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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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行動が脳の構造を変える

 行動が脳の構造を変えるという結論を支持しているのが,カリフォルニア大学バークレー校の心理学者マーク・ブリードラブの最近の報告である。頻繁に性行為を行う機会があったラットでは中枢神経系の大きさに変化が見られた。彼の結論は「性行為の違いが,脳の構造変化を引き起こしているのであり,その逆ではない」というものだった。下半身の活動が神経系の構造を変化させることができるならば,頭の活動が同じ効果をもたらさない理由はない。
 経験がニューロンの構造や機能を変えられるという有力な証拠があるからには,精神障害の患者の脳に見られる何らかの顕著な構造的・生理学的特徴を見て,それをこの障害の原因だとみなすのが危険なことは明らかなはずだ。精神疾患患者は自分の世界に引きこもり,外部からの刺激をほとんど受けない状態になることもあるし,強迫的な行動を繰り返したり,あるいはまったく動きのない状態になることがある。また,興奮して同じ場所を行きつ戻りつし,睡眠や食事が過剰または過少になったり,妄想に取りつかれたりする。こうした思考や行動パターンのどれかが長く続けば,脳の物理的変化が生じる可能性がある。だから,特定の精神障害の患者に見られる「生物学的マーカー」がすべて,障害の原因だとは仮定できない。脳の生化学的,あるいは他の生物学的な変化は,患者の精神状態や行動によって生じたものかもしれないのである。

エリオット・S・ヴァレンスタイン 功刀 浩(監訳)・中塚公子(訳) (2008). 精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構 みすず書房 pp.170-171
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つまり・・・

 要約してみよう。神経科学と薬の作用の神経薬理の知識は大いに増したが,理論のほうはここ50年ほとんど変わっていない。現在までに,薬理学的知見や技術が大いに進んだ。ところが情動に関する生化学的研究は,脳に全部で100以上あると推定される神経伝達物質のうち,せいぜい3つか4つのものとの関連にかぎられている。また,最新の抗うつ薬は,受容体に特異的に結合するようになってきているものの,従来と同じ少数の神経伝達物質にしか作用しない。薬の開発は,うつ病の原因や薬の作用メカニズムの理解が進んだからというより,市場を念頭において進められる。抗うつ薬は,うつ病の原因である生化学的欠陥を正常化することによって作用するとよく言われている。この文句は,売り込みには有効だが十分な証拠はない。


エリオット・S・ヴァレンスタイン 功刀 浩(監訳)・中塚公子(訳) (2008). 精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構 みすず書房 pp.145-146.

うつ病の海馬減少説

 うつ病の海馬細胞減小説はなかなか興味深く,調べてみる価値があるが,デュマンらがあっさりと認めているように,この仮説が適用できるのはうつ病患者の比較的少数に限られる。というのは,うつ病患者の大半で海馬の細胞の減少が見られるという証拠もないし,うつ病になる前に必ず大きなストレスがあるというわけではないからである。実際,最初のうつ病の発作が,何もかもうまくいっている時期に起こることも珍しくない。ところが海馬仮説で一つ大事なのは,この仮説によってうつ病の原因を探す範囲が広がったことである。この仮説では,神経伝達物質の異常の証拠のみに着眼するのではなく,別の生物学的な要因に目を向け,その要因が個人の生活の中の諸事情によっていかに影響を受けるかにも注意を向ける。

エリオット・S・ヴァレンスタイン 功刀 浩(監訳)・中塚公子(訳) (2008). 精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構 みすず書房 pp.145

うつ病とノルアドレナリン,セロトニン

 うつ病患者で,ノルアドレナリンかセロトニンの代謝産物の濃度,またはその両方の濃度が低い人もいるが,大多数はそういうことはない。値はまちまちだが,くつかの研究から平均値を出すと,うつ病患者のわずか25パーセントでこれらの代謝産物の濃度が低下しているとするのが妥当だ。うつ病患者の中にはノルアドレナリンの代謝産物の濃度が異常に高い人も実際にいるが,うつ病患者の大多数は正常の範囲内である。一方で,うつ病に罹ったことのない患者でも,これらの代謝産物の濃度が低い人もいる。いずれにせよ,何が計測されているかが問題として重要である。というのも,尿や脳脊髄液中のノルアドレナリンやセロトニンの代謝産物は脳に由来するものは半分以下で,残りの半分は身体のさまざまな器官に由来するからだ。


