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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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遺伝的複雑さだけでは説明できない

 かつては,人間は単純な生き物に比べればはるかにたくさんの遺伝子をもっているはずだから,いずれ人間行動の遺伝も動物行動の遺伝よりはるかに複雑だということがはっきりするだろう,と考えられたこともあった。しかし,明らかになったのは,そうではないということだった。確かに,人間には数百億の脳細胞があり,302の神経細胞しかない線虫に比べれば,規模の点でも複雑さの点でも桁違いである。人間は推定で約3万5千の遺伝子をもっているが,線虫のゲノムの遺伝子配列を推定してみてわかったのは,この小さな生きものでさえ,約1万7千もの遺伝子をもっているということだった。さらに,人間は,単純な生きものに比べ,そのゲノムのなかに特定の遺伝子のコピーがより多く含まれている。人間には,少なくとも7種類のホスホジエステラーゼの遺伝子があるが,ショウジョウバエはそれが3種類だ。人間には,12を越える種類のセロトニン受容体があるが,線虫ではそれが2つだ。実際のところ,人間の遺伝子の数は線虫の3倍以上だが,遺伝子の種類の数は,そんなに大きく違うわけではない。このように,遺伝的複雑さだけでは,人間の行動の複雑さを説明できそうにない。


ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.335-336
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)
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ドーパミンは快楽物質ではない

 脳刺激報酬が当初,快楽中枢を活性化によると考えられていたように,ドーパミンは快楽物質だと考えられていた。しかし前述のように,脳刺激報酬を快楽主義的に考える(主観的快楽だと考える)見かたは正しくない。同様にドーパミンの役割を快楽主義的に解釈するのも正しくない。たとえばドーパミンをブロックすると甘味という報酬によってモーティベートされた器械的反応は妨げられるが,おいしいものが得られたときにそれを食べることは妨げられない----動物はそれを食べるときに依然としてその報酬を「好む」。ただ,それを得るために努力することはなくなる。そういうわけでドーパミンは達成行動(食べること,飲むこと,セックスすること)にではなく,期待行動(食べ物,飲み物,性的パートナーを探すこと)にかかわっている。だが空腹であることや喉が渇いていることは不快なことだ。快楽はそれを経験としてとらえるかぎり期待の状態では生じず,達成のあいだに生じるものだ。ドーパミンは期待の局面だけにかかわっていて,達成の局面にかかわっていないのだから,その作用は(少なくとも,何かを欲する状態に関する作用は)快楽という観点からは説明できない。

ジョゼフ・ルドゥー 森 憲作(監訳) (2004). シナプスが人格をつくる:脳細胞から自己の総体へ みすず書房 pp.364-365
(LeDoux, J. (2002). Synaptic Self: How Our Brains Become Who We Are. New York: Viking Penguin.)

快楽中枢?

 脳刺激報酬の現象が発見されてほどなく,その効果は脳の「快楽中枢」の刺激によるものだという考えが起こった。ニューオリンズの医師ロバート・ヒースが統合失調症の患者がそのような刺激を快く感じたと報告し,この考えはますます力を得た。同じころ,文名を高めていたマイケル・クライトンが『ターミナル・マン』で快楽中枢という概念を大衆化した。多くの研究者が脳刺激報酬を主観的に経験される快楽として捉えたなかで,この分野の指導的理論家,ピーター・シズガルは報酬が行動をモーティベートする能力と快楽的感情を生じさせる能力とは別べつであると主張した。これはシズガル自身が指摘しているように,情動行動は必ずしも情動感情によって引き起こされるわけではないという私(ルドゥー)の概念のモーティベーション版である。
 人気の高さにもかかわらず,脳刺激報酬の研究はやがて活力を失った。理由の1つは脳刺激報酬のモーティベーション的性格が明確にならなかったことだ。脳刺激報酬は動因を活性化するのか?誘因を強化するのか?それともその両方なのか?脳刺激報酬は自然な報酬と同じなのか?脳刺激報酬によって学習を説明できるか?これらの問題は未解決に終わった。そして1960年代後半には,認知科学の影響が強まるなか,脳刺激報酬はモーティベーションと情動に関するほかのトピック同様,死にかけていた。認知科学者によって,動因・誘因・報酬といった問題は行動主義者にとって重要であったほどには重要でなかったのだ。

