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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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政府の義務

 いかなる政府であろうと,科学の原理の真偽を決める権利はありません。また科学分野での研究課題の性質を,指図する権利もありません。さらに政府は芸術的創造の美的価値を評価すべきでなく,文学や芸術の表現形式を限定するべきでもないのです。政府は決して経済的,歴史的,宗教的,哲学的学説の正当性を宣言してはなりません。それよりも人民が未来の冒険と人類の発展にどしどし貢献できるような自由を保障することこそ,国民にたいする政府の義務なのではないでしょうか。


R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.79.
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暗黙の圧力

 NHKのムスタン事件や「そしてチュちゃんは村を出た」のやらせを告発した朝日新聞も,それ以前に手痛い「サンゴ損傷事件」を体験している。だが,当時の社長は役員として社に残り,大騒ぎしたサンゴの傷もほぼ2年ほどで再生した。結局,カメラマン1人が社を去っただけである。
 事件が報道された時,私も西表島に近い新石垣空港問題の取材で白保の海に潜り,サンゴを撮影していた。同じダイビングをやる仲間として元朝日カメラマンの気持ちがわかるような気がした。事件後,私は徹夜で彼と話し合った。因果なことに「カメラマンの目を避けて」である。「アザミサンゴの表面にうっすらと残ったKという傷をなぞり,隣の何もない所にYと傷つけた」というのが事の真相である。しかし,そこまでに至るプロセスが微妙なのである。
 東京から日本の最南端ともいえる西表島の外れまで社費で出張して,あてにしていた取材対象のサンゴに傷がないのでは,彼ならずとも私でも困ってしまう。なぜならば,「ダイビング」「沖縄」のフレーズは何となくトロピカルでリゾートや遊びを連想してしまうからである。「沖縄に遊びに行って何もしないで帰ってきた」などと噂されたら社内で政治生命がないのが,日本のこの業界なのだ。つまり,次のチャンスがなくなるのではないか,と疑心暗鬼するような競争社会であるからだ。
 追いつめられた彼は,ひょっとしたことでインスピレーションが浮かんだ。サンゴを傷つけようと考えたようだ。これ以上の事は推論になるので書くのはやめよう。


新藤健一 (1994). 新版 写真のワナ 情報センター出版局 pp.267-268.

競争社会の現実

 結局,いまの日本が向かおうとしているアメリカ的な競争社会では,今日の「勝ち組」にいる人でさえも,明日の「勝ち組」に居残るためには,意味のない心理的なストレスと無駄な経済的な負担を,個人的にも社会的にも負っていかなければなりません。止まらない過労死や,過度のストレスや経済的な理由による自殺の増加がその究極の姿です。
 子どもたちの貧困の問題は,こうして考えていくと,「彼ら」の問題ではなく,「私たち」の問題であるとも言えるのではないでしょうか。しかし,私たちは子どもたちという将来の貴重な宝の損失を防ぐことができるのです。子どもたちの貧困という現実を直視し必要な対策を続けていけば。

山野良一 (2008). 子どもの最貧国・日本 学力・心身・社会におよぶ諸影響 光文社 pp.258-259.

写真の独自性

 確かにカメラは純粋科学の一定条件を満たせば,時には「冷酷非情」になることもできる。しかし,私たちが一般に使うカメラでは,それはなかなか難しいのである。別の視点から写真の独自性を語ると,こうなる。
 第1に,映像は広角や望遠レンズによってイメージを強調することができるのだ。レンズによる変形や歪曲は撮影者の意図によって自由自在に変えられる。ワイドなレンズは,ただ単に広い範囲を写すだけでなく,遠近感を誇張することもできる。望遠レンズは,ただ単に遠くのものを大きく写すだけでなく,距離感を圧縮したり,不必要な部分をカットするために使うことも可能なのだ。
 第2に,“時間の固定”である。シャッター・チャンスという時間を切り取ることができるのは,写真の大きな魅力のひとつである。そこには,どの瞬間をフィルムに記録しようかという撮影者の意図と選択が働く。
 第3に,アングルや撮影意図による違いである。現実の世界は3次元の立体の世界である。しかし,カメラは2次元の世界にその主体を記録するのである。そして,人間の目は2つあるのだが,カメラの眼(レンズ)はひとつしかない。こうした物理的な違いから,事実がよく見えたり,ものの背後でわからなかったりすることがあるのだ。
 映像は,これらの3要素が複雑にからみあって再現される。だから,裏を返せば撮影者がこれらの3要素をうまく操れば,意のままのイメージを人に伝えられるのだ。映像=ビジュアル・イメージの威力とワナはここにあるのだ。


新藤健一 (1994). 新版 写真のワナ 情報センター出版局 pp.38-39.

