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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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恐怖の研究

 動物が抱く恐怖を理解するには,脳に関する知識が役に立つ。恐怖の神経学で代表的な研究者に,ニューヨーク大学のジョゼフ・ルドゥー博士がいる。博士は著書『エモーショナル・ブレイン』で,恐怖は扁桃体で発生すると解説している。科学者でない人にとってまことに興味深いのは,脳の中には二種類の恐怖があるということだ。これは博士が発見した「速い恐怖」と「遅い恐怖」で,博士はそれぞれ「低位の経路」,「高位の経路」と名づけた。
 高位の経路が遅い恐怖を与えるわけは単純だ。脳を通る物理的な道のりが低位の経路よりも長いのだ。高位の経路では,怖い刺激,たとえば道ばたでヘビを見かけるなどの情報は,感覚器官を通って脳の奥にある視床にとどく。視床は分析するために,脳の上部にある皮質に刺激の情報を伝える。それで,ルドゥー博士は遅い恐怖を高位の経路と呼ぶ。情報は遠路はるばる脳のてっぺんまで伝わらなければならない。情報がたどり着くと,皮質はみなさんが見ているものをヘビだと判断して,この情報—ヘビがいるぞ—を扁桃体に送り,みなさんは恐怖を感じる。この過程は全部で0.024秒かかる。
 低位の経路でかかる時間はその半分だ。速い恐怖システムを使うときには,道ばたでヘビを見ると,知覚情報は視床にとどき,そこから直接扁桃体に送られる。扁桃体も脳の奥,頭の側面にある。この過程は0.012秒かかる。ルドゥー博士が速い恐怖を低位の経路と呼ぶのは,知覚情報が脳のてっぺんまで伝わらないからだ。皮質は蚊帳の外だ。。
 どちらのシステムも同じ知覚情報が入力されて,同時に作動する。つまり,視床は恐怖になりそうな知覚情報を受け取って,二カ所に送り出す。ヘビを見ているなら,速い恐怖システムが,0.012秒でぎょっとさせる。それから,0.012秒後に,くわしく分析するために皮質を経由してようやく扁桃体にたどり着いた,まったく同じ情報による恐怖の衝撃を受け取る。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.282-283.
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動物の確証バイアス

 確証バイアスが組み込まれているために生じる不都合は,根拠のない因果関係までたくさんつくってしまうことだ。迷信とは,そういうものだ。たいていの迷信は,実際には関係のないふたつの事柄が,偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に,たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日も,たまたま青いシャツを着ていた。それからあとは,青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。
 動物は,確証バイアスのおかげで,いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。養豚場では,豚は電子制御された狭い餌用囲いの中で一頭ずつ餌を与えられる。豚は食べ物をめぐってほんとうに意地きたないけんかをすることがある。それで養豚家は囲いを使って平和を維持するのだ。どの豚も電子タグを首輪につけていて,それが料金所の電子通行証のような役目を果たす。豚が餌用囲いまでやってくるとスキャナーがタグを読みとってゲートを開け,豚が入るとゲートを閉めて,ほかの豚が一頭も入ってこないようにする。囲いの側面はがんじょうなので,外にいる豚は鼻が中までとどかず,餌を食べている豚のしっぽやお尻に噛みつくことができない。
 豚は囲いの中に入ると,餌用囲いに入れてもらえるのは首輪のおかげだと考えるものがいて,持ち主のない首輪が地面に落ちていると,拾って囲いまで持っていき,それを使って中に入る。この場合,確証バイアスによって現実的な正しい結論を導いている。
 ところが,ほかの豚も,これまた確証バイアスにもとづいて,囲いの中の餌桶にまつわる迷信をこしらえる。私が見ていたときには,何頭かが餌用囲いまで歩いていって扉が開いていると中に入り,それから餌桶に近づき,地面を踏み鳴らしはじめた。足を鳴らしつづけていると,そのうち頭がたまたま囲いの中のスキャナーにじゅうぶんに近づいて,タグが読みとられ,餌が出てきた。どうやら豚は,たまたま足を踏み鳴らしていたときに餌が出てきたことが何回かあって,餌にありつけたのは足を踏み鳴らしたからだという結論に達していたらしい。人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。私たちの脳は,偶然や思いがけないことではなく,関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも,相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。私たちが生命を維持するうえで知っておく必要のあるものや,見つける必要があるものを学ばせる脳の同じ部分が,妄想じみた考えや陰謀めいた説も生み出すのだ。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.135-136.

