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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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それは本当に問題なのか?

 少子化は,本当に解決すべき「問題」なのでしょうか?確かに,世の中が住みよくなって,その結果,少子化が解消すれば素晴らしいことだと思います。ただ,子どもが減って大変だから子どもをつくれというのは,もっともではありますが,他に方法はないのでしょうか。
 少子化で生じる問題は,少子化を解消しなければ解決できないというわけではありません。少子化が進むなら,別の方法で埋め合わせることを考えてもよいのではないでしょうか。

 私たちは,まるで初めから問題が決まっているような気分になっていますが,ここでちょっと立ち止まって,「この問題は,本当に問題なのか?」ということを疑ってみてもよいのでは,と思います。

 問題を考えるときの最大の罠は,問題にすべきでないことを問題にしてしまうこと,そして,問題にすべきことを問題にしないことにあるのです。

神永正博 (2010). 未来思考:10年先を読む「統計力」 朝日新聞出版 pp.272-273
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非正規雇用のリスク加算

 私見ですが,非正規雇用が増えていること自体が問題なのではなく,「非正規雇用者の待遇が,リスクの割によくないこと」が問題なのではないでしょうか。
 報道をみていると,まるで「非正規雇用者の増加=悪」であるかのように,枕詞化してしまっています。しかし,非正規雇用者が皆,悲惨な生活を送っている,というのは事実に反していますし,そもそも,非正規雇用の方が好都合な人もいるはずです。むしろ,雇用のシステムが旧式で,現状に適応しきれていないことを問題にすべきなのではないかと思います。

神永正博 (2010). 未来思考:10年先を読む「統計力」 朝日新聞出版 pp.192-193

経済的自立は恵まれている

 経済的に自立していないのはけしからん,という意見もありますが,今の状況で経済的に自立するのは大変です。むしろ,経済的に自立できる人は恵まれた人だと思った方がよいのではないかと思います。
 例えば,結婚後に子どもが生まれて退職した女性を考えてみましょう。彼女は確かに,経済的に自立してはいません。経済的に恵まれない家に育ち,やむなく高校を中退した人も,自立できるほど稼げないかもしれません。会社をリストラされて次の仕事がみつからない元サラリーマンは,経済的に自立してはいないでしょう。彼らはけしからん存在でしょうか。
 私は今のところ経済的に自立していますが,将来何があるかわかりません。重い病気になって働けなくなるかもしれませんし,大学をクビになるかもしれません。そういう可能性は,誰にでもあるのではないでしょうか。

神永正博 (2010). 未来思考:10年先を読む「統計力」 朝日新聞出版 pp.116-117

実施されなかった試み

 1990年代に,英国下院のある委員会は,空港の待合所に飛行機の客室のシミュレーターを設置することを提案した。そうすれば,乗客は長々と説明を受けていた救命手段のいくつかを実際に練習する機会が得られるのだ。離陸を待つ間にむっつりとケーブルテレビのニュースを見つめる代わりに,非常口を開けたり,救命胴衣を膨らませたり,酸素マスクを付けたりすることができる。何ていい考えだろう!だがそのアイデアはひっそりと消えていった,とクランフィールド大学航空安全センターの元所長,フランク・テイラーは回想する。「英国民間航空局は,きちんとした検討をまったくせずに却下したのだ」と彼は言う。「当局は改革などということはまったく考えたくなかったようだ。人手不足なので,すぐに利益が見込めないことはやらないのである」
 同様に,アメリカの高等教育の多くが,経費削減と訴訟への恐れから,自動車教習の授業を中止した。学校はタイプライターの技能は教えるが,事故死の最大の原因から子供たちを守るためにはもはや何もしない。多くの州では,子供たちは現在,両親から運転を学んでいるが,それはとんでもない考えである。テキサス運輸研究所が2007年に行なった調査によると,両親に運転を教えられたティーンエージャーが重大な事故に巻き込まれる可能性は,プロに教えてもらった場合の2倍い上なのである。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 pp.361-362

知られていないこと

 2005年7月7日,テロリストがロンドンのバスや地下鉄を攻撃し,52人が死亡した。その後の調査で,ロンドンの広範囲にわたる監視カメラ網が役に立ったと大いに賞賛された。だがその科学技術が,電車に乗っていた一般市民にはいかに無用であったかということはあまり知られていない。テロ攻撃時の対応に関する公式の報告書によって,1つの「何よりも重要な,かかすべからざる教訓」がわかった。つまり,緊急事態計画は,一般市民ではなく,職員の非常時の必要性を満たすようになっていたのである。その日,乗客たちは,爆発があったことを電車の運転手に知らせる手段もなかった。脱出するのも困難だった。電車のドアは乗客が開けられるようにつくられてはいなかった。あげくの果てに,乗客たちは負傷者の手当てをするための救急箱を見つけることさえできなかった。救急用品は,車内ではなく,地下鉄の管理者のオフィスにしまってあることがわかったのだ。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 p.19