機会平等の条件

 機会の平等はつぎの2つの条件を満たす必要がある。第1は,ある状態を望む者には,全員にそれに挑戦する機会が与えられるべきである。第2は,それに挑戦した人から誰を選抜するかという際に,差別があってはならない,ということである。教育,職業,就職,昇進などが具体的な例となる。

橘木俊詔 (2008). 早稲田と慶応 名門私大の栄光と影 講談社 p.62

平安貴族たちを縛るものは・・・

 だが,平安貴族の日常生活を取り囲む日時の禁忌や法学の禁忌が膨大な数に上っていたことからすれば,これは,まさに当然の帰結なのではないだろうか。
 当時の凶日は,人によって日付の異なる衰日だけを数えても,1年間に60ヶ日にも及んだ。これに加えて,滅門日・道虚日・五貧日・十死一生日・百鬼夜行日・復日・坎日・帰忌日・下食日・往亡日といった万人に共通する凶日が,それぞれ数ヶ月ずつも設定されていた。しかも,平安貴族の周囲には,ほとんど常に何らかの方忌があった。
 したがって,何かの日取りを決めるとき,それには不向きな凶日やそれと抵触する方忌のある日を除外していくと,平安貴族にはほとんど選択肢は残されなかった。いや,どうかすると,たった一つの選択肢さえ残らないこともあり,その場合には,最も支障の少ない日が「吉日」として選ばれることになった。それに比べれば,とりあえずは日時の禁忌も方角の禁忌もない日が「吉日」として扱われるというのは,まだしもの措置であろう。
 このような事情であったから,平安時代の人々にとって,吉日の選定というのは,かなり厄介な作業であった。日時および方角の禁忌の全てを把握していなければ,彼らの言う意味での「吉日」を的確に選ぶことはできなかったからである。

繁田信一 (2006). 陰陽師―安倍晴明と蘆屋道満 中央公論新社 p.95

トレードオフ

 脳の栄養を増すことは,血管の病気を増やす可能性があります。しかし血管の病気を防ぐ算段をし過ぎると,脳は栄養失調になります。日本が昔のように安定した社会で,経済も右肩上がりの場合には,脳の栄養はそれほど重要でなかったかもしれません。しかし現在のようにいつ終わるともしれない不況,将来の不安を感じる不安定な社会の中では,たくましい脳がなければ私たちは健全に生きて行けないのです。

高田明和 (2001). 「砂糖は太る」の誤解 科学で見る砂糖の素顔 講談社 p.160

コロコロ変わる数字に翻弄される

 体格指数(BMI)の調査結果が発表されるたびに,どのくらいを肥満とし,どのくらいをやせ型とするかが,必ず議論となります。
 1999年まではBMIが26以上を肥満としていましたが,2000年の肥満学会で25以上を肥満と改めました。このように,正常の限界を変えて厳しくするのは,最近の学会の傾向と言ってもよいでしょう。その原因の1つには,なるべく病気の可能性を自覚させようという考えもありますが,同時に,ある病気がこんなに多いのだ,政府ももっとこの分野に注目して,予算を増やすようにという示威行為の場合もあります。
 コレステロール値の正常範囲の上限も,以前は240でしたが,次第に下がり,今は220となっています。
 いったい,「正常の範囲」をこんなに簡単に変えてよいものでしょうか。そもそも「正常の範囲」とは,何を表しているのでしょうか。

