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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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脳機能計測の成果

 反応時間や正答率,選択率などの行動的測度によって明らかになった現象は,そのままでは何も説明していない。心理学では,これらの行動として表れた現象を,仮説的構成概念を用いた心理的モデルによって解釈する。しかし,ある現象を説明するのに複数のモデルが並列して成り立ってしまい,どれが正しい解釈か確定できない場合が生じうる。
 たとえば,記憶における自己参照効果という現象(自分自身に当てはまる課題は,記憶しやすいという現象)が認められる。
 この現象がどうして生じるかについては,2つの有力な解釈が存在し,長い間,論争になっていた。ひとつの仮説では,自己認知という特殊な認知機能が存在し,その部分が刺激されるからこそ,自己参照課題は記憶しやすいのだと解釈された。もうひとつの仮説では,自己参照課題は記憶しやすいといっても,それは,特別に自己という特殊な認知に関わったからではなく,ただ単に,課題の意味がさらに精緻化されたから記憶しやすいのだと主張されてきた。
 そこで,fMRIで測定したところ,意味の精緻化に関わる左側の下前頭回ではなく,自己内省や自己意識に関わると考えられる内側前頭前野が活性化したのである。この結果,記憶の自己参照効果は,自己認知に関わっていたことがわかったのである。
 これは,神経科学的測度が,心理学的な仮説の確定に貢献したケースといえるだろう。


河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.90-91


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脳が出す指令

 人間の脳は,身体を原子レベルから再構成するようなプログラムを実行しているのではないし,筋肉の繊維一本一本の構成を分子レベルから組立てるような指令はしていない。骨格をどのように構成するか,筋肉をどの方向に収縮し弛緩するかについてさえ指令していない。身体の特性とその振る舞いの効果については,脳は何の制御も行うことはできない。それらはすべて身体の中に書き込まれている。むしろ,脳が行う制御は,身体の特性や振る舞いが環境に対して一定の効果をもちうることを最初からの前提としている。
 したがって,脳が出す指令があるとすれば,そのヴォキャブラリーも文法も,身体という言語で書かれているはずである。単純に言えば,脳の方が,身体の能力,身体がもつ外界への効力に完全に依存しているのである。

河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.73-74.

脳機能計測への反応

 他方で,心理学や教育学など人間科学のプロパーの研究者の中にも,心理研究の方法としての脳機能計測を胡散臭く思う人たちがいる。
 そうした懐疑を,新しい者への警戒心や縄張り意識の表れにすぎないと断じることはできない。人間科学の研究者たちは,自分たちの研究対象である人間の心や行動を,自然科学の方法で扱うことがどれくらい困難であるかを,日々実感しているからだ。
 脳機能計測を心理研究の方法論として用いる研究は,医療的な脳科学者からも,心理学の従来の研究者からも一定の疑問を呈されているのだ。

河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.25

プライミング

 プライミングはどんなスキーマでも可能だ。そしてプライミングされたとき,私たちの行動はそれに合わせて変化する。この現象を早々に実証した画期的な実験の一つでは,ばらばらに並んだ単語を,意味が通る文になるように並べ替えるよう被験者に依頼した。一部の被験者用の単語には,老人のステレオタイプに関する言葉が含まれている。たとえば,皺,へんくつ,毛糸の服,物忘れ,頑固,などだ。他の被験者用の文は,偏りのない単語が使われていた。
 この実験の目的は,最初のグループに“老い”というスキーマをプライミングして,行動にどう影響するかを調べることだった。作業が終わって被験者が荷物をまとめ始めると,実験者は礼を言い,ドアのところまで案内して廊下の向こう側にエレベーターがあることを教える。しかし実験はそこで終わりではない。廊下には実験協力者が隠れていて被験者がエレベーターに行くのにどのくらいかかるかこっそり時間を計っているのだ。老人に関係する単語を並べ替えた被験者は,エレベーターまで歩いていくとき,まるで本当に腰の曲がった老人であるかのように,他の被験者より歩くスピードがずっと遅くなっていたのだ。

コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 pp.148-149

自己の記憶

 私たちは,自らの複雑な心理傾向,性格,能力などについて考えるとき,自分についての真実と見なされているものを告げてもらうため,内なる神官におうかがいをたてる。私は社会生活に満足しているのか,結婚を続けたいのか。よい親といえるのか。ここであなたは,自分についての記憶の中から,その仮説が正しいという証拠をかき集めようとする。楽しかった先週末のパーティー。自分の生活のささいなことを知りたがる配偶者の可愛さ。風船で上手に動物をつくれる自分の腕前。
 ところが聞き方を逆にすると,記憶の中からまったく違った証拠が次々とあふれ出してくる。私は社会生活に不満なのか。すると友人たちのほとんどに,うんざりするような癖があるのを思い出す。離婚したいのか。そう考えると,2人とも黙りこくっていた結婚記念日のディナーの記憶がよみがえる。よい親とはいえないのか。突然,大事なものを電車の中に置き忘れてしまう悪い癖があるのに気づく。「あなたは自分の社会生活に満足していますか」(「不満ですか」ではなく)と聞かれた人のほうが,満足度が高くなるのは,こうした理由からなのだ。別れたくない相手に対して「もう私を愛していないの?」と尋ねてはいけない理由もここにある。


コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 pp.88-89.

感情の方程式

 人間の感情にはそれほど大きな謎はない。知っておかなければならないのは,次の単純な方程式だ。

 感情=興奮+感情的思考

 どんな感情が生じるときでも興奮するのは同じで(違うのは強さだけ),それに適切な思考を合わせるのが脳の役目である。ところが感情がかわると,脳は急いで靴下を組み合わせようとする休憩直前の洗濯係の助手と変わらなくなってしまう。鮮やかな青色で犬のキャラクターがついている靴なら,何の問題もなくすぐ組み合わせることができる(私の脳は,前頭前野の抑制がきかない危険な患者とともに小さな部屋に閉じ込められていることと,手のひらに汗をかくことを,苦もなく結びつけた)。しかし長さも形も色もほとんど変わらない仕事用の黒い靴下を何足も組み合わせるとなると,話はややこしくなる。おまけに脳は,それほど慎重ではないのだ。正しく組み合わせるどころか,よく似た黒い靴下を適当に合わせるくらいは平気でやる。その結果,興奮した原因を,実際とは違うものと思い込んでしまうことがある。


コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 p.43

人間の3つの習性

 占いが当たり,社長がコンサルタントの言葉に頷いてしまうのは,人間に次の3つの習性があるためです。
1 自分にしか興味がない……人が「占い」や「企業診断」などに興味があるのは,そもそも自分・自社にしか興味がないから。
2 そのくせ自分のことが分からない……何を言われても自分のことと勘違いしてしまうのは,意外に自分のことを把握していないから。
3 どこか幸せじゃない……現状に完全に満足している企業・人はいない。明るい将来を予言してくれる人を求めている。


坂口孝則 (2008). 営業と詐欺のあいだ 幻冬舎 p.63

心と体の二元性は錯覚

 私は正反対の提案をしたい。心と体の二元性を信じるのは,少しも「偶然」ではない,とあえて言おう。
 世間一般には,二種類の「錯覚」が存在する。偶然に起きるものと仕組まれたもの,たまたま勘違いしてしまう場合と,仕掛けられたトリックに引っかかる場合だ。たとえば,水に差し込んだ棒が曲がって見えるときや,隣の列車が動いたときに自分の乗っている列車が動いたときに自分の乗っている列車が動いたような気がするときは,偶然の錯覚だ。私たちは,情報が不正確あるいは不完全な状況下で,推論の法則を当てはめている。しかし,だれ一人私たちをだまそうとしているわけではない。
 一方,ステージで奇術師が金属製のスプーンを手で触れもせずに曲げたり,降霊会でテーブルが中に浮いたような気がしたりするのは,意図的なトリックのなせる業だ。ここでも私たちは情報が不正確あるいは不完全な状況下で推論の法則を当てはめているのかもしれない。しかし今度は,勘違いさせようとする奇術師が存在する。
 さて,心と体の二元性という考えはどっちの錯覚だろう。一般に,唯物論に傾いた哲学者はこれまでずっと,第一の種類の錯覚,つまり,遺憾なものではあるかもしれないが,純粋な勘違いという立場をとってきた。しかし,もし実際は,第二の錯覚,つまり仕組まれたトリックだったとしたらどうだろう。


ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 pp.139-140.

