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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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出生率低下について

 私は現在進行している日本の出生率低下は,人口転換の最終局面を実現するプロセスではないかと考えている。出生率の低下によって間もなく始まる人口減少や著しい少子高齢化はわれわれにとって初めての経験である。しかしだからといって悲観することも,あわてて出生率の反転上昇を期待して資金や時間を投じることもない。
 人口停滞を高度経済成長期以後の経済停滞や,豊かになった社会でいつまでも成熟しない若者の身勝手によるものと考えられることが多い。このような説明は反面はあたっていると言えそうである。なぜならば,歴史的に見て人口の停滞は成熟社会のもつ一面であることが明らかだからである。縄文時代後半,平安時代,江戸時代後半がそうであったように,人口停滞はそれぞれの文明システムが完成の域に達して,新しい制度や技術発展がないかぎり生産や人口の飛躍的な量的発展が困難になった時代に起きたのである。人口停滞は文明システムの成熟化にともなう現象であった。

鬼頭 宏 (2000). 人口から読む日本の歴史 講談社 pp.268-269
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人口制限の評価

 江戸時代の人々は,なぜ危険がいっぱいで悲惨な方法を用いてまで人口制限を行なおうとしたのだろうか。間引や堕胎は時代,地域を越え,さらに階級を越えて実行されていたという。下層武士(旗本)のあいだでさえそれは常識であった。これらの行為は農村の貧窮,都市の道徳的退廃の結果であると主張され,その非人道的な面が非難される。確かにその通りに違いない。
 しかし立場を変えて経済学的な目で見ると,別の評価を下すことも可能となる。通説に反して,人口制限は真の困窮の結果ではないと見る立場が増えている,むしろ人口と資源の不均衡がもたらす破局を事前に避けて,一定の生活水準を維持しようとする行動であったというのである。その見方を受け入れるならば,堕胎も間引も幼い命の犠牲の上に,すでに生きている人々の生活を守ろうとする予防的制限であった。生産の基盤も,技術・知識の体系も現代とは異なる社会であったことを理解しなければならないだろう。結果的に出生制限の幅広い実践は前近代経済成長を助け,1人あたり所得を引き上げることに成功したと考えられる。それが19世紀後半に工業化の過程へ離陸するさいに,日本と中国の歴史的運命を決定する重要な原因だったとする仮説がたてられていることは,すでに指摘しておいた。

鬼頭 宏 (2000). 人口から読む日本の歴史 講談社 pp.214

ボクサーの金銭問題

 だが,残念ながら状況は変化した。アリの経済状態がその理由だった。責任はあちこちにあった。だが,多くのボクサーたちにとっての問題とは,引退した瞬間にそれまでの現金収入が突然途絶えてしまう事実に対処できないということだ。彼らは,引退後の生活を予め考えたりしない。彼らが勘定できるのは,今日の出費などはビッグマッチ1つもこなせば十分に賄えるということだけだった。そして請求書や税金,コンサルタントや弁護士への支払いなどが突然滞る。(さらに大抵のボクサーの場合,悪徳のマネージャーやプロモーター,“友人”と自称して彼を利用する輩が寄ってたかっては搾取する)。そしてある日,たった一晩の仕事で何万ドルもの金を捻出できるはずだった人間が,自分が破産したことを発見するのだ。

スティーブン・ブラント 三室毅彦(訳) (2004). 対角線上のモハメド・アリ MCプレス Pp.348-349

他人の都合で大事な時間を無駄にしている暇はない

 しかし,だからといって,そのままの日々を過ごしていたのでは,何も変わらない。もし,本当に職場環境が悪くて,目標が達成できないと思うのなら,周囲の人と腹を割って話し合ってみてはどうだろうか。
 もしかしたら,彼らもその話を聞いて奮い立ち,あなたと同じ目標に向かって歩み出してくれるかもしれない。もしかしたら,どこかであなたについて誤解して,遠慮していたところがあるのかも知れない。
 逆に,話をしたことで関係が悪くなり,会社での仕事がやりにくくなるようなこともあるかもしれないが,それはそれでいい発見だ。その上司や同僚とは,それ以上,うまくやっていけない,ということがハッキリする。上司のさらに上の人に相談して,問題を解決できないようであれば,転職など他の方法を考えるときだろう。
 あなた自身が本当に大きな目標を持っているのであれば,他人の都合で人生の大事な時間を無駄にしている暇などないはずだ。

