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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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正当化の証拠

 正当化の証拠はたくさんあるが,もっとも印象深いもの----きっともっとも変わったもの----は神経科学者マイケル・ガッザニガによるいわゆる分離脳の患者を用いた一連の実験である。通常は,左右の脳半球はつながっていて,指示を出し合って連絡を取っているが,強度の癲癇の治療の一つでは両者を分断する。分離脳の患者の体は驚くほど健全に機能するが,2つの脳半球が異なる種類の情報を扱うため,それぞれの脳半球は,他方の脳半球が気づいていないことを知ることができるということに科学者が気づいた。この影響は,どちらか一方の目だけに文書による指示を見せる実験で人為的に誘発することができる。ガッザニガは,ある実験で,この手法を用いて分離脳の患者の右脳に立ち上がって歩くように指示した。次に,ガッザニガは,なぜ歩いているのかとその男に口頭で尋ねた。このような「理由」を尋ねる質問は左脳が扱う。そして,このときの左脳は本当の答が何であるかまったくわからなかったにもかかわらず,その男はソーダ水を取りに行こうとしていたと即答した。状況を変えた実験でも常に同じ結果が得られた。つまり,左脳は何が起きているかわからないと認める代わりに,素早く巧妙に説明をでっち上げた。そして,答を口にした本人は,すべて本当だと思っていた。

ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.106-107
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

(注:M.S.Gazannigaは通常,「ガザニガ」と表記することが多い)
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記憶は生物のプロセス

 ほとんどの人が,記憶はイメージを記録し,将来取り出せるように蓄えておけるカメラのようなものだと考えている。確かに,ときどきそのカメラは撮りそこねる。それに,ときどき古い写真を見つけるのに苦労する。しかし,それらを別にすれば,記憶は,直接的で信頼性が高く現実を反映する写真が詰まっている。
 残念ながら,これは真実に近いとさえ言えない。記憶は生物のプロセスと言った方がよい。記憶は日常的に薄れたり,消滅したり,変形したりする。しかも,ときに劇的である。もっとも強固な記憶は----注意が釘づけとなり,感情が噴出しているときに作られる記憶----さえ変化の対象になる。記憶の研究者がよく行なう実験の一つは,9月11日のテロ攻撃のような重大ニュースと関連づけられる。学生は,非常に印象的な出来事の直後数日のうちにその出来事をどのように聞いたか,つまり,どこにいたか,何をしていたか,ニュースの出所は何かなどを書くように求められる。数年後,同じ学生がこの課題を再度行なうように求められ,2つの答が比較される。それらは決まったように一致することはない。たいてい違いは小さいが,ときおり,全体状況と関係者が異なっていることがある。そういう回答をした学生が,最初の自分が書いたものを見せられ,記憶の変化を指摘されると,たいてい,現在の記憶が正確であり,以前の説明は間違っていると主張する。これは,明らかに不合理であっても,無意識が自らに語りかけることに従ってしまう傾向を示すもう一つの例である。


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.82-83.
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

確証バイアス

 このようなことを心理学者は確証バイアスと呼んでいる。誰もがそれを行なっている。いったん信念が出来上がると,私たちは見聞きすることを偏った方法でふるいにかけ,自分の信念が正しいことが「証明済み」であると思えるようにする。心理学者は,人が集団極性化と呼ばれているものに影響を受けやすいことも発見している。これは,信念を共有する人々が集まってグループを形成すると,自分たちの信念が正しいことにいっそう自信を深め,物の見方がさらに極端になるというものである。確証バイアスと集団極性化,文化を合わせると,私たちは,どのリスクが恐ろしいものなのか,そして,どのリスクが再考に値しないのかに関して,なぜ人によって完全に異なった見解に行き着くのかを理解し始める。
 しかし,リスク理解における心理学の役割がこれで終わったわけではない。終わりには程遠い。なぜ心配するのか,そして,なぜ心配しないのかを理解する本当の出発点は,個々人の脳にある。
 人はどのようにしてリスクを認識するのか,どのリスクを恐れてどのリスクを無視するのかをどのようにして判断するのか,リスクに関してどう行動するのかをどのようにして決めるのかについて40年前の科学者はほとんど何も知らなかった。しかし,1960年代に,現在オレゴン大学の教授を務めるポール・スロヴィックのような先駆者たちが研究に着手した。彼らは驚くような発見を行ない,その後の何十年かのあいだに新しい科学が育った。この潜在的な影響はあらゆる分野に対して桁外れに大きかった。2002年にこの研究の主要人物の1人であるダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞しているが,カーネマンは経済学の授業をただの1度も受けたことのない心理学者である。

ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.27-28.
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

(注:group polarizationは,「集団分極化」とも訳される)

デジャヴュの3つの錯覚

 既視感は3つの錯覚を伴う。第1は,思い出のように感じるが,実際はそうではないという錯覚。第2は,真の予言はできないのだが,これから何が起こるのか知っているような気がするという錯覚。第3は,はっきりした理由もないのに,漠然とした不安を掻き立てられるという錯覚。この3つの錯覚は,どんなにわずかで希薄なものであっても,心に混乱を招く。普通の状態なら淀みない連想の流れであるはずのものが,人をしばらく立ち止まらせる。初めてでありながらなじみがあるように感じる経験は,すぐに次の反響を呼ぶ。それは内省的なものだ。すなわち,既視感を覚えた次の瞬間,人は自身の経験を驚きながら観察している。すべての既視感に共通しているのは,このミラー効果である。残りの部分には違いがある。既視感体験は,たいていは一過性だが,慢性的に生じることもある。自然に生じることもあるが,電気刺激によって生じることもある。すぐに消える錯覚と見なされるものもあれば,統合失調症の妄想の一部と見なされるものもある。はっきりした神経障害がなくても現れるが,てんかん発作の前触れである場合もある。これらすべての病状に当てはまるような単一の説明はありそうにない。現在,もっとも既視感について書いているヘルマン・スノーが指摘しているように,研究者たちの研究結果はしばしば互いに矛盾している。ある研究者が神経病との関係を立証したと主張すると,ほかの研究者たちはそうではないとか,相互関係はないと反論する。年齢,知能,社会経済的な身分,外国旅行の有無,精神障害,脳障害,人種的背景など,さまざまな要因が1つひとつ調査されたが,既視感との相互関係は1つも見つからなかった。既視感の頻度は,調査されるカテゴリーによってまちまちだ。「通常の」既視感と慢性的な既視感との違いが程度の問題なのか種類の問題なのかという疑問についても,意見の一致を見ていない。ただし,わずかではあるが,既視感を促進しているように思われる要因が指摘されている。疲労,ストレス,極度の疲労,トラウマ,病気,アルコール,妊娠である。これらは離人症が現れる状況と共通している。離人症は,既視感とのはっきりとした関係がある,唯一の心理現象なのである。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.221-222

「すべてを記憶できる男」がもつ障害

 シェレシェフスキーの精神生活はほとんど病的だった。彼の精神状態は,私たちが眠りに落ちるときにときたま経験する意識状態に似ていたに違いない----次々に絵が思い浮かんでは連想を生じさせ,でたらめに編集された映画みたいに脈絡のないイメージが流れていく。シェレシェフスキーのことをよく知らない人は,はじめて彼にあったときのルリヤと同じように,まるで正気でないかのような,奇妙な印象を受けた。完璧な記憶力はハンディキャップでもあるのだ。シェレシェフスキーとボルヘスのフネスとの類似は,非常に暗く重苦しい。それは,驚くべき記憶力をもった実在の人間と小説の登場人物とが,ともに完璧な記憶力をもっているだけでなく,それに伴う精神的な障害も抱えているからだ。「シェレシェフスキーはよく,『人の顔が覚えられない』とこぼした。『人の顔はとても変わりやすい。人の印象は,たまたまその人に会ったときの,相手の気分や状況によって違う。人の顔はたえず変化している。ぼくを混乱させ,顔を思い出すのを困難にしているのは,顔にはいろいろ異なった表情があることだ』」。フネスも同じ問題を抱えていた。鏡に映った自分の顔を見るたびに,彼は驚いた。他の人々には同じに見えるのに,彼には違いが見えた。「フネスはいつも,腐敗や虫歯や疲労が音もなく進行していくのを見分けることができた。死や湿気の進み具合が見え,それに気づいていたのである」。この2人の人生の皮肉は,その完全無欠な記憶力ゆえに,あらゆる連続感が破壊されたことである。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.97-98