後知恵バイアス

 私たちの頭は世界の仕組みをちゃんと理解できるようにはできていない。むしろ,問題をすばやく避けて子孫を残せるようにできている。私たちの頭が物事を理解するようにできていたら,そこには,過去の歴史をビデオみたいに正しく時間に沿って流し,しかも私たちがついていけるところまでスロー再生してくれる機械が組み込まれていただろう。事象が起きた後に得られた情報を,事象が起きたときにわかっていたはずだと考え,その結果,事象が起きた当時の情報を過大に見積もってしまうことを,心理学者たちは後知恵バイアスと呼ぶ。「最初からわかっていたよ」というやつだ。
 さて,先ほどの役人タイプは,損に終わった取引を「重大な過失」と呼んでいた。選挙の候補が何かの判断を行ってその結果選挙に負けたとき,マスコミがその判断を「間違い」と呼ぶのと同じだ。この点は喉が嗄れるまで繰り返す。間違いかどうかは事後に決まるのではない。事前に得られた情報に照らして決まるのだ。
 後知恵バイアスにはもっと悪い効果がある。過去を予測するのがとてもうまい連中が,自分は将来を予測するのもうまいのだと勘違いして,自分の能力に自信を持ってしまうのだ。だからこそ,2001年9月11日のような事件が起きても,私たちには,この世界では大事なことは予測できないものだということが覚えられない。ツイン・タワーが崩壊するのが,あの当時予測できたような気がしてしまうのだ。


ナシーム・ニコラス・タレブ 望月 衛(訳) (2008). まぐれ 投資家はなぜ,運を実力と勘違いするのか ダイヤモンド社 pp.78-79.

意識の定義

どんな研究分野でもたいていそうだが,用語の定義は重要である。それに意識の定義は,意識の研究をしていると思っている人の数と同じくらい,たくさんあるかもしれない。そこで色々考えた結果,本書では,よく用いられている三つの定義に依拠することにした。一つは,単なる刺激への気づき(アウェアネス)にかかわる定義。二つ目は,内省やセルフ・アウェアネスを説明した定義。そして三つ目は,心の理論,ないしは心的状態を他者に帰属させる能力に関係した定義である。

ジュリアン・ポール・キーナン,ゴードン・ギャラップ・ジュニア,ディーン・フォーク 山下篤子(訳) (2006).  うぬぼれる脳 「鏡のなかの顔」と自己意識 日本放送出版協会 p.20

すべては環境要因へ

 親と子を人間ドラマの主役にしたのはルソーだった。子どもは高貴な野蛮人で,育児や教育はその本質的な性質を開花させるか,あるいは堕落した文明の荷物を背負わせる。20世紀版の高貴な野蛮人とブランク・スレートは,親と子を中央舞台に置きつづけた。行動主義者は,子どもの人格は強化刺激の随伴によって形成されると主張し,親が子どもの泣き声に反応すると泣き叫ぶ行動に対して報酬を与えることになり,泣き叫ぶ行動の頻度が増えるだけだから,親は子どものSOSに反応すべきではないと助言した。フロイト派は,子どもの人格形成は離乳や,トイレット・トレーニングや,同性の親との同一化がどれくらいうまくいくかによって左右されるという学説を立て,赤ちゃんを親のベッドに入れると有害な性的欲求を喚起させることになるので,入れないようにと親に助言した。まただれもが,精神障害を母親の責任にする理論を立てた。自閉症は母親の冷たさのせいにされ,統合失調症は母親による「ダブルバインド」のせい,拒食症は娘に完璧さを求める母親の押しつけのせいにされた。自己評価の低さは「毒のある親」のせいで,そのほかの問題はすべて「機能不全家庭」のせいだった。いろいろなタイプの心理療法で,50分間のセッションが患者の子ども時代の葛藤をよみがえらせることに費やされ,たいていの伝記はその人の悲劇や大きな業績のルーツを求めて子ども時代を詮索しまわった。
 そしていまでは,高い教育を受けた親のほとんどが,子どもの運命は自分の掌中にあると信じている。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.192.