エリオット・S・ヴァレンスタイン 功刀 浩(監訳)・中塚公子(訳) (2008). 精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構 みすず書房 pp.133-134

合理的人間モデル

 われわれがどのように意思決定をしようと,効用を最大化することが求められる数学的な世界ほど厳密でも,完全でもない。情報を隅に追いやり,可能性を検討しないまま人生を送っている。われわれは仕事をすることから部分的にしか満足を得ていない。そして,ここでとりあげた例は,人生における厄介な問題を考慮に入れてさえいない。それは不確実性である。われわれが行う選択の大部分では,その結果は確実に起こると考えているわけではなく,ある確率で起こると考えている。
 そうした考え方が行動経済理論の基礎をつくっているが,経済学者はしばしば,「合理的人間」を前提に置いてわれわれに重荷を背負わせたことについて弁明し,この考え方は割り引いて受け止めるべきだと説く。なかには,われわれは合理的人間モデルにしたがって意思決定をしていないことを認める経済学者もいる。合理的人間モデルにしたがうのであれば,問題の本質を理解し,考えられる代替手段を比較して選好を明確にし,複雑な最適化を定式化して,最終的な行動手順に行き着くというプロセスを経なければならない。そのため,われわれは合理的人間のように意思決定しているとは主張せず,たとえ明示的にそうはしていなくても,あたかもこの手順にしたがっているかのように行動すると主張する。言い換えれば,われわれの結論は,たとえどんな方法で導き出されようと,最後には,この形式化された「合理的人間」アプローチの結果として生じていたであろう結果になるということだ。

リチャード・ブックステーバー 遠藤真美(訳) (2008). 市場リスク 暴落は必然か 日経BP社 p.381-382

人の振る舞いと不確定性原理

 人の振るまいには,不確定性原理との類似性が明らかに認められる。人は観察されているとさまざまな心理的抑制が働き,観察されていない場合とは異なる行動をとる。取引内容が開示されて精査される場合にトレーダーが異なる行動をとるのは,単に金銭上の問題からである。ポジションの透明性は,流動性の需要者と投資家にとっては有益だが,流動性の供給者にとっては有害である。流動性の供給者はポジションを長期的に保有するつもりはない。それは典型的な流動性の需要者も同じだろう。マーケットメーカーと同様,流動性の供給者は最後には市場に戻ってポジションを処分する。その際には,市場の反対側に流動性を必要としている別の投資家がいることが理想である。ほかのトレーダーが流動性の供給者のポジションを知っていれば,理論上では,こうしたポジションがすぐに市場で売られる公算が非常に大きいと推測される。ほかのトレーダーは,市場に巨額の買い持ちが積み上がっていることを知っており,こうした取引を最初に引き受ける側になりたがらないか,仮に引き受けるとしたら,価格面でさらに譲歩するように迫る。

リチャード・ブックステーバー 遠藤真美(訳) (2008). 市場リスク 暴落は必然か 日経BP社 p.373-374

勝つことで生じる2つの心理状態

 最も単純な市場サイクルは,2つの投資家心理によって生まれる。1つ目は,投資の成功体験が積み上がるにつれ,リスク許容度が高くなるというものだ。儲けが出ていると,それに比例して,より大きなリスクを進んでとりにいくようになる。この現象はしばしば「ハウス効果」と呼ばれる。勝っているギャンブラーは,カジノのカネ(“ハウスマネー”と呼ばれる)を使ってプレーするので,賭け金を増やす傾向が強いこととよく似ているからだ。2つ目は,勝つ人が増えれば増えるほど,自分は頭がよいと考えるようになることである。投資家は自分の相場観が当たって儲けると,その見方にいっそう固執するようになる。たとえ投資が成功している本当の理由が,自信の相場観とは何の関係がなかったとしてもだ。