最初の記憶は痛い

 モスクワの教育学者ブロンスキーの研究は,精神分析による記憶喪失の説明に対して直接反応したもので,その研究結果はほとんど精神分析とは反対だった。ブロンスキーは学生たちからいちばん古い記憶を190集め,それとは別に,12歳前後の子どもからいちばん古い記憶を83集めた。子どものほうが,20歳から30歳の学生より,いちばん古い記憶の時期が早かった。3歳以前の出来事は10歳までにすべて消えたらしく,3歳から4歳の出来事は次の10年間に消えたようだった。ブロンスキーをとくに驚かせたのは,脅威を感じるような状況を思い出す率が高かったことである。もっとも強力な「記憶補助要素」は,ブロンスキーによれば,恐怖とかショックだった。最初の記憶の約4分の3は恐ろしい体験と密接に関係していた。たとえば,置いてきぼりを食った,人ごみの市場で母親とはぐれた,森のなかで道に迷った,いきなり大きな犬に出くわした,急に嵐が起こったときに1人で留守番をしていた,などだ。次に強力な記憶補助要素は痛みで,ベッドから落ちた,扁桃腺を切った,やけどした,犬に噛まれた,などだった(ちなみに,これまでの研究で挙げられている事故をみると,それがいつの時代の研究であるかがわかる。19世紀には,子どもは乳母の腕から落ちている。半世紀経つと,ブランコから落ち,最近ではジャングルジムからの転落が記憶されている。未来の研究者はこれを20世紀後半の典型的な家庭内事故と考えるに違いない)。ブロンスキーはいちばん古い思い出を手がかりに,子どもは恐怖,ショック,痛みの原因となる状況をいちばんよく覚えていることを示した。多くの成人は,犬や嵐に対する自分たちの恐怖の原因はいちばん古い記憶にあると考えていた。つまり,幼いときに経験した強いショックが,あまり強くはないが慢性的な不安に形を変えたというわけだ。
 ブロンスキーによれば,こうした発見はフロイトの記憶喪失の概念とは真っ向から対立し,むしろ,人間の記憶は自己保存を助けるという進化論を裏づける。将来,痛く,危険で,警戒を要する状況を回避するために,それらを覚えておかねばならないのだ。だから,それらを無意識のなかに押し込めて記憶喪失の闇のなかに紛れ込ませることはありえない。それどころか,それらは記憶されているいちばん古い映像のなかにしばしば現れているし,その映像には象徴的なところはほとんどない。つまり,いま犬が恐いことと,4歳のときに飛びかかってきた犬の回想とを結びつけるのに,精神分析的説明など不要なのだ。最初の思い出はたいてい不愉快きわまりないもので,とても隠蔽記憶とは考えられない。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.35-36

夢は幻覚めいたもの

 ホブソンは,夢は本質的に幻覚めいたものであるという自身の仮説の根拠として,覚醒時と夢を見ているときの脳の活動の違いを明らかにした実験結果をあげている。被験者にポケットベルをもたせ,日中地下鉄に乗っているときやデスクで仕事をしているときなど,研究者がいきなり連絡をとって,いま何を考えていたかと聞く。被験者は夜間にはナイトキャップをつけ,寝入りばなからノンレムとレム段階の夢を報告する。この実験でデータとして価値のある報告が1800件集まった。ホブソンらは,それらを感情の強さ,思考の質,荒唐無稽さなどさまざまな基準で判定した。めざめて静かにしているときから寝入りばな,レム段階まで,思考が形づくられる頻度は4分の1に減っていき,幻覚めいた妄想が現れる頻度は10倍増えることがわかった。

