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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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二律背反

 女性はよく口にする。
 「誠実で」「私思いで」「浮気をしない」「そういう人なら,他はどうでもいいんです」
 しかし,実際にデートをすると,「会話が続かない」「ずっと黙っている。こちらから話すのを止めたら黙ったまま不忍池を一周してしまった」「何も決めてくれない」……。
 これは,二律背反な難題を求めているということに気づかないといけない。
 一般に肉食系と呼ばれる男性は,初対面でも会話の切り出し方や続け方がスマート。でも,あなたとの初対面の会話がうまくいくということは,彼は他の女性ともうまくいくのである。したがって,当たり前にモテる。よほど倫理観が強くなければ,こういう男性にある程度のヒマと金があれば浮気は避けがたい。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.117
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批評会の罪

 さらに,合コンの後,女子だけで批評会をするのだが,これがよくない。
 女性陣の感想は,「ありえなくない?」「なんか微妙だったね」というものがほとんど。こっそり「あの人,ちょっぴち気になるなあ……」と思っていても,周りにケチョンケチョンに言われたら,自分も一緒になって「そーよねー,ダメダメよねー」なんてつい,言ってしまい,結局,動けなくなってしまう。人は自分で言ったことや一度取った行動に縛られてしまうという,社会心理学でいう「認知的一貫性」のワナにはまってしまうのである。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.61-62

必需品から嗜好品へ

 国民が一定程度の豊かさを手にすると,女性の高学歴化や社会進出が進んだり,「結婚」というものが,生きていく上で不可欠な「必需品」から,なくても過ごせる「嗜好品」に変化するかもしれない。
 若者の未婚率や初婚年齢の上昇は,東アジアに目を向けても共通現象になっている。たとえば経済成長が順調に進む台湾の初婚年齢は,もう日本を超えるような水準まで上がってきており,2009年では男性が31.6歳,女性は28.9歳という高さ(台湾内政部)。「敗犬女王」(負け犬の意!)というテレビドラマがヒットした。主人公は33歳の出版社の敏腕女性編集者で,8歳下のイケメンフリーター男性と恋に落ちるというラブストーリー。日本で同じ設定のドラマがあっても,まったく違和感がない。
 韓国の初婚年齢もほぼ台湾と同じで,男性31.6歳,女性28.7歳(韓国統計庁)。出生率も日本を下回るほどの低水準である。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.42

求めるもの

 非正規雇用で自分で稼いでいく当てのない女性は結婚相手に心強い経済力を求めるし,キャリアを持つ女性であっても,自分が出産などでキャリアリスクが生じた際にも生活水準を下げずにすむように,相手に自分の1.5〜2倍くらいの収入を求めている。
 明確に経済条件を口にしない女性であっても,「やっぱり『尊敬』できる人がいい」という言い方で,事実上の社会的・経済的成功者を求めていたりする。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.25

確率計算

 1つ1つが「普通」というからには確率50%とする。ところが,この条件をすべて満たす人ということになると,
 会話普通50%×ルックス普通50%×身長普通50%×清潔感普通50%×ファッションセンス普通50%×学歴普通50%×年収普通50%≒0.8%

 なんと,すべての普通を同時に満たす人は100人に1人もいないといううすら寒い結果になるのである。
 たしかにそれぞれの条件では決して高望みしてはいない。しかし,女性が言う「普通」とは,通常,いくつもの項目の普通を「同時に」満たすことを求めている。つまり,0.8%の確率を追い求めているわけである。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.16

#引用者注:この計算は,要因間の相関が0のときに成り立つものである。

どうすればいいかわからなくなる

 仕事は文章を書くことが中心なので,まだどうにかなる。だが,出席者がぼく以外に2名いる会議があると,本当に困る。どちらかが発言するたびにそちらへ顔を向けるわけだが,内容を理解しようにも首を回すのが追いつかなくなるのだ。最初のうちは,彼らもなんとかしてぼくを話し合いに参加させようと努力するのだが,あきれ返るくらい手間隙がかかるので,まもなくいつもどおりのやり方に戻る。つまり,健康な耳をもつ人を相手にするというときと同じように話すということだ。そういうときの彼らは,決して非人情なふるまいをしているわけではない。彼らには,それ以上どんなことができるのかがわからないだけだ。ついでに言えば,それはぼくにもわからない。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.25