高田明和 (2001). 「砂糖は太る」の誤解 科学で見る砂糖の素顔 講談社 p.56

極端な思考

 第4は日本人の“あなたまかせ”の考えです。私のテレビの健康番組によく出ます。そこでもし「この食品は健康によいですよ」と言ったりすると,視聴者はそれを買いに殺到します。そして,その食品を食べれば食べるほど健康になると思ってしまいます。
 逆に,塩分,コレステロール,タンパク質などの摂取が多いといけないと聞くと,それならそれを摂らなければ摂らないほど健康になるのではないかと考えるのです。
 一般に摂取の上限を決めることは困難ではないことが多いので,上限,つまりこれ以上の摂取はいけませんよ,という話が広く伝えられます。すると,そんなに体に悪いものはできるだけ少なくしたらよいのではないかと,短絡してしまうのです。
 先日NHKのラジオ番組で,食塩についての放送のゲストになりました。そのときに同席した食塩の研究者が,「一般の主婦から,食塩がそんなに悪いものなら,なしにしたらもっと健康になるのではないですか」と質問されることが多いと述べていました。
 またコレステロールを「悪玉」と「善玉」にわけ,LDLコレステロールを悪玉とすることも素人に大きな影響を与えています。誰もが「悪玉」が体の中にいることを好まないからです。もし悪玉コレステロールが私たちの健康をそれほど害するなら,脂肪を摂らないのがいちばん健康によいと思っている人は多いのです。

高田明和 (2001). 「砂糖は太る」の誤解 科学で見る砂糖の素顔 講談社 pp.46-47

夢と賃金

 ただ,「夢を持って働くこと」と「低賃金に甘んじること」はイコールではない,と思います。「あれか,これか」ではなく,「あれも,これも」という選択だってあるはずです。最近,どうも「夢を持たない人よりも,持っている人の方が優れている」「普通の仕事をするよりも,低賃金でもやりたい仕事をやったほうがよい」という言説ばかりが宗教のように流布しているように,私には感じられます。ただ,本当に物事はそんなに単純なのでしょうか。そんな二項対立しか存在しないのでしょうか。それこそがマインド・コントロールではないのか。
 と,私は逆説的に語っておきたいのです。



坂口孝則 (2008). 営業と詐欺のあいだ 幻冬舎 p.181

世代概念からの脱却

 若い世代に限らず,若者論が関わってくる分野で重要なのは,「世代」概念の呪縛から脱することではないだろうか。すなわち,この世代はこれこれこういう環境で育ってきた世代なのだから云々,という決定論を乗り越え,普遍的な判断基準に基づいて種々の問題を検討することだ。
 普遍的な基準とは,すなわち科学であり,人権であり,経済であり,法である。例えば,ある人が何らかの理由で困窮している場合,それは経済的な問題であり,また政府による生存権の保証の問題である。そして,現代の多くの問題は,これらの側面で解決できるものが多い。
 下手に壮大な社会論,もしくは世代論に手を出してしまうと,議論は無意味な世代間闘争に陥ってしまうだろう。現在,決してよくない状況に陥っている人たちへの救済は,本来は科学的な実態の把握に基づいて語られるべきものであり,できるだけリスクを少なくして便益を上げる政策決定によって解決しなければならない。お前は経済成長の時期に就職できたからとか,お前は子どもの頃から恵まれた環境で育ってきた世代だからという理由で自己責任論を述べてしまうのは,許されざる行為である。


後藤和智 (2008). おまえが若者を語るな! 角川書店 p.214.

おたくとパロディ

 しかし,「おたく」と称せられる人たちの中でも,アクティブに活動している人たちは,自分がのめり込んでいる対象が虚構の世界であることも,そして自分の活動が世間一般からは価値がないものと考えられていることも,十分に承知しています。いわば,だまされている自分自身を冷徹に見つめながらも,徹底的にその虚構にどっぷりと浸かり,さらには自らその世界を拡張していくことができるのです。
 その特徴をよくとらえているのが,「おたく」に特有のパロディ文化です。おたくたちの同人誌のほとんどが,自分の好きな作品のキャラクターを自在に活躍させるパロディで埋め尽くされているのはご存じだと思います。そして,パロディというのは,対象を醒めた目で突き放して見る見方がなければ,生みだされない文化です。評論家の浅羽通明氏の言い方を借りれば,敬虔なキリスト教徒には聖書のパロディを書くことは決してできないのです。