リチャード・ブックステーバー 遠藤真美(訳) (2008). 市場リスク 暴落は必然か 日経BP社 p.286

事後的な説明はいくらでもできる

 いまになって考えれば,いったいどうしたら,どのリスクにも誰もまったく気づかないということがありえるのか,理解に苦しむ。しかし,スペースシャトルの2つの爆発事故,そして,チェルノブイリとスリーマイル島で起きた2つの原発事故でも,これと同じことがいえる。機能不全が起こるのには原因があり,事後的にならいくらでも説明がつくものだ。問題は複雑性そのものにある。あらゆる相互作用がもたらすあらゆる大事故の危険性に備えることなどできない。事態は一気に進展していくため,調整をほどこす時間はいっさいない。


リチャード・ブックステーバー 遠藤真美(訳) (2008). 市場リスク 暴落は必然か 日経BP社 p.245

言外の行動

現在でさえ,私たちの選択的な観察の多くが直観的であるという事実のために,このようなタイプの観察を人に教えるのは困難です。しかも私たちの教育方法はまだそんなにしっかりしたものになっていませんから,学生の天分に大きく頼らざるを得ません。生まれながらの観察者ではない学生にすぐれた観察能力を身につけさせようとするのは,非常に難しいんです。もちろん,いくつかの規則は伝えることができますよ。「見出し語を使わず,動きそのものを記述せよ」とか,「その動物にこれこれのことをさせているのは何か自問せよ」よか,「これこれのことは生存の上でどんな価値があるのか考えよ」とかね。でも,行動の特定の側面に無意識に価値を付与するのがいかに個人的なことか,大学院生と一緒に観察するたびに思い知らされます。同じ場面を観察しているのに,2人の人間が非常に異なる物事を見るんです。たしかに,私はしばしば,学生が見逃したことを指摘して学生の注意を促すことができますよ。でも,新しい共同研究者が非常に明白なことに私の注意を向けさせてくれることも,よくあるんです。一度なんか,「そうだね,君が正しいよ,僕は何度もそれを見てきたけど認識していなかった」と認めざるをえませんでした。不面目なことですが,とても有益な経験でした。

(by ニコ・ティンバーゲン)

デイヴィッド・コーエン 子安増生(監訳) 三宅真季子(訳) (2008). 心理学者,心理学を語る 時代を築いた13人の偉才との対話 新曜社 p.418-419


関係性は言語でつくられる

 ゴミ捨てを引き受けるかどうか,朝相手にコーヒーを淹れてあげるかどうか,物理的にそこにいるかどうかといったことも,人間関係を表現します。でも会話は人間関係と切り離せません。人間関係で大事なのは,何をするか,何を考えるか,何を感じるかだと普通思われているでしょうけど,ことばこそ人間関係の見方の基礎です。関係はすべて言語によって,しゃべることを通して作られます。典型的な会話を考えてみましょう。その日の出来事を女性がしゃべり,男性がその問題を解決する方法を提案します。彼女は,私は解決策がほしいんじゃないの,聞いてもらいたいのって言うでしょう。あるレベルで,これが関係のありようです。それはそのように会話することによって作られるからです。それが親密さをつくり,親密さを表現します。もちろん,お互いに相手を大事に思っているでしょうけど,お互いについて知ることが親密さを作り出し,相手の人生の細部について知っていること自体が親密さの構成要素なのです。

(by デボラ・タネン)

