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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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犯人の特徴

 摘発を受けた人物らに対し,O警部補が「スマイリーキクチこと菊池聡は殺人事件とは無関係で,インターネットの書き込みは事実無根である」と伝えると,ほとんどの人が「ネットに洗脳された」「ネットに騙された」「本に騙された」と供述して,「悪いのは嘘の情報を垂れ流した人だ」と他人に責任をなすりつける。
 最終的に「仕事のストレス」「人間関係の悩み」「離婚をして辛かった」「私生活がうまくいかず,ムシャクシャしてやった」と被害者意識にすり替わってしまう。
 聴取した時の状況をO警部補から聞いているうちに,わけがわからなくなってきたが,摘発を受けた18名の共通点だけは分かった。

 他人の言葉に責任を押しつける。
 自分の言葉には責任を持たない。

スマイリーキクチ (2011). 突然,僕は殺人犯にされた:ネット中傷被害を受けた10年間 竹書房 pp.156-157
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3つの欠如

 誰でも簡単に理解できることが“悪い噂はおもしろい”という興味が加わるだけで,判断力を鈍らせてしまう。
 殺人犯,事件をネタにした,という確たる証拠は何一つない。
 中傷や脅迫を執拗に繰り返した集団は「情報の仕分け」「考える力」「情報発信者を疑う能力」,この3つが欠如しているように感じる。

スマイリーキクチ (2011). 突然,僕は殺人犯にされた:ネット中傷被害を受けた10年間 竹書房 pp.156

どこまで情報が歪むか

 そして,中傷の書き込みの1つに「殺人事件の関係者は百人いる,その中の一人がスマイリー菊地」「強姦の共犯者,100人衆の一人,スマイリー鬼畜」とあるが,この「百人の関係者」は警察が発表した情報ではないことも説明してくれた。
 事件が発覚した当時,マスコミの過剰とも思える報道合戦が展開した。エスカレートした週刊誌などが,ありもしない内容を,まるで事実であるかのように伝えていたらしい。読者の興味を引きつけるためなのか,被害者までもデタラメな記事を書かれ,犠牲者となった遺族の方まで追いかけ回したという。犯罪被害者の人権やプライバシーに対する認識が低い時代だった。
 殺人事件に関わった「百人」というのも,加熱した報道合戦から出た情報のようだった。
 この真相は「捜査の過程で近所の人たちに聞き込みなどをした人数も入れれば,百人ぐらいになる」ということらしい。何でもかんでも「関係者」という表現をすれば極端な話,事件の当事者,操作した警察官,検察官,裁判官,弁護士までもが事件の関係者になりうる。一つの言葉で,これだけの誤差が生じることを教えてもらった。

スマイリーキクチ (2011). 突然,僕は殺人犯にされた:ネット中傷被害を受けた10年間 竹書房 pp.96

ここは消えない

 ネットの中傷を便所の落書きと揶揄する人もいる。確かにらくがきレベルの内容だが,便所の落書きは上からペンキを塗ればすぐ消える。でも,ネットの落書きを消すのは容易ではない。

スマイリーキクチ (2011). 突然,僕は殺人犯にされた:ネット中傷被害を受けた10年間 竹書房 pp.70

何がしたいのか

 ここでどうしても書いておきたいが,私の経験から言うと,作家志望者のほとんどが実際には印税や名声を望んでいるだけである。彼らが作品を書くのは,それを得るための手段にすぎない。ほとんどの作家志望者は,社会に伝えたい明確なメッセージや思想を持っていないし,それを裏づける経験もない。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.199

そこには混乱が

 しかし,私に言わせてもらえば,セルフパブリッシングでやってくる未来は,単なる無秩序で,混乱した世界にすぎない。この混乱がおさまって,本当の電子書籍時代が訪れるのには,まだ時間がかかる。
 セルフパブリッシングについては否定的な見方もある。それは「フラット化した世界で成功するのは,すでに作家として名前のある一部の人間だけ」「誰でも作家時代になると,コンテンツが際限なく増える。これは,ゴミが溢れるのと同じ」というものだ。
 私は,こちらの否定的な見方に傾いている。それは,「ケータイ小説」がブームになったことをみれば明らかではないだろうか。あれは,もはや小説ではなく,ケータイ向きの単なるライトストーリーで,プロの編集者から見たら即ボツのゴミ作品にすぎない。
 今後,セルフパブリッシングの大半を占めるのが,こうしたコンテンツになれば,本物の作品は埋没してしまう可能性が高い。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.195-196