想像は難しい

 人間というのはすべての情報を二進法で表すデジタルな生き物ではない。こちらが単音節のイエスかノーか,1か0かという簡潔な答えを要求したとしても,たいていの人が幼い頃から社会的コミュニケーションの重要性をたたき込まれているため,まず間違いなく返事にはお世辞,ジョーク,世間話など,よけいな文句がついてくる。これはもう人間の習性というか,本能みたいなものだろう。ぼくの耳の状態をよく知っている言語聴覚士でさえ,ぼくの耳から取りはずした補聴器を自分の手に持ったまま,ぺらぺら話しかけてくることがある。そういうとき,ぼくは顔に寛大な笑みを浮かべて手を差し出し,彼にストップをかけなければならない。健康な耳をもつ人たちにとって,まったく何の音も聞こえない状況というのは想像できないようだ。目が不自由で何も見えない状況は,アイマスクをしたり,目を閉じたりすれば簡単に疑似体験できる。しかし,どれほど密閉性の高い耳栓をしたところで,聴者が周囲の音を完全にシャットアウトすることはできない。聴覚は常時働いており,いつだって周りの世界と結びついている。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.15

人気の理由

 人は富の由来を訊ねないから,ヤクザの親分は庶民の人気を博す。ヤクザの親分を賞賛する伝統的な歌には,「線が太くてこせこせしない」「今の時代は大きな腹で,よいも悪いも呑み込むほどの力なければ訳には立たぬ」といった文句が並ぶ。

溝口 敦 (2008). 細木数子 魔女の履歴書 講談社 pp.220

多すぎる幹部

 では,日本型雇用の最大の悪癖とは何か?
 言うまでもない。「働かない熟年」「名ばかり管理職」だろう。
 それはなぜ生まれるか?
 欧米企業でも日本の官僚でも,「幹部候補」は非常に少ない。そして,入り口で猛烈な選抜が行われる。そうした「少数厳選」なら全員が管理職になったとしても,ポスト不足にはならない。対して,採用者全員が幹部候補で非幹部がいない日本の場合,人数が多すぎて明らかに管理職ポストが不足してしまう。
 とすると,彼らに昇進を約束するなら,「部下なし課長」=専任職課長という意味のわからない仕組みを作らざるを得ない。そうして,管理職とは名ばかりの熟年社員が社内に多数存在するようになる……。
 日本の「総合職制度」の問題がわかっただろうか?
 要約すれば,それは,「全員幹部候補」であること。そして,入り口で「少数厳選採用」となっていないこと。この2つに端を発し,出口では,「名ばかり管理職を生み出す」ことに行き着く。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.241-242

みな幹部候補

 では,日本の総合職と欧米の社員の違いは何か?
 にわか論者が語らない決定的な違いがここにある。
 日本の総合職は「幹部候補」,という点なのだ。この点,お気づきだろうか?
 欧米の場合,幹部候補と非幹部候補に分かれている。ものすごく粗っぽく言えば,出世できる人とできない人に分かれているわけだ。フランスなら,この幹部候補を「カードル」と呼び,アメリカやドイツなどでは,近年,「LP(リーダーシッププログラム)と呼んでいたりする。
 大手有名企業でこのワクに入るためには,超上位校を優秀な成績(GPAの指定等ある)で卒業し,法律やメーケティング,会計など将来企業経営に資する知識を十二分に蓄えていることが条件となる。
 これはある面,常識的な慣行ともいえる。かくいう日本でも,公務員の世界では,一種試験を合格した「キャリア」と,それ以外の「ノンキャリ」に分かれ,出世するのはキャリアのみ,というしきたりがある。軍隊ならどこの国でも,士官学校出身者の幹部候補と徴兵・志願組の兵卒とで出世に大きな差が出る。そして,欧米系のエリートも,日本のキャリア官僚も士官学校の将官も,相当難易度の高い試験を課され,入り口で選抜されている。そう,日本の[総合職」を除けば,おおよそ「幹部候補」といわれる人たちには,ほぼ同様な仕組みが,かなり広く浸透していると言えるだろう。
 逆に考えると,日本の企業社会が,あまりにも異質なことが理解できるだろうか?現在,大学さえ出ていれば,タテマエ上は大学偏差値も大学での専攻も大学での成績も,まったく何も問われずに,企業に採用される。そして,その採用者は,全員が「幹部候補」となっている。小学生が考えても,「そんなにたくさん幹部って必要なのか?」と疑問が湧くだろう。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.238-239

