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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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利口なハンス

 退職教員だったヴィルヘルム・フォン・オステンは,1891年,自分の種馬(「利口なハンス」と呼んでいた)が時事問題や数学などさまざまな質問に,前脚で地面をたたいて答えられると言い出した。たとえば,オステンが3+5はなんだときくと,利口なハンスはご主人が質問し終えるまで待ってから,地面を8回叩いて動きを止める。ときには,口頭で聞くかわりに厚紙に質問を書いてそれを読ませた。利口なハンスは,話し言葉を理解できるのと同じように書き言葉も全て理解しているようだった。もちろん,すべての質問に正解するわけではなかったが,ひづめのある動物としては抜きんでいていた。利口なハンスの講演は鮮烈で,たちまちベルリンの人気者になった。
 1904年にベルリン心理学研究所の所長が学生のオスカル・プングストを派遣して,この件をじっくり調べさせた。プングストは,オステンが利口なハンスの目の前ではなく背後にいるときや,オステンが答えを知らない質問のときは誤答が多いことに気づいた。ひととおり実験した結果,利口なプングストは,利口なハンスがたしかに読めることを証明した。ただし,馬が読んでいたのはオステンの身体言語だった。オステンがわずかに体をかがめると利口なハンスは地面を叩き始め,オステンが体を起こしたり,少し首を傾けたり,かすかに眉をあげたりすると叩くのを止める。つまり,オステンが利口なハンスにちょうどいいタイミングで叩き始めと叩き終わりを合図していたために,馬鹿にならない錯覚が生まれたわけだ。
 利口なハンスは天才ではなかったが,オステンも詐欺師だったわけではない。それどころか,オステンは何年にもわたって自分の馬に辛抱強く数学や世界情勢のことを話してやっていたほどで,自分が,他人ばかりでなく自分自身をも欺いていたと知って純粋にショックを受け落胆した。このごまかしは巧妙かつ効果的だったが,無意識におこなわれていた。この点,オステンだけが特別なわけではない。われわれは,好ましい事実を選んで身をさらし,好ましい事実の存在に気づき,それを記憶し,そこに低めの証明基準を当てはめるが,オステンがそうだったように,自分がこんなふうにごまかしていることは自覚していない。

ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.232-234.


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ないことに気づかない

 ある研究では,志願者に3文字の文字列(SXY,GTR,BCG,EVXなど,アルファベット3文字を組み合わせた文字列)のセットを見せて推論ゲームをさせた。研究者は,1セットに含まれる複数の文字列1つを指して,志願者にこの文字列だけ特別だと告げる。志願者に課せられるのは,なぜその文字列が特別なのかを突き止めることだ。つまり,特別な文字列のどの特徴が,他の文字列とちがっているのかを見極めなくてはならない。志願者に文字列のセットを次々見せながら,研究者が特別な文字列を1つずつ指していった。志願者は何ゼット見たところで,特別な文字列の特徴を推論できただろう。半数の志願者が見たセットでは,Tのある文字列が特別な文字列で,各セットに1つだけ含まれていた。この志願者たちは,およそ34セット見たところで,特別な文字列の特徴はTがあることだと突き止めた。あとの半数の志願者が見たセットでは,特別な文字列を特徴づける点は,セットの中でその文字列にだけTが含まれていないことだった。驚くべき結果が出た。文字列のセットをいくら見せられても,だれひとりこの特徴を見極めることができなかったのだ。文字があることに気づくのは簡単でも,犬の遠吠えの例と同じく,文字がないことに気づくのは不可能だったわけだ。

ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.136-137.


*eel

もっとすごい研究がある,「eel(ウナギ)」という単語の前に咳(*で表すことにする)を録音した音を使ったものだ。志願者は,「The *eel was on the orange(オレンジに*eelがついていた)」という文では「*eel」を「peel(皮)」と聞き取り,「The *eel was on the shoe(靴に*eelがついていた)」という文では「*eel」を「heel(かかと)」と聞き取った。英語の場合,2つの文の違いは最後の単語だけであり,文末まで待たないと「*eel」に欠けている情報を補えないことを考えると,なんとも鮮烈な結果だ。しかし,脳はこれをやってのけた。しかも,なんの苦もなく瞬時にやったため,志願者の耳には欠けている情報が正しい位置で発音されるのがたしかに聞こえた。


ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.116-117.


