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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「パーソナリティ・個人差」の記事一覧

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知能と人種問題

 知能テストをめぐって吹き荒れる論争の嵐の源は,人種問題である。何らかの知能測定を基にして,あるグループ全体を「劣性」と名づけることは許されるだろうか。彼らの自信,プライド,ある人種の一員であるという同族意識などにこのような打撃を与える正当な理由はいったいあるのだろうか。答はもちろん否である。そして単純に否というのでなく,ジェンセンも私(注:アイゼンク)も,その他の信頼できる心理学者のうちの誰もが,いま記した差別的表現をかつて使ったことはなかった,と付け加えておこう。私たちが指摘してきたのは,グループ差は,それが存在する場合には,重複の多くを包み隠した差であるということ,また重複が存在するゆえに,あるひとつの人種や社会階層を,知能,学力,能力などの指標として用いるのはまったく不可能だ,ということである。誰もがそれぞれ,一個人として扱われるべきであり,評価の基準は客観的なものでなければいけない。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.316
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)
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不毛な議論

 第一次世界大戦時のデータによると,北部のいくつかの州の黒人の平均IQは南部のいくつかの州の白人の平均IQよりも高く,その調査結果は北部の教育水準や経済水準の高さと一致しているように見受けられた。遺伝論者たちは,遺伝的にすぐれた黒人たちが南部から北部の州に選択的に移住した結果である,と証拠もなしに反論した。遺伝論者たちはまた肌の黒さの濃い黒人のほうが肌の黒さの薄い黒人よりも平均IQの値が低いことを立証した。彼らの言い分は,肌の黒さの薄い黒人は白人種の遺伝子をおそらくより多く持っているためだというのである。環境論者側はこれに対して,肌の黒さが薄い黒人は差別を受けることがそれだけ黒さの濃い黒人より少なかったという自明の事柄を指摘して反論を加えた。遺伝論者たちは次いで,血液グループによって測定される白人種の遺伝子の割合とIQとの関係を調査すべきだと提案した。個々の黒人たちが受け継いでいる白人種の遺伝子の割合とIQとのあいだに何の関連も見出せないことが判明すると,この調査を提案した当の遺伝論者たちが,血液グループからは白人種の血統の割合のはっきりした測定値は得られないと結論づけたのである。白人の母親と黒人の父親とのあいだに庶子として生まれた子どもたちが,黒人の母親と白人の父親とのあいだに生まれた同様の子どもたちよりも高いIQを示すという観察結果が得られるや,それはおそらく異人種間結婚に関わった黒人の父親たちのほうが黒人の母親たちよりも知的であったためであろうとされた。また高いSES値の白人家庭に養子となった黒人の子どもたちが際立ったIQ値を発達させることが立証されると,今度は,これは,通常観察される黒人と白人の差異のしかるべき部分が遺伝的なものである事実と必ずしも矛盾しないと言われた。
 この線にしたがって議論をすすめても何ら得るところがないのは明らかである。黒人と白人とが等しく,恵まれた差別のない環境に身を置く社会が実現し得るまで,そして実現できなければ,黒人と白人の差異の問題に対して明確な解答を得ることはできない。皮肉なことに,もしそのような社会が実現したとき,もはやこの問題に対する答に興味を持つ者は誰ひとりいないだろう。人種差別主義にとりつかれた社会のみが,人種間の平均IQの相違の理由を重大視したがるようである。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.263-264
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