紙離れ

 旧世代の人々は,若者が本や新聞を読まないというと「活字離れが進んでいる」などと嘆いてみせる。しかし,紙の本や新聞を読まなくなった若者たちは,昔の若者たちよりはるかに大量の活字(文字)情報に,ネットを通じて接している。また,毎日必ずといっていいほどメールを書いているはずで,これほど若者たちが文字を使っていた時代はかつてなかっただろう。
 つまり,活字離れなど起こっていない。起こっているのは,「紙離れ」だけだ。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.57-58

本物と作りもの

 しかし,日本のインターンシップの多くは,1〜2週間程度の短期間であり,就業経験といいながらも会社見学のようなものであったり,研修スタイルで学生同士が何かをするようなものであったりする。それはそれで,企業理解につながる内容なのだが,ほんものと作りものとは大違いなのだ。インターンシップは,実際に現場の仕事をやってみるからこそインターンシップなのだ。それを実現しないと,望むべき効果は得られない。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.206

コミュニケーション能力

 つまり,現代の若者が生きていくうえで最も必要なもの,あるいは人間関係格差を生み出すもの,それはコミュニケーション能力なのだ。スクール・カーストを体感しながら大学生,若手社会人になっている人の話を聞いていると,スクール・カーストの上層にいる生徒とは,イケメンとか,スポーツができるという要素もあるものの,基本は「コミュ力」だという。「コミュ力」とは,コミュニケーション能力の略語だが,就活という言葉と同様に意味の変質が起きている。
 彼らが口にする「コミュ力」とは,スクール・カーストを形成する人間関係格差の原点となっている。「コミュ力」とは,相手を動機づけて行動を起こしたり,異なる意見の相手と議論して1つの結論を導く,という真の対人能力ではない。その場が期待するような話を展開し,空気を読みながらその場をうまく取りなすような能力だ。そして,その能力の高い学生がカースト上位に君臨し,自信に有能感を感じてきたのである。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.

今だと入れない

 また,私が過去にお会いした多くの人事責任者,採用責任者の中には,こういうことをおっしゃる方がとても多い。
 「今の選考であれば,私は入社できなかったでしょう」
 その方は,その会社で評価され活躍しているにもかかわらず,就職活動をしていた学生の当時には,自分の「軸」をきちんと自覚していなかったということだ。それは今も昔もある意味では「当然」なのだ。日本の高等教育と職業は,欧米社会のように接続していない。企業に入っても,どんな仕事をさせてもらえるかはわからない。だから,新人・若手時代に担当した仕事をする中で自分自身の「軸」を確立していくしかなかったのだ。ことの是非はともかくとして,わが国は,そのようなシステムで,今日に至るまで国際社会の中で戦ってきたのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.115-116

内容を評価したわけではない

 だが,「あなたがやりたいことは何ですか?」という質問は,そういう意味から来るものではない。あなたの職業的なアイデンティティは何ですか,と問うているのではない。キャリア・ゴールを聞いている質問ではないのだ。その人間が「かつてない局面におかれたときに,自分の頭で自律的にものを考え,判断し,目標を設定し,やりきることのできる人間か」を問うための質問なのだ。
 多くの大学生は,そんな企業の腹のうちは分からない。「やりたいことは何ですか?」と問われたら,その額面通りの意味として受け止め,自信の思いの丈をぶつけるしかない。そして,内定をもらえたならば,その思いを評価して受け入れてくれた,と思い込むのだ。一橋大学キャリア支援室のシニアアドバイザー・高橋治夫氏は,こう語っている。
 「内定をもらって喜んでいる学生に言うんですよ。面接の時に言った内容が評価されたと思うなよ,と。今の学生はそう思い込んでいるのんです。自分の意志や考えが評価された,そして,それをやらせてくれるものだと思い込んでいるんです」
 多くの企業は,大学生に職業的なアイデンティティの確立を望んでいるわけではない。やりたいことを決め,その道に進むと決めた,という学生を採用したいと思っているわけではない。だから,選考時に問われた「やりたいことは何ですか?」という質問に対する答えは,その学生を採用するかどうかの判断材料ではあっても,その学生が入社した後にどんな仕事をしてもらうか,の判断材料にはならないのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.102-103

