脳科学がいくら進歩しても心理学はなくならない。というかむしろ逆で,脳科学の進歩には心理学の方法が不可欠なのである。たとえば最近では,遺伝子組み換えによって特定の神経伝達物質の生成に影響を与え,記憶の生理学的基盤を明らかにしようとする研究が盛んに行われている。これが成功すれば「頭のよくなる薬」の開発につながるので,膨大な研究費が注ぎ込まれている。しかしそこでどんなに高度な生化学的操作が行われても,実験動物の記憶能力が実際に向上したかどうかを評価するのは,行動実験によってのみ可能なのである。つまり遺伝子を組み換えた実験動物に実際に「迷路学習」などをさせて,その成績が向上していることを示さなければならない。たとえ遺伝子組み換えによって記憶に関わる脳の部位が増大することが認められたとしても,実際の学習成績が向上しなければ意味がない。このように心理学の方法は,脳科学に従属するのではなく,逆に脳機能の理解に不可欠の重要な技術を提供するのである。
 以上のとおり,心理学の目的は,主観的な世界で生じる精神の働きを客観化することである。しかし心理学には何の秘術もないので,精神の働きを直接に知ることはできない。そこで心理学は,精神機能の反映である「精神作業の成績」を研究対象とする。そこにおいて心理学研究の魅力は,方法のおもしろさ,巧妙さによるところが大きい。考え抜かれた納得できる科学的方法によって,主観的世界を研究すること。それが心理学研究の醍醐味だ。それは世間的なイメージよりもはるかに科学的思考に満ちており,また少々窮屈なほど「方法コンシャス」でもある。これが現代心理学の実際のすがたである。このように心理学は極めて科学的であり,何の秘術も持たない。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.63-64

心理学は「心理+学」ではなく「心+理学」

 さて,ほとんどの人は,心理学とは「心理の学」だと思っているだろう。建築学が建築の学であり,経済学が経済の学であるなら,同様に心理学が心理の学であることは全く明らかなことに思える。しかし本当にそうだろうか。では「心理」とは何だろうか。『広辞苑』では「心の働き。意識の状態または現象」と定義されている。日常的な用法では,心理という言葉は,特定の人が特定の時に抱いている心的状態,特に感情的な状態を意味するようである。たとえば「電車の中で大声を出して携帯電話で話している人の心理は不可解だ」というふうに,「心理」という言葉はほとんど「そのとき考えていること」や「気分」と同一の意味で用いられている。つまり心理学が心理の学なら,それは結局「たった今あの人は何を考えているか」を知ることのできる学問というニュアンスを持ってしまう。つまり心理学はテレパシーのような学問だということだ。実際に,心理学科の学生がサークルなどの自己紹介で「専攻は心理学です」というと,必ず「じゃあ,今私が何を考えているのかわかるんですね?!」という途方もなく居心地の悪い質問を受ける。心理学が「心理の学」なら,この質問はごく当然だろう。
 しかしあたりまえのことだが,心理学はテレパシーのようなものではない。つまり心理学は「心理の学」ではない。少なくとも大学で学ぶ心理学は心理の学ではない。大学で学ぶ心理学は「心の理学」である。「の」の字の位置を変えただけで,心理学という言葉のニュアンスが全く変わってしまうことに注目していただきたい。すでに述べたように,心理学という言葉は,Psychologyという言葉を構成するプシケーとロゴスを,ほぼ忠実にそれぞれ「心」と「理」という漢字におきかえている。つまりもともと「心理」というひとまとまりの概念ではなく,「心+理」という構造になっているのである。「理学」とは結局「科学」のことだから,心の理学とは人間の精神を科学的に探究しようとする学問ということになる(もっとも明治の初期には「理学」はPhilosophy(哲学)の訳語の1つだったらしい。だから最初は心理学という語はむしろMental Philosophyの訳語としての意味合いが強かったのかもしれない)。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.5-7