林 信行 (2008). アップルの法則 青春出版社 Pp.206-207

各自で考えて行動する

 アップル社に入社した知人の話を聞くと,入社してすぐはとまどうことが多いという。何をやったらいいのかがまったくわからないからだ。
 日本の会社のように,入社したての社員に仕事のやり方を1つ1つ丁寧に教えてくれる親切な同僚はなかなかいない。
 自分のどのような能力が買われて雇われたのかは,雇用時の契約で決まっているので,あとはそこから何をすべきなのかを自分で判断して,自分で行動する。アップルでは,何よりもこうした自立心が求められる。
 ちょっとした事務手続きにしても,わからないことはあるだろう。そうしたら,周りの人に聞けばいい。ゼロから教えてくれる社員はいないが,質問をしたら進んで答えてくれる社員ばかりだ。
 ノルマの仕事をこなしている限り,1人1人の社員に,それなりの裁量権は与えられている。
 アップルの組織は,非常にオープンで,スティーブ・ジョブズの時代になってからは,仰々しい重役室もなくなり,ジョブズや重役人と平社員でも活発に議論ができる社風がある(もっとも,緊張する社員も多いようだが)。
 ちなみに,これは米国本社だけの話ではない。
 アップル日本法人には開発部隊はおらず,基本的に,マーケティングや販売,サポートなどの人材しかいないが,直営店のスタッフの1人1人まで,どう行動するのがアップルにとってためになるか,各自で判断して行動している。

林 信行 (2008). アップルの法則 青春出版社 Pp.201-202

品質管理の違い

 ただ,いろいろなメーカーのデザイナーやエンジニアに話を聞くと,アップルの品質管理部門と,日本のメーカーの品質管理部門では,そもそも向いている方向性が違う印象がある。
 日本のメーカーのエンジニアやデザイナーにとって,品質管理部門は恐ろしい部署のようだ。「こんなに薄かったら,顧客から『壊れやすい』という苦情がくる」,「こんなに熱くなったら,顧客から『低温ヤケドになる』と苦情がくる」と製品の悪いところを見つけてはダメ出しをかけてくる。
 その結果,どんなにかっこいい製品をデザインしても,どんなに“エッジのきいた”先進的製品を開発しても,最終的には角の取れた特徴のない製品に仕上がってしまう,と不平を言うエンジニアやデザイナーが多い。
 これに対して,アップルの品質管理部門は,「我々がアップル品質の門番」という姿勢で「このレベルでは,まだまだアップルが目指すクールさを十分に発揮できていない」,「ここの仕上げは,(コストを上げずに)まだまだよくできる」といった具合に,前向きに管理していると聞く。
 もっとも,これは日本企業の品質管理部門が悪いということではなく,品質管理部門と製品企画,開発といったチームの間で,同じゴールが共有できていないのではないかと思わされる。


林 信行 (2008). アップルの法則 青春出版社 Pp.192-193

すべての人間に好機を与えられる社会を

 よりよい世界を築くためにわれわれに求められることは,成功者を決める幸運や気まぐれな優位点,タイミングのいい誕生日や歴史の幸せな偶然の代わりに,すべての人間に好機を与える社会を築くことだ。1年の後半生まれの子どもを対象とする第2期アイスホッケーリーグがカナダにあったら,現在の2倍のスター選手が生まれていただろう。そのようにして花開いた才能を,あらゆる分野や職業で掛け算してみればいい。世界は,いまよりもずっと豊かだったのかもしれない。