シリル・バートの言葉

 イングランドでは,IQテストはさらに重大で中心的な役割を演じた。すなわち,第二次世界大戦後に導入された能力別選択方式の教育制度の基礎となったのである。任意の児童に対して11歳の段階で知能テストを行えば,その子の「先天的知能」を測定することができるとするシリル・バートの熱烈な主張の勢いにおされ,11歳全体を対象としたテストの結果によって児童たちを----平等とはほど遠い----3つの別個の教育課程のどれかひとつの枠組のなかへ,「流しこむ」ことが決定された。
 以下は1947年に述べられたバートの言葉である。「在校中であれ卒業後であれ,知能というものは,その子の話し方,考え方,ものごとをなすなし方,試み方など,あらゆる面を構成する要素になるであろう。……知能とは生まれながらに与えられたものである以上,子どもの知能の発達の範囲には限界があり,その限界の線は動かし得ない。教育にどれほど時と力を注ぎこんだとしても,知能のどの面でも明らかに正真正銘の欠陥の持ち主である生徒を,正常な生徒に変えることはできないであろう。」実に悲観的な意見である。ビネーの考え方とは正反対の立場に立つものである。のちにバートは,知能と「教育可能な範囲内の能力」とを同一視するにいたり,この悲観的な意見は,さらにいっそう単純で平明な言葉で表現されることになる。1961年に,バートはこう書き記している。「能力という器がその内容量を限定することは明白である。容量1パイントのジョッキに,1パイント以上のミルクを入れることは不可能である。同様に,ひとりの生徒が,その子の受容能力を上まわって教育的成果を達成することもあり得ない。」これを言い換えれば,IQ測定検査は,ある児童の教育され得る範囲の限界を知ることができるから,検査の結果が示す受容能力を超えた教育をその児童にむりやりに押しつけることは明らかにばかげたことだということになる。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.167-168
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

優性断種法

 ビネーのテストが出現したころすでに,優生学の考えと結びついた遺伝性の力への無批判な信仰が広くゆきわたっていた。1907年,インディアナ州では優性断種法が州議会を通過した。その後,アメリカの30以上の州がインディアナ州のあとにつづいた。この法律はとりわけ,犯罪者,白痴,痴漢,てんかん,強姦者,狂人,酒飲み,麻薬中毒患者,梅毒患者,非道徳的・性的倒錯者,それに病人,変質者などに対して,強制的に断種手術を行うという法律であった。この法令は,これら犯罪者,不適格者たちのさまざまな欠陥は遺伝因子を通じて子孫に伝えられるのだということを,法的な事実として認めたものである。優生学論者のまったく非科学的な幻想は,社会にとっての不適格者たちを,断種することによって,社会にとって望ましくない特性を人びとから除去できるという単純な考えをいっそう助長するものであった。幸いにもこの断種法は頻繁に実施されることはなかったが,実施されたとき,その対象となったのは貧困者たちだった。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.165
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

罵倒し合いの歴史

 不幸なことに,知能という領域で発見されてきた主要な事柄が持つ社会や政治にとっての意味合いについては,いままで公に議論されたことがほとんどない。提起された問題は深刻な,重要なものだが,これまで私たちがしてきたことと言えば,極端論者どうしが互いに「ファシスト」とか「コミュニスト」とか,あるいは「人種差別主義者」とか「黒人びいき」とか,というようにののしりあう汚れた言葉のあらそいを目撃してきたというにすぎない。事実,感情の波は激しい。IQへの遺伝の役割その他の差異に注意してきた人びとは,ヒトラーの足跡をたどる者だ,集団大虐殺を行おうとするものだと非難されてきた。そのように,偏見により人を有罪に決定しようとする試みは,もちろん愚かしいことである。同様の汚れ物をなすりつけるような誹謗戦術が,社会主義は下劣で邪悪な信条だということを「証明する」ために使われることもあるだろう。ヒトラーの政党も国家社会党ではなかったかとか,彼の政党綱領はイギリス労働党と同様の社会主義行動を要求したのではなかったか,とか。こういう「証明」は実に危険なのである。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.156
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