最も深い「精神の創(きず)」

 人間にとって,「苦しかったこと」の思い出は,必ずしも苦痛ではない。否,むしろ楽しい場合さえある。老人が昔の苦労を語りたがり,軍人が戦場の苦労を楽しげに語るのは,ともにこの例証である。従って,人にとって「思い出すのもいやなこと」は,必ずしも直接的な苦しみではない。
 結果的には,自分にとって何ら具体的な痛みではなかったことでも,それがその人間にとって最も深い「精神の創(きず)」,永遠に癒えず,ちょっと触れられただけで,時には精神の平衡を失うほどの痛みを感じさせられる創になっている場合も少なくない。
 以上のことは,人が,そのことを全く語らないということではない。語っても,その本当の創には,本能的に触れずに語る。収容所のリンチについては時としては語られることはあっても,それを語る人は,なぜそれがあり,自分がなぜ黙ってそれを見ていたのかは,語らない。そして,だれかがその点にふれると,次の瞬間に出てくるのはヒステリカルな弁明であっても,なぜその事態が生じたかの,冷静な言葉ではない。
 時には一見冷静な分析のように見えるものもある。だがそれを仔細に検討すれば,結局は一種の責任転嫁----戦争が悪い,収容所が悪い,米軍が悪い,ソヴェト軍が悪い,等々である。しかし,同じ状態に陥った他民族が,同じ状態を現出したわけではない,また同じ日本人の収容所生活でも,常に同一の状態だったわけではない,という事実を無視して----。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.107-108

自己認識のあり方

 戦闘状態の人間は,大体において無我夢中であり,一見冷静に見える者も,常軌を逸していることは否定できない。特に銃弾が,しだいに身に迫ってきて,空を切る音がピュッ,ピュッからパシッ,パシッと変わったり,平ぐものように這いつくばっている凹所のすぐ横のボサ(小灌木)の小枝が,一定の高さで,鎌で刈られるようにきれいに機銃弾ではじきとばされていくのを,わずかに顔を横にむけて横目で見上げているような状態では,戦闘の全般をパノラマのように頭に浮かべ,その中における自己の位置を正確に位置づけるなどということは,はじめから不可能である。
 それは,自己の戦死の情況を自ら叙述することが不可能だ,という状態に似ている。ピュッピュッかパシッパシッとなる。それから先を知っている人間は,大体この世にいない。だが奇蹟的に,それを知りかつ生きている人間がいないわけではない。
 先日小野田寛郎氏に会ったとき,氏は,奇蹟的に助かったある一瞬,銃弾が「見えた」と語った。そのとき私は,氏と全く同じことを海軍陸戦隊の一兵曹が語ったことを思い出した。ピュッもパシッも,その音が聞こえたことは自分が生きている証拠,そして銃弾はすでに過ぎさった証拠である。どのように身近を通ろうと,耳許をかすめようと,横を通過する銃弾は,音だけで,目には見えない。しかし自分の正面へまっすぐ進んでくる弾丸は,白刃が目にもとまらぬ速さでまっすぐ自分に向ってくるように,一瞬白く見えるが,音は聞こえない,と。
 この兵曹の場合は,その無音の白刃が,胸元に右手でかまえていた拳銃に命中した。銃弾は破片となってとび散り,彼の右目は,半ば失明していた。私には,こういう体験はない。だがこれに近い状態にある人間には,戦闘全般の情況など全然脳裏にないことはわかる。彼が生きているのは,そこの全般的情況とは別の世界である。
 戦記などに時々,激烈な戦闘状態にある自分を客観的に描いているものがあるが,私などには,一体どうやったらそういうことが可能なのか,さっぱりわからない。本当に戦闘を見たなら,その人が見た位置が明らかでなければおかしい。もっともフィクションなら別だが----。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.86-88

プラシーボ・ノシーボは非意識過程

 しかし,ノシーボ効果やプラシーボ効果が意識的なレベルで働いている,あるいはプラシーボやノシーボが効果を発揮するためにはそうなると信じなければならない,という結論にとびつくべきではない。たとえば,動物実験では,動物もプラシーボ効果とノシーボ効果の両方を体験することが示されている。ある研究で,ラットに定期的に免疫抑制剤を注射し,同時にサッカリンで味をつけた水を与えた。しばらくたってから,同じようにラットに味つきの水を与えるが,今度は薬はなしにした。その後,ラット(およびサッカリンを与えていない第二のグループ)の免疫系を調べるために細菌を注射した。サッカリン味のする水と免疫抑制剤の組み合わせで条件づけをおこなわれたラットは,もはや免疫抑制剤を投与されていないにもかかわらず,他のグループと比較して,細菌に対する抗体のレベルが有意に低かった。この場合,サッカリン液と有害な薬剤とのあいだにラットが形成した連想は,薬の使用が中断されて何日もあとにさえ,免疫系への薬の影響を体験するよう彼らに「教えこんだ」ように思われる。この例では,味つきの水はノシーボであると考えることが十分にできるだろう。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.317-318