記憶の穴埋め

 出来事のあとで得た情報が出来事の記憶を改変することは,さまざまな実験や実地の環境で何度も繰り返し再現され,ほとんどの科学者はつぎの2点を信じるようになっている。1.記憶行為には,保存されなかった細部の「穴埋め」が必要である。2.穴埋めは苦もなく瞬時におこなわれるため,われわれはたいてい,その穴埋め作業に気づかない。穴埋め現象はとても強力で,だまされるものかと思っていても阻止できない。


ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.113


運を鍛えよ

運を鍛える4つの法則と12のポイント

法則1 チャンスを最大限に広げる
 運のいい人は,偶然のチャンスを作り出し,チャンスの存在に気付き,チャンスに基づいて行動する。
ポイント
1.運のいい人は,「運のネットワーク」を築き,それを広げている。
2.運のいい人は,肩の力を抜いて生きている。
3.運のいい人は,新しい経験を喜んで受け入れる。

法則2 虫の知らせを聞き逃さない
 運のいい人は,直感と本能を信じて正しい決断をする。
ポイント
1.運のいい人は,直感と本能に耳を傾ける。
2.運のいい人は,直感を高める方法を知っている。

法則3 幸運を期待する
 運のいい人は,将来に対する期待が夢や目標の実現を促す。
ポイント
1.運のいい人は,幸運が将来も続くだろうと期待している。
2.運のいい人は,たとえ可能性がわずかでも目標を達成するために努力して,失敗してもあきらめない。
3.運のいい人は,対人関係がうまくいくと思っている。

法則4 不運を幸運に変える
 運のいい人は,不運を幸運に変えることができる。
ポイント
1.運のいい人は,不運のプラス面を見ている。
2.運のいい人は,不運な出来事も,長い目で見れば最高の結果になると信じている。
3.運のいい人は,不運にこだわらない。
4.運のいい人は,積極的に行動して将来の不運を避ける。

リチャード・ワイズマン 矢羽野薫 (2004). 運のいい人,悪い人-運を鍛える四つの法則 角川書店 p.212-213

メスカリン服用時の様子

 脳にはその働きを促進するいくつかの酵素体系が与えられている。これらの酵素のうちの幾つかは脳細胞へのグルコース供給の調整を司っている。メスカリンはこれらの酵素の生産を抑制し,それによって糖分をコンスタントに必要とする器官が使えるグルコース量を減らしてしまう。メスカリンが糖分の正常な定量を減らすとどんなことになるか。いままでの観察事例があまりに少ないので十全の答は出せない。しかし観察者の下でメスカリンを服用したことのある少数の人々の場合,そのほとんどに以下に要約できるようなことが生じている。

①ー記憶力や「まともな思考」力は減少することがあってもごく僅かでしかない(薬の力が効いているときの私の会話記録を聞いてみると,普段の私より愚鈍になっているということはないようだ)。
②ー視覚印象が非常に強化され,感覚内容が即座にまた自動的に概念に服従させられるということのない幼年時代の知覚の清純さを目がいくらかでも取り戻す。空間への関心は減り,時間への関心はほとんど零になる。
③知能は損なわれることなく感覚知覚が巨大に改善されるが,意思力の劣化は激しい。メスカリン服用者は特定のことをする気になれず,普段ならそのために行動を起こし,また苦しみも耐えるのにやぶさかではない事柄に対しても,まったく興味を抱かない。そういう事柄に心を煩わすことができないのである,他に考えるべきもっといいことがあるのだというもっともな理由で。
④ーそのもっといいことは(私の経験によると)「外側で」あるいは「内側で」あるいは両方の世界で,つまり内面世界と外在世界で同時にあるいは継続的に経験されうることなのである。健全な肝臓と平等な心の所有者でメスカリンを服用することになった人たちの場合は,誰にとってもこれらのことが現実にもっといいことであるのは自明に思える。

オルダス・ハクスリー 1995 知覚の扉 平凡社 p.28-29.