マルコム・グラッドウェル 勝間和代(訳) (2009). 天才!成功する人々の法則 講談社 pp.304

大量破壊兵器を有するのは難しいこと

 兵器をどこかから手に入れるのは難しいとしても,自分で作るという手が残っている。多くの報道によって,まるでインターネットで手に入る製法と何本かの試験管さえ手に入れば大量破壊兵器を自分で製造できるとでもいうような印象を与えられている。幸いなことに「大量の死傷者と大量破壊を実際にもたらす兵器を開発しようとするテロリストが直面する障害は,一般に想像されているより膨大である」とギルモア委員会が書いている。「この報告書では,比較的少人数を負傷させるか,実際に殺すことのできる生物兵器か化学兵器をテロリストが製造し,散布することができないと主張しているのではない。……ことによると,何百人というかなり多い数の死傷者をもたらすことさえあるかもしれない。大事な点は,何千人どころか何万人も殺せる大量の死傷者を出す兵器を実際に製造するには,目的に合った科学や技術の分野の高度な大学教育や,かなり大きな財源,入手可能だが非常に複雑な装置や設備,兵器に確実に効力を発揮させるための厳密な検証,効果的な散布手段の開発と運用を必要とするということである」。これらの要求は非常に大きなものであるため,「少なくとも今のところ,既存のテロリスト組織の大多数だけでなく,多くの既成の国家にとっても手が届かないように思われる」。同じ年に出版された議会図書館の報告も同様の結論を出している。「大量破壊兵器は,新聞や雑誌において一般に述べられているより製造または入手するのがかなり難しく,おそらく,今日依然としてほとんどのテロリスト集団の手の届かないところにあると思われる」


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.384-385
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

テロは何件起きているか

 RAND-MIPTテロリズム・データベース(利用可能なデータベースの中で最も包括的なもの)によると,1968年から2007年4月のあいだに,世界全体で,1万119件の国際テロリストによる事件があった。これらのテロ攻撃によって1万4790人が死亡しており,世界全体の1年間の平均死亡者数は379人となる。あきらかに,あの9月の朝に世界が目にしたことは,それ以前あるいはそれ以後と完全に異なっていた。テロはおぞましいものであり,テロがもたらすあらゆる死は悲劇であり罪悪である。しかし,それでいてなお世界全体の1年間の死亡数379というのは,非常に小さな数である。2003年に,米国だけで,497人が事故によりベッドで窒息死し,396人が事故により感電死し,515人がプールで溺死し,347人が警察官に殺された。そして,1万6503人の米国人が犯罪者によって殺されている。


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 p.379
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

成功とは累積するアドバンテージ

 成功とは,社会学者が好んで呼ぶ「累積するアドバンテージ」の結果である。プロのアイスホッケー選手は最初,同じ年齢の仲間よりほんのちょっとだけホッケーが上手だった。そして小さな差が好機を招き,その差が少し広がる。さらに,その有利な立場が次の好機を招く。こうして,最初の小さな差がますます大きくなり,延々と広がって,少年は本物のアウトライアーになる。だが,この少年はもともとアウトライアーだったわけではない。ほんのちょっとホッケーがうまかっただけだ。
 ホッケーの話が次に教えてくれるのは,成功者を効率よく選ぼうと私たちがつくったシステムには,じつはあまり効果がないことだ。才能を見逃さないための最善の方法は,できるだけ早期にオールスター選手を集め,英才教育を施すことだと考えがちだ。だが,チェコのサッカーチームのメンバー表をもう一度見て欲しい。7月と10〜12月生まれの選手はおらず,8月と9月生まれがひとりずつ。7月以降に生まれた選手はほとんどが,諦めるよう説得されたか,見落とされたか,解雇された。チェコでは,基本的にサッカー人口の半分の才能が浪費されている。

マルコム・グラッドウェル 勝間和代(訳) (2009). 天才!成功する人々の法則 講談社 p37.