偶然は因果よりも基本的概念

 人事における決定権は,いくつかの理由で,ラプラスがほのめかした予測可能性の要件を満たしていない。第1に,われわれが知るかぎり,社会は物理学のように明確な基本的法則に支配されてはいない。逆に,人間の行動は予測不可能であるだけでなく,カーネマンとトヴァスキーが繰り返し示したように,(自身の最善の利益に反する行動をとるという意味で)不合理である。第2に,たとえわれわれが人事の法則を発見したとしても,ケトレーが試みたように,世の中の状況を正確に知ったりコントロールしたりすることは不可能である。ローレンツ同様,われわれは予測するのに必要な正確なデータを手にすることができない。そして第3に,人事はこのうえなく複雑だから,たとえわれわれがその法則を理解しデータを手にしていたとしても,必要な計算を行えるかどうか,疑わしい。だから決定論は,人間の経験に対してはお粗末なモデルである。ノーベル物理学賞を受賞したマックス・ボルンが書いているように,「偶然は因果よりも,より基本的な概念である」のだ。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.288-289
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

だから〇〇は

 不正な使用によって何か悪いことが起きたりすると、それはインターネットが広まったから起こったのだという考えに偏る傾向があります。そうすると問題はインターネットにあることになり、極端な話が、「だからインターネットを使わない」という結論となりうるわけです。これでは元になっている本質的な問題は解決されません。
 大切なことは、人類がこれまで問題を解決してきた方法と経験を生かすことです。本来私たちが責任を担っていること、たとえば子供の教育に対して責任を持つということ、あるいは人を傷つけるような犯罪行為はいけないということは、人間の社会の中でコンセンサスのあることです。ただしそれぞれの問題にどのように対応すべきかは違っていて,個々の問題の本質を理解しないと解決できないということを,私たちは知っているはずなのです。

村井 純 (2010). インターネット新世代 岩波書店 p.122

意識されないくらい当然の

 クラウドコンピューティングにおける分散処理の技術には,データやコンピュータがどこにあるのかといった物理的な情報を利用する側に意識させず,隠蔽していく中で,単純で抽象化されたサービスを提供するという使命があります。抽象化して透明にすること——これが分散処理の永遠の美学であることはすでに述べましたが,科学としてのその重要性は,透明に近い抽象化により直感的に利用できるようになっていれば,情報技術は人間の創造性を尊重し,人間の活動を自然に支援することができるという点にあります。つまり,人間がやりたいことに専念できる環境を構築できるのです。そのためには,ネットワーク越しであることが意識されないくらいの,高速で,快適で,安心なインターネットが地球全体になければいけないのです。

村井 純 (2010). インターネット新世代 岩波書店 p.103

私たちが手に入れた社会基盤

 アナログ時代の縦割り社会では,分野ごとに機能する仕組によって社会は成り立ってきました。これに対して,医療,教育,環境問題など,人が関わるすべてのことをデジタルコミュニケーションの中で共通に考えていく基盤を私たちは手にしました。
 少子化社会の中で,デジタルコミュニケーションが教育に対してどのような役割を果たせるか。高齢化社会には,ポータブルデバイスは人の健康に対する大事な使命を持つのではないか。デジタルコミュニケーションの基盤であるインターネットは,さまざまな課題の共通の基盤として貢献しなければなりません。共通の基盤となれば,コストを軽減することができます。問題の解決にコンピュータやデジタル情報の流通が貢献し,そのためにインターネットの基盤が展開する。インターネットとは一見無関係なさまざまな課題に,インターネットによって取り組む可能性が広がってきています。