競技場のたとえ

 ドナルド・ヘッブは遺伝性を評価,算定すること自体を疑った。彼は,遺伝と環境の相対的寄与の分量を区別する努力を,競技場の大きさを決定するのに,縦横の長さのどちらがより重要かを区別する無意味な努力にたとえた。このアナロジーは以後数えきれないほど繰り返されたが,あきらかに不適当なアナロジーと言うべきだろう。ある1つの競技場を例とすることでヘッブは,ある一個人への遺伝と環境の及ぼす影響を遺伝学者が区別しようとする,と暗ににおわせている。これは,実際無意味なことであろう。遺伝学者の関心の対象は,個人ではなく集団である。彼の疑問は,集団内での遺伝因子と環境因子の相対的影響についてである。それゆえヘッブの表現は,次のように別の言葉で言い直されるべきだ。「多数の長方形の競技場があるとしたら,大きさの違いを左右する影響力を持つのは,縦の長さと横幅のどちらなのか,そいてこの2つの要素のあいだには相互作用があるのか」と。これは分散分析という統計学の手法を使えば,たやすく答えられる問いであって,質問としては興味も意味もそれほど深くあるものではない。ただ,無意味で答えられない問いでないことは確かである。ヘッブと彼の追従者が発達の議論の基盤全体を完全に誤解することが可能だったという事実は,心理学者の研究課題のうちに,行動遺伝学が含まれるべきであるという必然性をはっきりと示すものであろう。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.104
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

類似性と扱われ方

 ここに述べたことに共通するものは,二卵性双生児は一卵性双生児と同様に,周囲の環境からの影響を分ち持つ,という仮説である。もしこの仮説に妥当性がないなら,一卵性双生児が成長につれて互いに似てくるのは,一卵性双生児の環境の類似性のつよさを反映しただけのこととなる。確かに一卵性双生児が,二卵性よりも似たような扱われ方育てられ方をしていることには証拠がある。似た服を着るとか,いっしょに遊ぶ,同じ先生につく,同じ部屋で寝る,など似た環境に置かれている。両親が意識的にそう扱おうとするからである。しかし大切な点は,扱い方の相違が知能の重要な決定因となるか否かであろう。もし育て方の違いが知能指数に影響を及ぼさないならば,それは知能に無関係なものである。レーリンとニコルズは2000組の双子を対象に大規模な調査をしたが,そこで彼らは,扱い方の差はまったくIQに影響しない,ということを示した。すなわち,同じような扱われ方をした双生児のほうが,知的な能力においても似てくる,ということはなかったのである。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.81-82
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

イギリスにおけるイレヴン・プラス試験

 奇妙なことに,知能と学校の成績とのあいだに完全な相関関係がないということが,しばしば,知能テストそのものへの批判にまで発展してしまうことがある。イギリスでは,異なる種類の中等教育の学校に生徒を選抜するにあたり,「イレヴン・プラス試験(中等学校進学適性検査)」が実施されていたものだが,予測が完全なものとは言えなかったので,この検査方法は厳しい批判を受けて最後には放棄されてしまった。今日,知能テストが非難される理由のいくつかは,このときの経験から生じたものである。しかし,これはまったく見当はずれなことなのである。なぜなら,まず第1にこの適性検査は,3種類の問題から構成されていて,すなわち,英語,数学,そして言語による思考能力の試験であり,それは習得知識に依存した結晶性能力のテストとみなすことができる。したがって,イレヴン・プラスの検査には,流動性能力のテストはまったく含まれていないことになる。もちろん,知能テストが測定するのは,よくても学業の達成度を決定する変数のうちたった1つにしかすぎない。たった1つとは言っても,その1つはあきらかに重要な変数かもしれない。おそらく最も重要な変数かもしれない。しかし,それでもいくつかの変数のうちの1つにすぎない。このような状況のもとで,テストによる完璧な予測を期待することはまったく非現実的である。実際,もし予測が完璧であったら,それの基礎になっている理論そのものをくつがえすことになったはずである。テスト予測は潜在的な特性(知能)と顕在的な特性(達成度)とを一致させたはずであるからである。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.50-51
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

相互相関が存在の理由となり得る

 もし私たちがある概念を,それを測定するテストによって定義するなら,そのテストは内的妥当性--テストの結果が互いに一致するということ--を持ったものでなければならない。これは決定的に重要なことなのである。テストが内的妥当性を持っていると私たちが言うときには,実は,そのテストが1つの因子を,測定可能な誤差をも含んで客観的に測定する。そしてさらに,同じ因子を測定するその他のテストとのあいだに正の相関関係を持っている,と言っているのである。gこそがその因子にほかならない。もっともこの段階ではまだ,gが実は世間一般で理解されている知能と同一のものなのだ,と言明することはできない。


