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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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わかりやすさ

  一般的にロボットアニメや特撮ヒーローは,オタク文化の産物と思われている。そうしたコンテンツが次々にパチンコ化されているのだから,一見するとパチンコ産業にオタク人口が増えたかのように錯覚してしまう。ところが,実際には全然関係なかったのだ。原作を知らないパチンコユーザーのためのタイアップであり,原作ファンは蚊帳の外に置かれていた。オタク層に向けたタイアップではないのだ。某大手パチンコメーカーの開発者は次のように言っていた。
 「パチンコのタイアップって,歌かロボットか時代劇が手堅いと言われているんですよ。いかにリーチや予告の演出が作り易いかってところで決まるんですよ。ロボットアニメと武将ならバトルで戦って勝つ→大当たりってことで,分かりやすい。歌手なら,リーチで歌を流せばいいので分かりやすいんです。リーチや予告の演出で,いかにお客さんを飽きさせないように興味を引き付けるようにするのかっていうんで,オリジナルキャラを開発するよりも,すでに完成されているキャラクターを使った方が,簡単に作れるっていうメーカー側の理屈だと思いますよ」

安藤健二 (2011). パチンコがアニメだらけになった理由 洋泉社 pp.124
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運転免許はセキュリティ?

 男が住む家は,他人名義の借家である。彼によれば,他人になりすまして,運転免許証,銀行口座,クレジットカードなどを取得するのは,容易なことらしい。
 「どうやるんですか」
 私がその方法を訊くと,彼は拍子抜けするほど呆気なく教えてくれた。
 「いちばん簡単な方法は,まず運転免許証をもっていない人物を見つけ出すことですね。その方の住所を調べて,住民票と戸籍をとります。それをもって原付の免許をとるわけです。その際に,写真だけは自分のものにすることですね。免許は身分証明になるから,家を借りたり,銀行口座やクレジットカードをつくることができます。ただ,健康保険だけは入っていないから,病気になったら全額自己負担です」

福本博文 (2001). ワンダーゾーン 文藝春秋 pp.291-292

メジャーになった

 かつて退行催眠や前世療法は,一部の人々にしか支持されていなかった。きわめてマイナーな世界であった。そのため,自己超越セミナーのように,セミナー形式にして参加者を募らなければ,利益を出すことは難しかった。ところが,90年代に入ると,全米でベストセラーになった『前世療法』の影響で,退行催眠を掲げた心理療法家が眼につくようになった。その要因の1つに,いわゆるニューエイジ系のセミナー会社が催眠療法士のコースを開設したことがあげられる。ワン・ネットワークという会社では,95年にヒプノセラピスト(催眠療法士)養成スクールを開設した。

福本博文 (2001). ワンダーゾーン 文藝春秋 pp.154-155

60万人

 「世の中には,簡単に騙されてしまう人間が,少なくとも60万人はいるんですよ。同じ手口の悪徳商法でも,社名が変わっただけで,何度でも騙されてしまう。実は,そういう被害者の名簿が高額で取引されているんです」
 60万人の人間が簡単に騙される。そう喧伝することも名簿業者の“手口”なのかもしれない。60万という人数に根拠があるとすれば,このセミナーを受ける人々は,まちがいなくその中に含まれることだろう。もしかすると,自己超越成功セミナーの受講者名簿は,業者の間でも高値で取引されているのかもしれない。

福本博文 (2001). ワンダーゾーン 文藝春秋 pp.115

初稿を見ればわかる

 初校で,どこに手を入れたのかを筆者が見れば,編集者としての力量は自ずとわかる。文章に手を入れたことで試されるのは,むしろ編集者のほうだ。真面目にやったから,で通るような甘い話ではない。

三浦衛 (2009). 出版は風まかせ—おとぼけ社長奮闘記— 春風社 pp.132

在ることにする

 「言う前にねェだろ」
 この世には神も仏もない。又市はその点に関しては疑ったことがない。身に染みている。
 在りません,と堂庵も言った。
 「でも,在ることにする。例えば,儒者は親を敬う。親の親は更に敬う。親の親の親然り。親の親の親のそのまた親は——」
 「居ねえだろ。死んでるよ。俺なんざ親が居ねェや」
 「はい,死んでます。居ませんな。つまり,親を敬う心は,敷衍すれば先祖を敬う心となる。でも,先祖はもう居ない——ない訳ですな。ないものを敬うことは,これ難しいことだ。でもね,この先祖を敬う気持ちというのが,まあ大概簡単に言ってしまえば,国を造り家を栄えさせる基本になる。生きて行く礎となる」