デイヴィッド・コーエン 子安増生(監訳) 三宅真季子(訳) (2008). 心理学者,心理学を語る 時代を築いた13人の偉才との対話 新曜社 p.395


フロイトの発見と誤り

 フロイトは非常に重要な発見をしたと思うし,他の人々によってなされた発見に注意を向けたと思う。そのおかげで,僕たちは変化した。僕たちははや,気まぐれな偶然を信じない。たとえば,君が約束を忘れたとしたら,それには理由がある。彼は必ずいつも正しい理由をあげたわけではないと思うが,僕は彼の決定論を受け入れている。彼の大きな誤りは,心の装置と呼ぶものを作り出したことだと思う。ドイツの意思心理学から生まれたすばらしい創作だが,それは悲劇的だった。もし彼が,自我,超自我,イドという3つのパーソナリティに頼らずに事実を体系化していたら,心の地形学や地理学,意識,前意識,無意識に頼らなかったら,もっとずっと前進していただろう。でも,そんなに注目もされなかっただろうね。この論理的なものに魅力があるのはまちがいない。それは深遠な感じ,深みのある感じを与えてくれる。精神分析家は深みとか深層とかいうことばが大好きだ。そしてスキナーは表面的だと言いたがる。自分たちのほうが深みがあるとね。僕は,彼の治療は精神分析家たちが考えるほど成功したとは思わない。アイゼンクの批判は少々極端かもしれないが,それほど行き過ぎているわけでもないと思うよ。

(by バラス・スキナー)

デイヴィッド・コーエン 子安増生(監訳) 三宅真季子(訳) (2008). 心理学者,心理学を語る 時代を築いた13人の偉才との対話 新曜社 p.359-360

パブロフ実験は偶然

 パブロフは生命体(organism)でhなく,器官(organ)に注目する心理学者だった。それに,彼は自律神経系ならびに反射実験がうまくいく唯一の腺に取り組んでいた。彼が唾液腺に行き当たったのは驚くべき偶然だった。実験に用いることができる別の腺を見出すのは非常に難しい。たとえば,脚の屈折について筋標本を使おうとがんばっても,パブロフ反射の研究にはならないと思った。今でもそう思わない。涙を使うのは無理だ。胃液の分泌を使うことは可能かもしれない。胃液が出ているかどうかもっと簡単に見ることができればね。尿や汗を使うことができるとは思えない。唾液しかなかったんだ。実のところ,今思いついたんだが,パブロフは条件づけされた唾液分泌の専門科だったんだ。

(by バラス・スキナー)

デイヴィッド・コーエン 子安増生(監訳) 三宅真季子(訳) (2008). 心理学者,心理学を語る 時代を築いた13人の偉才との対話 新曜社 p.354

誤解

 スキナーは1929年にハーバード大学に入学したとき,すでにパブロフとJ.B.ワトソンを読んでいた。実験の背後にある考え方ではワトソンから影響を受けたが,より直接的な影響を受けたのはパブロフからであった。スキナーは反射について研究し始めた。インタビューの中で彼は,いかにしてそれに満足できなくなったかを説明している。オペラントの概念は反射への批判から生じた。しかし,スキナーのオペラントと反射の区別[訳注 反射は自動的反応,オペラントは自発的行動]は,容易に曖昧にされてしまう。特に,彼の研究の社会的な応用に関心をもつ人には,両者の違いは覆い隠されてしまう。主な違いは,オペラント条件づけにおいては特定の行動が生み出す結果を調べ,それを利用するということである。


デイヴィッド・コーエン 子安増生(監訳) 三宅真季子(訳) (2008). 心理学者,心理学を語る 時代を築いた13人の偉才との対話 新曜社 p.339

ほめることと叱ること

 私のキャリアの中で最も満足のできるユーレカ(わかった)経験をしたのは,飛行機操縦の指導員に対して,技能の学習を促進するには罰するよりもほめるほうが効果的だと教えようとしたときです。私が熱く語り終えたとき,聴衆の中で最も年季の入った指導員の一人が手を挙げて,短い演説をしました。彼は正の強化は鳥にはいいかもしれないが,飛行機操縦の訓練生には最適ではないと言いました。彼は「これまで何度も訓練生の曲芸操縦がうまくできっときにほめたことがありますが,たいてい,もう一度やろうとすると前より下手になります。反対に,うまくできなかったときに大声で怒鳴ることがしょっちゅうありますが,そうするとたいてい,次には前よりうまくできるようになります。ですから,強化がうまくいって罰がうまくいかないなんて言わないでください。その逆が現実の姿なんですから」と言いました。これは私にとって,世の中の重要な真実を理解した嬉しい瞬間でした。私たちは他者が何かをうまくできたときにほめて,うまくできなかったときに罰を与えますよね。そして物事は平均に回帰します。ですから,他者をほめると統計的にいって次はうまくできなくなる確率が高まり,罰すると次はうまくできる確率が高くなるというのが,人間の置かれている状況の一部なんです。私はすぐにそれを示すデモンストレーションを考えました。参加者に自分の後ろにある的に向かってコインを二回投げてもらい,当たったかどうかのフィードバックはせずに,的からの距離を測ります。すると,一回目に最も的に近かった人はたいてい二回目には前回よりも的から遠くなり,一回目に最も的から遠かった人はたいてい二回目には前回よりも的から近くなりました。ただし,このデモンストレーションによって,一生にわたって誤った随伴性に曝されることの効果が消えるわけではないことはわかっていました。