ジョゼフ・ルドゥー 森 憲作(監訳) (2004). シナプスが人格をつくる:脳細胞から自己の総体へ みすず書房 pp.362-363
(LeDoux, J. (2002). Synaptic Self: How Our Brains Become Who We Are. New York: Viking Penguin.)

フロイトとニューロン

 「ニューロン戦争」初期のあまり知られていない兵士の一人に若き日のジークムント・フロイトがいる。ウィーンで医学の訓練を終えたのち,フロイトは助手(研究者)の地位を得,魚とザリガニの神経系を研究した。ニューロン説が書かれるずっと前の1883年に,フロイトは早くも1つ1つの神経細胞は物理的に別べつになっているという考えを育んでいた。この概念はのちに,彼が心理学理論に足を踏み出した最も早い時期の論文に顕著に現れる。1895年に書かれたが,その後何十年も発表されなかった『科学的心理学草稿』で,フロイトは次のように述べている。「神経系はそれぞれ同じような構造をもつ別個のニューロンから成っている。(中略)ニューロンはもう1つのニューロンと接するところで終わる」。フロイトはニューロンどうしが境を接するところを指すのに「接触境界」という言葉を導入した。そして,ニューロンどうしが接触境界を越えておこなう相互作用によって,記憶,意識,その他の心の働きが可能になるのではないかと示唆した。これらの考え方は当時としては非常に進んだものだったが,フロイトは脳研究の進む速度が遅すぎると感じ,神経理論から心を研究する道を捨て,純粋に心理学的研究に向かった。そのあとの彼の軌跡は広く知られているとおりである。

ジョゼフ・ルドゥー 森 憲作(監訳) (2004). シナプスが人格をつくる:脳細胞から自己の総体へ みすず書房 p.59
(LeDoux, J. (2002). Synaptic Self: How Our Brains Become Who We Are. New York: Viking Penguin.)

脳に関する誤解

 脳に関する誤解はこれだけではない。たいていの人は次の2つのまちがった知識のいずれか,あるいは両方を信じている。その第1は,知覚・記憶・情動などの脳の機能はそれぞれ特定の領域にある(局在している)というもの。そして第2は脳の中に浮かんでいる化学物質が私たちの精神状態を決定するというもの。先の「90パーセント神話」(注:脳のうち10パーセントしか使わないというまちがった知識)と異なり,この2つは部分的には真実ではあるが,適切な前提条件を抜きにしていわれる場合には明らかに誤りだ。少なくとも一般的な意味で,脳の機能のしかたはわかっている。それは脳の組織の島によるものでもなければ,分離された化学物質の単独の働きによるものでもない。ある特定の領域はたしかに重要だ。だが,独自で機能しているわけではない。それらはほかの領域とのシナプス接続によって,機能を果たすのに参加しているのだ。同様に化学物質も重要だが,主として,その化学物質の,機能システム内のシナプスでの作用が重要なのだ。

ジョゼフ・ルドゥー 森 憲作(監訳) (2004). シナプスが人格をつくる:脳細胞から自己の総体へ みすず書房 p.52
(LeDoux, J. (2002). Synaptic Self: How Our Brains Become Who We Are. New York: Viking Penguin.)

