読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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さて,このように見てくると日本が安心社会から信頼社会に変わるためには,まずは「人を見たら泥棒と思え」と考える傾向から脱却し,「渡る世間に鬼はない」と考え,他者を信用していくことが必要だということが分かってくるわけですが,しかし,読者の中にはこうした結論に対して,異論を唱える方もきっとおられるのではないでしょうか。
すなわち,「他人を信用しなさい」というのは道徳論としてはなるほど大切な話であるかもしれないが,世の中は「信じる者は救われる」というほど簡単なものではない。他者を気やすく信じた結果,もし相手に裏切られて酷い目にあったら,どう責任を取ってくれるのか!――というわけです。
山岸俊男 (2008). 日本の「安心」はなぜ,消えたのか:社会心理学から見た現代日本の問題点 集英社インターナショナル pp.136
では,集団主義社会のメリットとは何か――それは社会のシステムが「安心」を保証してくれるということに他なりません。
この「安心社会」のメカニズムがあるおかげで,日本人は相手から裏切られる心配をすることなく,経済活動に専心できた。だからこそ,他の国よりもずっとパフォーマンスのいい経営を行うことが可能になったというわけなのです。
山岸俊男 (2008). 日本の「安心」はなぜ,消えたのか:社会心理学から見た現代日本の問題点 集英社インターナショナル pp.112
人々の結びつきの強い集団主義社会では,メンバーがおたがいを監視し,何かあったときに制裁を加えるメカニズムがしっかりと社会の中に作られています。つまり,このメカニズムこそがメンバーたちに「安心」を保証しているのであって,個々のメンバーは他の仲間たちを「信頼」しているわけではないということなのです。
いや,もっと言えば,こうした社会においてはそもそも同じ社会の中で暮らしている相手を信頼するかどうか,考える必要すらありません。
山岸俊男 (2008). 日本の「安心」はなぜ,消えたのか:社会心理学から見た現代日本の問題点 集英社インターナショナル pp.104
2000年に起こった貪欲な性犯罪者の事例を考えてみよう。ある中年のアメリカ人男性は幸せな結婚生活を送っており,異常な性的嗜好もなかった。ところがほど一夜にして,売春婦と小児ポルノに興味を抱くようになった。妻がこれに気づき,男性が継娘にちょっかいを出しはじめたため,当局に通報した。男性は児童に対する性的虐待で有罪となり,リハビリを命じられた。ところがリハビリも彼を止められなかった。リハビリ先でも,相変わらずその施設の女性に性的な嫌がらせをしていたのだ。実刑は避けられないように思われた。
彼はしばらく前からしつこい頭痛に悩まされていたのだが,それがいっそうひどくなっていた。判決の数時間前になってようやく病院に行くと,脳スキャンによって大きな腫瘍が発見された。腫瘍を切除すると,振る舞いは正常に戻った。話はこれで終わりかと思いきや,六ヶ月後,彼はまたしても不埒な行動をとりはじめた。再び医師の診察を受けると,最初の手術でとりきれなかった腫瘍の一部が大きくなっていたことがわかった。二度目の手術が完全に成功すると,常軌を逸した性的行動は即座に収まった。結局,男性は実刑を免れた。
腫瘍は極端な例だ。こうした腫瘍のせいで彼の意思決定が極端に変わってしまったのだとすれば,行動の責任を問う者はほとんどいないだろう。だが神経科学者は将来,いまのところは「病気」「疾患」「異常」といった言葉でくくられていないその他の身体的原因を指摘するようになるだろう。彼らは「メアリーの万引きは,彼女の脳内の化学組成とシナプスによって説明できる」などと言うかもしれない。この弁明が,腫瘍を根拠とする弁明よりも理屈として説得力に欠ける理由ははっきりしない。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.213-214
パキスタンやアフガニスタンの上空には,米軍の無人飛行機,ドローンが絶えず飛び交っている。これを操縦しているのは何千マイルも離れたアメリカにいる,たいていは比較的若い男たちだ。2011年までの七年間で,米軍のドローンに殺された人は,パキスタンだけで2680人にのぼると見られる。