アンドレア・ロック 伊藤和子(訳) (2009). 脳は眠らない:夢を生み出す脳のしくみ ランダムハウス講談社 pp.56-57

夢は悪戦苦闘した結果

 アセチルコリンが大量に分泌された脳は,覚醒時とはまったく違ったルールで働く。運動神経の信号は遮断されているため,私たちは動くことができない。だから,どんなにもがいても,猛スピードで山道を下る車のハンドルを切ることも,ブレーキを踏むこともできない。外部からの感覚情報も遮断されている。そのため脳は内部で生じるイメージや感覚を現実の者と解釈してしまう。ホブソンによれば,こうした状態で脳幹からの信号によって,ある瞬間には恐怖,ある瞬間には自由落下の感覚といった具合に,なんの脈絡もなく強烈な感情が生まれる。脳はその信号に合わせて夢の筋書きをつくろうとベストを尽くす。つまり,夢のイメージづくりにゴーサインを出すのは脳の原始的な領域である脳幹で,より高度に進化した前脳の認知領域はただその信号に受動的に反応するだけだというのだ。このことから,ホブソンのマッカーリーは,夢をつくるプロセスには「観念や意思決定,情動といったものはいっさいかかわらない」と結論づけた。結果として生まれた夢は,脳幹からのでたらめな信号に前脳が反応し,「部分的にでも話の辻褄を合わせようと,悪戦苦闘して」できた代物だというのである。

アンドレア・ロック 伊藤和子(訳) (2009). 脳は眠らない:夢を生み出す脳のしくみ ランダムハウス講談社 p.47

寝る前に何をしても夢に影響しない

 研究者の好奇心をそそる疑問が次々に湧き,それに答えるためにさまざまな方法が編みだされた。たとえば,「なんらかの刺激を与えることで,夢の内容を変えられるか」というもの。デメントが真っ先にこの問題にとりくみ,被験者がレム睡眠に入ったときに,耳もとでベルを鳴らす実験をした。だが204件の試みのうち,ベルの音が夢に組み込まれたケースはわずか20件だった。被験者の顔に霧吹きで水を吹きかける実験も,はかばかしい成果を上げなかった。比較的最近では,血圧計のバンドで腕を締め付ける実験も行われたが,大多数の被験者はこうした刺激に反応しなかった。現実世界の刺激が感覚器官のバリアを突破して,どうにか夢の中に入り込んだときには,即座に,かつ巧妙に,夢の筋書きにその刺激が織り込まれる。たとえば,霧吹きで水をかけたときには,夢の中でにわか雨が降ったことになったりする。だが,ストーリー展開に大きな影響を与えることはない。
 入眠前の体験も,夢の内容に大きな影響を与えないようだった。被験者に眠る直前にバナナクリーム・パイやペパロニ・ピザを食べさせたり,喉が渇いた夢を見るかどうかをたしかめようと飲み物を制限した状態で寝かせたり,暴力的な映像やエロティックな映像を見せたりしたが,とくに影響はなかった。夢を見ているときの脳は,何者にも左右されない映画監督だ。はたからはわからない基準で,登場人物や背景,筋書きを選び,夜ごとの内なるドラマを演出する。
 他の実験で,夢を見ないと言う人も,実際には夢を見ていることがわかった。レム睡眠中に起こせば,被験者は夢を覚えている。だがレムの段階が終わってから,数分後に起こすと,夢を覚えていないことが多い。さらに別の実験で,時間帯によって夢の内容が違うこともわかった。眠ってからしばらくは,最近に起きた出来事に関連した夢を見るが,夜が更けるにつれ,過去の出来事や人物のからんだ夢を見るようになる。
 レム睡眠時の眼球の激しい動きは,眠っている人がちょうど映画のスクリーンを見るように,夢の中のアクションを目で追っているせいだろうか。デメントによる初期の実験では,そう考えられたが,その後に他の研究者が追試を行ったところ,目の動きと夢の内容には直接的な関係はなかった。

