読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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高齢者は,金融資産選択においてあまりリスクをとらない。そう言われると当然だと思う人が多いだろう。若い頃なら,ある程度リスクのある資産を保有していても,長期間の資産保有を考えれば,資産価格の変動はならされる。ところが,資産の保有期間が短い高齢者がリスクの高い金融資産を保有すると,資産価格変動の影響を大きく受ける。そういう意味では,高齢化が進むと,人々の保有資産は安全資産に偏り,リスクのある投資に対する資金が供給されにくくなる可能性がある。金融資産の選択において,リスクをとる程度が高齢者ほど低くなることを示した研究がある。その研究によれば,高齢者が金融リスクをとらなくなるのは,年齢が高くなって余命が短くなることではなくて,記憶力や数的能力などの認知能力が衰えてくるためだという。
大竹文雄 (2017). 競争社会の歩き方 中央公論新社 pp. 111-112
子供は驚くほど洗練された道徳的判断をする。そこには大人の道徳本能ばかりか,複雑な法律制度まで反映されているのだ。三,四歳児は,同じ結果を生む二つの行為を識別するのに意図という概念を使う。つまり,誤って他人にぶつかり,跨線橋から転落させてしまう人と,意図的にそうする人を区別するのだ。法律や通常の道徳でも同じ区別がなされている。四,五歳児ともなると,はるかに複雑な区別を認識する。これもまた法的な区別と重なるもので,事実の錯誤と法律の錯誤を認識するのだ。路面電車の運転士は,人間ではなく木の葉の山だと勘違いして何かの塊を轢いてしまったのかもしれない。これは事実の錯誤であり,言い訳になる。この錯誤の発生に正当な理由があれば,こうした事情が運転士の法的責任を評価するうえで考慮されるのはまちがいない。だが運転士が,線路上の男をはっきりと認識していたのに,電車で人をぺしゃんこにしても許されると誤解していたというなら,それは法律の錯誤であり,まず言い訳にならない。
ミハイルの主張によれば,生まれながらに組みこまれた道徳は,言語の場合と同じくきわめて抽象的なレベルで機能している。われわれの規範は具体的内容(たとえば「義理の母を侮辱してはならない」)をもっていないから,言語と同じく道徳も地域によって違いがある。言語の普遍的法則は,文法的に正しい文には守護,動詞,目的語が含まれるということかもしれない。だが,その語順は言語によってさまざまだ。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.164-165
行動遺伝学の研究から導き出された重要な知見の1つは,個人の形質のほとんどは遺伝と非共有環境から成り立っていて,共有環境の影響はほとんど見られないということです。共有環境を作る主役は親でしょう。つまりどんな親かということが,子どもの個人差にはほとんど影響がないということなのです。
しかし,これは親が何もする必要はないということではありません。親が子供に対して直接・間接に示す家庭環境が,子供の個性を一律に育てるわけではないということが示されているだけに過ぎません。行動遺伝学が説明するのは,あくまでも「個人差」要因です。子どもにとって,親や家庭(あるいはそれに相当する人や環境)が大事で意味があることはいうまでもないことです。親や家庭は,子供の居場所であり,安全基地であり,最初に出会う社会です。そして食事や身の回りのしつけを通して,一人前の大人になるのに必要な体づくりやさまざまな社会ルールについての知識を学びます。
ここで大事なのは,子育て本のパターン通りに誰にでも当てはまる教科書のようなかかわりをするのではなく,自分が経て来た経験に根差す価値観に基づいて,子どもの中にある形質を見つけるように努力することだと思います。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.124-125
アメリカの心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは数年前,これで大いに心理学界を憤慨させてしまったのだが,子供の発達に対する両親の影響力は過大に,いっぽう仲間集団の影響は過小に評価されているのではないかと唱えた。学問的に見てこの見解が正しいのかどうかは知らないが,私の意気地なし度が低下し,私に取り憑く弱虫の大群が見る見る数を減らしていったのはまちがいないし,それが同年輩の仲間と遊んだおかげなのもまたまちがいないのである。
ジョン・クリーズ 安原和見(訳) (2016). モンティ・パイソンができるまで―ジョン・クリーズ自伝― 早川書房 pp.105
思春期とは,少年にとってはホルモンの落雷のようなものである。睾丸が下がり,声は変わる。草のようにすくすく背が伸び,体は毛深くなり,引き締まる。こうしたことはすべて,睾丸から分泌されるテストステロンの洪水が原因である。いまや,血液中のテストステロンの濃度は同年齢の少女の20倍にも達する。このため,子宮内での投与によって頭のなかに焼きつけられ,置いておかれた精神という写真が現像され,少年の心がおとなの男の心に変わるのだ。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.411-412
成長や加齢にともなう変化のほかには,どんなものが年齢とともに変化するだろうか?
思うに,それは「環境」だ。私たちは年齢を重ねるにつれ,新しい環境に放り込まれる。たとえば初めての就職や結婚も,大きな環境の変化をともなう。いつのまにか親たちが年老いて,自分が親の世話をする立場になることもある。このように状況が変われば,それに応じて生活のしかたを変えなければならない。そして,地球上でもっとも適応能力に長けた人類は,変化する。困難に立ち向かうのだ。
言い換えれば,私たちは必要に迫られれば変化する。必要は「適応の母」なのだ。
アンジェラ・ダックワース 神崎朗子(訳) (2016). やり抜く力―人生のあらゆる成功を決める「究極の力」を身につける ダイヤモンド社 pp.126-127