村井 純 (2010). インターネット新世代 岩波書店 p.47

ゼロから発明はなされない

 実際に「XがYを発明した」として知られる発明の陰にも,あまり知られていない先駆者が存在する例は多い。たとえばわれわれは,ジェイムズ・ワットは,やかんから立ちのぼる湯気にヒントを得て,「1769年に蒸気機関を発明した」と聞かされている。しかし,これはよくできた作り話であって,ワットが発明を思いついたのは,トーマス・ニューカメンが57年前に発明し,100台以上が製造されたニューカメン型蒸気機関を修理していたときである。そして,ニューカメンの前には,英国人のトーマス・セイヴァリーが1698年に蒸気機関で特許をとっていた。そして,セイヴァリーの前には,1680年頃にフランス人ド二・パパンが蒸気機関を設計していた(しかし,実際に作製はしていない)。しかも,パパンの前にも,オランダ人の科学者クリスティアーン・ホイヘンスをはじめとする先駆者がいて,蒸気機関に着目していたのである。もちろん,こうした事実があるからといって,ニューカメンがセイヴァリーの蒸気機関を大幅に改良した事実や,ワットが(分離型蒸気コンデンサーと複動エンジンを組み合わせて)ニューカメン型蒸気機関を改良した事実が否定されるわけではない。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.55

「発明は必要の母」である

 これらの事例は広く知られている。そしてわれわれは,著名な例に惑わされ,「必要は発明の母」という錯覚におちいっている。ところが実際の発明の多くは,人間の好奇心の産物であって,何か特定のものを作りだそうとして生みだされたわけではない。発明をどのように応用するかは,発明がなされたあとに考えだされている。また,一般大衆が発明の必要性を実感できるのは,それがかなり長いあいだ使い込まれてからのことである。しかも,数ある発明の中には,当初の目的とはまったく別の用途で使用されるようになったものもある。飛行機や自動車をはじめとする,近代の主要な発明の多くはこの手の発明である。内燃機関,電球,トランジスタ(半導体)。驚くべきことに,こうしたものは,発明された当時,どういう目的で使ったらいいかがよくわからなかった。つまり,多くの場合,「必要は発明の母」ではなく,「発明は必要の母」なのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.52

ゼロから考案する困難さ

 まったくゼロの状態から文字システムを考案することは,既存のシステムで使われているものを拝借するのにくらべ,比較にならないほどむずかしい。発話,つまり,コミュニケーションの目的で人間が発する一連の音素を最初に文字で表そうとした人は,いま,われわれがあたりまえと思っている言語学的法則を,自分で見つけださなければならなかった。たとえば,区切りのない音の連続的なつながりに聞こえる発話を文字で表すためには,その発話を記述可能な単位要素の並びにまで分解できなければならない。表記対象が音素であれ,音節であれ,あるいは単語であれ,この過程を省略して,発話を表記できる文字システムを作りだすことはできない。また,人の発話は,誰でも同じではない。話し声の大小,甲高さ,しゃべるスピードなどは各人各様である。だが,そうした発話上のバリエーションは意味に影響せず,文字での表記においては無視できる。そんなことでさえ,最初に文字システムを考案した人は自分で気づかなければならなかった。そのうえで,単位要素として取りだされた音を記号で表す方法を考案しなければならなかったのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.18

第二新卒の意義

 第二新卒は,ある面,新卒採用失敗者のセーフティネット的な役割を果たしていると見ることができる。今の時代,一度失敗したら立ち直れない時代ではない。失敗の理由を明らかにし,それがわかったことを武器にすることができるのだ。
 もし読者の中に,新卒として就活に失敗した方や,その親御さんがいらっしゃるなら,悲観せずにすぐ就活を開始することをオススメする。第二新卒は,離職してからブランク期間が長いと,鮮度が落ちるからだ。企業側は,働いていないブランク期間の長い若者を嫌う。そのブランク期間に,意欲の弱さ,社会適応力の弱さを感じるからだ。自分の若さは,何者にも代え難い武器であると認識し,大事にしてもらいたい。

中村昭典 (2009). 親子就活:親の悩み,子どものホンネ アスキー・メディアワークス p.70

豊かな者はふつうに使おう

 そして目の前の不況から社会がよりよい方向に進むために,よりよい道筋に社会が向かうためにもう一つ大切だと僕が考えることがある。
 それは「豊かな者が,なるべくお金を使うようにする」ということだ。
 「ノブレス・オブリージュ」という言葉があるとおり,ある程度の資産を持つ者は,社会に対して義務を果たすべきである。
 とはいえ僕が言いたいのは,たとえば,豊かな個人はなるべくおいしい高級料理店で外食したり,自宅のリフォームをするといったこと。法人であれば,設備投資を行ったり,企業を買ったりするようにすることだ。
 できる範囲内でもちろん構わない。そうやって「お金を使うこと」を,社会のために心がけてはどうだろう。
 とにかく目の前の経済成長のためには支出の増加が必要である。
 厳しい状況に追い込まれて支出を切り詰めざるを得ない者が増えている状況下では,まずは余裕のある者から支出を再開することで,社会に還元していく気概を持たなくてはいけないと思う。
 これは豊かな者自身にとっても,決して悪いお金の使い方ではないはずだ。不況時のほうが,そうでないときよりも投資額は安く有利にできるのだから。同じ支出であっても,ただ“義務”としてするのではなく,自らの欲望,野望を解き放つことで支出を拡大し,それが社会への還元にもなると考えればいいのである。