皮膚視覚

1つの種類の感覚インプットを別の種類の感覚インプットに代行させる可能性の研究には,1960年代末にポール・バック=イー=リータが他に先駆けて着手した。彼は,被験者に特殊な装置を装着させた。彼は,被験者に特殊な装置を装着させた。この装置は,映像を取り込むテレビカメラと,それを振動に変換して肌で感じられるようにするために,機械仕掛けのバイブレーターをずらっと平面上に並べたものから成り,被験者は,カメラを頭部につけ,バイブレーターを胴体に密着させる。すると被験者は,驚くほどわずかの練習をしただけで,触覚情報を使って,周りにある物を正確に視覚的に判断できるようになった。バック=イー=リータは,この現象を「皮膚視覚」と名づけ,被験者たちは限定的ではあるが視覚的知覚を得ていると,何のためらいもなく主張した。

ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 pp.62-63.

サルの注意

サルを使った実験で私が発見した一つの裏づけについてここで触れておいてもよかろう。スクリーンが空白で何の特徴も持たないとき,サルたちは赤いスクリーンより青いスクリーンを圧倒的に好んだ。ところが,スクリーンにおもしろいものが現れると,この好みは完全に消えてなくなった。スクリーンが空白の場合は,サルたちは自分の感覚以外に注意を向けるものがない。だから赤の感覚より青の感覚を好む。しかし,スクリーンに何かおもしろいものがあれば,サルたちの注意は外の世界へと引きずり出され,自らの反応からそらされる。そうなると,外界のものが青であろうが赤であろうが,どうでもよいようだ。


ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 p.28


色への反応

 私は自分の研究で,アカゲザルが色のついた光に,一貫した強い感情反応を示すことを明らかにした。たとえば,赤い光の降り注ぐ部屋にアカゲザルを入れると,不安そうで落ち着かなくなり,光の色を青に変えると,かなり穏やかになる。好きなほうを選ばせると,赤の部屋より青の部屋を圧倒的に好む。
 人間は(そして,ついでに言えば,ハトも),色のついた光におおむね同じような反応を示す。私たちは,赤の感覚は強烈で,熱く,刺激的で不穏と評する。赤い光は生理的な興奮状態を引き起こし,青い光はその逆の効果を持つことがわかっている。そして,これは生後わずか15日の赤ん坊にも当てはまる。実験では,被験者は青い部屋よりも赤い部屋のほうが暖かく感じ,時間は速く過ぎるように思え,反応時間が短くなる。


ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 p.26

不連続精神

 ここで種差別主義者が潜ませている前提は非常に単純である。人間は人間で,ゴリラは動物。両者のあいだには疑う余地のない深い断絶があり,したがって,一人の人間の子供の命は,世界中のすべてのゴリラの命よりも価値があるというのは。一頭の動物の「値打ち」は,その飼い主にとっての,あるいは,稀少な種の場合にはにんげんにとっての,代わりの動物を買うのに必要な値段でしかない。しかし,知覚のない胎児の組織のちっぽけな一片でさえ,ホモ・サピエンスというラベルを貼り付ければ,その命は突然,無限の,はかりしれない価値へと跳ね上がるのだ。
 この思考法は,私が“不連続精神(マインド)”と呼びたいと思っているものを特徴づけている。私たちは誰も,身長180センチメートルの女性は背が高く,150センチメートルの女性は高くないことに同意する。「高い」とか「低い」のような言葉は,私たちを,世界を定量的な階層構造に押し込みたいという誘惑に駆り立てるが,このことは世界が本当に不連続な分布をしていることを意味するものではない。あなたが,ある女性の身長は165センチメートルだと言い,この女性は背が高いのかそうでないかを決めてくれと私に頼んだとしよう。私は肩をすくめて,「彼女は165センチメートルで,これであなたの知りたいことが伝わっているわけじゃないのですか?」という。しかし,少しばかり戯画化して言えば,不連続精神の持ち主は,その女性が背が高いか低いかを判定するために(高い費用をかけて)裁判所に行くだろう。実際には,戯画だという必要さえほとんどない。何年ものあいだ,南アフリカ政府の裁判所は,さまざまな比率で混血している特定の個人を,白人,黒人,「有色(カラード)」と呼ぶべきかどうかを裁定する活発な駆け引きをおこなってきたのである。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 pp.44-45.