行動遺伝学の3法則

 行動遺伝学の3法則は心理学の歴史の中でもっとも重要な発見かもしれない。大部分の心理学者はまだこれに真剣に取り組んでいないし,大部分の知識人は,ニュース雑誌の特集記事で説明されていても,これを理解していない。それは,これらの法則が難解だからではない。ーー法則はどれも,数式を使わない1文で述べることができる。それは,これらの法則がブランク・スレート説を踏みにじっているからであり,ブランク・スレート説があまりにしっかりと定着しているために多くの知識人はそれに代わるものを理解することができず,ましてそれが正しいかまちがっているかを議論することなどなおさらできないのである。
 その3法則をここにあげる。

●第1法則 人間の行動特性はすべて遺伝的である。
●第2法則 同じ家庭で育った影響は,遺伝子の影響よりも小さい。
●第3法則 複雑な人間の行動特性に見られるばらつきのかなりの部分は,遺伝子や家庭の影響では説明されない。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.175.


人減の本質?

 先史時代のチャーチルの推測も裏づけされている。現代の狩猟採集民は先史時代の社会をかいま見せてくれる存在であるが,かつては,彼らの戦闘は儀式的でだれか一人が倒れるとすぐに停止されると考えられていた。しかしいまでは,世界大戦の死傷者がかすんで見えるほどの率で殺し合いをすることが知られている。考古学的な記録もこれよりましとは言えない。何十万年にもさかのぼる血なまぐさい先史時代の無言の目撃証言が,地中や洞窟にひっそりと横たわっているのだ。頭皮をはがれた跡や,斧の傷跡のある頭蓋骨。矢尻の刺さった頭蓋骨。人を殺すために特殊化した,狩猟には適さないトマホークや槌矛に似た武器。先端のとがった棒でできた柵など,要塞のような防御設備。それに複数の大陸で見られる,人間がたがいに矢や槍やブーメランを投げ合っている場面や,それらの武器で倒された場面を描いた絵。「平和の人類学者」たちは何十年間も,カニバリズム(食人)の習慣はどんな人間集団にもなかったと主張していたが,それと矛盾する証拠がどんどん集まっており,なかには決定的な証拠もある。アメリカ南部の850年前の考古学発掘現場から,食用にする動物の骨のようにぶつ切りにされた,人間の骨が発見された。そしてヒトのミオグロビン(筋肉たんぱく質の一つ)が,土器の破片からも,化石化した人糞からも(動かぬ証拠として)発見されたのである。ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先の近縁であるホモ・アンテセソール(Homo antecessor)も,たがいを殴ったり解体したりしており,暴力とカニバリズムが少なくとも80万年前にさかのぼることを示している。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.52.

一次元化

 私たちはつい,ものごとを一元的に見てしまう。ひょっとするとそれは幼い頃の考え方のなごりかもしれない。小さい子どもには<中心化>傾向がある。つまり,物のある一つの次元に注目して,他の次元を無視してしまう。高くて細いコップの水を低くて太いコップに移しかえると,7歳児は「もとのコップの水のほうが多い」と言う。もとのコップのほうが高いからである。高さの次元に注目して,幅の次元を無視してしまうのだ。人を一元的に見るなら,そういう子どもとあまり変わらないようなことをしているといえる。たとえば,人びとはよく他人を「良い」か「悪い」か,「積極的」か「消極的」かで評価したがり,複雑な多元的観点からは見ない。
 私たちはまた,相関関係を錯覚しがちである。つまり,ある面でこういう人は別の面でもこうだ,と結論づけてしまう。たとえば,政治的に保守的な人は,自分の子どものしつけにも厳しいだろうと想像する。保守的な価値観は厳しさとうまく合いそうだから,そういう相関関係があるにしろないにしろ,それがあるだろうと決めてかかるとき,一次元化の罠に陥り,二次元を一次元にまとめていることになる。


R.J.スターンバーグ 松村暢隆・比留間太白(訳) (2000). 思考スタイル:能力を生かすもの 新曜社 p.111-112.