ベルクソンの示唆

 このときの体験を考察してみると,著名なケンブリッジ大学の哲学者C・D・ブロード博士の意見に賛同することになるようだー「ベルクソンが記憶と感覚知覚に関して提唱したような理論をわれわれは今までの傾向を放れてもっと真剣に考慮した方がよいのではなかろうか。ベルクソンの示唆は脳や神経系それに感覚器官の機能は主として除去作用的であって生産作用的ではないということである。人間は誰でもまたどの瞬間においても自分のみに生じたことをすべて記憶することができるし,宇宙のすべてのところで生じることすべてを知覚することができる。脳および神経系の機能は,ほとんどが無益で無関係なこの巨大な量の知識のためにわれわれが押し潰され混乱を生まないように守ることであり,放っておくとわれわれが時々刻々に知覚したり記憶したりしてしまうものの大部分を閉め出し,僅かな量の,日常的に有効そうなものだけを特別に選び取って残しておくのである。」このような理論によると,われわれは誰もが潜在的には<遍在精神 Mind at Large>なのである。しかし,われわれが動物である以上は,われわれの仕事は何としてでも生き残ることである。生物としての生存を可能にするために,この<遍在精神>は脳および神経系という減量バルブを通さなければならない。このバルブを通って出てくるものはこの特定の惑星の表面にわれわれが生き残るのに役立つようなほんの一滴の意識なのである。

オルダス・ハクスリー (1995). 知覚の扉 平凡社 p.25-26.

意味が先行する

 私たちの経験する事柄は,意識される前に意味を獲得している。
 神経系の配線の具合だけが,こうした錯覚の原因ではない。文化的要因の占める比重もきわめて大きい。たとえば,西洋以外では,絵に遠近法を用いない文化が多い。したがって,錯覚には,絵をどう「読む」かという文化的慣習がしばしばかかわってくる。だからといって,そうした慣習が意識されやすくなるわけではない。生まれ育った背景から自分自身を切り離すのは難しい。絵を意識的に「見る」ことを始めるずっと前に,大量の情報が処分されているからだ。
 エチオピアのメ・エン族を対象に,画像知覚を調べた文化人類学の研究がある。絵を見る際に処分される情報の一例として,この研究を引いてみよう。学者たちはメ・エン族の人に絵を見せ,これは何かと尋ねた。「彼らは紙に触り,匂いをかいだ。紙を丸め,クシャクシャという音に耳を傾けた。それから,少しちぎって口に入れ,噛んで味わった」紙に描かれた図柄は彼らの興味を引かなかった。メ・エン族の人にとって,絵とは布に描かれたものだからだ。(もっとも,布に描かれた西洋画をメ・エン族に見せたところ,西洋人の基準からすれば読み取れて当然の情報が読み取れずに苦労していた。)
 文化人類学者コリン・ターンブルは,コンゴのピグミー族の研究を行った。ピグミーは一生を森の中で過ごすため,遠くにある物体の大きさを判断するという経験がない。ターンブルは一度,案内人のケンゲを森の外に連れ出した。「ケンゲは平原を見渡し,数マイル先のバッファローの群れに目を留めた。あれはなんという虫か,と訊くので,あれはバッファローだよ,と言って,君も知っているフォーレスト・バッファローの2倍はある,と答えた。ケンゲは大声で笑い,そんな馬鹿な話はよしてくれ,と言った。……車に乗り込み,バッファローが草を食んでいる場所に向かった。ケンゲはバッファローがだんだん大きくなるのをじっと見ていた。そして,どのピグミーにも劣らぬ勇敢な男性でありながら,席を移って私に身を寄せ,これは魔法だ,とつぶやいた。本物のバッファローとわかった時には,もはやおびえていなかったものの,どうしてあんなに小さく見えたのかを判じかねていた。最初は本当に小さかったのに突如大きくなったのか,それとも何かのまやかしなのかと,すっかり当惑していた」
 西洋人にしても,西洋画の理解に苦しむ時がある。それが芸術という隠れ蓑を着ているときはなおさらだ。
 パブロ・ピカソはあるとき,列車で同じコンパートメントに乗り合わせた乗客から,なぜ人を「ありのままに」描かないのか,と尋ねられた。ピカソがそれはどういう意味か,と問い返すと,男は札入れから妻の写真を撮り出して言った。「妻です」ピカソは答えた「ずいぶん小さくて平べったいんですね」