ドローンは未来の戦闘の象徴だ。現在,偵察に使われているドローンがある一方で,人間や建物を標的にしているドローンもある。操作レバーを動かして人を殺すのと,銃剣でのどを刺して殺すのはどちらが簡単かがわかっても,それ自体は道徳的に中立な発見だ。結局のところ,われわれが恐ろしい敵に出会ったら,自軍の兵士には殺害に対して良心の呵責を感じてほしくないと思うかもしれない。しかし,銃剣を突き刺すよりもスイッチをぱちりとやるだけで殺すほうが簡単だとすれば,そのことは知っておく必要がある。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.207-208
グーグルの自動運転車の開発はかなり進んでいる。多くの空港ですでに使われている自動運転列車は,いまや世界中の都市に導入されようとしている。たとえばデンマークのコペンハーゲンでは,ほとんどあらゆるものがコンピューターで一元管理されている。暴走する自動運転列車が,五人を殺すか一人を犠牲にするかの「選択」に直面する――そして,状況に応じで適切に反応するようプログラムされている――という事態も想像できる。
自動運転列車であれ銃を使うロボットであれ,人工知能を備えた機械は人間より適切に「振る舞う」ことさえある。ストレスの多い状況で(たとえば砲火にさらされて),人は太った男を突き落としてしまい,あとで後悔するかもしれない。機械の「決断」は,アドレナリンがほとばしったからといって誤ることはない。
ソフトウェア技術者が意見を一致させる必要のあるただ一つ(!)の事柄は,道徳規則をどんなものにするかということだ。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.182-183
この本の至るところで述べているように,新しいテクノロジーの存在それ自体が文化的な問題を生み出すのでも,魔法のように解決するのでもない。事実,それらの構造はたいていの場合,既存の社会的区分を強化する。設計者がツールを意図的に偏見を含んだかたちで構築していることもある。しかしそれ以上に,こうした事態はうっかり起こってしまうことが多い。制作者たちがいかに自分たちの偏見が設計上の選択を特徴づけるかを理解していなかったり,設計者が取り入れたより大きな構造的生態系の中に,偏見を生み出す制限が副産物として存在していた場合のことだ。
ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.265
ティーンがソーシャルメディアを楽々使っているからといって,彼らがテクノロジーによく通じているとは限らない。ティーンの多くは,彼らは「デジタルネイティブ」だという言説から想像されるデジタルの達人とはほど遠い。私が会ったティーンたちは,検索エンジンのグーグルは知っていたが,そこから質の高い情報を得るためにどう質問を組み立てればいいのか,ほとんどわかっていなかった。彼らはフェイスブックの使い方を知っていたが,そのプライバシー設定の理解は,彼らのアカウント利用法と噛み合っていなかった。社会学者エスター・ハーギッタイの辛辣な言葉の通り,ティーンの多くはデジタルネイティブというより,デジタルナイーヴ(世間知らず)だ。
ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.38-39
ソーシャルメディアによって実現された力に何ひとつ新しいものはない。私の祖父母が結婚前に互いに書いた手紙はいまでも残っており,永続性がある。学校新聞に掲載されたメッセージやトイレの壁の落書きは長きにわたって人目に触れる。ゴシップと噂は歴史的に口伝えで野火のように広がるものだ。そして検索エンジンが調査の効率を確実にあげたとはいえ,人に尋ねるという行為自体は決して新しいものではない。検索エンジンもそれについては誰も知らないと言うかもしれない。何が新しいのかといえば,これらの古くからある行為に携わるにあたって利用可能なテクノロジーの機能をソーシャルメディアが提供するにあたって,いまある社会状況を増幅させ,変容させるという部分だ。
ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.26-27