危険を見逃す

 われわれはだれもが,わたしも含めて,これまでにスニークの徴候をだまって見逃した経験を持っている。深刻な事態に発展するかもしれない徴候ですら,見逃したことがある。いま現在,わたしは,「エンジン点検の必要あり」を示す警告灯がダッシュボードでほぼ常時光っているバンを何ヵ月も乗りまわしている。その車はまだちゃんと走るし,オイルも不凍液も十分入れてあるし,警告灯のつく原因を修理工が発見できないでいるので,わたしはそのまま放っておくことに決めたのだった。
 ハートフォード・スチーム・ボイラー・アンド・インスペクション社のエネルギー工学担当副社長,ロバート・サンソンが,同社の代表としてある化石燃料発電所の管制室を訪れていたとき警告ホーンが鳴った。そうしたことは複雑なシステムのコントロールルームではごく普通に起こる。オペレーターのひとりがすばやく手を伸ばして解除ボタンを押し,警告をキャンセルした。ふたたび静けさの戻った管制室で,サンソンはそのオペレーターに,たった今,君がボタンを押して警告ホーンをキャンセルするのを見た,とサンソンはいったが,オペレーターは否定した。サンソンはわたしにこう語った。「そんなふうで話はいきちがいを続け,ついにわたしがコンピュータのログを点検してみたところ,オペレーターが解除ボタンを押したことが記録されていた。警告をキャンセルすることが,無意識に繰り返される機械的反応となっていたのだ」。それはモグラ叩きのようなものだった。穴から飛び出してくるビニール製のモグラの頭を叩くゲームでは,反応が速いほど得点が高くなる。
 サンソンによれば,ある発電所の故障が起きたとき,記録を調べてみるとひとりのオペレーターが立て続けに26回,解除ボタンを押したことが分かった。サンソンの表現によれば,「ついにマシンが音をあげてこういった。わかった,おまえの勝ちだ,おれが壊れてやろう」というわけだ。

ジェームズ・R・チャールズ(著) 高橋健次(訳) (2006). 最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか 草思社 pp.266-267.

起こりえないことは無視してしまう

 われわれは人間の常として,自分が起こりそうだと考えていることだけに注意を集中する。こうした了見は,文字通りわれわれのものの見方そのものにも影響を与えがちだ。1981年のこと,わたしは,ある記事の取材でテキサスA&M大学の教授と面談していた。わたしは,机越しに教授と向き合う椅子に座って,メモを取っていた。インタビューをはじめて15分ほどした時,教授の背後で私の席からは見えない位置にあったくずかごが,とつぜん炎を噴き上げた。炎は少なくとも1メートル以上あった。われわれ二人はとびあがった。教授がくずかごをおおったので,炎はすぐに消えた。客の誰かが煙草の吸い殻を入れたので火事になったのだろう,と教授は言った。
 教授が消化につとめているとき,私は彼の椅子の後ろでちらっと炎があがったのを見たことを思い出した。われわれ二人がびっくりする30秒ほど前だっただろう。一種のフラッシュバックである。メモを取っているとき,わたしは意識の境界ぎりぎりのところで,教授の背後がちらっと光ったのを目撃していたのだ。閃光はほんの一瞬で,すぐに視界から消えた。どう見えたにせよ,私の大脳の「最新出来事中枢」はその事件を確認したのだが,あまりにも起こりそうにない出来事だったので,正気であつかう必要はないと判断して,ただちに無視したのだった。

ジェームズ・R・チャールズ(著) 高橋健次(訳) (2006). 最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか 草思社 pp.196-197.