トール・ノーレットランダーシュ 柴田裕之(訳) (2002). ユーザーイリュージョン:意識という幻想 紀伊国屋書店 p.234-235

暗黙知

 マリリン・モンローはどんな顔をしているだろう。ためしに説明してみるといい。金髪。にっこり笑っている。ほくろがある。そのとおりだ。だが,もっと詳しく説明できるだろうか。たいていの人はそれ以上言えないが,写真を見せられれば,いや,たとえ写真の一部分でも見せられれば,すぐに彼女だとわかる。
 それでは,自分の家族の顔はどうだろう。上司は?同僚は?隣家の男の子は?知っている。もちろん知っているのだが,言葉で表すことはできない。顔のごく細かいところまで表現するのは不可能だ。たとえそういう細部のたった1つでも見れば,誰の顔か思い出すには十分であるにしても,だ。
 イギリスの哲学者マイケル・ポラニーは,1950年代にこの現象を<暗黙知>と表現した。私たちは,知っていることの大半を言葉で言い表すことができない。顔の例はポラニーが引き合いに出したもので,その見解をスウェーデンの哲学者イングヴァル・ヨハンソンがこうまとめている。「人は,たとえばある顔に注意を向ける時,同時に,その顔の細部からは注意をそらしている,とポラニーは言う。私たちは,暗黙知のあるものからは注意をそらす。知識がある時には,つねに何かしらに注意を向けているわけだが,もしそうなら,必然的に何かから注意をそらしていることにもなる,と言えるかもしれない。仮にも知識というものが存在するのであれば,暗黙知は不可欠である」

トール・ノーレットランダーシュ 柴田裕之(訳) 2002 ユーザーイリュージョン:意識という幻想 紀伊国屋書店 p.366-367.

意識の役割は情報の排除

 ハクスリーはメスカリンによる幻覚状態の間,自分のズボンの折り目や本棚にならぶ本の背などを目にするたびに,「これこそ,本来の物の見方だ」という言葉を繰り返した。その体験によって,本書で言う「情報を処分した結果としての意識」について,彼は次のような見解に達した。
 「自分の体験を振り返ると,高名なケンブリッジの哲学者C・D・ブロード博士と意見が一致する。すなわち,次のような意見だ。『記憶と感覚知覚に関しては,[フランスの哲学者アンリ・]ベルクソンが提起した種類の理論は,これまで軽視されがちだったが,もっとずっと真剣に考えるのが賢明だろう。そうした理論は,脳と神経系と感覚器官の機能が,おもに排除であって創出ではないことを示唆している。人は誰もが間断なく,自分に起こったことをすべて記憶し,宇宙のあらゆる場所で起こるあらゆることを知覚できる。脳と神経系の機能は,ほとんどが無用で的外れの大量の知識に圧倒され,混乱させられたりしないよう,私たちを守ることである。さもなければ,膨大な量の事柄をつねに知覚し,記憶しなくてはならなくなる。そのようなものの大部分を締め出し,実際に役に立ちそうな,ごく少量の特別な物だけを選りすぐって残すことで,脳と神経系は私たちを守っている』このような説によると,私たち1人1人は,潜在的に<普遍精神>である。だが,私たちが生き物である以上,何としても生き延びることが務めだ。生物的生存を可能にするため,<普遍精神>は脳と神経系の狭い減量バルブを通さなくてはならない。バルブの先から出てくるのは,ごくわずかな意識のしずくであり,その助けを借りて,私たちはほかならぬこの地球という惑星の表面で生き続けるのである」

トール・ノーレットランダーシュ 柴田裕之(訳) (2002). ユーザーイリュージョン:意識という幻想 紀伊国屋書店 p.359-360.

魂はどこにあるか

 魂がどこにあるかという論争は四千年前からあった。最初は「心臓か脳か」の議論ではなく,「心臓か肝臓か」だった。最初の心臓派は,古代エジプト人だった。彼らは「カー」が心臓にあると信じていた。カーとは,人間の精髄,つまり霊魂,知性,感情,愛情,気分,悪意など,テレビの主題歌をにぎわせるすべてのもの,人を線虫ではなく人間にするものだ。死体をミイラにするときも,心臓だけは体内に残された。人は来世でもカーを必要としたからだ。脳は明らかに不要だった。死体の脳は,先が鉤になったブロンズ針で掻き回され,鼻孔から掻き出され捨てられた(肝臓,胃,腸,肺は体内から取り出されたが,陶器の壺に入れて保存され,墓の中に置かれた。あとに残していくよりは積めるだけ積んだ方がよいと思われたのだろう。来世のための荷造りとなればなおさらだ。)
 バビロニア人は最初の肝臓派だった。肝臓を人間の感情と霊魂の源の臓器と見ていた。メソポタミア人は二股かけ,感情は肝臓に,知性は心臓にあると考えた。彼らはどうやら自由思想かだったらしく,魂は胃にあると考えていた(抜け目がない)。同じような自由思想家には,霊魂がクルミ大の脳の松果体にあると考えたデカルト,「眉の後ろ」にあると考えたアレクサンドリアの解剖学者ストラトンがいる。
 古代ギリシア人の台頭とともに,霊魂論争はおなじみの「心臓か脳か」の対決に発展し,肝臓は副次的な地位に落とされた。ピュタゴラスとアリストテレスは,心臓を魂の座,すなわち,生きて成長するのに必要な「生命力」の源と見たが,第二位の「理性」的な魂,または精神が,脳に存在すると信じていた。プラトンは心臓と脳がともに魂の場所であるという考えに賛成したが,第一位は脳にした。ヒポクラテスの場合は混乱していたらしい(あるいは,私が混乱しているのだろう)。彼はあるところでは,脳の破壊は発語や知性に影響すると記したが,ほかのところでは,脳を粘液分泌腺と捉え,霊魂を支配する「熱」と知性は,心臓にあると書いている。