現在就いている仕事など,すでに土地勘のある分野でエキスパートを探すなら,優れたパフォーマンスの特徴とは何かをよく考え,それを測る方法を考えてみよう。評価に多少,主観的要素が含まれていても構わない。それから優れたパフォーマンスに重要と思われる点で最も評価が高い人を探そう。常にベストとそれ以外を区別できるような客観的で再現可能な指標を見つけることが理想だが,不可能な場合はできるだけそれに近いものを目指そう。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.152
しかし,本物のエキスパートが誰か見きわめるのがかなり難しい分野もある。たとえば最高の医師,最高のパイロット,あるいは最高の教師を見きわめるにはどうすればいいのか。最高の企業管理職,あるいは最高の建築家や最高の広告代理店の経営者となると,もう見当もつかない。
ルールに基づく直接対決,あるいは明確で客観的なパフォーマンスの評価指標(スコアやタイムなど)が存在しない分野で最高のプレーヤーを探すときは,誰かの主観的判断はさまざまな偏見に影響を受けやすいことを肝に銘じておきたい。他人の有能さや専門能力を評価するとき,われわれは学歴,経験,社会的評価,年齢,ときには愛想の良さや外見的魅力に影響を受けることが研究によって示されている。
たとえばすでに指摘したとおり,われわれはベテランの医師ほど経験年数の少ない医師より優れていると思い込んだり,複数の学位を持っている人は一つだけ持っている人,あるいは大学を出ていない人より有能だと考えがちだ。楽器の演奏のような他の分野より客観性のありそうなところでも,審査員は演奏者の評判,性別,身体的魅力など演奏とは無関係の要素に影響されることを示す研究もある。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.149
ではこうした選択がスライダーで調整できると考えてみよう。その左端は<パーソナル/透明>で右端は<プライベート/一般>になっている。スライダーは左右の間のどこにでも移動できる。そのどこに移動するかがわれわれにとって重要な選択となる。驚いたことに,テクノロジーのおかげで選択が可能になると(選択の余地があることが重要だ),人々はスライダーをパーソナル/透明とある左の方へと動かしていくのだ。彼らは透明でパーソナライズされたシェアをする。20年前には心理学者は誰もそんなことを予想しなかっただろう。現在のソーシャルメディアが教えてくれるのは,シェアしたいという人類の衝動が,プライバシーを守りたいという気持ちを上回っているということだ。これは専門家をも驚かせた。今までのところ,選択ができる分岐点に来るたびに,われわれは平均的にはよりシェアし,よりオープンで透明な方向へと向かう傾向にある。それを一言で表すならこうだ――虚栄がプライバシーを凌駕している。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.347
コンピューターに限ったわけではない。すべてのデバイスでインタラクションが必要だ。もしインタラクションしていないものがあれば,それは壊れていると見なされるだろう。ここ数年にわたって,私はデジタル時代に子どもが成長するとはどういうことかについて,いろいろな話を集めてきた。たとえば,私の友人の一人に5歳にもならない女の子がいた。最近の多くの家庭がそうであるように,テレビはなく,コンピューターのスクリーンしかなかった。あるとき誰かの家に行って,そこにあったテレビに彼女は興味を持った。その大きなスクリーンに近づいて,周囲を探索し,下側や背面まで見て回った。「マウスはどこに付いているの?」と尋ねた。それとインタラクションをする方法があるはずだ,というわけだ。もう一人の知り合いの息子は,2歳からコンピューターを使い始めた。ある日,母親と一緒に食料品店に行ったとき,母親が商品ラベルの表示を解読しようとじっとしているのを見て,息子は「クリックすればいいじゃない」と言った。シリアルの箱だってもちろんインタラクティブでなくてはならないのだ!別の若い友人はテーマパークで働いていた。ある日,その友人の写真を撮った小さな女の子が,その後でこう言った。「でもこれは本当のカメラじゃないのよ。後ろに写真が映らないもん」。またある友人の子どもはよちよち歩きで言葉も喋れない頃から父親のアイパッドを横取りして使いだした。