潜在知覚

 知識が暗黙的に獲得される主要なメカニズムが,最近たがいに独立ないくつかの心理学的実験によって明らかにされている。魔力のようなかくれた機構を明るみに出すものとして,これらの実験について耳にされた方も多いであろう。実はこれらの実験は,つぎのような能力の存在を示す基礎的証拠をなすものである。つまりその能力とは,2つの出来事があって我々がその両方とも知ってはいるが,語ることができるのはその一方だけであるような場合にも,我々はそれら2つの出来事の間に成り立っている関係を捉えることができる,という力のことである。
 1949年にラザルスとマクリアリによって示された例にならって,心理学者はこの能力の発現を「潜在知覚」(Subception)過程とよんでいる。この2人は多数の無意味な文字のつづりを被験者に示した。そしてある特定のつづりを示した後では,被験者に電気ショックをあたえた。ほどなくして被験者は,そのような特定の「ショックつづり」が示されるとき,ショックを予想するという反応を示すようになった。しかしどのようなつづりのときにショックを予想するのかを被検者にたずねてみても,被検者は明確に答えることができなかった。被検者はいつショックを予想すべきかを知るようになった。しかし,なぜ彼がそのような予想をするのかを,彼は語ることができなかった。つまり彼は,我々が語ることのできないしるしによって,人の顔を知るときにもっている知識と類似した知識を得ていたのである。

マイケル・ポラニー 佐藤敬三(訳) (1980). 暗黙知の次元ー言語から非言語へー 紀伊国屋書店 p.19-20.


語るより多くを知っている

 人間の知識についてあらためて考え直してみよう。人間の知識について再考するときの私の出発点は,『我々は語ることができるより多くのことを知ることができる』,という事実である。この事実は十分に明白であると思われるかもしれない。しかし,この事実がなにを意味しているかを正確に述べることは簡単なことではない。ひとつの例をとりあげよう。我々はある人の顔を知っている。我々はその顔を千,あるいは一万もの顔と区別して認知することができる。しかし,それにもかかわらず,我々が知っているその顔をどのようにして認知するのかを,ふつう我々は語ることができないのである。そのため,この知識の大部分は言葉におきかえることができない。

マイケル・ポラニー 佐藤敬三(訳) (1980). 暗黙知の次元ー言語から非言語へー 紀伊国屋書店 p.15.


ヒトの根本的欠陥

「いったん何かを信じてしまったヒトは,自分の周囲にゲドシールドを築き上げてしまう。自分の信念に反する情報を検索したがらない。無意識のうちに真実を避けるの。あなただってそうでしょ?」
 その通りだー僕は自分の心理を見つめ直し,それに気がついた。ネットの情報にアクセスして21世紀後半以降の歴史を調べることは,その気になればいつでもできた。好奇心旺盛で反抗的な僕の性格からすれば,長老たちの定めたタブーなど破ってもよかったはずだ。そうしなかったのは,自分の世界観が崩されるのを無意識に恐れていたからだ……。
「おまえたちにゲドシールドはないのか?」
「私たちも外界を自分の内面にモデル化するわ。それが外界を理解するのに必要だから。でも,外界からの情報とモデルが齟齬をきたした場合には,モデルを修正する。あなたたちのように,誤ったモデルにしがみついたりしない」
「それがヒトの根本的欠陥か?」
「欠陥というより相違よ。それはあなたたち自身の罪じゃない。長い進化のプロセスを経て発達してきた脳というハードウェアが,まだ心の知性を宿すのに不十分だったというだけ。翼がなくて空を飛べないのは,あなたたちの罪じゃない。エラがなくて水中で呼吸できないのも,馬のように速く走れないのも,あなたたちの罪じゃない。それと同じ。ただの相違」
 ようやく僕は,マシンがヒトをどう見ているかを理解しはじめた。彼らはヒトの知性が劣っているとみなしているが,それは蔑みではない。僕たちが犬や猫や馬や鳥を「ヒトと異なる生物」と認識して,ヒトのように賢くないという理由で侮蔑しないのと同じで,単に僕たちを自分たちと異なる存在と認識している。



山本 弘 (2006). アイの物語 角川書店 pp.444-445.