デイトレーダーは何の代替物か

 努力の甲斐あって,デイトレーダーとしてコンスタントに年率20%の利益をあげられるようになったとしよう。これはプロから見てもトップ10%に入るくらいの素晴らしい成績である。
 あなたの運用資産が1000万円だとすると,20%の利益は200万円になる。1000万円というのは個人投資家の資金としてはけっして少なくはないと思うが,それでも毎日朝9時から午後3時までモニタに張りついて年収200万円。時給換算すればマクドナルドのアルバイト以下である。
 この世界一人件費の高い日本で,プロのトレーダーをも出し抜く技術(そうじゃなければ知能でも勘でも超能力でもなんでもいい)を持っていながら,なぜそこらのプータローよりビンボーな暮らしをしなければならないのだろうか。金融機関に就職すれば,あっというまに年収2000万円や3000万円はもらえるかもしれないのに。
 デイトレードにはまるのがニートの若者や主婦,リタイアしたサラリーマンだということにはちゃんとした理由がある。彼らははたらく機会を奪われているか,そもそも就職する気がない。したがって,デイトレードがどれだけ流行っても,はたらくひとの数は変わらない。
 バックパッカーがデイトレーダーになるのも同じことだ。社会からドロップアウトし,第三世界を放浪するような若者は,これまでポン引きやドラッグの売人になるくらいしか収入を得る道がなかった。しかしトレードの才能があれば,そんなことをしなくても毎日楽しく暮らしていける。これはもちろん素晴らしいことだけど,だからといってふつうのひとはこんなことはしない。だって,バカバカしいから。

橘 玲 (2006). 臆病者のための株入門 文藝春秋 pp.84-86

デイトレードが必ず儲かるという錯覚

 論理的にも,事実としても,「デイトレードがかならず儲かる」というのは明らかな誤解である。それなのになぜ新規参入者があとを絶たないかというと,その理由は簡単で,テレビや雑誌,インターネットには「成功したトレーダー」しか登場しないからである。損をして退場していったひとたちは,大きな声で自らを語らない。その結果,「すべてのトレーダーが成功している」という錯覚が生じる。
 もうひとつは,インターネット証券を中心に,デイトレーディングや短期トレーディングをそそのかす宣伝活動が組織的に行なわれているためである。
 日本のネット証券は仁義なき手数料の引き下げ競争に突入し,もはやふつうに商売をしていては利益を出せなくなってしまった。1回あたりの儲けが少ない以上,薄利多売で稼いでいくしかない。デイトレーダーの数が増えつづけることがビジネスの前提になっているのだ。

橘 玲 (2006). 臆病者のための株入門 文藝春秋 pp.74-75

ギャンブルの控除率

 株式投資がコイン投げのようなギャンブルだとすると,論理的には,トレーディングで長期にわたって利益を出しつづけることはだれにもできない。これは短期の株式売買すべてについていえることだが,偶然のゲームを一定の回数以上つづけると,かならず手数料のぶんだけ損をしてしまうのだ。
 たとえば競馬は,控除率25%というきわめて割の悪いギャンブルである。1万円で馬券を買うと7500円から賭け事が始まるわけで,これだけ手数料率が高いと,戦績や血統の分析でわずかに勝率を高めることができたとしても,とうてい利益を出すまでには至らない。「競馬必勝法」は,この世には存在しないのである。
 それよりもっと分の悪いギャンブルが宝くじで,こちらは掛け金の半分以上が日本宝くじ協会の収益になる。当然,宝くじを購入したひとのほぼ全員が,一生,損をしたまま終わる。「宝くじは無知な人間に課せられた第二の税金」といわれる由縁だ。
 「そんなこといったって,宝くじを当てて億万長者になったひとがいるじゃないか」との反論があるだろう。これは事実であるが,それでもこの議論の正しさは変わらない。宝くじの当せん確率はきわめて小さく,また一生に購入できる回数も限られているので,どれほど熱心なファンでも統計的に十分な回数を賭けることはできない。もしも一等当せん者が不死の生命を持ち,その後も宝くじを買いつづけたならば,彼は確実に掛け金の半分を失うことになるだろう。「小さなお金で大きな夢がかなう」という倍率のマジックによって,数字の苦手なひとたちを幻惑しているのである。
 競馬や宝くじのような“悪質”なギャンブルに比べて,デイトレードははるかに勝率が高い。株式売買手数料はいまや投資金額の0.1〜0.01%まで下がり,株式投資はすべてのゲームのなかでもっとも有利なギャンブルのひとつになった(実際には利益に対して課税されるため,それが追加コストとなって利回りは引き下げられる。ちなみに上場株式の譲渡所得に対する現在の税率は10%)。