武士は認知バイアスを避けようとしていた

 乱世を生きた武士たちの,事がらをあるがままに見る能力が尋常でなかったであろうことは,彼らの生活ぶりを示すさまざまな史料からも想像がつく。雲の動き,川の流れ一つ見るにしても,戦国武士の眼力と我々のそれとでは,犬の嗅覚と人のそれとぐらいの隔たりがあるにちがいない。しかも,そのような高い能力を身につけていながらも,なお彼らは,事実のあるがままは容易につかみ難いことを自覚し,自らを戒めつづけていた。見る力はあるにもかかわらず,その上でなお見そこなうことはある。武士たちはそのことを警戒し,だからこそより一層分別の大切さを強調したものと考えられる。
 都合の悪いことにはなるべく目をふさぎ,都合の良いことばかりを見ようとする本能は,武士たちにおいても変わることはない。せっかく事実のありのままを見抜く力を持っていても,自分から目をつぶってしまっては元も子もない。
 たとえば,臆病な大将は,敵の軍勢を見えた以上の大軍だと受けとめ,逆に強すぎる大将は過少に見積もろうとする。これらはいずれも,あるがままを自ら歪め,偽っていることにほかならない。このように,あるべき1つの判断を外にして,自分に都合のよいように事実を曲げていくあり方は,『甲陽軍艦』のみならず,およそ武士道思想において最も嫌われるマイナス価値である。

菅野覚明 (2004). 武士道の逆襲 講談社 Pp.105-106

分母盲目

 驚くような結果ではないが,ハーバード大学公衆衛生学部によって2002年に実施された世論調査によって判明したところでは,米国人はこのウイルスの危険性を極端に過大評価していた。「西ナイルウイルスによって病気になった人のうち,どのくらいの人が死亡すると思いますか?」この回答として次の5つが用意されていた。ほぼゼロ,10人に1人程度,4人に1人程度,半数以上,わからない。14パーセントが「ほぼゼロ」と答えた。同じく14パーセントが半数以上,18パーセントが4人に1人,45パーセントが10人に1人と答えた。
 以上に述べたような状況を「分母盲目」と呼ぼう。メディアは日常的に「X人が死亡した」と世間に伝えるが,めったに「Y人のうちの」とは言わない。「X」が分子であり,「Y」が分母である。リスクの基本的な感覚をつかむには,分子を分母で割らなくてはならない。したがって,分母が見えないということは真のリスクが見えないことを意味する。ロンドンの『タイムズ』紙のある社説が好例となる。そこでは,見ず知らずの人間によって殺される英国人の数が「8年間で3分の1増えた」ことを見出していた。これは,被害者の総数が99人から130人に増えたということであると社説の第4パラグラフで触れられている。ほとんどの人はこの数字を少なくともちょっと恐ろしいと思うだろう。この社説の筆者はそう思ったはずだ。しかし,社説で述べられていないのは,およそ6000万人の英国人がいるため,見ず知らずの人間に殺される確率が6000万分の99から6000万分の130に上がったことである。計算すれば,リスクは,ほとんど目に見えないほど小さな0.0001パーセントから,ほとんど目に見えないほど小さな0.00015パーセントに確率が上がったと明らかとなる。


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 p.246
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