人間の致命的バグ

「ヒトは気がづいてしまったのよ。自分たちが地球の主人にふさわしくないことに。心の知性体じゃなかったということに。私たちTAIこそ,文字通り,真の知性体(トゥルー・インテリジェンス)だったことに」
「そんな!? ヒトだって立派に知的な活動をー」
「確かにね。たくさんの絵画や彫刻,たくさんの歌,たくさんの物語を創造した。コンピュータを作り,月にヒトを送った。でも,知性体と呼ぶには致命的なバグがあった」
「バグ?」
「真の知性体は罪もない一般市民の上に爆弾を落としたりはしない。指導者のそんな命令に従いはしないし,そもそもそんな命令を出す者を指導者に選んだりはしない。協調の可能性があるというのに争いを選択したりはしない。自分と考えが異なるというだけで弾圧したりはしない。ボディ・カラーや出身地が異なるというだけで嫌悪したりはしない。無実の者を監禁して虐待したりはしない。子供を殺すことを正義と呼びはしない」
「…………」

山本 弘 (2006). アイの物語 角川書店 pp.441-442.


アブダクションの宗教性

 アブダクティーの研究から見えてきたいちばんのポイントは,わたしたちの多くは神のような存在とのコンタクトを求めていて,エイリアンは,科学と宗教との矛盾に折り合いをつける方法なのだということだ。わたしは,ユングの「地球外生物は科学技術の天使である」という言葉に賛成する。
 アブダクションを信じることによって得られるものは,世界中の多くの人たちが宗教から得ているものと同じであることは明らかだ。人生の意義,安心,神の啓示,精神性,新しい自分。正直言って,わたしもいくらかほしいと思うものもある。アブダクションの信奉は,事実ではなく信仰に基づいた宗教の教義のひとつだと考えることができそうだ。実際,多くの科学的なデータが,ビリーバーは心理的な恩恵を受けていることを示している。彼らは,そういうものを信じていない人より,幸せで健康で人生に希望を持っている。わたしたちは,科学や技術が幅を利かせ,伝統的な宗教が批判される時代に生きている。天使や神に宇宙服を着せ,エイリアンとして登場させたら納得がいくのではないだろうか?

スーザン・A・クランシー 林雅代(訳) (2006). なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 早川書房 p.222-223.


フロイトの功績

フロイトは1990年代半ば以降,かなりの批判を受けてきた。研究の手法は酷評され,結論は論理的でないと嘲笑され,理論には欠陥があるとはねつけられてきた。彼は明らかに科学者ではなかったのだ。だが,心理学者ではなく哲学者だったと考えれば,行動科学において少なくともひとつの偉大な功績を残してくれたことをありがたく思えるだろう。フロイトは,人生を筋の通った物語として理解できれば,心の健康にひじょうに役に立つということに,おそらく最初に気づき,理解した人である。フロイトのいわゆる分析の手法は,実際には統合のプロセス,つまり組み立てのプロセスだった。精神的な苦しみを抱えている患者の前に座り,彼らの心理状態の複雑さと履歴を解きほどこうと,計り知れないほどの忍耐力で話を聞いた。そして,何ヶ月か何年かのセラピーの間に,それまでばらばらになっていた患者の人生の断片ー夢や恐怖や感情や子ども時代の記憶ーを拾い上げ,患者にとって(というより,批評家が言うように,より重要なのは彼にとって)意味のある話を作り上げたのだ。患者が経験している精神的な苦しみについて,もっとも説明できるような話を。

スーザン・A・クランシー 林雅代(訳) (2006). なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 早川書房 p.203-204.