アナロジー思考

 人間の心はアナロジー思考にひたりきっている。われわれは,ひじょうにかけはなれた過程になんとかしてわずかな類似点を探し出し,それに意味を見つけようとせずにはいられない。私はパナマで日がな一日,おびただしい数のハキリアリの2つのコロニーが戦うのを見ながら過ごしたことがあるが,心のなかで,この足の散らばる戦場とかつて見たパッシェンデールの写真とをつい比較してしまった。私はほとんど銃声を聞き硝煙を嗅いでいた。私の最初の本『利己的な遺伝子』が出版されてまもなく,2人の聖職者が別々に私に近づいてきた。彼らは2人とも,その本のなかの考え方と原罪という教義とのあいだに成立する同じアナロジーを思いついたのだ。ダーウィンは進化という考え方を,数えきれないほどの世代が経つうちに体の形が変化する生物体に対してのみ,限定的に適用した。彼の後継者は,あらゆるものに進化を見ようとする誘惑にかられてしまい,たとえば,宇宙の形状の変化に,人間文明の発展「段階」に,そしてスカートの丈の長さの流行にも進化を見た。ときにはそうしたアナロジーが途方もなく実り豊かなこともあろうが,アナロジーは往々にして度を越してしまいがちだし,またあまりに根拠薄弱で役に立たない,いやまったく有害でさえあるアナロジーにいたずらに興奮することも,じつは容易なのだ。私はしだいに私宛にくる偏執的な手紙を受け取るのに慣れっこになり,折り紙付きの無益な偏執狂の特徴の1つが,度はずれた熱狂的アナロジー化であることを学んでいった。
 しかし別の見方をすれば,科学におけるもっとも偉大な進歩のいくつかがもたらされたのは,頭のいい誰かが,すでに理解されている問題といまだに謎の解かれていない別の問題とのあいだにアナロジーが成立することを見抜いたおかげでもある。要は一方で極度に無差別なアナロジー化をすることと,他方で実りあるアナロジーに対して不毛にも目をつむることとの,中道を行くべきなのだ。



リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.313-314.

眼球運動とヴァーチャル・リアリティ

 ヴァーチャル・リアリティをつくりだす精巧なコンピュータとして,脳が機能していることを証明するには,以下のような簡単な実験をしてみればよい。まず,目をきょろきょろ動かして,あたりを見まわしてもらいたい。あなたが目をきょろきょろさせるのに応じて,あなたの網膜は揺さぶられる。まるで,地震のときのように,である。しかし,あなたには,地震のときと同じようには感じられない。あなたが見ている世界は,山のごとく不動である。お察しのとおり,私は,「不動世界のモデル」を脳がつくりだしている,ということを主張したいのである。しかし,この事実だけでは,十分な証明にはなっていない。なぜなら,あなたの網膜を揺さぶるには,これとは別の方法もあるからだ。では次に,まぶたの上から眼球を,やさしくつんつんと突いてみてほしい。さきほどと同じように,網膜像は揺さぶられるだろう。実際,指の動かし方をうまく調節すれば,眼そのものをきょろきょろさせたときと同様の影響を,網膜に与えることができるはずだ。それにもかかわらず,指で突ついた場合には,地面が揺れ動いているように見えてしまう。まるで,地震が起こったかのように風景全体が揺れて見えるのだ。
 この2つのケースのあいだには,どんな差があるのだろうか。このことに関しては,次のように説明することができるだろう。脳の中のコンピュータは,通常の眼球運動を計算にいれている。外界についてのモデルを作る際には,それを考慮するように設計されているのである。見たところ脳は,眼からの情報だけではなく,眼の動きに関する指示を出すような部門からの情報も,計算にいれているようだ。筋肉に対して,眼球を動かすように命令を出す際には,脳は必ず,その命令の内容のコピーを,ヴァーチャル・モデル構築部門に送る。そして眼が動くとき,ヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアは,網膜像の動きを予想するよう指示を受け,その動きの大きさを正確に予想させられる。このことによって,ヴァーチャル・モデルは眼球運動の影響分だけの補正を受けることになるのだ。このシステムにより,外界についてのモデルは,眼を動かしても揺れたりはしない。別の角度から見た像になるだけである。しかし,眼球運動の予告が,ヴァーチャル・リアリティ部門にこないときに,網膜に映る外景が揺れ動いたとしたら,そのモデルは,網膜像の揺れに応じて揺れるのだ。うまくできているものである。なぜなら,そのときは,たぶん本当に地震が起こっているのだから。あなたが,眼球を突つくことで,このシステムを欺いているのないかぎりは。

リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.366-367.

