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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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傷つけるのが当然

 どんな映像でもどんな音楽でもどんな言葉でも,誰かを傷つける可能性はきっとある。別にメディアに限らない。僕らの日常は,誰かを傷つけたり,誰かに傷つけられたりすることのくりかえしだ。もしもそれが嫌ならば,部屋に引きこもって一歩も外に出ないことだ。でもじつはこれだって,君の家族をこれ以上ないほどに傷つける。
 誰かを傷つけることなどできない。もちろんだからといって,どんどん傷つけろという意味じゃないよ。できるだけ避けることは当たり前だ。ところがメディアの過ちは,こうして問題を避けてさえいれば,誰も傷つけずにすむと本気で思い込んでいることだ。

森 達也 (2004). いのちの食べかた 理論社 p.106


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現代の英雄伝説

 幼年期の影響というのは面白いものだ。同世代の人の作るものは何に影響されたか大体分かる。TVドラマや漫画など,ビジュアルなものの影響は特に大きい。デジタル世代の現代の子どもたちが大きくなった時に何を作るか,非常に興味がある。ゲームの世界に影響を受けた彼等はどんな夢を見るのだろうか?彼等の作り出す虚構は私たちのものとどのくらい違っているのだろう?
 大量のストーリーが消費されている現代,結局のところ,ゲームの中の虚構は一つのテーマに統合されつつある。英雄伝説,もしくは英雄になるための成長物語,である。とどのつまり,最も古典的なテーマに立ち戻ろうとしているわけだ。ゲーム製作者という吟遊詩人が作り出す,古典的なストーリーから派生したさまざまなバージョンをそれぞれのゲーム機でプレイヤー達が聞いている。彼等が聞きたがっているものは,大昔から変わっていないのだ。

恩田 陸 (1997). 三月は深き紅の淵を 講談社 p.301


一杯のかけそばと貧乏

 1989年に「一杯のかけそば」があれだけ不完全な物語でありながらも,でも他の人にも読ませようとする人たちが続出したのは,あの物語にあるリアルな貧乏を伝えておきたかったのだろう。
 自分が貧乏であったかどうかは別として,1972年にはたしかにすぐそこに貧乏があった。貧乏と接していない人はいなかった。1989年は,その貧乏が伝えられる一番最後のところに来ていたのだ。テールエンドである。ここを過ぎるとたぶんもう意味がわからなくなるだろう,ということで,最後,僕たちは「一杯のかけそば」を賞賛して受け入れ,あっという間に捨てたのである。貧乏を一瞬ふり返って,でもその後二度とふり返らなくなった。
 そういう意味で,1980年代は貧乏人の時代だった。
 つまり,バブルは貧乏人の懸命のお祭りだったのだ。
 貧乏人が無理をして必死で遊んでいたのがバブルである。

堀井賢一郎 (2006). 若者殺しの時代 講談社現代新書 p.34-35

日本のマスコミの特徴

日本のマスメディアの自殺報道の特徴
・引責自殺や親子心中を特にセンセーショナルに報道する
・極端な一般化…因果関係について極端に単純化して解説される傾向がある。20〜30年前の青少年自殺のキーワードは「受験苦」「試験地獄」などであったが,最近は「いじめ」がキーワードとなっている。自殺はただひとつの原因で生じていることは極めて稀である。
・過剰な報道…マスメディアは自殺直後の短期間に過剰なまでに同じ報道を繰り返す。
・ありきたりのコメント…自殺をセンセーショナルに報じた直後に,識者と称する専門家の「戦後教育のつけ」「会社社会の犠牲者」「個を無視し,集団優先社会の当然の結果」「不況の抜本的対応を先送りにしてきた政府の責任」などといった,ごく当たり前のコメントが添えられる。
・短期間の集中的な報道…他に大事件が起きると,途端に自殺報道は終了する
・自殺の手段を詳しく報道する…群発自殺では,最初の犠牲者と同様の方法を用いる傾向が強い。本来自殺の危険の高い人に,自殺方法の鍵を与えるような具体的で詳細な報道は避けるべきである。
・メンタルヘルスに関連する啓発記事が極端に少ない…とくに欧米と比べて,わが国では自殺そのものの報道が繰り返されるばかりであり,自殺をどのように防ぐかという啓発記事がきわめて少ない。
・危機を乗り越えるための具体的な対処の仕方を示さない…アメリカでは報道機関に対して,自殺報道の最後に相談機関のリストを掲げるという提言を行っている。