メアリー・ローチ 殿村直子(訳) (2005). 死体はみんな生きている NHK出版 p.208-209

人の心のエネルギー

 「心のエネルギー」というものを,ときどき,車のガソリンのように考えてしまう人がいる。7月下旬にスタートする夏休み,まだ時間もたくさんあるうちから,少しずつ宿題をやっていけばいいのに,日がなくなって「まぎわ」までやらないんだから……と簡単に子どもを責め立てる人は,そういう誤りを犯している。人にとっての余裕の日数やエネルギーというのは,満タンになったガソリンとは違うのだ。人の心のエネルギーは,「現実」とかかわり合ってこそわいてくる。ちょうどギアが適切に「入る」ように,意識が「現実」にガチャッと「はまった」ときだけに,「やる気」はわいてくる。「まぎわ」というのは,その現実に「はまったとき」なのである。7月20日と8月20日とでは,「やらなければならない」という「現実の切迫感」が全然違う。切迫しない現実は,心のエネルギーに火をつけることができない。ガソリンなら,あればあるほど余裕があるかもしれないが,日数や時間などの余裕はたくさんある分だけあるというものではないし,残り少ないからこそその分だけしか達成できない,というものでもない。要するに,数値化には向かないものなのである。
 新しもの好きは,やりたくないことを「ロボット」任せにして,そうしてますます自分のなじみ深い環境をいとわしく思ってしまう。しかしそれは,要するに「ロボット」によって「現実」から遠ざけられているせいなのである。危機がやってきて,「ロボット」からいくぶんなりとも「現実」を奪い返し,ガチャッとギアを入れることさえできれば,自分が無能でも「グズ」でもないことを悟るのだ。エネルギーはあるのである。

佐々木正悟 (2005). 「ロボット」心理学 文芸社 p.111-113.

ネオフィリア

 ここで,ヘビやアリクイのことを思い出そう。ふつうの動物は「新しもの恐怖(ネオフォビック)」にさいなまれている。これは当然である。「新しいこと」は「危険」だからだ。一般の動物にとって最高の金言は,「君子危うきに近寄らず」だ。「新しもの好き(ネオフィリア)」とは,動物にしては変わり種なのだ。人間は,明らかにその中でも大変な変わり種だ。つまり,人間の心の中には,ものすごい「特殊な力」が働いていると考えるのが自然だろう。それが「新しいものはすばらしい!」という心理だ。これほどの力が働かなければ,おそらくヒトは,ほかの動物と同じように,「同じ家」「同じ友達」「同じ食べ物」「同じ恋人」でいつまでも満足至極で幸せであったはずだ。

 「新しいロボット」を作ることに挑戦することほど,社会が手放しに賞賛することも他にはない。新聞には,「ペン字」や「生け花」や「尺八」などの通信講座の広告が,一面全部を毎週占領する勢いがある。そこにはこんなふうに書いてある。「新しい趣味に挑戦」「老後を豊かに」。つまり,「豊かな人生」とは「新しいロボットを増やすこと」で得られる,となるらしい。社会にこのメッセージが通用するのだから,きわめて多くのヒトの中に,「ネオフィリック」はきっちりと植え付けられている。「新しいこと」は考える余地のないほど,明瞭に「望ましいこと」なのである。