認知的アプローチだけで自己を解明できない理由

 こう言うと,認知心理学と認知神経科学という姉妹が,私たちを自己というものの心理学的・神経科学的理解にいっそう近づけてくれているかのように聞こえる。だが,それは必ずしも事実ではない。特定の認知プロセスが心理学的・神経科学的にどのように働くかがわかっても,認知的アプローチだけで自己を解明するのは無理なのだ。
 第1に,その定義から言って認知科学は心の一部----認知的部分についての科学にすぎない。心全体の科学ではない。7章で見るように,昔から心は知(認知)・情(情動)・意(モーティベーション)の3つからなると考えられてきた。認知科学が認知の科学とみなされるならば,情動とモーティベーションが認知科学では研究できないのは当然だが,認知科学が心の科学だということになっているとしたら,困ったことになる。感情と意欲を備えていない心(従来,認知科学が研究してきた種類の心)は,認知心理学者が与える問題は解けるかもしれない。だが,自己の精神的基盤としては具合が悪い。認知科学が設計する種類の心は巧みにチェスをすることができるだろう。ズルをするようにプログラムすることも可能だろう。だが,ズルをしても罪悪感に悩むことはないし,愛情や怒りや恐怖に気をそらされることもない。競争心にかられることも,うらやましがることも,同情することもない。心が脳を通して私たちを私たちたらしめている仕組みを理解したいなら,思考を担当する部分だけでなく心を丸ごと理解しなくてはならない。
 認知科学の第2の欠点は,さまざまな認知プロセスがどのように相互に作用して心をつくりあげるかを解明できていないことだ。知覚,記憶,思考それぞれの仕組みの理解はかなり進んでいる。だが,それらがどのような共同作業をするかは解明されていない。そのうえ,心が知・情・意の3つの部分からなっていることを考えると,自己の理解にはさまざまな認知プロセスの相互作用だけでなく,情動やモーティベーションも含めて考えなくてはならない。情動とモーティベーションが相互にどのように作用するか,またそれらと認知プロセスがどのような相互作用をもつか。あなたの希望,恐怖,欲求はあなたの思考,知覚,記憶に影響を与える。心の科学というからには,これらの複雑なプロセスをすべて説明するものでなくてはならない。
 最後に,認知科学が扱うのは,私たちの大部分における,典型的な心の働き方であり,個人における独自の心の働き方ではない。基本的にいって,私たちはみな同じ脳メカニズムによる同じ精神プロセスをもっているとはいえ,それらのプロセスやメカニズムの機能のしかたは,個々人の遺伝的背景と人生経験によって決まる。
 認知科学の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。認知科学は研究プログラムとしてはかりしれないほどの成果をあげ,心に対する見かたを一新した。だから,私が認知科学分野の欠点を数えたてたのは,認知科学などだめだと言いたかったからではない。ただ,何がその人をその人たらしめているかを理解するには認知科学だけでは不十分だと指摘したかったのだ。

ジョゼフ・ルドゥー 森 憲作(監訳) (2004). シナプスが人格をつくる:脳細胞から自己の総体へ みすず書房 pp.35-37
(LeDoux, J. (2002). Synaptic Self: How Our Brains Become Who We Are. New York: Viking Penguin.)