高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために 筑摩書房 p.97-101より

自殺と責任

 真相の究明には不可欠な情報を知り得る立場の人物が,スキャンダルの渦中に自殺する。「私は決してやましいことはしていないが,この件で組織に迷惑をかけたので,(自殺することで)その責任をとる」といった遺書が残されることなども多い。
 文化人類学者のドゥ・ボスは,他者から与えられた役割や,帰属集団への過度の自己同一化を「役割自己愛」と呼んだ。要するに,集団への帰属意識が極端なまでに強すぎるために,その集団が解体してしまったり,指導者の社会的役割が抹殺されてしまう事態を想像することそのものが不可能になり,この種の自殺が生ずる文化的な背景が成立することを指摘している。
 個人の独自性を重視する西欧文化では,この種の自殺のように,集団へのあまりにも強い帰属性から生ずる自殺は全く存在しないとは断言できないまでも,一般的には理解するのが非常に難しいようである。
 自己の正当性を訴えるのであれば,真に責任ある人を告発したり,裁判の場で自己の身の潔白を証明すべきであると考えるのだろう。彼らにとっては,日本人が受け入れるような「引責自殺」を理解することは非常に難しいことらしい。そもそも,この種の自殺の形態に対して社会が強い関心を払うこともないし,あるいは存在すら認めない文化圏では,統計も手に入らず,日本の引責自殺との比較もできない。


高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために 筑摩書房 p.90-91


日本は自殺が多い?

 自殺率は,年間に人口10万人あたりに生じる自殺者数によって表される。1990年代半ばまでは日本の自殺率は人口10万人あたり17〜18であった。この率はドイツよりもやや高く,フランスよりもやや低いというものだった。要するに,ヨーロッパ諸国と比べると,ほぼ中位の率を示していたのだ。「自殺大国日本」の固定観念を抱いて取材に来た欧米の特派員の取材の際に,このような事実を指摘すると,意外な事実に驚くといった場面によく出くわしたものである。
 ところが,1990年代末からわが国の自殺者数が急増し,2001年には人口10万人あたり約24になった。ヨーロッパ諸国に比べて,上位国の一角と肩を並べるほどになったのだ。
 とはいえ,日本よりはるかに高い自殺率を示す国があることも事実である。たとえば,リトアニア,エストニア,ラトビアといったバルト三国,ロシア,ハンガリーなどの自殺率は,人口10万人あたり40前後を示している。自殺率は社会の不安程度を示す指標でもある。社会体制や社会的価値の急激な変化が起きている国で自殺率の激増が認められることが知られている。旧ソビエト連邦から独立を果たしたものの,社会的な安定を十分に果たしていないバルト三国が高い自殺率を示していることなどは,この点を象徴的に表していると考えられる。


高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために 筑摩書房 p.67-69


社会は無自覚

 社会は,いぜんとしてネオフィリックと「ロボット」に無自覚である。無自覚であるから,いいかげんないいとこ取りが「ためになる言葉」のような顔をして大手を振っていられる。現実のこのことは,ほんのつい最近の現象を振り返ってみるだけで,十分に確認可能だ。1995年,今からわずか10年前に,インターネットが急速に流行りはじめたとき,マスメディアは口をきわめて批判していた。一般の論調も,一部の人を除いて,冷ややかであるか無関心であるかだった。「新しいもの」にすぐにとびつくのは,軽薄であるかアメリカかぶれであるか,と多くの人が言っていた。中には,「国が亡びる」と言う人までいたほどだ。それから5年と経たないうちに,「IT革命は世界をユートピアにする」という記事を,同じ新聞が載せる勢いに一変した。けれども,そのことを誰も恥ずかしいとは思わない。人間社会とは,あきれるほどに未来志向なのである。

佐々木正悟 (2005). 「ロボット」心理学 文芸社 p.131.

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