彼女はまだ歩きだす前から,絵を描いたり複雑なアプリを簡単に使いこなしたりするようになった。ある日,父親が高解像度の画像を写真用の紙に印刷して,コーヒーテーブルの上に置いた。するとよちよち歩きのそれに近付いて,指を置くと拡げてその写真を大きくしようとしているのに彼は気づいた。彼女はその動作を何回か繰り返して上手くいかないと,困ったような顔をして,「パパ,こわれてるよ」と言った。そう,インタラクティブでないものは故障しているのだ。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.295-296
音楽で起こったことは,デジタル化できるものならすべてに起こる。われわれが生きているうちに,すべての本,すべてのゲーム,すべての映画,すべての印刷された文書は,同一のスクリーンや同一のクラウドを通して365日いつでも利用できるようになるだろう。そして毎日のようにこのライブラリーは膨張している。われわれが対峙する可能性の数は,人口の増加とともに増大し,続いてテクノロジーが創造性を容易にしたことでさらに拡大してきた。現在の世界の人口は私が生まれたとき(1952年)と比べて3倍になっている。これから10年のうちにまた10億人が増えるだろう。私より蹟に生まれた50億から60億人は,現代の発展によって余剰や余暇を手にして解放されたことで,新しいアイデアや芸術やプロダクトを創造してきた。いまなら簡単な映像を作るのは,10年前と比べて10倍簡単になっている。100年前と比べたら,小さな機械部品で何かを作ることは100倍は簡単だ。1000年前と比べて,本を書いて出版することは,1000倍簡単になっている。
その結果,無限の選択肢が生まれている。どんな分野でも,数え切れないほどの選択肢が山積みになっている。馬車用の鞭を作るといった仕事が廃れる一方で,選択できる職業は拡大の一途をたどっている。休みに旅行に行ける場所,食事に行く場所,食べ物の種類ですら毎年のように積み上がっていく。投資機会も爆発的に増えている。進むべき方向,勉強できる分野,自分を楽しませる方法がものすごい勢いで拡大していく。そうした選択肢を一つひとつ試していたら,一生あっても時間が足りない。過去24時間に発明されたものや作られたものを全部チェックするだけで1年はかかってしまう。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.220-221
私はもう,個々のURLや難しい言葉のスペルさえ覚えることはなく,答えの詰まったクラウドにグーグルで検索をかけることにしている。自分の過去のメール(クラウドに蓄積されている)を検索して自分がなにを言ったかを(たまに)調べたり,自分の記憶をクラウドに頼るとき,私の中の自分はどこまでで,どこからがクラウドになっているのだろう?私の人生のすべての画像,私の興味のすべての断片,私の書いたすべての文章,友人とのおしゃべりのすべて,自分で選んだもののすべて,勧めたもののすべて,考えたことのすべて,望んだことのすべて,それらすべてがもしどこかにあって特定の場所にないとしたら,自分というものの捉え方が変わるだろう。以前より大きくなり,また薄くもなる。より速くなるが,浅くもなる。クラウドのように思考して境界をどんどんなくし,変化や多くの矛盾に対してオープンになる。つまり私自身が多数性なのだ!すべてが混ぜ合わさり,さらにマシンの知性やAIで強化されていく。私は「私以上」になるばかりか,「われわれ以上」になっていく。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.169
デジタルテクノロジーは,製品からサービスへの移行を促すことで非物質化を加速する。サービスはそもそも流動的なので,物質に縛られる必要がないのだ。しかし非物質化はただのデジタル商品を指しているのではない。たとえばソーダ缶のような堅い物理的な製品が,より少ない材料を使うほど便利になるのは,その重いアトムが重さのないビットで置き換えられているからだ。手に触れられるものが,手に触れられないものへ置き換わっていく――より良いデザイン,革新的なプロセス,スマートなチップ,オンライン接続といった手に触れられないものが,以前はアルミが行なっていたこと以上のことを代行していく。知能といったソフトがアルミ缶のような固い物の中に組みこまれ,固い物がソフトのように動くようになる。ビットが吹き込まれた物質的な商品が,まるで手に触れられないサービスのように振る舞いだす。名詞は動詞へと変容する。シリコンバレーではこれを,「ソフトウェアがすべてを食べつくす」という言い方をする。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.148-149