H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.40
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

操作的定義では

 知能とは何かと問われると,心理学者たちは,嘲るような顔つきで,知能テストが測定するものこそが知能だよ,と答えることがある。このやりとりは同義反復(トートロジー)にしか見えないであろう。科学の専門家でない人びとが聞いたら,おそらく面白がるであろう。しかしながら,科学の分野ではこの種の定義--いわゆる操作的定義(オペレイショナル・ディフィニション)--は,まったくありふれたものである。実際,多くの科学者たちが,これこそが受容できる唯一の科学的定義だ,と信じてもいる。1つの概念を,それを測定する方法と測定した結果とによって定義することがあるが,その時,この定義は同義反復ではない。なぜなら,測定という作業は1つの理論から導き出されたもので,その理論を証明したり無効にしたりするために,使われるものだから。知能テストが測定するものが知能なのだ,という言い方は,知能測定の結果そのものによって反証をあげられることがあるわけだから,循環論法ではない。それゆえ,もし私たちの知能テストが,すべて正の相関関係を持っているテストではないと判明すれば,これらの知能テストは知能を測定していない,と結論せざるを得ない。だが,その時には,むしろテストが内的妥当性を欠いていた,と言うほうがよいかもしれない。


H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.39-40
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

一般因子「g」

 これらの多岐多様な見解を,適切な心理学理論へと融合したのは,チャールズ・スピアマンである。永年ロンドン大学のユニヴァーシティ・コレッジの心理学教授であったスピアマンは,ゆたかな成果を挙げることになる単純素朴な考えから出発した。彼は,もしすべてを包括しすべてを統合する認知能力,つまりそれによって,ひとがよく理性を働かせ,問題をよく解決し,ものを知るという認知の場において秀でることを可能にさせる能力が存在するならば(スピアマンはこれを一般因子gと名づけたが),この能力をテストするために,難易度の異なる問題を多数案出することができるはずである,と主張した。
 ちょうど同じころに,フランスではアルフレッド・ビネーが,またドイツではヘルマン・エッビングハウスが,同様のテストを工夫していた。それらに対するスピアマンの新しい寄与は,やや単純な統計的な考えだった。簡単に言うならば,この考えとは,ある人びとはどのような認識能力のテストを解答しても,ほかの人びとよりもよくできる--知能という概念そのものが,そういう可能性を暗示していると思われるが--と証明することが,簡単に次の方法により可能である,つまり,無作為に選んだ人びとに,多数のテスト項目を与え,「相関」と呼ばれる過程により,テストの解答やテスト項目を比較検討する,という作業をとるというのである。もしスピアマンの仮説が正しいなら,これらの相関関係はすべて,正の値を持つことになるはずである。すなわち,あるタイプのテストでよい成績を挙げれば,他の種類のテストにおいても同様によい成績を得る可能性がある,ということになる。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.16-17
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

2種類の「自己」

 2つの極端な考え方が可能で,これまで,それが受け入れられてきた。ふつうの庶民に自己とは何かを尋ねてみれば,ろくに考えずに返ってくるのはおそらく,個人の自己というものが実際に,ある種の実在物だという答えだろう。すなわち,彼の頭のなかに生きている幽霊のような監督者,彼の思考を担っている者,彼の記憶の収納庫,彼の価値観の持ち主,意識をもつ内なる「私」といったところだ。今なら,きっと「魂(ソウル)」などといいう単語を使ったりはしないだろうが,心のなかにもっているとされる魂という古くからの考え方に非常によく似ているだろう。自己(あるいは魂)は,肉体に実行させる力と,永続的な独自の特性をもつ実在の実体なのだ。自己についてのこの現実主義的イメージを,「本来の自己(proper-self)」の観念と呼ぶことにしよう。
 けれども,一部の精神分析家や心の哲学者たちのあいだで人気が高まっている修正主義的な自己のイメージは,これとは対極にある。この見方によれば,自己はそもそもモノなどではなく,説明のためのフィクションだというのである。誰もその内部に魂に類似した主体など実際にはもっていない。私たちは,彼らの行動(そして,自分自身の場合には,自らの個人的な意識の流れ)を説明しようと試みるときに,この意識をもつ内なる「私」の存在を想像するのが実用的であることを知っているだけなのだ。実際には,自己はどちらかといえば,一連の伝記的出来事や傾向の「物語的な重心」に似たものと言っていいかもしれない。ただし,物理学的な重心と同じように,実際にそういうモノ(質量や形や色をもった)は存在しない。自己についてのこの非現実主義的イメージを,「仮想の自己(fictive-self)」の観念と呼ぶことにしよう。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.42-43