事前選考のリスク

 しかし,最大の問題は,エントリーシートでその人物の見極めができるのか,ということだろう。大学生としての経験のレベルが低すぎる,日本語のレベルに問題があるなど,明らかに能力の低いものはNGと判断できるだろうが(そして,そういうモノも少なくないのだが),就活エリート達がまとめるエントリーシートはそれなりのレベルに仕上がっている。なかなかダメだしはできないだろう。そして,そこに書かれていることが真実であるかどうかは企業の人間には絶対に判断できない。一方で,自己分析などマジメにやらず,面倒臭くて適当に仕上げてしまった,と言う「ハイパー層」のエントリーシートにNGを出してしまうかもしれない。ある人事キーパーソンも,こう漏らしている。
 「ダメな人を通過させてしまうのはいいんです。後の面接で何とかできますから。でも,実は優秀な学生を落としてしまっているのではないか。そんな気がしてならないんです」
 エントリーシートでの事前選考は,企業にとって,とても大きいリスクを抱えたものなのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.72

エントリーシート

 自己分析と並んで,この20年足らずのうちに就活の中核的存在となったエントリーシートだが,前述のとおり,そもそもは,大学生の14%が入社を希望していたという当時の超人気企業・ソニーが,大学差別が当たり前,配属先は企業の決定事項であった時代に「大学名不問」「職種別採用」という驚異的・画期的な採用手法を導入した際に考案されたものだ。「応募動機」「教室外の活動で一番力を入れたこと」「今関心を持っていること」などを記述させる,という内容は,これまでの一律型大量採用ではなく,強い意志を持った学生からの応募を,という志から生まれたもので,極めて特殊な,個性的なものだった。応募の段階でこれほど負荷のかかる内容を書かせる,という企業はそれまでには一社もなかったため,大きな反響を呼んだものだ。
 ところがである。就職氷河期という社会環境,厳選採用というムーブメントが,こんな特殊な事情で生まれたツールを,履歴書に代わる採用活動のインフラにしてしまった。今や,企業の大小問わず,ほとんどの会社がエントリーシートを事前提出書類として設定し,「やりたいこと」を問うている。そんなにたくさんの会社が「やりたいこと」を問う必要があるのだろうか?自立型人材を本当に望んでいるのだろうか?採用する人材が仮に100人だとしても,その100人すべてが自立型人材である必要性,必然性は本当にあるのだろうか?そんな疑問をよそに,かつて履歴書を提出させるのが常識であったのと同様に,今はエントリーシートを提出させるのが「常識」になっているのだ。そして,多くの企業が,その内容の良し悪しで一次選考をしている。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.70-71

規制があると何が起きるか

 規制があると何が起きるかは,歴史が教えてくれる。実質的には4月1日選考解禁,と同様の意味を持つガイドラインができれば,その日付に一極集中する方向にことは収斂していく。それ以前に始めていた企業が解禁日以降に始めるようになるのは規制の効果だが,それ以降に始めていた企業も,何とはなしに「右に倣え」で解禁日から始めるようになってしまう。過去の就職協定においても顕著な傾向であった。そして,今回もまた同じことが繰り返されている。それはデータからも明らかだ。倫理憲章が改定された後から,学生が内定を獲得する時期は,4年制の春へと早期化・一極集中化している。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.67

成果が上がらない理由

 同様の話は,企業からも聞こえている。仕事柄,多くの人事の方と情報交換するのだが,彼らから,新人・若手に関して以前にも増して厳しい声を聞くことが多くなっているのだ。彼らが成果をあげることができないのはなぜなのか。その要因・背景を尋ねていくと,明らかな傾向がある。それは大きく3つに分けられる。
 1つ目は,失敗を極度に恐れるというものだ。
 正解をほしがり,失敗を嫌う。明らかな正解と分からないと,やりたがらない。多くの仕事に正解はないし,やってみないとわからないことがよくあるが,とにかく前に進んでみろといっても怖がって前に進まないのだ。負けたことも糧になるはずなのに,その想像もできないという。
 失敗を全然してきていないのではないかという意見も多い。順調な時はいいが,厳しい局面を迎えると,リカバリープランが立てられない。そして,失敗すると落ち込み,負のスパイラルに陥るのだという。
 2つ目は,自分の能力を棚に上げて,要求ばかりするというものだ。あれがやりたい,これがやりたい,それはやりたくないという根拠のない主張が実によく聞かれるのだという。そして,その主張・要求は,当然通らないわけだが,通らないことに強い不満を表すというのだ。
 3つ目は,自分が思い描いた成長ルートから外れるとモチベーションが急落するというものだ。自分自身の成長発展を強く意識し,その道筋についても,自分なりに思い描いている。そして,そこから少しでも外れると,自分はもうだめだ,となってしまう。とても偏狭なキャリア・イメージが強く窺える。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.23-24