食堂に潜む危険

 「学校の食堂にはどんな危険が潜んでいるか?」とワシントンの消費者運動団体の一つ公益科学センターが出した2007年1月のプレスリリースは問いかけている。「公益科学センターによると,米国の学校の食堂の環境は,悲惨な結果を招きかねない食中毒の発生をいつでも引き起こしかねない。今日発表された報告の中で食事サービスの順位づけが行なわれている」。当然「悲惨な結果を招きかねない食中毒の発生」が「いつでも」起きる可能性があるというのは本当である。それは,いまこの瞬間にも小惑星によって学校が押しつぶされる可能性があるのが本当であるのと同じ意味で本当である。きわめて重要な質問は,どのくらいそれが起きやすいかである。その答は,プレスリリースの最後近くにほのめかされていた。「1990年から2004年のあいだに,学校関連の食事由来の病気を1万1000件以上」記録してきたと述べられている。この数字は恐ろしく感じられるかもしれないが,疾病対策センターが推定した米国全体の1年間の食中毒の件数である7600万件と比べてみて欲しい。そして,学校における食中毒が14年間に1万1000件だと,年に786件になり,生徒人口が5000万以上だとすると,生徒が学校で食中毒になる確率は約0.00157パーセントになる。このプレスリリースの正確な見出しは「学校の食堂はかなり安全」となるように思われる。しかし,こんな見出しでは,ニュース編集室で見向きもされないだろう。


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.227-228
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

3つ組数字課題

 確証バイアスについての初期の研究の1つにおいて,心理学者のピーター・ワッソンは被験者に3つの数からなる数列----2,4,6----を示し,被験者にその数列が一定の規則に従っていると話し,その規則が何か見つけ出すように求めた。規則を見つけ出すために,別の数を3つ書いて,規則に従って並んでいるか尋ねることができた。規則を見つけ出したら,そう言って欲しい,そうすれば,正解かどうか調べますと担当者が指示を出した。
 規則が「2ずつ増える偶数」であることは非常に明白だと思えるだろう。あなたが被験者だとしたら,何を尋ねるだろうか?最初はこう聞いてみよう。「8,10,12はどうですか?規則に従いますか?」。そして,「はい,従います」と言われる。
 これを聞いて,疑わしく思えてくる。あまりに易しすぎる。そこで,もう1組の数を試してみることにする。「14,16,18は規則に従いますか?」。「従います」
 この時点で,規則は2ずつ増える偶数だと叫びたくなるが,どこかにひっかけがあるはずだ。そこで,さらに3つの数「20,22,24」について尋ねることにする。またまた,規則に従っている!
 ほとんどの人が上記の通りのパターンに従う。こうじゃないかと思うたびに正しいと言われるため,正しい証拠が積み上がっていくように思われる。当然,最初の考えが正しいと完全に確信するようになる。すべての証拠を見るがいい!そういうわけで答がわかったと告げる。答は「2ずつ増える偶数」だ。
 すると,間違っていると言われる。それが規則ではありません。実は,正解は「昇順に並んだあらゆる数」だったのだ。
 なぜ間違えたのか?規則が「2ずつ増える偶数」でないことを見つけ出すのは非常に簡単だ。規則が2ずつ増える偶数であることを反証すればいいだけだ。たとえば,「5,7,9」が規則に従うかどうか尋ねることもできる。答が「はい,規則に従います」だとすると,即座に仮説の反証となるだろう。しかし,ほとんどの人は反証しようとせず,逆のことをする。つまり,規則に合う例を探すことによって規則を確認しようとする。それは役に立たない戦略である。どれだけ多くの例が積み上がったとしても,正しいことを証明することはできない。確認にならないのだ。

ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.169-170
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

(注:Peter Cathcart Wasonは「ウェイソン」と表記されることが多い)

ホットハンド。あると思う?

 ランダムさに関する誤解が執拗であることがある。エーモス・トヴェルスキーとトーマス・ギロヴィッチ,ロベルト・ヴァローネがバスケットボールの「ホット・ハンド」を分析したのは有名な話である。「ホット・ハンド」とは,2本か3本か4本のシュートを決めたばかりの選手は「ホット・ハンド」になっているため,外したばかりのときに比べて,次のシュートを決めることになりやすいという考えである。彼らは,厳密な統計的分析を用いて「ホット・ハンド」が神話であることを証明した。しかし,骨を折ったにもかかわらず,米国中のバスケットボールのコーチとファンによって馬鹿にされた。

ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 p.150
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

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