これからの将来,ロボットとの関係はいままでになく複雑化するだろう。だが,そこで繰り返されるはずのあるパターンはすでに現れている。今の仕事や給与と関係なく,あなたは否定に否定を重ねていくという予想可能なサイクルを経て進歩していくのだ。ここに「ロボットに代替されるまでの七つの段階」を挙げておく。
1.ロボットやコンピューターに僕の仕事などできはしない。
↓
2.OK,かなりいろいろとできるようだけど,僕ならなんでもこなせる。
↓
3.OK,僕にできることはなんでもできるようだけど,故障したら僕が必要だし,しょっちゅうそうなる。
↓
4.OK,お決まりの仕事はミスなくやっているが,新しい仕事は教えてやらなきゃいけない。
↓
5.OKわかった。僕の退屈な仕事は全部やってくれ。そもそも最初から,人間がやるべき仕事じゃなかったんだ。
↓
6.すごいな,以前の仕事はロボットがやっているけれど,僕の新しい仕事はもっと面白いし給料もいい!
↓
7.僕の今の仕事はロボットもコンピューターもできないなんて,すごくうれしい。
[以上を繰り返す]
これはマシンとの競争ではない。もし競争したらわれわれは負けてしまう。これはマシンと共同して行なう競争なのだ。あなたの将来の給料は,ロボットといかに協調して働けるかにかかっている。あなたの同僚の9割方は,見えないマシンとなるだろう。それら抜きでは,あなたはほとんど何もできなくなるだろう。そして,あなたが行なうこととマシンが行なうことの境界線がぼやけてくる。あなたはもはや,少なくとも最初のうちは,それを仕事だとは思えないかもしれない。なぜなら退屈で面倒な仕事は管理者がロボットに割り振ってしまうからだ。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.79-81
われわれはウェブがどうなるかを想像できなかったのと同様,今日の姿もきちんと把握してはいない。そこに花開いた奇跡についてすでに忘れている。生まれてから20年経ったウェブの規模は想像を絶する。ウェブのページの総数は,一時的に作られたものも含めて60兆を超える。これは今生きている人ひとりにつき約1万ページ分の量だ。そしてこの肥沃な世界全体は,創造されてからまだ8000日も経っていない。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.30-31
どんなに将来を有望視される新しい発明にも異を唱える人はいるし,期待が大きければ大きいほど反対の声も大きくなる。インターネットやウェブが誕生したばかりの頃に,頭脳明晰な人たちが愚かなことを言った例を探すのは難しくない。1994年の暮れにはタイム誌が,インターネットはなぜ主流になれないかを説明する記事を掲載した。「それは商売をするためにデザインされたものではなく,新参者を素直に受け入れてはくれない」。なんということだ!ニューズウィーク誌は1995年2月号の見出しで,そうした疑念をもっとあからさまに謳っている。「インターネット?なんだそれ!」。この記事では,天文物理学者でネットワーク専門家のクリフ・ストールが,オンラインのショッピングやコミュニティーというのは常識に反する非現実的な妄想だと述べている。「本当のところ,オンラインのデータベースがあなたの新聞になり代わるなんてことはない」と彼は主張した。「しかしMITメディアラボの所長ニコラス・ネグロポンテは,われわれはすぐにでも本やインターネットで購入するようになると予想している。本当に?」。ストールは「インタラクティブな図書館,バーチャル・コミュニティー,電子コマース」といった言葉に満ち溢れたデジタル世界に対する懐疑が広がりつつあることを踏まえ,それらを「タワゴト」の一言で片付けたのだ。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.24-25