菊池 聡 (2008). 「自分だまし」の心理学 詳伝社 p.216

エンターテイメントを貫け

 こうした番組がブームになるたびに,そのインチキ性やヤラセを指弾する声は,科学者や良識ある人々から繰り返し発せられています。そのたびに,こうした番組作りの側がなんといって反論してきたのか?
 「これはバラエティ番組であって,エンターテイメントとして楽しんでほしい(大意)」というコメントを何度聞かされたことかわかりません。こうしたオカルト番組のゲストにさりげなくお笑いタレントを起用しているのは,エンターテイメントという言い逃れをやりやすくするためだと聞いたことがあります。
 さらに,最近のスピリチュアル批判を受けての反論では,「占いや霊視はトークのきっかけであって,この番組の本質は人生相談なのである」という新しいパターンもありました。根拠のない占いやヤラセの霊視を問題にしているのに,番組の本質は違うところにあると言って論点をずらすのは,エンターテイメントと言い逃れるのと同じ構図です。いわば,レストランでスープに虫が入っているじゃないか,という指摘に対して,「スープは食事の本質ではなく,メインディッシュを見てほしい」と言っているのと同じです。
 ただ,こうした言い訳も見方によっては成り立つのかもしれません。子ども向け番組に出てくる犬が本当に言葉をしゃべるわけではありませんし,おしりを齧るあんなに巨大な虫が本当にいるわけでもありません。すべて虚構を前提として楽しむものであれば,それを楽しめないのは野暮というものです。
 だとすればなおさら,『あるある大事典2』でも,この姿勢を貫徹してほしかった。これは今でも心からそう思っています。この番組は情報“バラエティ”番組であって,エンターテイメントとして楽しんでいただきたい。少々の捏造はよくあることです。と,言い切っていただいた方が,長期的にはどれだけメディアリテラシー向上に資することになったか,はかり知れません。


菊池 聡 (2008). 「自分だまし」の心理学 詳伝社 p.192-193

一般市民の目線から離れる新聞記者

 ニューヨーク・タイムズ東京支局は,朝日新聞東京本社の建物の中にある。米国では特派員といえども,通勤は公共交通機関に頼る。赴任した直後,帰宅しようと社を出たフレンチ氏はふと視線に入った風景に疑問を抱き,筆者に問いかけてきた。
「朝日新聞の経営陣は,なぜみな揃いも揃ってあんなに若いのか?」
 最初,フレンチ氏が何のことを話しているのか理解できなかった。しかし,どうやら黒塗りのハイヤーに乗って取材先に向かう記者たちのことを指してそう言っていることに気づいた筆者は,こう説明した。
「彼らは経営者ではない。記者だ」
 フレンチ氏は驚いたような表情を見せて,さらに質問を続ける。
「そうか。それにしても朝日新聞の記者たちは金持ちが多いんだな」
 フレンチ氏の大いなる勘違いは,まだ解けていないようであった。再度説明を加えた。
「あれは会社の車だ。日本では一部の記者たちはハイヤーで取材をするのだ」
 それを聞いたフレンチ氏はさらに信じられないといった表情で,黒塗りのハイヤーを見つめている。筆者は,日本では「夜討ち朝駆け」という取材方法があり,朝日新聞のみならず政治部記者であるならば,大抵,取材先にはああいった。ハイヤーで向かうのだ,という説明を行った。だが,それでもフレンチ氏は解せないようで,こう語るのであった。
「あんなことで本当の取材ができるのか?あれでは一般市民の目線から乖離してしまうではないか。政治家や経営者と同じ視線に立ってしまって,一体どんな記事が書けるというのか」

上杉 隆 (2008). ジャーナリズム崩壊 幻冬舎 pp.97-98.

民主党は記者クラブを開放していた

 たとえば民主党が記者クラブを解放した時のことだ。岡田克也代表(当時)は,それまで院内の会議室で行っていた記者会見を党本部で開くことに決めた。これによって記者クラブ以外の雑誌やフリー記者も会見に参加できることになった。だが岡田氏のこの英断に対して既存のメディアは冷たかった。長野県知事や鎌倉市長が記者クラブを開放した時は大騒ぎして克明に報じたが,国政になると完全に口をつぐんでいる。今日に至るまで,ただの一度も民主党が記者クラブを開放したと報じたメディアはない。よって,国民はこの事実を知らないし,驚いたことに筆者がこの話をしたほとんどの記者も,民主党の記者クラブ開放に気づいていなかったのである。
 つまり議論以前の問題なのだ。


上杉 隆 (2008). ジャーナリズム崩壊 幻冬舎 pp.83-84.