橘 玲 (2006). 臆病者のための株入門 文藝春秋 pp.66-68

株式投資はギャンブルである

 ギャンブルがうさんくさく見えるのは,偶然によって勝負が決まるからじゃない。そこにイカサマがからんで,おうおうにして一部のひとだけが得をするようになっているからだ。日本の株式市場だって,はっきりいって,これまでずいぶんいかがわしいことが行われてきた。
 だから大事なのは,すべての参加者に公正で公平な投資機会が与えられる開かれた市場をつくることだ。そうなれば,株式投資についてのみんなの見方はずいぶん変わるだろう。なんといってもそれは,社会の富を増やし,みんなを幸福にするとてつもないちからを持っているのだから。
 ところが金融業界のひとたちは,「投資家教育」とかいう名目で,「株はギャンブルじゃありません」キャンペーンを大々的に展開している。そうすると,この理屈を自己正当化に使うひとが出てくる。
 私はギャンブルには手を出さない。
 株はギャンブルじゃない。
 だから株にはまっている自分はぜんぜん悪くない。
 とか。そして困ったことに,真面目なひとほどこの罠から抜け出せなくなってしまう。このままでは,「投資家教育」をすればするほど哀れな犠牲者が増える一方だ。
 こうした悲劇をすこしでも減らすために,まずはいちばん大事な原則を覚えておこう。
 株式投資はギャンブルである。
 でもそれは,たんなる賭け事ではない。素人でも大きな果実を手にすることができる,世界でもっとも魅力的なギャンブルなのだ。

橘 玲 (2006). 臆病者のための株入門 文藝春秋 pp.21-22.

株式運用のプロって

 だったら,「株式運用のプロ」っていったいなんだ?
 それを知るには,プロのいないゲームを考えてみればいい。たとえば,コイン投げのプロというのは原理的に存在しない。コインが表か裏かは偶然によって決まり,その確率は(イカサマでなければ)五分五分だからだ。宝くじのプロがいない理由も同じで,当せん番号は偶然によって決まるのだから,1等の出る売り場とか,当たりやすい数字の組み合わせなどはすべて迷信である(あやしげな宝くじ必勝法を売りつける「プロ」ならいる)。
 コイン投げや宝くじにかぎらず,ルーレットやサイコロなど,勝敗が偶然によって決まるゲームにプロはいない。それに対して囲碁や将棋では,プロとアマチュアのあいだに乗り越えがたい力量の差が生じる。そこでは強い者ほど勝率が高く,偶然の要素はわずかしかはたらかない。これはスポーツ競技も同じで,だからこそひとびとは「奇跡」を求めて熱狂するのだ。
 ここで,株式投資の本質がある。
 20代無職の男性が「金融のプロ」を天文学的なレベルで上回る成績をあげたということは,株がプロの競技ではなく,コイン投げやサイコロにちかい偶然のゲーム,すなわちギャンブルであることを,反論の余地がないほど完璧に証明しているのだ。

橘 玲 (2006). 臆病者のための株入門 文藝春秋 pp.17-18.