心理学史の簡単な要約

 心理学はもともと哲学の一部門だった。その状況が変わったのは19世紀後半,ドイツの哲学者ヴィルヘルム・ヴントが心の働きについて推論するだけでなく,その仕組みを探るために実験をはじめたときからだ。ヴントと彼の賛同者は内観主義者という名で知られている。彼らは心理学を実験科学に変えるのに必要であった重要な一歩を踏み出した。ヴントらの主要な探求課題は意識的経験だった。彼らは自分自身の経験を研究し,それ以上小さくできない基本要素に分けようとした。
 ところが20世紀にはいって,意識的経験は本人にしかわからず,他人には確かめようがないから,科学的研究は不可能だと主張する心理学者たちが現れた。この考えは勢いを得て,やがて行動主義を生み出した。行動主義は心理学が科学的に有効であるためには内面的状態ではなく観察可能な出来事(行動に現れた反応)に焦点を当てるべきだという前提にもとづいていた。行動主義の賛同者の一部は方法論的行動主義者だった。つまり,意識の存在を必ずしも否定しないが,意識は研究の対象になりえないと考えていた。それとは対照的に,急進的行動主義者は意識が存在するということを否定した。彼らにとって精神状態は行動の傾向が生み出した幻影にすぎなかった。ギルバート・ライルは急進的行動主義を心--身体問題の解決策とした。ライルは心を完全に排除し,物質的に説明できる物質的身体だけを残した。彼は精神状態をギリシア悲劇のデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)をもじって「機械の中の幽霊」と呼んだ。デウス・エクス・マキナは人間の問題を解決するために舞台に降りてくる神のことだ。
 20世紀のなかばに近づくころ,コンピュータのオペレーション(演算)と人間が問題を解決するときにおこなうことが似ていると考える学者たちが出てきた。この考え方はジェリー・ブルーナー,ジョージ・ミラーなど先見の明のある心理学者に注目され,情報を処理する内的メカニズムを重視する認知的アプローチが心理学に生まれた。これは心不在の行動主義に代わる魅力的なアプローチだった。やがて認知ムーブメントは行動主義を王座から引きずりおろし,心を心理学に連れ戻した。
 ただし,戻ってきた心は厳密に言うと,行動主義者たちが排除したものと同じではなかった。行動主義者が反対したのは,内観主義者たちが心の内容(たとえば赤という色を経験すること)を強調したことに対してだった。だが,認知心理学者たちが研究していたのは(意識の内容ではなく)心のプロセスである。彼らは色を経験するとはどういうことなのかということより,色がどのように感知され区別されるかに関心があった。

ジョゼフ・ルドゥー 森 憲作(監訳) (2004). シナプスが人格をつくる:脳細胞から自己の総体へ みすず書房 pp.33-34.
(LeDoux, J. (2002). Synaptic Self: How Our Brains Become Who We Are. New York: Viking Penguin.)

ヒト以外の動物は意識をもつか

 残念ながら,ヒト以外の動物が何らかの意識をどの程度もっているかを知るのは不可能だ。推測することはできる。だが,人の心はネコやイヌ,トカゲ,カエル,魚などの心にはなれないので,このような問題の答えを正確に知るすべはない。デカルトの業績の最も偉大なものは,おそらく自分が確かに知ることができるのは自分自身の心だけだという結論を下したことだろう。あなたは,あなた自身の脳と同じような脳をもったほかの動物(つまり,ほかのヒト)については,かなりの確信をもって,彼らの精神の状態はあなた自身のそれと似ていると言える。だが,あなた自身の精神の状態を手がかりに,ほかの種類の動物のそれを推し量るのはまったく確信のもてないことなのだ。


ジョゼフ・ルドゥー 森 憲作(監訳) (2004). シナプスが人格をつくる:脳細胞から自己の総体へ みすず書房 p32.
(LeDoux, J. (2002). Synaptic Self: How Our Brains Become Who We Are. New York: Viking Penguin.)

預言が当たることは当然ありえる

 一部の懐疑論者は,この出来事に関する聖書の記述の正確さに対して,『旧約聖書』の預言者が,何世紀も先に何が起こるかを「あらかじめ語る」ことなどできたはずがありえないという理由に基づいて,異議申し立てをするべきだと思っている。しかし,そうした懐疑主義は,的はずれだと思う。なぜなら,注目すべき要点は,将来を預言することそれ自体には,預言者がその預言がいつどこで実現されるかを決定しないままにしているかぎり,なんら奇跡的な事柄を必要としないということである。たとえば,数十万人の人間からなる1つの部族には,たとえば,300年のあいだに100万人以上の赤ん坊が生まれることを考えれば,そうした誕生のうちの1人が,多少とも預言されたとおりに「起こる」かもしれない可能性は比較的高いだろう。それは,どこかで誰かに起こらなければならないだろうというものではなく,それは単に,もし,どこかで誰かに実際に起きたときに,それほど感心するほどの理由はないということにすぎないのだ。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.278