鈴木貴博 (2009). 会社のデスノート:トヨタ,JAL,ヨーカ堂が,なぜ? 朝日新聞出版 pp.219-220

高付加価値高価格のサービスに走りがち

 日本の国内線と比較して,アメリカの国内線のファーストクラスのサービスはずっと簡素である。エコノミークラスとの違いはサンドイットが出るか出ないかの差ぐらい。ドリンクのサービスは好きなビバレッジ(飲み物)が1つ選べるという意味ではエコノミークラスとの差はない。一応念のために言っておくと,座席は広いけどね。
 機内サービスという面で見れば,アメリカの航空会社のサービスには日本人富裕層は顔をしかめるかもしれない。日本国内ではキャビンアテンダントがうやうやしく飲み終わった紙コップを磨きこまれたしなやかな指先でやさしくつまみながら下げてくれる。ところがアメリカの機内では,
 「はーい,ゴミー。ゴミは投げてねー(ちょっと大げさな訳だけど,本当にこんな感じだ)」
 とキャビンアテンダントがゴミ袋を広げながら通路を往復する。プラスチックコップをゴミ袋に投げるのは,ここでは客の仕事なのだ。
 それでいてアメリカの国内線の方が圧倒的に機内サービスが悪いのかというと,そうではないところが面白い。
 アメリカの国内線では限られた人数のキャビンアテンダントがサービスしながら,飲み物のチョイスはエコノミークラスでも日本よりもはるかに多い。ノンアルコールの飲み物でもコーラ,ダイエットコーラ,スプライト,ダイエットスプライト,ジンジャエール,オレンジジュース,アップルジュース,アイスレモンティ,トニックウォーターそして水の中から好きなものを選べる。
 ところが日本の航空会社のサービスでは,見た目のキャビンアテンダントの人数は多いわりには,1人ひとりのサービスに時間がかかって,なかなか僕のところまでサービスが回ってこない。ようやく順番が来たと思ったら,ひところは飲み物の選択肢がお茶かコーヒーかスープの3種類しかないなんて時期もあった。
 よく言えば日本人が提供するサービスはとても丁寧だ。だが悪く言えば日本人が提供するサービスは生産性が悪い。
 だから日本人はどうしても生産性の悪さをカバーするために,高付加価値高価格のサービスを提供するほうに走ってしまいがちになる。
 そして問題は,小さなプレイヤーならばそれでも生き残れる道があるのだが,巨大な企業になってしまうと,その方向は市場を縮める死の方向に一致してしまうのだ。

鈴木貴博 (2009). 会社のデスノート:トヨタ,JAL,ヨーカ堂が,なぜ? 朝日新聞出版 pp.176-177

不正コピー容認の背景

 そして,そのときが来た。中国は以前よりも豊かになり,コンピュータは安くなった。今の流行は,機能を絞り込んで価格を250ドル程度にしたラップトップのネットブックだ。マイクロソフトはネットブック用のOSを,通常版の4分の1以下の約20ドルで提供している。不正コピーによってユーザーはマイクロソフトの製品を使っているので,新しい製品を選ぶときも必然的にマイクロソフトを選ぶようになった。数十年に及ぶ不正コピーの時代を経て,今日の中国では海賊版市場と並んで有料の市場も巨大になっている。マイクロソフトが優位を保つなか,消費者はより金持ちになり,無認可ソフトを手に入れるための面倒をがまんできなくなってきたのだ。ゲイツの戦略は,不正コピーを根絶しようときびしい措置をとるのではなく,ある程度低い水準に保つための対策をするだけだったが,それが功を奏したのだ。