次元モデル

 性格というのは,リアルな現象だ。心理学者は数学的モデルを発展させることで,性格の多次元にわたるヴァリエーションをある程度扱えるようになった。初めは多数の次元があるが,それは数学的手法によって少数の次元へと統合され,そこでは予言的な力が,目に見えて減少している。こうして抜粋された性格の次元は,攻撃性,頑固さ,愛情深さなど,われわれが直感的に知っているものに近いことも多い。性格を多次元空間のなかの点として捉えるのは,その限界を考慮しても,うまい考え方であり,実際に役に立つ。性格をそれぞれ相容れないカテゴリーに分類するようなやり方など及びもつかないもので,言うまでもないが,新聞の占星術で使われるようなばかげた12のごみ溜めとは,天と地ほどの差があるのだ。心理学者が立脚しているのは,人々自身の本質的な部分に関するものであり,誕生日などではない。また,心理学者による多次元的な尺度化は,ある職業に向いているとか,結婚しようとするカップルの相性が良いとか,といったことの判断に役立てることができる。これに比べて占星術師による12個の分類棚は,良く言っても,的外れで金のかかる酔狂でしかない。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.166.

道徳化

 ベジタリアンには二種類あって,脂肪と毒素を減らすためという健康上の理由で肉を避ける人たちと,動物の権利を尊重するという道徳上の理由で肉を避ける人たちがいる。ロジンが明らかにしたところによれば,健康ベジタリアンよりも道徳的ベジタリアンのほうが,肉を食べない理由をたくさん挙げ,肉に対して情動的に大きく反応し,肉を汚物であるかのようにあつかう傾向が強く,たとえば肉汁を一滴だけ落としたスープを食べることを拒否した。また道徳的ベジタリアンは,ほかの人たちもベジタリアンになるべきだと考える傾向や,肉を食べると攻撃的になって動物のようになると考えるなど,自分の食習慣に奇妙な美点をあたえる傾向も強い。しかし食習慣と道徳的価値観を結びつけるのはベジタリアンだけではない。学生に人物描画を提示して性格を判断させると,なんと彼らはチーズバーガーとミルクシェイクを食べる人は,チキンとサラダを食べる人に比べて親切や思いやりに欠けると判断する。
 ロジンは,喫煙が近年に道徳化されたことを指摘している。タバコを吸うかどうかの決定は長い間,好みあるいは分別の問題で,吸わない人は,単にタバコが好きではないから吸わない,あるいは健康に良くないから吸わないだけだった。しかし副流煙の有害な作用が発見されたことに伴って,喫煙は不道徳な行為とみなされるようになった。喫煙者は追い払われて悪者扱いされ,嫌悪と汚染の心理が働きはじめる。非喫煙者は煙を避けるだけでなく,煙に触れたものをみな避ける。ホテルでは禁煙の部屋を求め,あるいは禁煙フロアさえ求める。同様に,処罰の欲求も喚起された。陪審員は煙草会社に「懲罰的損害賠償金」と呼ばれるのにふさわしい巨額の賠償金を課してきた。以上はそのような判断が不公正だと言っているのではなく,それらを動かしている感情を自覚すべきだと言っているだけである。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[中] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.258-259