(by ダニエル・カーネマン)

デイヴィッド・コーエン 子安増生(監訳) 三宅真季子(訳) (2008). 心理学者,心理学を語る 時代を築いた13人の偉才との対話 新曜社 p.243


心を扱うこと

 心理学の学問内容が不十分で不確実に見えるのは,歴史が浅いからではない(いま述べたように浅くなどない)。それは,だれもがもつ,けれどほかの人間は直接見ることのできない「心」というものをあつかうからだ。物質のようなハードなものをあつかうのではないからなのだ。これは,心理学の本質であり,宿命である。心理学がこれから途方もない年月研究を積み重ねて行っても,この点は変わりようがない。
 では,そうした「心」を心理学ではどのようにあつかうのか。オーソドックスには,言語的反応や行動や生理的な反応を通してである。行動や反応のデータから,心のなかで,脳のなかで,体のなかでどんなことが起こっているかを推測する。つまり,心理学とは間接科学である。このことを言うのに,かつては,心や脳や体を,ものが出入りするが,なかを覗くことはできない「ブラックボックス」にたとえていたことがある。つまり,入っていったものと出てきたものとの関係(入出力関係)から「ブラックボックス」のなかでなにが行われているかを推測するわけだ。いまなら脳のなかで起こっているプロセスを探るということになる。
 ここで問題なのは,この推測が十分な正確さをもって行うこともあるし(当然そうせねばならない),いいかげんに行うこともできるということだ(心理学者を自称するとんでもない連中の心理ゲームがこれにあたる)。心理学が客観性を備えた自然科学のようにも見え,どこかしらウサン臭さも残しているのは,間接科学のもつ宿命にほかならない。

鈴木光太郎 (2008). オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 p.211


クレヴァー・ハンス効果

 クレヴァー・ハンスのできごとは,さまざまなことを教えてくれる。ひとつは,動物が一見人間のようなことができるからと言って,人間と同じようなやり方でやっているとは限らないということだ。これ以降,心理学では,動物の知的能力については,まず疑ってかかるという態度をとるようになった。
 もうひとつ重要なことは,実験する側の人間が知らないうちに被験者に答えや反応の手がかりを与えてしまう場合があるということである。実験条件による結果の違いが,なんのことはない,実験者の結果の予想が被験者の反応に影響していただけというのでは,冗談にもならない。こうした実験者の影響は「実験者効果」と呼ばれる(動物の心理学実験の場合には,ハンスに因んで「クレヴァー・ハンス効果」と呼ばれることもある)。心理学の実験では,こうした効果が入り込まないようにする方法をとらなければならない。これは鉄則である。
 心理学の実験がほかの科学の実験と大きく異なるのは,まさにこの点だ。それは,相手が心をもった生身の人間で,実験するのも心をもった人間だということである。そこには互いに影響し合う関係が必然的に存在している。