クリス・アンダーソン 高橋則明(訳) (2009). フリー:<無料>からお金を生み出す新戦略 日本放送出版協会 p.137

iPodの意義

 iPod発売以前には,誰もポケットの中に自分の音楽コレクションすべてを持っていたいとは思わなかった。だがアップル社のエンジニアは,記憶容量が潤沢であることの経済的意味を理解していたのだ。彼らは,コスト当たりのディスクドライブ容量が増えるペースは,プロセッサよりも速いことを見てとった。巨大な音楽カタログを持ち歩きたいという需要がiPodの開発をうながしたのではない。物理学と工学がうながしたのだ。アップルのエンジニアたちは,ミードの言葉を借りれば,「テクノロジーの声を聞いた」だけだった。
 彼らは2000年に東芝がおこなった発表に注目した。「近いうちに,1.8インチのハードディスクに5ギガバイトを記憶できるようになります」。それはどのくらいの記憶容量だろうか。トランプのカードよりも小さなドライブに音楽が1000曲納められるくらいだ。そこでアップル社は単純にそのテクノロジーを製品化して発売した。すると,供給はみずからの需要をつくり出した。消費者は自分の音楽ライブラリを持ち歩くことなど考えてもみなかったが,いざそれができるとなったら,たちまちその便利さを理解した。すべての音楽を持っていれば,今日は何を聴こうかといちいち用意する必要はなくなるのだ。

クリス・アンダーソン 高橋則明(訳) (2009). フリー:<無料>からお金を生み出す新戦略 日本放送出版協会 pp.121-122

潤沢さの意味

 潤沢さを広い視点で見ると,他の国からの豊富な労働力をもたらすグローバリゼーションなど,すべてを押し流す影響力を持つものもある。今日,衣服などの生活必需品はとても安いので,使い捨てが普通だ。1900年に,もっとも基本的な男性用肌シャツは(Tシャツと布地も縫製もほぼ同じもの),アメリカで卸売価格が約1ドルだった。安くはなく,小売段階ではさらに高くなっていた。その結果,平均的アメリカ人はシャツを8枚しか持っていなかった。
 今でも,Tシャツの卸売価格は1ドルだ。しかし今日の1ドルは100年前に比べ,25分の1の価値しかないので,100年前のシャツ1枚は今のTシャツ25枚分に相当する。そのため,今では誰も古着を着る必要はなく,ホームレスの中にはシャワーや洗濯の機会よりも,タダで服を着られる機会のほうが多いので,しばらく着ると捨ててしまう者もいる。

クリス・アンダーソン 高橋則明(訳) (2009). フリー:<無料>からお金を生み出す新戦略 日本放送出版協会 p.70

強運と技能を見分けるのは難しい

 たしかに彼らの投資成果はストロング・フォームでの市場効率性に対する反例にはなりうるが,それはさほど決定的な反証というわけではない。平均は常に一部のマネジャーの平均以上の成績が含まれている。だが,彼らの優れた成績は単なる強運の結果にすぎない,ということはありうる。ちょっとみただけでは,強運と技能とは見分けにくいからである。
 例えばピーターとポールがコイン投げをして,どちらが多く裏か表か言い当てられるか競争したとしよう。その結果は,我々が抱く直観を裏切るものがある。彼らが2万回コインを投げて,当たりの累計を記録していくとしよう。このゲームの途中では相手をリードしている状態が,どちらのプレーヤーにもほぼ半分の確率であるだろうか?否,きわめて疑わしい!裏であれ表であれ,2万回のすべてで一方が相手をリードしつづけて終わる確率は,1万回対1万回の引き分けで終わる確率よりも156倍も多い。一見すると技能と一貫性であるかにみえるものも,実はたんなる偶然にすぎないことが多い。

ピーター・L・バーンスタイン 青山護・山口勝業 (2006).証券投資の思想革命(普及版) p.212

我々は市場平均を上回れない

 この論理の展開はあまりにも心地よくないので,その長所は見失われがちである。たとえ最善の情報をもってしてもほとんどの人々は市場平均を上回れそうにない(そして最善の情報がない場合は平均よりも悪い結果になりそうである)というアイデアは,他人よりも優れた情報を持っていると信じている投資家すべてに対する侮辱に聞こえる。この憂鬱な結論のゆえに,プロの投資家たちの業界がアカデミックな理論に敵対感情を抱くようになったのである。この論理はむしろ,情報を持っている投資家たちを動かしている貪欲さ,知性,利己心などに対する賞賛である,ということに彼らは気がつこうとしなかった。もしも富を追求することに多くの投資家が熱心でなくなったら,熱心で動きの速い人々にとっては,市場に打ち勝つことがもっと容易になってしまう。

ピーター・L・バーンスタイン 青山護・山口勝業 (2006).証券投資の思想革命(普及版) pp.200-201

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