広範な環境の影響

 子どもに限らず,人の人格や性格は,家族,家庭をはみ出した,もっと広い範囲の環境によって形成されてゆく。
 その場所の空気や土壌,気質に,DNAと血を混ぜて,一滴たらすと,その土地による,その人の性質が芽吹いてくるのだろう。

リリー・フランキー (2005). 東京タワー オカンとボクと,時々,オトン 扶桑社 p.54


他人の眼に映る自分を愛する

 水面に映った自分の姿に恋する,古代ギリシア神話のナルキッソスの話には,多くの次元があり,様々な解釈が可能だ。現在最も広く受け入れられているのは,ある男が自身の姿に恋してしまったために,強く心を寄せる魅力的な女性エコーに興味を示さなかった,というものだ。それがもとで神々の怒りを買い,彼は花の姿に変えられてしまう。このコンテクストでは,この神話は外側から眺めた自己,つまり他人の目で見た自己に夢中になりすぎるという行為が孕む危険性を表していると解釈できる。夢中になった結果,人は自分の要求をただちに,じかに感じる能力を失う。ナルキッソスの問題は自分を愛したことではなく,他人の目に映る自分を愛したことにある。

トール・ノーレットランダーシュ 柴田裕之(訳) (2002). ユーザーイリュージョン:意識という幻想 紀伊国屋書店 p.393.


錯誤相関(Hamilton & Gifford, 1976)

A集団はB集団の2倍の事例が示される。A集団のうち望ましい行動を示す人が18人,望ましくない行動事例が8件である。B集団でもその割合は9件と4件で,同じ9対4である。これら39件の情報をランダム順に実験参加者に示したところ,後の評定や事例数の確認において,望ましくない事例件数がB集団において実際より多く考えられていることが分かった。実験参加者は,A集団とB集団を弁別して,おおまかにA集団は望ましい集団,B集団は望ましくない集団と認識して,B集団の望ましくない行動件数を多く感じて,大小集団と望ましさの誤った関連付けを行ってしまったのである。これは,血液型のA型とB型においても全く同じように生じうる。

北村英哉 (2003). 認知と感情-理性の復権を求めて ナカニシヤ出版 p.77-78

心臓移植と人格変化

 その種の研究は,ウィーンの外科医と精神科医のチームが1991年に行っている。彼らは心臓移植を受けた47人にインタビューし,新しい心臓と前の持ち主の影響と思われる人格的変化があったかどうか尋ねた。47人中,44人が「ない」と答えたが,ウィーンの精神分析の伝統にどっぷりつかっている研究者らは,これらの回答には敵意か冗談がこめられているのだといういいわけをひねり出した。つまり,フロイトの理論によれば,その問題への何らかの拒絶を示しているということだ。
 「ある」と答えた3人の患者の体験は,メドオーよりも平凡だった。1人目は,17歳の少年の心臓をもらった45歳の男性で,研究者にこう語った。「イヤホンをつけてにぎやかな音楽を聴くようになりました。前はこんなことはありません。今は新しい車や,いいステレオがほしいですね」ほかの2人もたいしたことはなかった。1人は,前の持ち主が静かな人だったので,この静かさが自分に「うつった」と言い,もう1人は,自分が2人の人生を生きていると感じ,質問に「私」ではなく「私たち」で答えた。しかし,新しく加わった個性や音楽の好みについての記述はない。
 オズも,やはり心臓を移植された患者が提供者の記憶を体験すると訴える現象に興味を覚えたそうだ。「こんな男性がいました。彼は自分が誰から心臓をもらったのか知っていると言い,自動車事故で死んだ若い女性の話を詳しく語りました。自分は事故に遭った黒人女性で,鏡に映る自分の姿は顔から血を出し,口の中にフライドポテトの味があったと言うのです。私は驚いて記録を調べましたが,提供者は年配の白人男性でした」提供者の記憶を体験したとか,提供者の生活について特別なことを知っていると主張する患者は他にもいましたか?「いましたよ。全部間違っていました」