総合職という特殊さ

 では,日本と欧米の本当の違いとは何か。実は,それが「総合職(幹部候補)」という仕組みに帰結する,と私は考えている。ここでも,皮相的に「日本はジェネラリストとして,クルクルいろいろな仕事を経験することが違う」というのは間違いだ。総合職制度を敷く日本とはいえ,経理も営業も人事も総務もなんてかたちで,多職務をなべて経験する人などまずあり得ない。一般的には,自分の専門とする領域を持ち,それと関係する周辺職務にたまに行っては,また元に戻る。こんな,「主+副」というのが日本型総合職である。営業を主にして,時折,内勤管理職に行ってまた戻ったり,同じ営業でも他事業部に行って戻ったり,といった感じで。だから,たいていの社員は,「“営業畑”とか“経理畑”とか“水産(事業部)畑”」という言葉で呼ばれる。
 では,こんなスタイルの就労を行うのは,欧米ではあり得ないのか?
 職務契約概念が強い欧米では,確かに1つの部門で仕事を完結する人が多い。たとえば経理配属者が営業に行くことは少なく(営業内でも事業部が異なる部署への異動はやはり少ない),その場合は,社内公募や自己申告を経て,契約の洗い替えを行う,などの手順を踏まなければならない。必然,部門間異動は少なくなる。ただし,部門内ではそれなりに異動がある。たとえば,経理部門でも,その中にある財務会計から管理会計,IRなどいくつかのグループを経験するのは普通のこと。
 とすると,この部分でも言われるほど欧米と日本の差は大きくない。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.237-238

本当の敵は

 「若者かわいそう」論者にあえて言いたい。
 本当の敵は誰か?
 それは,高齢貧困者ではない。高齢の中流世帯とて,決して「逃げ切り」とはいえないから敵とはいえない。
 明らかに特をした層,それは高齢者で高学歴で大企業(もしくは運良くその後大企業化する新興企業)に就職して,あとは,エスカレーター式にぬくぬくと出世していった,一部のエリート層,それが戦うべき相手だろう。
 彼らは世代の利益など決して代表してはいない。経営がシビアになった超大手企業が年金基金を解散したり,企業年金を減額しようと決議するたびに,高額年金受給者の彼らが猛反対を繰り返す。経営再建中のJALで起きた企業年金減額決議のための一騒動などその最たるものだろう。ただでさえ裕福で,その上に手厚い企業年金までもらっている層が,「財産権の侵害」だと自己の権利を主張する様。さらには後期高齢者医療でも,彼ら高額所得者たちが並み以上の負担をすべきところ,貧困者も含めた一律負担という形での決着。同世代意識などより,自分たちの既得権を守ることに血道を上げる。
 彼らに対する攻撃であれば,私は何の擁護もしない。いや加担したいくらいだ。城繁幸氏の「若者は3年〜」シリーズで,大企業の熟年層の実像が過激に描写されているが,00年前後までの大企業の実像は,まさにあそこに書かれた通り,といえることが多かった。
 
海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.187-188

ビジネスマンは職人

 要は,ビジネスマンとは,各業界に細分化された「職人」でしかないということなのだ。これを「ビジネスマン」と一言で括るから汎用性が広く思えて,勘違いをしてしまう。
 職人の世界を想定すれば,誰もこんな勘違いはしないだろう。たとえば,「器職人」という分類に入るからといって,陶磁器職人が漆器職人へとなりかわることなど,不可能だと皆わかっている。もう少し細かく言えば,同じ陶磁器職人でも,磁器から陶器に移るのは難しい。これと同じ。銀行も商社もメーカーも高度な職人であり,熟練に15年はかかる。それを40歳近くになってから宗旨変えすることなど難しい。
 つまり,スペシャリティを磨いたからといって,自由に次から次へと会社を選べるなどということは(40歳近くにもなれば)ほとんどあり得ないことなのだ。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.105