スクープ記事で不安になる日本人記者

 記者クラブの記者ならば,他紙に自分の書いたものと同じ内容の記事が載っていた途端,心から安堵するに違いない。さらにコメント内容まで同じならば,より確かな安心が待っている。問題は,同じような取材をしていて,自分だけが独自の記事を書いてしまった場合だ。
 朝刊でスクープ記事を書いた記者が,どの新聞社も追ってこないことに不安になり,自らライバルたちに情報をリーク,他紙の夕刊に書かせるという信じがたい話は,記者クラブであるならば少しの違和感もなく受け入れられることだろう。
 実際に筆者もその種の行為をいくつか見聞している。独自ネタでスクープ記事を書いたまではよかったが,のちに心配になったのだろう,各方面に電話を入れ,自分の記事が逸脱していないかどうかを確認して回った新聞記者を知っている。
 その記者は,他紙が夕刊で追ってこないことを知るとさらに焦った。そしてテレビ局の記者にリークし,夜のニュース番組で扱われたのを知って,ようやく安心した様子を見せたのである。
 彼らの職業は一体何なのか?自分を信頼できない人間が,記者と名乗って自信のない記事を書く。それを読むのは読者だ。読者こそが災難だ。一体,自らの自信の持てない記事を出して,どのように読者を納得させようとしているのか。


上杉 隆 (2008). ジャーナリズム崩壊 幻冬舎 pp.39-40.

歴史的な幼稚症

 ある世紀に書かれたものを,別の世紀の政治的な色眼鏡を通して眺めるのは,歴史的な幼稚症の徴候である。『人間の由来』というまさにその表題が,私たち自身の時代の道徳観に疑いを抱くことなく取り込まれてしまっている人々のあいだに癇癪を引き起こすだろう。私たちの時代のタブーを冒瀆するような歴史的文書を読むことは,そのような道徳観のはかなさへの貴重な教訓を与えてくれると言うこともできる。私たちの子孫が私たちのことをどのように判定するのか。誰にわかるというのだ?

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.124.

陪審裁判は・・・

 陪審裁判は,これまで誰かが思いついた名案のなかで,きわだって群を抜いた最悪なものの一つであるに違いない。その考案者を非難することはほとんどできない。彼らが生きていたのは,統計サンプリングや実験計画という原理が確立されるずっと以前のことなのだ。彼らは科学者ではなかった。



リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.72.

病院とはこういう場所だった

 最近50年くらいの間に,医者対患者の関係には大きな変化が起こった。19世紀後半までの,ほとんどどのような文字をご覧になっても,病院というものは,一般の人々の目には,ほぼ牢獄,それも旧式の土牢まがいの牢獄に近いものと映っていたことがおわかりになるはずだ。病院とは,不潔と拷問と死のうずくまるるつぼであり,墓場へ行く一種の控えの間なのである。程度の差はあっても,よほど生活に困窮しているものならいざ知らず,そんなところへ治療を受けにいこう,などという料簡を起こすものはまずあるまい。そしてとりわけ,医学がちっとも良くならないくせに,いっそうずうずうしくなった前世紀の初めごろには,医療全般は,ふつうの人々から,恐怖と不安の目で眺められた。中でも外科は,特別ひどい,それこそ身の毛もよだつような病的残虐性(サディズム)の一変形にほかならぬもの,と信じられており,死体どろぼうの援助があってはじめて成り立つ解剖にいたっては,降神術(かみおろし)と混同視されてさえいたのだった。19世紀以降,医者や病院にまつわるおびただしい恐怖文学は,枚挙にいとまがないくらいである。


ジョージ・オーウェル 高畠文夫(訳) (1972). 貧しいものの最期 角川書店 pp.196-197. (「動物農場」所収)

「不自然」であること

 避妊は,いばしば「不自然だ」といって非難される。確かにそのとおり。きわめて不自然にちがいない。ところが困ったことに,不自然なのは福祉国家も同様なのだ。われわれのほとんどは福祉国家をきわめて望ましいと信じていると,私は考えている。しかし,不自然な福祉国家を維持するためには,われわれは,同様に不自然な産児制限を実行しなければならない。そうしなければ,自然状態におけるより,さらにみじめな結果に至るであろう。福祉国家というものは,これまで動物界に現れた利他的システムのうちおそらく最も偉大なものにちがいない。しかしどのような利他的システムも,本来不安定なものである。それは,利用しようと待ちかまえる利己的な個体に濫用されるすきをもっているからだ。自分で養える以上の子供をかかえている人々は,たぶんほとんどの場合無知のゆえにそうしているのであり,彼らが意識的に悪用を計っているのだと非難するわけではいかない。ただし,彼らが多数の子をつくるよう意図的にけしかけている指導者や強力な組織については,その嫌疑をとくわけにはいかないと私には思われる。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸 由二・羽田節子・垂水雄二(訳) (1991). 利己的な遺伝子 紀伊国屋書店 pp.185.


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