京極夏彦 (2009). 前巷説百物語 角川書店 pp.340

パチンコ手当

 「子ども手当」は,パチンコ依存症の主婦にとっては,「子ども手当」というよりも「パチンコ手当」なのである。
 子ども手当は,おそらく,簡単にパチンコ台に飲み込まれていくことだろう。たしかに,パチンコをやる女性にとっては,月に1万3000円は助かるだろう。
 子ども手当は,4ヵ月分まとめて銀行に振り込まれるから,5万2000円。1回分のパチンコ代の金額にピッタリである。今のパチンコは,2万や3万の元手では心細くて打てない。2,3万円の金は,すぐに消えていく。4ヵ月分振り込まれる5万2000円の子ども手当は,金額的にもパチンコ1回分なのである。

若宮 健 (2010). なぜ韓国は,パチンコを全廃できたのか 祥伝社 pp.120-121

偽善・欺瞞

 パチンコの問題に限らず,この国には,偽善,欺瞞が蔓延している。
 省エネが盛んに謳われ,エコ,エコと煩わしいほどだが,一方で,自動販売機の設置数は世界一である。24時間モーターを回し続けて電気を浪費し,冷却のモーターから熱を発し続けている。
 2008年末の数字で自動販売機の設置台数は526万3900台,年間売上げは,5兆7478億円余である。自動販売機を減らす機運はまったく見えてこない。野放し状態であるし,むしろ,増え続けている。
 タバコの自販機は成人識別の必要から,減少傾向にあるものの,飲料の自販機は増える一方である。自動販売機を半分に減らせば,原発が一基いらなくなるといわれている。
 都市の美観を損ね,エネルギーを浪費し,モーターから熱を発散させ,ほとんどよいことがない自動販売機が放置されていることに,パチンコ問題と似た構造を思い起こされてならない。
 政治家は,献金してくれる組織には弱いのである。エコノミストも,自動販売機の放置に対して言及する人物はいない。エコノミストも企業には弱いのである。セミナーなどで企業から声がかかり,高額の講演料を手にして企業のお世話になっているからかどうかは知らないが。
 偽善や欺瞞の多い点では,日本は世界のトップクラスなのである。

若宮 健 (2010). なぜ韓国は,パチンコを全廃できたのか 祥伝社 pp.104-105

英語で学ぶ

 先進国・非英語圏に住む日本人は,過去の先人たちの努力のおかげで,大学・大学院レベルまでの知を,母語である「日本語で学ぶ」ことができるという素晴らしい環境にあります。この「日本語で学ぶ」ということに,オープンエデュケーションの「言語を超えた理念」,つまりオープン化による教育の質の向上とか教育のロングテール化といった考え方を適用していくというのが,日本のオープンエデュケーションにおける第1の可能性なのだろうと思います。
 そしてもう1つは,これだけ世界がグローバル化していて,新興国・途上国の人たちもいきなり「英語で学ぶ」ことから始めている時代ですから,日本人だって地球全体を意識して「英語で学ぶ」ことを考えよう,そういう視点で膨大な英語圏コンテンツも含めてのオープンエデュケーションを眺めてみよう,というのが第2の可能性なのだと思います。

梅田望夫・飯吉透 (2010). ウェブで学ぶ—オープンエデュケーションと知の革命— 筑摩書房 pp.230

本を読むほど暇ではない

 僕は,この業界のことをよく知らなかった。知らないからこそ,一般大衆がどう意識しているかが素直に見えていた。たとえば,その頃には「分厚い小説が売れる」という神話が出版界にあった。分厚いものをみんなが読みたがっている,と編集者は口にしていた。小説が大好きな人ばかりの小さなサークルではその通りだったかもしれない。だが,考えてもみてほしい。世の中には沢山面白いことがあって,普通の人たちはそんなに暇を持て余しているわけではない。小説も読みたいけれど,ドラマも見たいし,美味しいものも食べにいきたい。ショッピングがしたいし,友達と話もしたい。豊かな社会になっても,時間は1日24時間で変わらない。勤務時間は高度成長期に比べれば少なくなったかもしれないが,娯楽の選択肢は爆発的に増えている。僕の経験や,学生たちの話によれば,中学や高校のときには,ある程度本を読んだ。勉強もしなければならないが,本は読めた。それが,大学に入ると新しいことに時間を取られる。また,本が好きな人間でも,就職をするともう通勤電車の中でしか本を読んでいる時間はない。