鈴木光太郎 (2008). オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 p.147

閾下と無意識

 ここで注意しておくべきことがある。それは,認知心理学で言う「意識下(閾下)」とフロイトの「無意識」には大きな違いがあるということである。この2つを混同しているために,話しがわけのわからないところに行ってしまうのだ。
 フロイトの無意識は,抑圧されて意識にのぼってこないものである。抑圧されているものは,たんに意識されないだけでなく,先ほど述べたようにネガティブな内容を含んでいる。一方,認知心理学で言う意識かあるいは閾下は,処理容量や意識や注意の限界の問題である。この場合に意識されないものがあるのは,十分な処理を受けていなかったり,重要でなかったり,注意が向けられなかったりしたからであって,ネガティブな内容をもつからではない。
 違いは,もうひとつある。閾下知覚では,いまここにある刺激が意識にのぼらない。これに対して,フロイトの「無意識」では,意識にのぼらないのは,過去の体験やできごとである。心理学者の多くも,実はこの2つを明確に区別してこなかったし,いまも漠然としか区別していない。

鈴木光太郎 (2008). オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 p.51

野生児

 人間的な環境で育たなかった子どもは,「野生児」と総称される。これには,3つのカテゴリーがある。まず,野生の動物に育てられた場合。森などに遺棄されたあと自力で生き延びた場合。そして,人為的に社会から隔離して育てられた場合である。最後のカテゴリーは(家の中に閉じ込められていることから),前者2つと区別するために,「クローゼット・チャイルド」と呼ばれることもある。
 第1のカテゴリーの代表が,アマラとカマラである。第2のカテゴリーの事例は,1799年に南西フランスのアヴェロン県のコーヌの森で見つかったヴィクトールである(「アヴェロンの野生児」と呼ばれる)。第3のカテゴリーの代表として,1828年にドイツのニュルンベルクに現れたカスパー・ハウザーの事例や,1970年にロサンゼルスで保護されたジニーの事例がある。

鈴木光太郎 (2008). オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 p.29


意図は認識に関わる

 このことから分かることは,意図とはむしろ認識に関わるということである。自分の行動がどのような文脈のなかで行われ,それが周囲の世界にどのような影響を及ぼすか知っていながら行うということが,「意図的」ということなのである。
 たとえば,ある大統領が殺され,大統領が目論んでいた某国との停戦協定が頓挫したとしよう。もし,その犯人が大統領の財産を奪うことだけに関心があり,停戦協定のことなど知らなかったとすれば,その犯人は戦争の泥沼化を意図していたわけではないことになる。結果,そうなっただけである。
 しかし,犯人が戦争の長期化を目論む某国のスパイだったならば,そのスパイは,大統領の死が国際情勢にもたらす因果関係を認識していたはずである。意図的な行為は,その行為が引き起こすだろう因果関係を認識しながら行うものである。
 したがって,意志するとは,行為を発する決意のことではなくて,ある目的を達成するように(あるいは,理由に沿うように)自分の行動を調整することなのである。
 強い意志とは,いくつかの失敗にもめげずに,さまざまな仕方で目的を達成する試みをしようとする粘り強い態度を指す。強い意志は強い決意や強い心のエネルギーを意味する,と考えるのはやや素朴な発想である。

河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.166-167

社会的構築物としての心的機能

 心的機能が社会的に構成されたものだということは,それらが無力な虚構だということでは決してない。知能や記憶などの心理的カテゴリーはいったん社会に受け入れられると,今度は,人々の心の理解の仕方や人間観に影響を与えるようになる。
 知能とはこういうものだ,記憶とはこういうものだと規定されると,私たちはそれに合わせて自分の知的能力を作り上げ,早期の仕方を訓練していく。
 「心とはコンピュータだ」という考えが社会に広まれば,コンピュータをモデルとして人間の心を理解するだけではなく,それに近づけようと自分の心を改造し,それに合わせようとして子どもを教育するのである。正確で誤りのない,感情を交えない計算機であるように,自分たちをシェイプアップしてしまうのだ。
 心は他人には決してわからない秘密の小部屋のようなものだという心の概念が社会的に共有されれば,心とはそうしたものであり,コミュニケーションは最終的に無力だという態度が生まれてくるであろう。
 このように,社会的ラベリングがその対象を実際に形成していってしまう現象を,哲学者のイアン・ハッキングは「ループ効果」と呼んだ。ブーメランが戻ってくるように,自分たちで規定した意味が,自分たちのあり方を規定するようになるのである。
 この意味において,心は現実的に社会的に構成されるのである。

河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.134-135.

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