アンドレア・ロック 伊藤和子(訳) (2009). 脳は眠らない:夢を生み出す脳のしくみ ランダムハウス講談社 pp.29-30

よき決定は正しい推理を反映するとは限らない

 悪しき結果が悪しき思考を必ずしも反映しないのとまさに同じように,よき決定は正しい推理を反映するとは限らない。例えば,論理的には無関連な課題特徴に基づいて反応するというバイアスが存在しても,論理的に正しく規定された選択に一致する結果を場合によっては生み出すことがある。それゆえに,原理が組込まれている単一の問題タイプでの遂行成績を査定することによって,ある推論を遂行する能力をもつか否かを単純に判断することはできない。関与する過程の性質,ならびに作用しているバイアスの程度や性質を明らかにするためには,その問題の形式と内容に関する多くの特徴を変化させた上で,推理を研究する必要がある。

エバンズ, J. St. B. T. 中島 実(訳) (1995). 思考情報処理のバイアス 信山社 Pp.2-3
(Evans, J. St. B. T. (1989). Bias in Human Reasoning: Causes and Consequences. Hove, UK: Lawrence Erlbaum Associates.)

いかによく見間違いをするものか

 以下に,4種類のUFO目撃談を引用するので,その正体は実際は何だったのか,ちょっと推理してみてほしい。
 (1)「まるでマグネシウムが燃えているような輝きだった」「それは非常に明るくなり,ほとんど見ることさえできなくなった」「あまりの明るさに目が潰れそうになった」
 (2)「前後左右に動いたと思ったら,ライトをチカチカ点滅させて丘の向こうに消えていってしまった」「それは信じられないような猛スピードで飛んでいった」「信じられないような鋭角なターンをした」「瞬きをする間に,何キロもすっ飛んでいってしまった」「それは,まるで我々に見てくれといわんばかりに飛んでいった」
 (3)「円盤形をしていた」「ドーム型だった」「ドームのついた円盤型」「三角形だった」「球形だ」「タバコ型だった」
 (4)「UFOまでの距離は,約60メートルしかなかった」
 以上の4種類の目撃報告の正体は,以下の通りだった。
 (1)の正体は金星。
 (2)の正体は広告用飛行機。だから「それは,まるで我々に見てくれといわんばかりに飛んでいた」というのはたしかにその通りだったのかもしれない。
 (3)はいずれも飛行機。
 (4)は星。星までの距離が約60メートルに見えるというのも,ちょっと信じがたい話だ。明るさも,動きも,形も,その距離も,まさにメチャクチャだ。
 飛行機を見て,円盤とか丸とか三角とか言っているのは,夜間飛んでいる飛行機の機体についているランプをつないで,そんな形をイメージしてしまったものらしい。
 また,次のような目撃例もある。
 (5)「テレビが出すような奇怪な音を発していた」(正体は星)
 (6)「わたしたちの車だけを追って,宙に浮いていた。他人の車は追わず,私たちの車だけを追ってきたのだ」(正体は金星)
 (7)「私たちの髪を逆立たせた」(正体は月)
 こうやって並べると笑ってしまうかもしれないが,いずれも目撃者は,本気でこのように見えたと報告をしてきているのだ。人間というものは,いかによく見間違いをする生物なのかということがわかるだろう。


皆神龍太郎 (2008). UFO学入門:伝説と真相 楽工社 Pp.41-43.