森博嗣 (2010). 小説家という職業 集英社 pp.50

自己成就的予言の効果

 おそらく,もっともたちの悪い問題は,こうしたステレオタイプが自己成就的な性格をもつことだろう。もし黒人たちが,教育面で成功しても雇用主がそれを無視することを見て取れば,彼らは(まったく合理的に)ほかの面に努力を向けようと決断するだろうから,黒人の教育水準はさらに下がる。するとやがて,雇用主たちの暗黙の想定(黒人は白人より知的な資質が劣る)は永続的に厳しい現実として反映されてしまうことになる。
 スポーツとなると,人種的偏見の方向が逆転する。そこでは主流の偏見が黒人に有利に働き,白人を排除するようになる。白人は(とくに強さやスピードが関係するスポーツでは)天性がないという偏見のせいで見すごされがちになる。いっぽう,黒人は天性の才があると思われるのでスポーツにはげむようあと押しを受け,さらに練習をしてもっと成績を挙げ,結果としてもとの思いこみを自己成就させることになる。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.305-306

機会不平等のせいでは

 では,スポーツにおけるアフリカ系アメリカ人の成功はどう説明すればいいのだろうか。なぜあんなに良い成績を挙げるのだろう。それも短距離にかぎらずほかのスポーツでも?
 ひょっとすると重要な点として指摘すべきなのは,プロスポーツの世界では不釣り合いに多いアフリカ系アメリカ人が,経済的な力をもつ地位では不釣り合いに少ないという点かもしれない。これは,アフリカ系アメリカ人のスポーツにおける成功は遺伝の結果ではなく,機会の不平等のせいかもしれないと示唆している。黒人がプロスポーツに流れるのは,ほかの経済生活では参入障壁があるからだ,ということだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.

練習の賜物

 同じことがスポーツでも言える。1900年のパリオリンピックで男子100メートル層の優勝者が11秒という記録をたたき出したとき,それは奇跡と言われた。今日では,そんなタイムでは高校陸上の全国決勝にすら残れない。1924年のパリオリンピックでは,飛び込みの2回転宙返りは危険すぎるとして,ほとんど禁止されそうになった。それがいまやだれでもやる技になった。1896年のアテネオリンピックのマラソン記録は,いまやボストンマラソンの参加登録の足切りタイムより数分速いものでしかなく,何千人ものアマチュアが楽々とクリアできる。
 学問においても,水準は上がるいっぽうだ。13世紀イギリスの学者ロジャー・ベーコンは,数学をマスターするには30年から40年かけないと無理だ,と論じた。ところがいまや,ほとんどあらゆる大学生が解析学まで学ぶようになった。ほかにもいろいろ例はある。
 ここでわたしが言いたいのは,こうした水準の向上は人びとの才能が高まったから起きているのではないということだ。ダーウィン的な進化はそんな短時間で生じるものではない。したがってそれは,人びとがもっと長時間,身を入れて(プロ根性に突き動かされて)うまく練習しているから生じた結果にちがいない。進歩を引き起こしているのは,練習の質と量であり,遺伝子ではない。そして社会がそうなら,個人にも同じことが当てはまると認めてもいいのでは?

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.20

生きるために

 多様性と流動性のあるバザールでは,ネガティブな評価を恐れる理由はない。不都合な評価を押しつけられたら,さっさとリセットして自分を高く評価してくれる場所に移っていけばいいだけだ。だからここでは,実名でポジティブ評価を競うのがもっとも合理的な戦略になる。
 一方,いったん伽藍に閉じ込められたら外には出られないのだから,そこでの最適戦略は匿名性の鎧でネガティブな評価を避け,相手に悪評を押しつけることだ。日本人はいまだに強固なムラ社会が残っていて,だからぼくたちは必要以上に他人の目を気にし,空気を読んで周囲に合わせようとする。伽藍の典型である学校では,KY(空気が読めない)はたちまち悪評の標的にされてしまうのだ。
 日本は世界でもっとも自殺率が高く,学校ではいじめによって,会社ではうつ病で,次々とひとが死んでいく。情報革命はネガティブ情報を癌細胞のように増殖させ,伽藍を死臭の漂うおぞましい世界へと変えてしまった。
 ぼくたちは生きるために,伽藍を捨ててバザールへと向かわなくてはならない。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.246