佐々木正悟 (2005). 「ロボット」心理学 文芸社 p.45-47

エネルギーの節約

 「ロボット」は,生物にとって「重要」と思われる場合を除き,心のエネルギーを「節約する」方向へと働くのだ。その目的は自由の拡大ではあるが,ご当人が自由を活用しようとしていない場合,エネルギーがどこまでも下がっていくばかりなのである。いやなこと(危険)がなければ,という但し書きがつくけれど。
 「ロボット」を使いこなすのが得意な人ほど,一歩間違うと人生は「徐々に楽しみが失われる」ばかり,たまに「はっとする」のは「危険なことがあったとき」のみ,ということになりかねない。ひとことで要約するなら,人生とは退屈プラス危険。ゼロとマイナスだけで成り立っている。ずいぶんなものだと思うのももっともだ。鬱病になっても仕方がない。先進国の自殺率が高いのも,ムリもないとさえ思えてくる。



佐々木正悟 (2005). 「ロボット」心理学 文芸社 p.38-39.

チンパンジーの言語理解

 語彙,音韻,語形態,統語などをすべて棚上げにしたとしても,チンパンジーの手話を見てもっとも印象に残るのは,彼らがとにかく基本的なところで「わかっていない」ということである。手話をすれば訓練者が喜ぶことや,手話を通じてほしいものが手に入る場合が多いことは知っているが,言語とはなにか,どうやって使うものかということを一度も実感として理解していないのだ。訓練者と交互に会話をすることをせず,相手と同時に手を動かす。手話はからだの正面ですることになっているが,からだの脇やテーブルの下などで手を動かすことも多い(足で「手話」をするのも好きだが,足の指が自由に動くのを利用しても,それを非難するつもりはない)。自発的に手話をすることはめったにない。訓練者が手を添えたり,繰り返し教えたり,強制したりする必要がある。文の多く,とくに,統語ルールに則った順序に並んだ文は,訓練者が直前にやったことの真似だったり,何千回も練習した少数の決まり文句をちょっと変えたものだったりする。ある特定の手話動作が特定の種類の内容を意味する,ということすらよくわかっていないようだ。チンパンジーの手話単語の多くは,その単語が言及する対象物と関連する状況の,どんな側面をも意味しうる。「歯ブラシ」の手話動作は,「歯ブラシ」,「歯磨き」,「歯を磨いている」,「私の歯ブラシがほしい」,「もう寝る時間だ」のいずれも意味しうる。「ジュース」の手話動作も,「ジュース」,「ジュースがいつも置いてあるところ」,「ジュースのあるところに私を連れていって」のいずれの意味にもなる。

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.162-163.


オペラント条件づけサーカス

 チンパンジーはじつは,訓練者がやっていたと主張したことより,はるかに興味深いことをやっていた。プロジェクトを見学したジェーン・グッドールは,テラスとペティットに,ニムの手振りはすべて,自分が野生のチンパンジーを観察して見慣れているものと同じだ,と感想を述べた。真性のASLは,手の形,動き,位置,動きの方向を単位とする非連続要素の結合体系である。チンパンジーはASLの単語を覚えるより,自分にとってもっとも自然なジェスチャーに頼るほうを選んでいたのだった。人間が動物を訓練する時は,この種の後戻りがよくおきる。B.F.スキナーの弟子で企業家精神に富んだ2人,ケラーとマリアン・ブリランド夫妻は,ネズミやハトを餌で釣って特定の行動をさせるというスキナーの理論を,サーカスの動物の訓練に応用して,ビジネスを成功させた。2人がその間の経験を書いた有名な文章がある。題名は,スキナーの著書『生命体の行動』をもじって,「生命体の誤行動」。2人はいろいろな動物に,ジュークボックスや自動販売機の模型にポーカーチップを入れると餌がもらえる,という訓練をしたことがある。すると,同じ形の訓練をしていても,それぞれの種の本能が滲み出してくる。ヒヨコはチップをつつき,豚は鼻で弾いたり掘る仕草をし,アライグマはチップをこすって洗ったという。

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.160.