転職する層

 では,転職率の高いジョブホッパーとはどんな存在なのか。これが,世の中の人の理解と少々異なる。
 確かに,即戦力のハイパーな経営層・技術者なども少なからず存在する。ただ,経営層の場合,最低でもバイスプレジデント(事業部長程度)でないと,右から左へとスカウトされて転職することは難しい。技術者と名のつく人たちでも,30代後半以降だと,一部の金融業やIT系のプロジェクトリーダーなどを除くと,右から左への転職はやはり厳しくなる。とりわけ,日本の課長に相当するミドルマネージャークラスでは,同業・同職・同規模という縛りの中でしか,転職可能性は少ない。これが現実なのだ。
 つまり,ほんの一部のハイパーゾーンのみ,会社に頼らず自由に転職を繰り返す権利を有する。
 これとは別に,世間の人の常識とは異なる転職層が存在する。
 それは,「比較的難易度の高くないエントリーレベルの仕事(=熟練がそれほど必要ない仕事)」をしている人たちなのだ。販売やサービス関連の仕事,もしくは営業でも個人訪問型のセールスや,商品や値段の決まったカタログ販売の延長であるパッケージセールス(自動車や保険など),IT系ならプログラマーやWebデザイナーといった人たち。彼らの転職率は驚くほど高い。
 会社に頼らず自由に生きていこうと思ったら,よほどのピンになるか,それとも比較的エントリーレベルに近い仕事をし続けるか。要は,この2つの選択肢になる。
 転職率こそ違え,日本でもこの法則は成り立っている。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.101-102

相場の感覚は難しい

 いや,学生に限ったことではない。転職エージェントに相談にくる社会人とて,まったく同じ状況なのだ。転職エージェントにエントリーしてから転職が決定するまでには,大体,5か月ほどかかっている。そのうちの最初の2か月がまさに,「落ちて落ちて落ちまくる」ことにより,相場観が形成される時期に当たる。このときに,いくら「無理」「高望みはするな」「キャリア相応の企業を」とデータや心理的アプローチで説得を試みても,そのとおりに納得してくれる求職者は少なく,不合格を累々と積み上げることになる。
 もう少し詳しく書いておこう。一体,転職希望者たちがエージェントを通して転職を決めるまでに,どれくらいの不合格が生まれるか。その数は,不況期だと大体70本近くになる。好景気でも,決定1に対して,不合格は30本といった割合。そう,学生よりも社会を知り,企業のことも良くわかり,自分の実力さえわかっている社会人でさえ,こんな感じ。それも,熟練のキャリアアドバイザーが伴走しても,こうなのだ。
 市場相場に詳しくない駆け出しの大学付きキャリアカウンセラーが,学生らを説き伏せて,リードタイムを短くすることなど,可能性は0に等しいだろう。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.78-79

問題はどこに

 用は,世間受けがよくて学生もその親御さんも見栄を張れるような「主要企業」への就職者数は,5万〜10万人,全就職者の5人に1人程度。どんなに好景気でもその数は全体の3割に満たないような状況であり,その他の圧倒的多数(7〜8割)は,無名企業に就職している。
 そして,こうした無名企業と一般校の学生の間で,ミスマッチが起こり,最終的に10万人程度の未就職者が生まれる。この構造を前提に考えると,上位1割にも満たない超人気企業と有名校の組み合わせにおいて起きる「新卒偏重」問題は,騒いだ割に効果が少ない,ということがすぐにわかるだろう。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.66-67

中小企業は千差万別

 ここまでの話は2つの示唆を含んでいることに気づいてほしい。
 1つ目は,新卒を採用するような中小企業は,「零細・不安定・低待遇」とは少し異なるということ。2つ目は,大手企業のような粒ぞろいの一群と違って,中小企業は千差万別であり,平均値で見るのはまったく意味がない,ということ。利益率でも年齢別給与でもそうだったが,採用基準や勤務環境などでもすべてそうなのだ。
 たとえば,「最近は中小でも採用基準が上がり,なかなか入れない」という声を聞く。確かにそういう企業もある。そしてその逆,相変わらず誰でも採ってくれる企業もある。明らかに千差万別なのだ。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.55