バザールへ向かえ

 日本的経営とハッカー・コミュニティは,「評判獲得ゲーム」という同じ原理を持っている。一見奇妙に思えるけれど,これは不思議でもなんでもない。モチベーションという感情も,愛や憎しみと同じように,進化という(文化や時代を超えた)普遍的な原理から生み出されるからだ。
 でも両者には,大きなちがいがある。
 世界から隔離された伽藍(会社)のなかで行なわれる日本式ゲームでは,せっかくの評判も外の世界へは広がっていかない。それに対してバザール(グローバル市場)を舞台としたハッカーたちのゲームでは,評判は国境を越えて流通する通貨のようなものだ(だから,インドの名もないハッカーにシリコンバレー企業からオファーが届く)。
 高度化した知識社会の「スペシャリスト(専門家)」や「クリエイティブクラス」は,市場で高い評価を獲得することによって報酬を得るというゲームをしている。彼らがそれに夢中になるのは,金に取りつかれているからではなく,それが「楽しい」からだ。
 プログラミングにかぎらず,これからさまざまな分野で評判獲得ゲームがグローバル化されていくだろう。仕事はプロジェクト単位になり,目標をクリアすればチームは解散するから,ひとつの場所に何十年も勤めるなどということは想像すらできなくなるにちがいない。そうなれば,会社や大学や役所のようなムラ社会の評価(肩書)に誰も関心を持たなくなる。
 幸福の新しい可能性を見つけたいのなら,どこまでも広がるバザールへと向かおう。うしろを振り返っても,そこには崩れかけた伽藍しかないのだから。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.227-228

日本的経営そのものから生じる

 米国型の人事制度は地位や職階で業務の分担が決まるから,競争のルールがはっきりしている。頂点を目指すのも,競争から降りるのも本人の自由だ。それに対して上司や部下や同僚たちの評判を獲得しなければ出世できない日本の人事制度は,はるかに過酷な競争を社員に強いる。この仕組みがあるからこそ,日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれるほど必死で働いたのだ。
 日本的雇用は,厳しい解雇規制によって制度的に支えられている。だがその代償として,日本のサラリーマンは,どれほど理不尽に思えても,転勤や転属・出向の人事を断ることができない。日本の裁判所は解雇にはきわめて慎重だが,その反面,人事における会社の裁量を大幅に認めている(転勤が不当だと訴えてもほぼ確実に負ける)。解雇を制限している以上,限られた正社員で業務をやりくりするのは当然だとされているのだ。
 ムラ社会的な日本企業では,常にまわりの目を気にしながら曖昧な基準で競争し,大きな成果をあげても金銭的な報酬で報われることはない。会社を辞めると再就職の道は閉ざされているから,過酷なノルマと重圧にひたすら耐えるしかない。「社畜」化は,日本的経営にもともと組み込まれたメカニズムなのだ。
 このようにして,いまや既得権に守られているはずの中高年のサラリーマンが,過労死や自殺で次々と生命を失っていく。この悲惨な現実を前にして,こころあるひとたちは声をからして市場原理主義を非難し,古きよき雇用制度を守ろうとする。しかし皮肉なことに,それによってますます自殺者は増えていく。
 彼らの絶望は,時代に適応できなくなった日本的経営そのものからもたらされているのだ。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.226-227

残ったのは絶望のみ

 日本では90年代後半以降,年間3万人を超える人たちが自殺しており,人口十万人あたりの自殺率は旧ソ連とならんで世界トップクラスだ。その原因は「新自由主義による貧富の異格差の拡大」とされるが,ぼくはずっとこの説明が不満だった。“市場原理主義”の本家であるアメリカの自殺率は,日本の半分以下しかないからだ(日本の自殺率25に対し,アメリカ,カナダ,オーストラリアは10,イギリスは5)。
 だが日本的経営の「神話」から自由になって,“悲劇”の原因がようやく見えてきた。高度成長期のサラリーマンは,昇給や昇進,退職金や企業年金,接待交際費や福利厚生などのフリンジベネフィット(現物給付)によって大嫌いな仕事になんとか耐えていた。ところが「失われた20年」でそうしたポジティブな側面(希望)があらかた失われてしまうと,後には絶望だけしか残らない。このグロテスクな現実こそが,日本的経営の純化した姿なのだ。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.225