確証バイアスについて

 人々が偏見をもっているとき,その偏見に合う情報が気づかれやすく記憶されやすいことは,それほど不思議なことではない。共和党員は,民主党の政治家の卑劣なごまかしをいつまでも覚えているが,自分が属する党の指導者が犯した罪については部分的な健忘症になってしまうものである。民主党員も自分の立場に合うことはよく記憶するが,そうでないことは忘れやすいという点では同類である。心理学の研究では,これと同じバイアスが繰り返し示されてきた。ある有名な研究では,研究者たちは,大いに問題になった1951年のプリンストンとダートマスのフットボール試合のビデオをプリンストンとダートマスのそれぞれのファンに見せた。プリンストンのファンは,プリンストン側よりもダートマス側の選手のほうが多くの反則をしたといったが,ダートマスのファンはこれとまったく逆のことをいった。
 これらの例が示すように,人々は自分の信念を強める情報を探してそれに注意を向け,その一方で自分の信念に合わない情報は無視するか批判する傾向がある。人間のこの一般的なまちがいは「確証バイアス」とよばれ,すでに400年前に,イギリスの法学者・哲学者であり,現代科学の父とよばれることもあるフランシス・ベーコン(Bacon, F.)が述べていたものである。「人間の理解は,いったんある1つの見方をとると,それに一致し,それを支持する他のすべてのことを引き寄せるようになる。別の見方の側により多くの重要な事実がある場合でも,…最初の結論が汚されないようにするために,人はそれらを無視して侮ったり,あるいは何らかの区別をして排除したり拒否したりする」。

J.M.ウッド,M.T.ネゾースキ,S.O.リリエンフェルド,H.N.ガーブ 宮崎謙一(訳) (2006). ロールシャッハテストはまちがっている—科学からの異議— 北大路書房 p.142
(Wood, J. M., Nezworski, M. T., Lilienfeld, S. O., & Garb, H. N. (2003). What’s Wrong with the Rorschach?: Science Confronts the Controversial Inkblot Test. New York: John Wiley & Sons.)

痛みと身体イメージ

 痛みと身体イメージには密接な関係がある。わたしたちは,体に投影されるものとして,痛みを感じる。「背中が痛い!」とは言っても,「痛みを感知するシステムのせいで痛い」とは言わないだろう。しかし,幻肢で明らかになったように,痛みを感じるのに実際の体の部分はいらないのだ。痛みの受容体もなくていい。痛みを感じるのに必要なのは,脳マップによって生み出された「身体イメージ」だけなのだ。五体をもつ人は気づかないだろうが,四肢の身体イメージは実際の四肢に「完璧に投影されている」ために,身体イメージと身体を区別することができなくなっている。「身体そのものが幻なんですよ」とラマチャンドランは言う。「脳が,ただ便利だからという理由で構築した幻なんです」。
 身体イメージがゆがんでいることはよくある。そう,身体イメージと身体そのものは異なるのだ。拒食症の人は,餓死寸前だというのに太っていると感じている。ゆがんだ身体イメージをもつ身体醜形障害の患者は,まったく問題がないにもかかわらず,体の一部に欠陥があると思う。耳や鼻,唇,胸,ペニス,ヴァギナ,太腿などが,あまりにも大きすぎる,あるいは小さすぎると考えたり,ただ「なにかちがう」と考えて,ひどく恥ずかしく思う。マリリン・モンローも,自分の体にはたくさんの欠陥があると感じていた。整形手術をする人もいるが,手術を受けても,直っていないと感じてしまうだろう。この場合に必要なのは,整形手術ではなく身体イメージを変える「神経可塑性の手術」だ。

ノーマン・ドイジ 竹迫仁子(訳) (2008). 脳は奇跡を起こす 講談社インターナショナル Pp.219-220.