話は改善される

 明らかな答えは,それが不当な尊敬を獲得するための方法だということである。社会生活の基本的原理の1つは,何か言うべきことをもっている人間に社会が特別な地位を与えるということである。ニュース価値のある出来事の現場にいた,あるいは密接にそれにかかわりあいさえあったということは,その人間を,社会にとって貴重な情報源にする。その人物は,「そこにいて」,衝撃を与える情報をもつ人間となる。それは「目撃の力」とでも呼ぶべきものを人に授ける。したがって,たとえいなくとも,現場にいたと断言したい誘惑に駆られたとしても不思議はないのである。
 しかし,この答えは,少なくとも私が関与を認めるものを超えた幅広い罪を覆い隠してしまうことになるだろう。真相は,話を発明することはかりにあったとしてもごくまれで,私は単にそれを改善するだけということである。そして心理学的には----おそらくは,道徳的にも----いかなる根拠もない話をでっちあげることと,既存の事実にわずかな破格を認めることのあいだには大変な違いがある。無からはなにも生じない。もし私がまったく見てもいなければ,セスナ機の着陸を見たとは,絶対に言ったりはしなかっただろう。ワーテルローで戦った先祖というのでさえ,少なくとも私の側に半分の事実がなければ,そんな話はしなかっただろう。
 私が何もないところから話をつくりあげることはけっしてないと言っているのではない。しかし,通例は,現実世界になんらかの準=合法的な口実を提供してくれないかぎり,してくれるまでは,そういう誘惑に乗ることはない。いわば,私は,自分で「ニアミス」----ひょっとしたらそこにいたかもしれないとか,隣にいる人間に何かが起こるとか,針にかかった魚が逃げるとか,宝くじの当選番号が1番違いだったとか----体験をしていなければならないのである。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.262-263

1つの成功がすべて

 しなし,不合理(ナンセンス)な信仰を棄てるよう,人々を説得するうえでの本当の問題は,まさしく,私が最初の電話のときに出くわしたものである。いわゆる占いが時に的中することがあるのは疑いの余地がない。そして人間という存在は,たった1つの驚くべき成功を1000のありふれた失敗の足下にもおよばないほど重大なものとみなしてしまうことが多いのである。これに加えて,事実を解釈し直すことであからさまな失敗を成功に変えてしまう,あるいは,自分の行動を予想していたものに合うように変え,迷信の存続を保証するという人間の性向がある。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.258-259

再入壜の実験

 「というのはどういうことですか」と野蛮人(サヴェジ)はたずねた。
 ムスタファ・モンドは笑った。「いや,これは再入壜の実験と呼んでいいかもしれない。それはフォード紀元473年から始まったことなのだ。総統たちはキプロスの島からその原住民をみな追い出してしまって,特に2万2千のアルファの集団を選んでこれに住まわせることにした。彼らには農工業のあらゆる設備や道具を手渡して,好き勝手にやらせることにした。ところがその結果は,まさに理論上での予想を完全に裏書きすることになった。土地は正しく耕作されず,あらゆる工場ではストライキが起こった。法律は無視され,命令は守られなかった。しばらく低級な仕事に振り当てられた連中はみな高級な仕事にありつこうとして,絶えず陰謀を企て,高級な仕事を持つ連中は何が何でも現状にしがみつこうとしてこれに対抗して陰謀をたくらむ。6年とたたぬうちに彼らは申し分のない内乱を引き起こしているという結末だ。2万2千のうち,1万9千まで殺されてしまったとき,残存者たちが世界総統たちにこの島の統治をも一度やって欲しいと嘆願してきた。そこでその通りにしてやることにした。かつてこの世に存在したアルファたちだけの唯一の社会は,こんなふうにして終わりを告げたのだ」
 野蛮人はため息を深くついた。
 「最適の人口は」とムスタファ・モンドが言った,「氷山になぞらえて構成される--つまり,9分の8が水面下,9分の1が水面上,というわけだ」
 「それで水面下の連中は幸福なんですか」
 「水面上の連中より幸福だよ。たとえば,ここにいる君の友人たちなんかよりはね」と総統は指さした。