催眠=言葉によって生み出された現実への不合理な盲従

 そこで催眠時に特有のこのような行動を説明するものとして,「トランス論理」という重要な概念が唱えられている。単純に言うと,理屈で考えれば矛盾している馬鹿げた物事に対して,それを不思議とも思わずに反応することだ。ただし,「論理」とは言っても実際に何かの論理が働いているわけではない。といって,たんなるトランス現象の1つとして片づけることもできない。私としてはもう少し表現を膨らませて,「言葉によって生み出された現実への不合理な盲従」と呼びたい。なぜ不合理かといえば,実際とは異なる現実を正しいものとして突きつけられたとき,それに従うために論理の規則を脇へ追いやってしまうからだ(論理とは,私たちの外に存在する真実の基準であって,心の働きによって導かれる結論とは違うことを思い出してほしい)。

 ないはずの椅子にぶつかる(これが合理的な服従)のではなく,椅子をよけて歩きながらそれを少しもおかしいと思わないのは,不合理な盲従のなせる業だ。英語は分からないと英語で答えておいて,どこも変だと感じないのも同じだ。先ほどのドイツ生まれの被験者が,仮に催眠にかかったふりをしていたとしたら,きっと合理的な服従をして,かろうじて覚えているドイツ語だけで話をするか,黙り込むかしていただろう。


ジュリアン・ジェインズ 柴田裕之(訳) (2005). 神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡 紀伊国屋書店 p.473-474

催眠と幻視

 被験者の幻視が本物でないことは,別の実験からも確かめられる。被験者に,部屋の端から端まで歩いてほしいと頼む。途中に椅子を1つ置いておくが,被験者には椅子などないと告げておく。さて,どんな行動が見られるだろうか。被験者は,椅子が存在しないという幻を見るわけではない。たんに椅子をよけて歩いていく。このとき被験者は,傍目には椅子に気づいていないように見える。だが,気づいていないはずがない。現によけているのだから。おもしろいことに,正常な被験者に催眠術にかかったふりをしてもらって,同じ動作をさせると,被験者はまっすぐ椅子にぶつかっていく。催眠が本当に知覚を変えるという,誤った通説に従おうとした結果だ。


ジュリアン・ジェインズ 柴田裕之(訳) (2005). 神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡 紀伊国屋書店 p.472-473

催眠をめぐる誤解

 もう1つ,催眠に関してよくある誤解に,施術者は本物の幻覚を引き起こせるというものがある。
 だが,私自身が行った未発表の実験では,それを否定する結果が出た。まず,被験者を深い催眠に導いた後,ありもしない花瓶を手渡す仕草をする。そして,テーブルの上の,やはり架空の花を花瓶に1本ずつ生けながら花の色を言ってほしい,と頼む。被験者にとってこれは造作ない。役を演じることで対応できるからだ。ところが,ありもしない本を手渡し,それを両手に持って1ページ目を開き,中身を読んでほしいと頼んだ場合は話が全く違う。普通の人間は,どんなに想像力をたくましくしても,この課題を演技でこなせるものではない。被験者は,本を手に持つ動作はたやすくできても,いかにもありそうな冒頭の決まり文句や,場合によっては1文を,つかえながら口にする者もいるだろう。だがその後は,文字がかすれている,難しくて読めない,などといった言い訳を並べる。紙に描かれた(ありもしない)絵を見せて,何が描かれているか説明してほしい,頼んだ場合も同じだ。被験者はまったく何も説明できないか,何か言えたとしても,口ごもりながらごく短い言葉で答えるのがやっとだ。これが本物の幻視だったら,被験者は全体にくまなく目を走らせて,難なく細かい描写をしてみせるだろう。統合失調症の患者が自分の幻視を説明するときは,実際にそうする。


ジュリアン・ジェインズ 柴田裕之(訳) (2005). 神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡 紀伊国屋書店 p.472-473

催眠と疑いのなさ

ある男性はドイツに生まれ,8歳の頃,一家で英語圏の国に移住した。それから英語を覚えて,ドイツ語はほとんど忘れてしまった。施術者が男性を「深い」催眠に導き,あなたは今たったの6歳です,と告げると,男性は子どもを思わせるような,ありとあらゆる振る舞いをして,黒板に子どもじみた字を書いたりもした。だが,英語が分かるかと英語で尋ねられると,男性は,英語は分からないし話せない,分かるのはドイツ語だけなの,と子どものような「英語で」答えたのだ。さらには,英語は一言もわからないという文章を,わざわざ黒板に英語で書いてみせた。したがって,本当に退行しているのではなく,役を演じているのに近いと言えるだろう。被験者は,施術者の言葉と期待に何の疑いもなくやみくもに従っている。

ジュリアン・ジェインズ 柴田裕之(訳) (2005). 神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡 紀伊国屋書店 p.471-472

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