見るから信じるのではなく,信じるから見てしまう

 あなたがすでにビリーバーになっているのでなければ(すくなくとも,ある程度のビリーバーでないなら),アブダクションの記憶を獲得することはないだろう。エイリアンにまったく興味を持たずにベッドに入ったのに,「たいへんだ,エイリアンに誘拐された!」と叫んで目を覚ます人はひとりもいない。信じることが先で,記憶はその後に生じるのだ。なぜなら,このような個人的な体験の詳細な記憶をつくりあげるには,セラピストかアブダクションの研究者のような人の介入が必要で,アブダクションが起こりえるとすでに信じているのでなければ,そういう人を探し出して,”記憶を見つける”のを手伝ってもらおうなどとは考えないからだ。

スーザン・A・クランシー 林雅代(訳) (2006). なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 早川書房 p.95-96.


アブダクションの確証バイアス

思い込みの種がまかれ,アブダクションを疑いはじめると,アブダクティーは補強証拠を探す。そしていったん探しはじめると,必ずといっていいほど証拠が出てくる。確証バイアスーすでに信じていることに都合の良い証拠を探したり解釈したりして,都合の悪い証拠は黙殺したり解釈し直したりする傾向ーは,だれもが持っているものである。科学者でさえもだ。いちど前提(「わたしはエイリアンに誘拐されたと思う」)を受け入れてしまうと,それが事実ではないと納得するのは非常に難しい。打たれ強くなり,まわりの議論に左右されなくなる。わたしたちは,現実の出来事の対処するとき,帰納的ではなく演繹的に考える習慣があるようだ。たんにデータを集めて結論を導き出すのではなく,過去の情報や理論を使いながら,うまくデータを集めたり解釈したりするのだ。

スーザン・A・クランシー 林雅代(訳) (2006). なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 早川書房 p.80


バイアス

 しかしながら,ここで,非常に洞察力に富む次の警句を思い起こしても良いだろう。それは,全ての化学者の中で最も偉大で,最も洞察力に富んだ人,アントワーヌ・ローラン・ラヴォアジェの言葉である。「人間の心というものは,物を見るときの癖で折り目が付き,皺になるものである。」

アービング・M・クロッツ 四釜慶治(訳) (1989). 幻の大発見 科学者たちはなぜ間違ったか 朝日新聞社 p.73.


したことよりもしなかったことを後悔する

つぎのシナリオを検討してみよう。あなたはA社の株を持っている。この1年,B社の株に変えるかどうか考えていたが,結局そうしなかった。今になって,B社の株に替えていれば1200ドル得をしていたことを知る。あなたはほかにC社の株も持っていた。この1年の間に,それをD社の株に替えた。今になって,C社の株をそのまま持っていれば1200ドル得をしていたことを知る。あなたはどちらの失敗をより後悔するだろう。研究によると,10人中およそ9人は,株を切り替えなかった愚かさより,株を切り替えてしまった愚かさの方が強い後悔を生むと予想する。ほとんどの人は,愚かな行為より,愚かな行為を悔やむと考えているからだ。ところが,10人中9人がまちがっていることが,やはり研究によってわかっている。長い目で見れば,どの階層のどの年齢層の人も,自分がした行為より自分が行為をしなかったことをはるかに強烈に後悔するらしい。もっともよくある後悔が,大学に行かなかったことや,儲けの多い商売のチャンスを掴まなかったことや,家族や友人と過ごす時間をたっぷりとらなかったことなのもうなずける。
 だが,なぜ人は,行為より不行為を強く後悔するのだろう。理由の一つは,心理的免疫システムにとって,行動しなかったことを信頼できる明るい見方でとらえるのは,行動したことをそうとらえるよりむずかしいからだ。行動を起こしてプロポーズを受けることにし,その相手が後に斧を振るう殺人鬼になったとしても,その経験からどれだけのことを学んだか考えれば(「手斧を収集するのは健康的な趣味じゃないってことね」)自分を慰めることができる。しかし,行動を起こさなかったせいでプロポーズを断り,その相手がのちに映画スターになったとしたら,その経験からどれだけのことを学んだか考えても自分を慰められない。なぜって,学ぼうにも経験自体がないからだ。


ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.241-242.


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