ハックスリー 村松達雄(訳) (1974). すばらしい新世界 講談社 p.259

死に対する条件反射訓練

 5台のバスに乗った男女の生徒たちが,歌ったり,黙々と抱擁し合ったりしながら,陶化舗装された大通りを通っていった。
 「死体火葬場からいま帰ってきたところですよ」とギャフニー博士は説明してくれたが,その間にバーナードはひそひそ声で女教頭とその晩の会合をとりきめていた。「死に対する条件反射訓練は生後18か月で開始されるのです。どんな幼児もみな危篤者病院で毎週2日午前中をすごすことになっています。最上等の玩具が病院にはそなえてあって,死亡者の出る日にはチョコレート・クリームがもらえるのです。子供たちは死を当然の出来事と考えるようになります」
 「死以外のあらゆる生理作用と全く同様にね」と女教頭は教師めいた口調で言葉をはさんだ。

ハックスリー 村松達雄(訳) (1974). すばらしい新世界 講談社 p.189

スキナーのナイス・トライ

 スキナーは,デザイン(もしくはデザイン能力)を1回で(すっかり)説明しつくそうとする,貪欲な還元主義者であった。彼に対する適切な応答は,「よく頑張った(ナイス・トライ)。けれども,あなたが考えたよりずっと複雑なことが分かったのだ」である。誰かが,嫌味を込めることなく,彼にそう言ってやるべきだったのだ。スキナーはほんとうによく<やった>のだから。それは,偉大なる思想であった。多くを学習することができた厳密な実験法とモデル構築とを,半世紀の間,それは鼓舞(あるいは挑発)してきたのだから。だが皮肉なことに,それは,ホージランド(Haugeland)が「古きよきスタイルの人工知能 Good Old-Fashoned AI」つまり「GOFAI」と名づけた<もうひとつの>貪欲な還元主義の失敗の,繰り返しであった。これによって心理学者たちは,心は実に,卓抜な構成的複雑さを備えた現象なのだと,本当に確信させられたのだ。GOFAIを基礎づけている洞察は,すべてのコンピュータは単純な部分から構成されるが<無制限の複雑性を持つ>という,チューリングの認識であった。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.522

満足度の測定

 満足度を測る理想的な方法は,快と不快の(喜びと苦しみの)体験を差し引きすることですが,満足度を自分で判断せよと言われたとき,人はあきらかに,単純な引き算とは別のことをします。回答者たちにネガティブな(不愉快な)体験あるいはポジティブな(快い)体験を3つずつ思い出させるという,ひとつの実験がありました。一方の条件では,その体験は最近の出来事でなければならず,もう一方の条件では,5年前のことを思い出すよう指示される。そしてその後,全般的な生活への満足度を問われるというものです。
 その結果,最近のネガティブな出来事を考えさせられた人たちは,最近のポジティブな出来事を考えた人々にくらべて,満足度が低いことがわかりました。ところが,昔のネガティブな出来事を考えた人は,昔のポジティブな出来事を考えた人にくらべて,自分は幸せだと申告した比率が高かったというのです。
 この結果を読み解く鍵は「判断の枠組み」にあります。最近の出来事を考えた人たちは,それらを現在の生活状態の総括に含めているため,ポジティブな出来事は喜びをもたらし,ネガティブな出来事は憂鬱をもたらす。一方,遠い過去の出来事を思い出した人々は,それらを現在の生活との比較に使います。そのため,過去のポジティブな出来事だけを考えた人は,現在の状態を少々不本意に感じ,逆に過去のいやな出来事を思い出した人にとっては,今の生活が急に良いものに思えてくるのです。


ダニエル・ネトル 山岡万里子(訳) (2007). 目からウロコの幸福学 オープンナレッジ pp.48-49


欲しいもの=幸せをもたらすもの?