幻想の中で

 どうだろう。新卒一本という誤った常識がすっかり浸透してしまったが,日本の実情をもう一度整理しておこう。
●新卒でフリーターになっても,中小企業なら正社員雇用の間口は狭くはない。
●中小企業で働いた後に,実力さえあれば,第二新卒採用で大手に入れる。
 これくらい,日本の社会は新卒一括採用に対する安全弁が整ってはいる。
 ただ,これでも,もちろん全員が希望どおりの大企業に最終的に入社できるわけではない。
 やはり,実力・人物・運・相性などでうまく選考を潜り抜けた人のみが,希望の企業で就労できることになる。しかし,そのことをもって,時代がひどい,企業がひどい,世代間不公平だというのは的が外れているだろう。
 今の日本には,それなりに再チャレンジの仕組みがあり,少なくない若年者がそのレールに乗っている。ただ,再チャレンジもかなわず,結局,名も知れない中小企業で人生を終える人も確かに多い。しかし,若年層に限らず,日本の中高年,もしくは欧米諸国の人だって,多くが中小企業で働いている。それが現実なのだ。
 過去は良かった,外国ならもっと良い,というのは幻想だろう。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.49-50

突き進む日本

 要は,「若年中途採用」というパンドラの箱を開けなかったことで,超大手人気企業×新卒未経験者という組み合わせが奇跡的に続いてきた。そこに,昨今の「既卒3年=新卒扱い」策により,一穴が開けられる。そして,人気大手企業の採用が,「既卒無業者」ではなく,「既卒社会人」に流れ,学生とフリーターはさらに苦しくなっていく……。
 こうした慣行が人気大手企業に根付くと,中小やいぶし銀大手なども新卒採用に対する態度が変わり出す。なぜなら,「どうせ育てたところで,優秀な奴は,大手人気企業に引き抜かれていく」と考えるからだ。そこで,中小やいぶし銀大手が新卒採用を続けるにしても,インターンやアソシエイトという名の「非正規」が主流となり,また,入社後の教育活動にも力を入れなくなっていく。どこかで見た雇用慣習だとお気づきだろうか?
 そう,欧米の「苦しい若年雇用」そのものなのだ。ここから脱却するために,欧米諸国がどれほど施策を繰り出してきたか。職業教育制度や横断資格など,この矛盾のために作ったようなものなのだ。なのに,その欧米へと,スキップしながら,昨今の日本は進んでいる。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.28-29

新卒はますます不利に

 こう考えてくると,まったく新卒にこだわる必要がないことがわかる。むしろ,超大手人気企業が,新卒のみにこだわることの方が異常であるとわかるだろう。
 とすると,どうなるか?
 新卒固執は見直し,25歳まで採用はOKとする。超大手の人気企業が,何らかのきっかけでこの「欧米的」な慣行を一度取り入れれば,その後,この方式はスムーズに定着していく可能性が高い。
 これで,「新卒でなくてもOK」と胸を撫でおろす学生が増えるはずだが,その実,「新卒では入れない」「社会人経験者有利」という社会ができあがる。
 素の頭に戻って普通に考えてほしい。あなたが企業の人事担当なら,以下のどちらを採用するのか?
 ・大学レベルは同じ2人。人物的にも甲乙つけがたい。1人は,大学生。もう1人は,社会人経験者。しかも後者は,中小企業ながら同業での勤務経験があり,商品知識・顧客折衝などにも慣れている。
 もし,2人の年齢差が1〜2歳だったならば,企業は,未経験学生を採用するメリットなどあるのだろうか?ましてや2人が,同年齢の既卒フリーターと社会人経験者だったら?答えは言わずもがなだろう。

海老原嗣生 (2011). 就職,絶望期:「若者はかわいそう」論の失敗 扶桑社 pp.22-23

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