人類は進歩し続けている

 イングランドでは,1900年に生まれた赤ん坊は平均寿命が46歳だった。1980年に生まれたその曾孫は74歳の寿命が期待できた。そして,2003年に生まれた玄孫は80年近くこの世にいることが見込める。
 これはほかのすべての西洋諸国でも同じことが言える。米国では,1930年に平均寿命が59歳だったが,70年後にはほぼ78歳になった。カナダでは最近,平均寿命が約80歳をわずかに上回った。
 人類の歴史の大部分を通して,出産は,女性にとってもっとも危険なことの一つだった。開発途上国の多くでは,今なお危険を伴う冒険であり,10万人の子供の出生に対して440人の女性が亡くなっている。しかし,先進国ではその比率は一気に20まで下がっており,もはや,誕生に死がつきまとっているとは思わない。
 母親に言えることが子供にも言える。幼児サイズの棺を墓穴に降ろすという痛ましい経験がありふれていたのはそれほど昔ではないが,今日赤ん坊が誕生ケーキの上の5本のろうそくを吹き消すまで生きる確率は目覚しく向上している。1900年に英国では乳幼児の14パーセントが死亡した。1997年までにその数は0.58パーセントまで下がった。1970年からだけでも,米国の5歳未満の子供の死亡率は3分の1以下になり,ドイツでは4分の1になった。
 そして,ただ長生きしているだけではない。より健康に暮らしている。ヨーロッパと米国にまたがる研究において,心臓病や肺病,関節炎などの慢性病にかかる人が少なくなっており,かかる人もかつてに比べて10年から25年遅く発症し,かかった場合も以前に比べて症状が軽くなっていると結論づけられた。おれまでより身体障害者が少なくなっている。また,体も大きくなっている。平均的な米国人は1世紀前の先祖より7センチ以上高く,20キログラム重くなっており,真正の装備だけを用いて南北戦争を再現しようとすると,軍隊用テントに体を収めるのが難しくなっている。私たちは賢くもなっており,知能指数は何十年ものあいだ着実に向上している。

ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.16-17
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

社会規範が市場規範に切り替わるとき

 ふたりは数年前,イスラエルの託児所で,子供の迎えに遅れてくる親に罰金を科すのが有効かどうかを調査した。そして,罰金はうまく機能しないばかりか,長期的に見ると悪影響が出ると結論づけた。なぜだろう。罰金が導入される以前,先生と親は社会的な取り決めのもと,遅刻に社会規範を当てはめていた。そのため,親たちはときどき時間に遅れると後ろめたい気持ちになり,その罪悪感から,今度は時間どおりに迎えにこようという気になった(イスラエルでは,罪の意識が人を説きふせるのに有効なようだ)。ところが,罰金を科したことで,託児所は意図せずに社会規範を市場規範に切りかえてしまった。遅刻した分をお金で支払うことになると,親たちは状況を市場規範でとらえるようになった。つまり,罰金を科されているのだから,遅刻するもしないも決めるのは自分とばかりに,親たちはちょくちょく迎えの時間に遅れるようになった。言うまでもなく,これは託児所側の思惑とは違っていた。

 しかし,ほんとうの話はここからはじまる。もっとも興味深いのは,数週間後に託児所が罰金制度を廃止してどうなったかだ。託児所は社会規範にもどった。だが,親たちも社会規範にもどっただろうか。はたして親たちの罪悪感は復活したのか。いやいや。罰金はなくなったのに,親たちの行動は変わらず,迎えの時間に遅れつづけた。むしろ,罰金がなくなってから,子供の迎えに遅刻する回数がわずかだが増えてしまった(社会規範も罰金もなくなったのだから無理もない)。
 この実験は悲しい事実を物語っている。社会規範が市場規範と衝突すると,社会規範が長いあいだどこかへ消えてしまうのだ。社会的な人間関係はそう簡単に修復できない。バラの花も一度ピークが過ぎてしまうともうもどせないように,社会規範は一度でも市場規範に負けると,まずもどってこない。

ダン・アリエリー 熊谷淳子(訳) (2008). 予想どおりに不合理:行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 Pp.116-117