 わたしたちは盲目的に,「自分が欲しいと願うもの」イコール「幸せをもたらすもの」であると信じていますが,実は,競争を第一義に考える脳によって,残酷にもだまされているのかもしれないのです。人が生活の中で欲しいと願うものは,進化を経た脳によって欲しがるように命じられているものであって,そこには幸福などという概念が入りこむ余地などないのです。昇進など気にせずボート作りに打ち込む,あるいはボランティア活動をするほうが,よっぽど幸せになれることは,多くの例が示しています。しかも経済的成功を重要視すればするほど,仕事にも家庭生活にも満足できなくなるのです。
 つまり,おどろくべきことですが,人はものごとを欲することに専心するあまり,自分が楽しむのを忘れてしまうこともあるのです。そうなると必然的に不満がたまりますが,そういう人は,いわゆる世間一般の(そして進化の)基準からすれば,成功者である場合が多いものです。人の行動は,欲望と,なにが幸せをもたらすかについての思いこみによって動かされます。この思いこみは実情とは食い違っていることがあるのです。人間は夢の実現がもたらす幸せを過大評価し,欲していない状況を乗り切る能力については過小評価することを思いだしてください。そのような誤りを訂正するべく経験から学べるかどうかは,残念ながら保証されていません。なぜならこの思いこみは,心に充足感を与えるためではなく,自己のDNAを複製するために設計されているからです。

ダニエル・ネトル 山岡万里子(訳) (2007). 目からウロコの幸福学 オープンナレッジ pp.174-175

「幸せ」に弱い人々

 しかも,「ここに幸せあり」という噂を聞くと,わたしたちはいとも簡単にだまされてしまうのです。かつて,人類学者のマーガレット・ミードが『サモアの思春期』という本を出版しましたが,その中で彼女が描いたこの太平洋(パシフィック)に浮かぶ島の生活は,文字通り平和(パシフィック)そのものでした。羨望も嫉妬も対立も暴力もない,いわば地上の楽園です。しかし実は,ミードはふつうの旅行者以上にサモアに滞在したわけでもなく,そもそも島に到着する前に,自分の出したい結論がとっくにわかっていたのです。
 驚嘆すべきはむしろ,堂々とフィクションを書こうという(ある意味立派な)動機にしたがったミード本人ではなく,この著作への世間の反応です。『サモアの思春期』は人類学分野では空前のベストセラーとなり,何百万という人の考え方に影響を与えることになりました。読者はどうやら,不幸とは無縁な社会が存在するという話には,あまり深く考えずに飛びつく傾向があるようです(しかもサモアには対立も暴力もほかの国並みに存在することを示す著作が,すでにいくつも存在していたにもかかわらず,この幻想を素直に受け入れたのです)。
 けれども,そもそもそのような結論がみちびけるはずがありません。わたしたちの社会よりはるかに貧しく,出産にともなう病気や困難も多い,非常に不安定な国において,世界中の人間とひとしく,恋愛,競争,老化など生きるための葛藤にさらされている人々なのです。なのに,彼らのことを最高に幸せな人々なのだと納得してしまうこの現象は,サモア人よりも,むしろミードの読者の心理について,語ることが多いのではないでしょうか。