インターネットの影響

 インターネットによって,新たな社会形態が可能となる。それは次の4つの点で,既存の社会的ネットワークにおける人間の交流を根本から変えるものだ。

 1 大きさ ネットワークの規模が著しく大きくなり,その一員となりうる人の数も著しく増える。
 2 連帯性 情報を共有したり力を合わせたりする範囲が拡大する。
 3 特殊性 私たちが結ぶ絆の独自性が著しく増す。
 4 仮想性 仮想世界でアイデンティティーを持てる。

ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.340
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

理解の仕方

 ネットワークという観点に立てば,性感染症の主な危険因子は個人的属性(たとえば人種)であるという考え方から抜け出しやすくなる。事実,リスクを理解するためのもっと有効な手段は,個人の社会的ネットワークの構造に焦点を合わせることなのだ。つまり,社会経済的な位置よりも社会構造的な位置のほうが問題なのである。人びとがリスクの高い行動や低い行動をとるのは,お金,教育,肌の色などが原因だと考えるべきではない。社会的ネットワークに関する各種の研究から次のことがわかっている。人びとがリスクにさらされるかどうかは,その人がどんな人であるかより,誰と知り合いであるかで決まるのだ。つまり,ネットワークのどこにいて,周囲で何が起こっているかが問題なのである。ネットワーク構造という観点をとれば,多くの社会的プロセスに新たな光を当てることができる。

ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.133
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

厳しいノルマ

 我々自身,常に厳しいノルマで縛られています。能力評価は数字だけ。「顧客に喜ばれた」とか「地域に貢献した」とか,そんな数値化できないものには,価値がありません。とにかく理屈抜きに数字ですよ。
 ノルマは達成して当然。さらに高いノルマが設定され,それを達成し続けなければ,同僚との出世競争に敗れてしまいます。幸い私はこれまでノルマ未達だったことはありませんが,達成できない人間は,いづらくなり,どんどん辞めていきますね。

恵比寿半蔵 (2001). 就職先はブラック企業:20人のサラリーマン残酷物語 彩図社 pp.227

細分化されすぎ

 今,中堅規模のIT関連企業に転職をしてつくづく感じますが,大企業は,仕事が細分化されすぎることで,結局は細かいルーチン・ワークの巨大な集合体になっていると思います。営業や商品企画など,数字で結果が判定できる部門はともかく,管理部門では,仕事のやりがいを見つけるのは,なかなか難しいことだと思います。特に女性の場合は圧倒的に管理部門に回される確率が高いですね。

恵比寿半蔵 (2001). 就職先はブラック企業:20人のサラリーマン残酷物語 彩図社 pp.84

必然的にこうなる

 タイアップ物が増えたのには,パチンコのゲーム性の変化が大きかったようだ。電子ルーレットで数字がそろうと大当たりが決まる「デジパチ」が,現在のパチンコ台の主流だ。ハンドルは一定角度に握っていれば,自然に玉が出るので,特にテクニックは必要ない。プレイヤーに退屈させないためには,液晶画面で流れる映像が必要になった。映像はゼロから作るよりも,出来合いの素材を買ってくる方がてっとり早い……。なんだか拍子抜けのカラクリだ。
 パチンコメーカーにとって,タイアップ物は知名度を買うだけの物ではなかった。大当たりを煽る液晶演出用の映像が手に入るというメリットも大きかったのだ。後者に重点を置くのであれば,別に知名度がなくても構わないという理屈だった。

安藤健二 (2011). パチンコがアニメだらけになった理由 洋泉社 pp.129

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