迷信条件づけ

 実験室に話を戻すと,スキナーは,それぞれ異なった目的をもつありとあらゆる種類のスキナーボックスをつくり出して,膨大な研究集団を組織し研究を進めた。そして1948年,スキナーボックスの基本は踏襲しつつも,ある天才的な仕組みを考案した。彼は,行為と報酬の因果関係を完全に切断してみたのである。彼は,鳩が何をしてもしなくとも,時々「報酬を与える」ように装置を設定した。こうなると実際に鳩に必要なことは,くつろいで報酬を待つことだけである。しかし実際に鳩はこのようにはしなかった。そのかわり,8例中6例で,鳩は,まるで自分たちが報酬を受けられる動作を身に付けているかのように,スキナーが「迷信行動」と呼ぶものを作り上げたのである。正確に言うと,こうした行動の内容は鳩によって異なっていた。次に「報酬」がもらえるまで,1羽は独楽のように回転し,2,3羽は反時計回りに回った。別の鳩は箱の特定の上方の角に向かって繰り返し頭を突き出した。また別の鳩は頭で見えないカーテンを持ち上げるかのように,「ぐいと持ち上げる」行動を示した。2羽は別々に,頭や体を周期的に左右に「振り子を揺らす」ような動作を開発した。この最後の動作は,たまたまではあるが,何羽かのゴクラクチョウの求愛ダンスにかなり類似したものに見えたに違いない。スキナーが迷信という言葉を使ったのは,鳩が,本当はそうではないのに,まるで自らの一定の動作が原因となって,報酬のからくりに影響を及ぼしていると考えているかのように行動したからである。これは鳩にとっては,雨乞いの踊りと同じようなものである。
 迷信行動は,いったん身に付くと,報酬のからくりが止まってからも,長時間にわたって保たれるようだった。しかし,その動作は不変ではなく少しずつ変形していった。そのあてもなく変形するさまは,さながらオルガン奏者によって進められていく即興のようだった。典型的な一例をあげよう。鳩の迷信行動は,頭を真中の位置から左へ急に動かすという形で始まった。時間が経つにつれ,その動きはもっと精力的になっていった。最終的には,体全体が同じ方向に向き,足も1,2歩踏み出すようになった。何時間にもわたって「局所的な偏向の動作」が続くとしまいには,左方へのステップはこの行動の顕著な特徴となった。迷信行動が可能となるのは,種がもともと有していた能力に基づくものであろう。しかし,このような状況下で一定の動作を行うこと,また,それを何度も行うことは鳩にとって本能的な行動とはいえないだろう。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.220-222..

直感的確率論者

 私たちは,事実はどうあれ,偶然の一致にはなんらかの意味があり,ある種のパターンにそってそれが起こると思いがちである。パターンを探そうとするのは人間のより一般的な傾向で,この傾向は特筆に値するものであり有益でもある。実際,この世の中の多くの出来事や特徴はでたらめでなく,ある種のパターンをもっている。そして,こうしたパターンを検出することは私たち人間にとっても,動物一般にとっても,有益なことなのである。実は何もないのに一見パターンに見えるものを捉えることもあれば,逆に実はパターンがあるのにそれを見つけられないこともある。シチリア島の沖の,片方にスキラの大岩を,もう片方にカリブディスの渦巻きを擁する海の難所を切り抜けるように,この二者のあいだで舵をいかに取るかが難しいのだ確率の考え方は子の難しい舵取りに大いに役立つ。しかし確率論が定式化されるよりもずっと以前から,人間や他の動物は,十分に有能な直感的確率論者だったのである。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.216.

二元論に向かう心

 宗教が何かの心理学的な副産物であるという考え方は,進化心理学という,目下発展中の重要な分野から自然に産まれてくる。進化心理学者たちは,目がものを見るために,そして翼が空を飛ぶために進化した器官であるのとまさに同じように,脳は,一連の専門的なデータ処理の必要性に対処するための器官(「モジュール」と言ってもいい)の集合ではないかと言っている。血縁関係を扱うモジュール,互恵的なやりとりを扱うモジュール,共感を扱うモジュール,等々が存在するわけだ。宗教はこうしたモジュールのいくつか,たとえば,他人の心についての理論形成のためのモジュール,同盟を形成するためのモジュール,集団内メンバーを優遇しよそ者には敵対的に振る舞うためのモジュールが誤作動したことの副産物とみなすことができる。こうしたモジュールのいずれも,ガの天空航法に相当する役割を果たしうるもので,私が子供の騙されやすさについて説明した例と同じような形で誤作動を起こしやすい。こちらも「宗教は副産物」であるという見解の持ち主である心理学者のポール・ブルームは,子供にはもって生まれた心の二元論に向かう性向があると指摘している。彼にとって宗教とは,そうした本能的な二元論の副産物である。私たち人類,ことに子供は,生まれながらの二元論者ではないだろうかと彼は言う。
 二元論者は,物質と精神のあいだに根本的な区別を認める。それに対して一元論者は,精神(心)は物質---脳の中の物質,あるいはひょっとしたらコンピューター---の1つの表れであり,物質と別個に存在することはありえないと考えている。二元論者は,精神とは物質をすみかとしながらその肉体とは切り離されたある種の霊(スピリット)で,したがって,たぶん肉体を離脱してどこか別の場所に存在することができると信じている。二元論者は精神の病を「悪魔に乗っ取られた」とためらうことなく解釈し,そうした悪魔は,肉体に一時的に滞在するだけの霊で,それゆえ「追い出す」ことができるかもしれないと考える。二元論者は,ほんのわずかな機会でもとらえて,生命をもたない物理的な対象を人格化し,滝や雲にさえ,精霊や悪魔を見る。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.204-205.