ダニエル・ネトル 山岡万里子(訳) (2007). 目からウロコの幸福学 オープンナレッジ pp.73-74

遺伝的であることと遺伝子の発見の違い

 統合失調症やうつ病,特に躁うつ病は,家系で代々受け継がれる傾向があることに留意していただきたい。この傾向それ自体が,遺伝の関与の証拠にはならない。貧乏だって,家系で代々受け継がれる傾向が見られるのだ。現代の疫学研究は,昔のものより格段に進歩している。現在,精神障害の遺伝関与を裏づけるいちばん確かな証拠は,一卵性双生児と二卵性双生児の比較研究や養子を対象とした研究から得られている。簡単な例をあげると,統合失調症の場合,一卵性双生児のひとりが統合失調症と診断されれば,もうひとりが統合失調症である確率は,研究によって多少の違いが見られるものの,おおよそ35〜50パーセントである。同性の二卵性双生児の場合は,両者の遺伝組成は双子でない兄弟の場合と同程度に異なり,同様に罹患する確率(一致率)ははるかに低く,7〜14パーセントである。一卵性双生児のほうが多少,養育のされ方まで一緒だということはあっても,一卵性双生児と二卵性双生児は,基本的に家庭環境が同じである。そのためこのことが,統合失調症への遺伝関与を裏づける確実な証拠とされている。養子で統合失調症になった人を対象にした研究の結果も,遺伝の関与を裏づける証拠になっている。養子が統合失調症を発症した場合に,育ての親よりも生みの親のほうが統合失調症である場合が多い。躁うつ病でも,同様な結果が出ている。
 現在のところ,躁鬱病や統合失調症を引き起こす遺伝子を発見したという報告があっても,どれも再現性があったためしはない。たいていの場合,ある種の疫学的なアーティファクトのために,正当性が否定されてしまう。しかし,データの検討を行ったこの方面の専門家たちは,多くの精神障害の原因に確かに遺伝関与があるという。特定の精神障害になりやすい体質は遺伝すると考えるのが妥当だろう。ただし,「素因」という病理学由来の言葉は,特定の病気に罹りやすい体質,もしくは傾向があることを意味し,実際に発症するのはある条件下においてだけである。

エリオット・S・ヴァレンスタイン 功刀 浩(監訳)・中塚公子(訳) (2008). 精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構 みすず書房 pp.191-192


心理的現象の遺伝子

 アルコール依存症,躁うつ病,統合失調症,同性愛,その他数多くの障害,あるいは性格特性等の原因となる遺伝子(数個の遺伝子の場合もある)が見つかったという主張が最近されているが,これはあまりあてにならない。追試がきかなかったり,研究の対象となっている特性をもつ人の中の少数にのみ当てはまるにすぎない。こうした主張がある一方で,遺伝子が行動や精神状態をつくりだすのではないと,根本的な批判をする人もいる。遺伝子は,アミノ酸やタンパク質から解剖学的構造と経験の相互作用の産物である。ここで経験とは,過去の経験で覚えているものと,現在の経験と,将来の経験の予想をいう。ある種の行動や精神状態が遺伝的因子に影響される確かな証拠があっても,それはそうなりやすい傾向があるということであって,そうなると決まっているわけではない。一卵性双生児ペアは遺伝子が同一であるが,一卵性双生児のひとりが統合失調症か若年性(一型)糖尿病の場合,もう一人がこうした疾患を患う確率は50パーセント以下である。


エリオット・S・ヴァレンスタイン 功刀 浩(監訳)・中塚公子(訳) (2008). 精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構 みすず書房 pp.186

実際は複雑な現象である

「ブードゥー教の呪いで人が死ぬ」ことも,立証されている。ハーバード大学の著名な生理学者ウォルター・キャノンがこれを研究し,後にジョン・ホプキンス大学の心理生物学者のカート・リクターも調査した。ブードゥー教の信仰が行われている国では,いたって健康な人でさえ,呪いが自分にかけられたことを知ると,衰弱して死に至るということが実際に起きる。また,それほど昔のことではないが,医学界や科学界は,ストレスが感染に対する抵抗力やガンの成長に影響を与えるという概念を嘲笑したものである。しかし,これが本当に起こることを示す説得力ある実験データが提出され,現在では広く認められている。ストレスによって分泌が促進されるホルモンが,どのように免疫系を抑制するかという問題に関して,「精神内分泌神経免疫学」(psychoendocrine neuroimmunology)の分野で現在盛んに研究されている。さまざまなレベルでの現象を橋渡しする必要があることをこの名は示唆する。

エリオット・S・ヴァレンスタイン 功刀 浩(監訳)・中塚公子(訳) (2008). 精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構 みすず書房 pp.183

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