常識のない信用は自殺行為

 マルチ商法の被害者に決定的に欠けていたのは社会常識だ。預金金利が0.1パーセントの時代に,元本保証で年利36パーセントの投資商品など存在するはずがない。だけどおおくの人は,こうした経済(経済学ではない!)の常識にまったく興味を持たず,楽してお金が儲かることを夢見て漫然と日々を過ごしている。
 社会的な知性の高いひとは,他人を信用する。だけど,社会常識のないままに他人を信用するのは自殺行為だ。
 どこまでもつづくマルチ商法の被害者の群れは,ぼくたちにそのことを教えてくれる。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.188

友情のない世界

 友だちのいない世界では,愛情空間は夫婦や親子,恋人単位に最小化し,人間関係はますます濃密で複雑になっていく。ぼくたちはもともと,他人と共感し,他人から大切に扱われることに喜びを感じるようにつくられている。かつてはこうした人間関係はムラ的な共同体に分散されていたけれど,いまではごくかぎられた1人か2人にすべての感情が集中している。
 最近の小説や映画には,自分を中心とする小さな世界を微に入り細をうがって描くものがやたら多い。こうした得意な心象風景がなんの違和感もなく共有されるのは,ぼくたちがみな社会の片隅で,自分だけの小さな世界を守りながらばらばらに暮らしているからだ。
 世の良識あるひとたちは,ひととひととのつながりが薄れてきたことを嘆き,共同体の復権を望んでいる(最近ではこれを「新しい公共」という)。でもぼくは,こうした立場には必ずしも与しない。彼らの大好きな安心社会(ムラ社会)は,多くの人たちに「安心」を提供する代わりに,時にはとても残酷な場所になるからだ。
 政治空間の権力ゲームでは,仲間(友だち)から排除されることは死を意味する。いじめが常に死を強要し(「死ね」はいじめのもうひとつの常套句だ),いじめられっ子がしばしば実際に死を選ぶのは,人類史(というか生物史)的な圧力の凄まじさを示している。友情は,けっしてきれいごとではない。
 それに対して貨幣空間は「友情のない世界」だから,市場の倫理さえ遵守していれば,外見や性格や人種や出自は誰も気にしない。学校でいじめられ,絶望した子どもたちも,社会に出れば貨幣空間のなかに生きる場所を与えられる(そしてしばしば成功する)。これはとても大切なことだ。ぼくにはいじめられた経験はないけれど,学校生活に適応できたとはとてもいえないから,こころからそう思う。
 その一方で,「友情のない世界」がバラ色の未来ではないことも確かだ。そこでは自由と自己責任の原則のもとに,誰もが孤独に生きていかなければならない。愛情も友情も喪失し,お金まで失ってしまえば,ホームレスとなって公演の配食サービスに並ぶしかない。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.146-147

政治空間と貨幣空間

 政治空間の基本は,敵を殺して権力を獲得する冷酷なパワーゲームだ。それに対して貨幣空間では,競争しつつも契約を尊重し,相手を信頼するまったく別のゲームが行われている。人間社会に異なるゲームがあるのは,富を獲得する手段に,(1)相手から奪う(権力ゲーム),(2)交易する(お金儲けゲーム)という2つの方法があるからだ。
 政治空間の権力ゲームは複雑で,貨幣空間のお金持ちゲームはシンプルだ。誰だって難しいより簡単なほうがいいから,必然的に貨幣空間が政治空間を侵食していく。この傾向は,中間共同体ではとても顕著だ。
 中間共同体とは,PTAや自治会,会社の同期会のような「他人以上友だち未満」の人間関係の総称だ。日本や欧米先進諸国では,貨幣空間の膨張によってこうした共同体が急速に消滅しつつある。PTA活動や自治会活動は面倒臭いから,お金を払ってサービスを購入すればいい,というわけだ。
 中間共同体が消えてしまうと,次に友情空間が貨幣に侵食されるようになる。友だちというのは,維持するのがとても難しい人間関係だ。それによくよく考えてみれば,たまたま同級生になっただけの他人が,思い出を共有しているというだけで,自分にとって「特別なひと」になる合理的な理由があるわけではない。だったら友だちなんていなくても,貨幣空間の人間関係(スモールワールドのネットワーク)があれば充分だと考えるひとが増えてきたのだ。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.144-145

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