シミュレーションソフトによるモデル構築

 私は子どものころ一度,幽霊の声を聞いたことがある。男の声で,まるで朗読かお祈りでもしているようにぶつぶつと呟いていた。完全にではないが,言葉をほとんど聞き分けることもできた。それは真剣で厳粛な声色であった。古い家には司祭の隠れ穴があるという話を聞かされたことがあったので,少しばかり怖かった。しかし私はベッドから出て,音の源に向かって這ってにじり寄っていった。近づいていくにつれて声はしだいに大きくなっていき,そのあと突然,私の頭の中で「反転」が起きた。いまや十分音の近くまで来ていたので,その正体をはっきり聞き分けることができた。鍵穴を吹き抜ける風の立てる音を素材にして,私の脳内シミュレーション・ソフトウェアが,厳粛に詠唱する男の言葉というモデルを構築してしまったのだ。もし私がもっと感じやすい子供であったなら,単なる理解不能なつぶやきではなく,はっきりとした単語や文章さえも「聞いて」しまっていたかもしれない。そして私が感じやすいだけでなく,宗教的な育てられ方もしていれば,風が何を語っているのかと不思議に思ったことだろう。
 ほとんど同じ年齢のころ,別の機会に私は,海辺のある村のごくふつうの家の窓を通して,ちょっと形容しがたいほどの悪意をあらわにして,外を凝視している巨大な丸い顔を見た。私は不安に怯えながら近づいていき,ついにそれが本当は何であったかが分かった。それはtだ,垂れ下がったカーテンがたまたまぼんやりと,人の顔に似たパターンをつくりだしていただけだった。その顔と,そしてその邪悪な表情は,恐れおののく子供の脳が構築したものだった。2001年の9月11日,敬虔な人々は,ツイン・タワーから立ち上る煙の中にサタンの顔が見えると思った。この迷信は,インターネット上に公表され,広く流布した1枚の写真によって引き起こされたものだった。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.137-138.


イレヴン・プラス試験

 能力が遺伝することを根拠に,単一直線上にランクづけるというバートの考えは,イギリスで遺伝決定論を論拠とする知能テストの実施という政治的大勝利をもたらした。1924年の移民制限法が心理学におけるアメリカの遺伝決定論者たちの大きな勝利の印だとすれば,いわゆるイレヴン・プラス試験(中等学校進学適性検査)が同じインパクトを与える勝利をイギリスの心理学へもたらしたのである。子どもたちを別々の中等学校に入れるためのこの制度のもとで,生徒たちは10歳か11歳で大規模な試験を課せられた。それぞれの子どもたちにスピアマンのgを評定するためのこれらのテスト結果によって,20パーセントの子どもは大学入試準備をすることになる。“グラマー”スクールへ送り込まれ,残りの80パーセントは技能学校や“新中等学校(セコンダリー・モダーン・スクール)”へ追いやられ,さらなる高等教育には不適格であると見なされた。


スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい 下 差別の科学史 河出書房新社 pp.179.

動物は一般化しない

 というのも,動物はうまく一般化しないからだ。「飼い主の男性はだいじょうぶだ」から,「飼い主の男性と郵便配達夫はだいじょうぶだ」というふうに一般化しない。ふつうの人はほぼ,この正反対だ。えてして一般化の不足よりも,過剰で誤りをおかす。これが固定観念,「過般化」だ。女性はすべてXで,男性はすべてYになる。ふつうの人は自然にそんなふうに考えるが,動物には,「女性」のカテゴリーにすべての女性をひとまとめにして入れることを,積極的に教えなければならない(動物もたしかにカテゴリーをつくることがある。一種の一般化だ。これについては次の章で述べる)。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 p.292.

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