無料!を利用せよ

 もしあなたが商売をしていて,この点を理解しているなら,たいしたことができる。お客をおおぜい集めたい?何かを無料!にしよう。商品をもっと売りたい?買い物の一部を無料!にしよう。
 同じように,無料!を利用して社会政策を推進することもできる。人々に電気自動車を運転させたい?登録や車検の手数料を安くするのではなく,手数料をなくしてしまって,無料!をつくりだそう。あるいは,公衆衛生に関心があるなら,重い病気への進行を防ぐ方法として早期発見に重点をおくことだ。人々に適正な行動----定期的な結腸鏡検査や,マンモグラフィー,コレステロールのチェック,糖尿病のチェックなど----をさせたい?自己負担金をさげて検査費用を安くするのではなく,重要な検査は無料!にしよう。
 思うに,ほとんどの政策参謀は,無料!が手持ちのエースだということに気づいていない。まして,その切り札をどう使うかなど考えてもいない。予算削減が叫ばれる昨今,何かを無料!にするのはたしかに直観に反している。しかし,ちょっと立ちどまって考えると,無料!は絶大な力を持ちうるし,それを利用するのはとても意味があるものに思える。

ダン・アリエリー 熊谷淳子(訳) (2008). 予想どおりに不合理:行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 Pp.100-101

役員報酬を高くした規制

 この話の皮肉なところは,1992年に,アメリカの証券規制当局が各企業に経営幹部の報酬と役得をこと細かに開示するようはじめて義務づけたことだ。報酬が公開されれば,理事会も幹部に法外な給料や手当を出しづらくなるだろうとの狙いがあった。これまでどんな規制も法律も株主の圧力も抑えられなかった幹部の給与増加がこれで止まるのではと期待された。たしかに増加を喰いとめる必要があった。1976年,平均的な最高経営責任者の給与は,平均的な従業員の36倍だった。それが1993年には,131倍にもなっていたのだ。
 ところがどうだろう。幹部の報酬が一般に公表されるようになると,マスコミが定期的に最高経営責任者の報酬ランキング特集を組むようになった。公になったことで幹部の報酬が抑えられるどころか,アメリカの最高経営責任者たちは自分の収入をよその最高経営責任者の収入と比べるようになり,その結果,幹部の報酬はうなぎのぼりに上昇した。この傾向を助長したのは報酬コンサルティング会社で(投資家のウォーレン・バフェットに,“少しあげて,もう少しあげて,よしそこだ”という辛辣なあだ名をつけられた),顧客である最高経営責任者たちに,法外な給与を要求するよう助言した。そしてどうなったか。いまや,平均的な最高経営責任者の給与は,平均的な従業員の369倍,報酬を開示する以前の3倍の額になっている。


ダン・アリエリー 熊谷淳子(訳) (2008). 予想どおりに不合理:行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 Pp.43-44.

訴訟社会

 訴える資格のあるなしにかかわらず,訴訟を起こすことが一財産手に入れる手っ取り早い方法だという考え方は,アメリカ人特有の不思議な認識と結びついている。つまり,何が起ころうと悪いのは他人だという認識である。だからたとえば,1日80本の煙草を50年間吸い続け,結局肺癌にかかったとしても,悪いのは自分以外のみんなということになる。そこで煙草の製造会社だけでなく,卸し問屋,小売店,煙草を小売店に納入した運送会社などにいたるまでを訴えるわけだ。アメリカの司法制度の一番の問題点は,原告に対し,訴因にほとんど関係ない人や会社を被告として訴えるのを許している点である。
 司法制度がそんなふうに機能している(というより,正確に言えば,機能していない)せいで,企業や団体にとっては,ことを訴訟にまで持ち込まれるよりも,法廷の外で示談で済ませたほうが安上がりなことも多い。知り合いの女性の話だが,雨の日にデパートに行って滑って転んだところ,驚いたことに,訴訟を起こさないと約束する書式にサインしてくれれば,2千5百ドルの和解金を支払うと,ほぼ即刻その場で提案されたそうだ。彼女は嬉々としてサインした。


ビル・ブライソン 高橋佳奈子(訳) (2002). ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー 朝日新聞社 p.264

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