 心臓を移植された人が提供者の性質を引き継ぐのではないかと言う心配は非常によくあり,特に異性や性的嗜好の異なる人から心臓を提供された人,あるいは,されたと思っている人に多く見られる。

 ある男性は,自分の提供者は性豪として「評判」だったから,自分もそれに見合うように頑張らなければと思いこんでいた。ラウシュとニーンは,42歳の消防士のことを書いているが,彼は女性の心臓をもらったので男らしくなくなり,消防士仲間から受け入れてもらえないのではないかと心配していた。

 クラフトの論文によると,男性から心臓をもらったと思う男性は,提供者が絶倫男だったと思いやすく,その勢力が自分にもいくらか引き継がれたと思うことが多い。


メアリー・ローチ 殿村直子(訳) (2005). 死体はみんな生きている NHK出版 p.224-227

使ってみないと分からない

 さて,ここで問いたいのは能力や性質がそれだけで存在することがありうるのか,ということである。
 包丁は切る力を持っているという言い方は,ちょっと変だが可能である。「切れる」包丁とか「切れが良い」包丁という言い方もできる。前者の言い方が能力的な言い方で後者の言い方が性質的な言い方である。さて,ある包丁が目の前にあるときに,それが「切れる」かどうか「切る能力」を持つかどうかはどうすればわかるのだろうか。
 使ってみるしかない。魚などを切ってみるしかない。極端な話,プラスチックや紙で作られたおもちゃの包丁という可能性だってある。切ってみて初めて「切れる」かどうかがわかる。
 その一方,本物の包丁で食べ物ではなく鉄板などを切ろうと思っても切ることはできない。しょせん「刃がたたない」のである。
 包丁の能力・性質は実際に魚なり何なりを切ろうとしてみなければわからない。結果を見なければわからないのである。包丁がなければもちろん切れないが,かといって包丁そのものの中に「切る力」が備わっているわけではない。「切る」という行為を行う中で,その力が発揮されているにすぎないのである。切る力(能力)は,切るモノと切られるモノ(ついでに言えばそれを使う人)すべての条件が揃った時のみに出現する。私たちは成長の過程で道具の使い方を覚えてきたために(たとえば紙を切る時に包丁を使って「切れないなあ」と言う大人はいないだろう),ある能力をある道具に固有のものとして見てしまう。そしてそのような見方が「能力」「性質」という考え方を生み出すのである。

サトウタツヤ (2006). IQを問う 知能指数の問題と展開 ブレーン出版 p.153-154.

知能検査の目的と序列化

知能検査の目的は(それが果たされたかどうかは別にして),知能の状態の把握にある。そして,把握した結果は何らかの形で表記するのであるが,その表し方はすべて同じだというわけではない。ここでまとめておきたい。

 段階ービネの本来の目的は,「遅れがある/ない」の把握であった。
 年齢水準ービネの改訂版で現れた考え方で,検査を受けた子どもが「一般的な他の子どもたちでいうと何歳程度の発達水準にあるか」ということを把握する。
 IQーシュテルンによって提唱されたもので「精神年齢を実際の年齢で割ってそれに100を掛けることで指標化」したものである。100が標準。実用化したのはターマン。
 知能偏差値ーウェクスラーによって提唱されたもので,年齢母集団の分散を加味した上で指標化したものである。100が標準。

 これら4つの中で最も広く知られているのがIQである。また,ビネの最初の取り組み以外は結果を数値で表すようになってきていることに注意されたい。そして,この数値化はある意味で便利であるが,きれいな花にはトゲがある,のたとえどおり非常に大きな副作用があったのである。それは序列化である。数値化されるとそれを比較するのが簡単になる。数字自体に強烈な序列性があるからである。そしてその数字=序列が猛威をふるったのだ。人種間,階層間の比較によっていわれのない差別を受けた人が少なくなかったのはすでに述べた通りである。

サトウタツヤ (2006). IQを問う 知能指数の問題と展開 ブレーン出版 p.96-97.

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