行動の可塑性は信じていた

 タウブは,新しい神経科学を築きあげようとしていた。行動主義の理論を生かしつつその偏りがちなところをなくし,それに脳科学を足したような学問だ。実はイワン・パブロフもこうした融合を予期していた。パブロフは,いわずと知れた行動主義の創始者だが,後年,自分の発見を脳科学に組み込もうとしていたことはあまり知られていない。彼は,脳が可塑的であることにも言及している。皮肉なことだが,タウブが脳に可塑性があるという重要な発見ができたのは,行動主義のおかげでもあった。行動主義者たちは脳の構造に全くというほど関心を払わなかったが,ほかのほとんどの神経科学者たちのように,脳に可塑性がないと決めつけることもなかったのだ。多くの行動主義者は,動物は訓練すれば,なんでもできるようになると考えていた。「神経」可塑性について取りあげることはなかったが,行動の可塑性は信じていた。

ノーマン・ドイジ 竹迫仁子(訳) (2008). 脳は奇跡を起こす 講談社インターナショナル p.169

興奮による快楽と満足による快楽

 ポルノは,人を満足させるというより興奮させる。わたしたちの脳には,ふたつの快楽システムが別個に存在する。ひとつは,興奮による快楽。そしてもうひとつが満足による快楽だ。
 興奮のシステムは,「欲求の」快楽と関係している。セックスやおいしい食事といった,欲しいものを想像することによって得られる快楽だ。ドーパミンと大きく関係していて,これによって緊張度が高まる。
 もうひとつの快楽システムは,なにかを完了しつつある満足から得られるものだ。実際のセックスの最中や,食事をしているときに訪れる,気持ちを落ちつかせるような,達成感のある快楽である。この場合は,エンドルフィンの放出が基本になっている。鎮静作用のある,平和な幸福感をもたらす物質だ。
 ポルノは,性的な対象をいくらでも提供し,欲求のシステムをひじょうに活発にするものだ。ポルノを見ている人は,写真やビデオをもとに,脳に新しいマップを作っている。脳には「使わなければ失う」という原則が適用されるので,マップができると,わたしたちはなるべく使おうとする。1日中すわっていると,動きたくて体がうずうずしてくるように,わたしたちの感覚もまた刺激を求める。

ノーマン・ドイジ 竹迫仁子(訳) (2008). 脳は奇跡を起こす 講談社インターナショナル p.135

ゴダードのカリカック家

 ゴダードはいくつかの研究で,魯鈍の脅威を明るみに出した。もし精神薄弱の祖先が子どもをもつことを禁じられていたならば,決して存在することのない,国家や共同体にとって足手まといの沢山の無用な人々の家系を公表したのである。ゴダードはニュージャージー州の「松林の荒地」に住みついた一群の貧困者と浮浪者を見つけ出し,彼らの祖先を追跡した。そして高潔な男性と精神薄弱と思われる旅館の娘と姦通にまでその祖先を辿ることができた。のちにこの同じ男性は,クエーカー教徒の名士の女性と結婚し,全く善良な市民である別の家系の出発点ともなった。祖先が善良な家系と劣悪な家系の両方の出発点となったので,ゴダードはギリシャ語の美kallosと悪kakosを合成し,その男性にマーティン・カリカック Kallikak という仮の名を与えた。ゴダードのこのカリカック家族は数十年にわたる優生学運動の最初の神話としての役目を果たすことになる。

スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい:差別の科学史 上 河出書房新社 p.317

歴史の反復?

 当時のアメリカの指導的心理学者スタンリー・ホールは,1904年に,一般論として次のように述べた。「大部分の野蛮人は,ほとんどの点で子どもだ。ところが性的には成熟しているので,正確に言えば,青年期でいつづける大人だ」(1904年,第2巻,649ページ)と。彼の一番弟子のA・F・チェンバレンは温情主義をとり,「原始的な人たちのいない世界は,全体としては,まさに子どもの恩恵を知らない小さな世界のようなものだ」と語った。

スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい:差別の科学史 上 河出書房新社 p.225

少ない事例から一般法則を見出す

 個別の具体例から,一般法則を導き出す推理法は,アリストテレスによって帰納的推理と呼ばれた。逆に一般から特殊を推理する方法は,演繹的推理という。帰納的推理は人間の認識装置にアプリオリに備わった能力によるもので,悟性による概念処理を経ることなく直感としてわれわれに与えられる。
 では人間の帰納的推理能力は,一般法則を予測するのに,通常どれくらいの数の個別事例を必要とするのだろうか。これはなかなか難しい問題だが,一般的には意外なほど少ない個別事例からも法則を推理しようとする傾向がある。
 たとえば人に,1・3・5という数列をみせて,第四項を予測させると,小学生でもほとんどが7と答えるだろう。しかし,実際には2・4・6と続いて,さいころの目を表しているかもしれない。しかしわずか3つの数字からも,人間はそこに一定の法則を予感する。

鈴木 直 (2007). 輸入学問の功罪----この翻訳わかりますか? 筑摩書房 p.204-205

自由意思の本質

 こうした自由意志の見方から,個人の責任についてなにが言えるだろう?私たちの遺伝子や過去経験といったものは,人間行動におけるその役割について私たちが理解しているかぎりでは,きわめて決定論的である。もしそれだけだとすれば,自由意志などないか,あってもほんのわずかだろう。私たちは,自分のどんな行為についても,どちらか一方の確定性の無力な犠牲者だと申し立てることができるだろう。犯罪行為のこうした説明は,現在,法廷でも一般的なものになりつつある。しかし,遺伝子と過去経験の両方から私たちを自由にするカオスの不確定性はまた,私たちに,自らの行為に対する責任を認めるように強いる。カオスは確かに遺伝子と経験のどちらにおいても筋書きとして書かれていないものを経験するように強いるが,私たちには驚異的な学習能力がある。私たちは,自分の行為がどのように自分の生に,そして周囲の人々の生に影響を与えるかを見て十分に理解できる。おそらくそこにあるものこそ,倫理的選択の定義,そして自由意志の本質であり,遺伝子や経験に規定されない個人的・社会的可能性のなかからどれかを選択する能力なのだ。


ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.347
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

自由意思と遺伝要因・環境要因

 現在はっきりしているのは,人間の行動は,生物学的要因と環境要因の組合せによってもっともよく説明される----人間の行動の個人差には,遺伝子とそれまでの経験がほぼ同程度に寄与する----ということである。しかし,行動のこれらの要因のどちらも,自由意思について考える助けにはならない。なぜなら,どちらも,自由意志の存在を強く否定しているからだ。もし私たちのすべての行動が私たちが生まれるまえにゲノムに書き込まれたものから予測可能だというのであれば,このことから,私たちの選択の自由や選択の際の個人の責任について,なにが言えるのだろう?なにも言えない。だが,遺伝子の専制を恐れる人々は,私たちが白紙のような状態で生まれてきて,たくさんの経験を積んで分別のあるおとなになると考えることで,安心することもまたできない。それもまた,私たちが遺伝子のたんなる総和であるとした場合と同様,私たちの行動を予測可能なものに,そして選択し行動する私たちの自由を制約されたものにするからである。
 しかし,生物学的決定論と環境決定論の「現代の統合」によっても(行動を説明するために遺伝子と環境を結びつけても),自由意志の問題は解決されないままに残る。2つの決定論を結びつけたところで,人間行動における選択の起源と意味を考える助けにはならない。自由意志こそ人間行動の特徴であって,行動を生み出すのが神経系だというのなら,自由意志は相互作用し合う神経細胞のぎっしり詰まったこの脳のなかのどこにあるのだろう?自由意志は,生物学的な観点からは意味をもちうるだろうか?自由意志は,伝統的に,人間に特有のものとみなされている。しかし明らかに,動物も選択を行う。線虫でさえ,2つの等しいバクテリア塊に直面すると,一方を食べるという決断を行ない,もう一方を失うという危険を冒す。この選択はランダムなのだろうか?とれる反応や行動が複数ある場合はつねに,動物は選択を余儀なくされる。こうした選択は,自由意志を含んでいるのか?もし含んでいないなら,私たちが人間の意思決定過程だけに特有と思っているものはなんなのだろうか?


ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.341-342
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

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