忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「政治・法律」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

英国の場合

 英国では,特に世襲を禁止する法律はない。また,同一選挙区から何親等以内の親族の立候補を制限する,というような世襲制限法の類もない。それなのに英国で二世政治家が生まれにくいのは,木原が指摘するように英国には候補者決定に当たって,公募方式の厳しい選定プログラムが存在するためだ。保守党,労働党と政党によってプログラムは異なるが,大体は次のようなものである。
 まず,立候補希望者は,政党の地方支部や中央指導部に立候補の意思を表明する。すると,地元の選挙エージェントが希望者たちと面接を行う。そこで,政治家としての資質が認められ,見込みがあるとされると,今度は選挙区の選抜委員会が彼ら,彼女らの経歴などを精査する。それに基づいて,推薦リストが作られる。次に選挙区指導部が複数の立候補希望者を面接した上で,人数を絞り込む。ここまできてもまだ候補者は決まらず,次に待っているのが予備選だ。
 立候補希望者たちは,選挙区内の党員の前で演説を行い,それを聞いた党員による投票と審査が行われる。ここでようやく推薦リストに記載される候補者が決まる。だが,この後も,最終的に該当選挙区の当公認候補者になるまでには数回の選抜ハードルが待っている。
 「選択」(05年12月号)では,具体的な候補者選定の方法を紹介する記事が掲載されている。該当記事「『世襲政治家』産まぬ英選挙事情」の扱っているある選挙区のモデルケースを見てみよう。
 下院選挙区の立候補を希望するある保守党員が,当公認を得るための準備を始めた。それは前回の下院選挙が終わった直後のことだ。
 同選挙区からの立候補を希望する者は200人を超えている。党支部が書類選考で10分の1に絞り,18人の合格者を「ショートリスト」に載せた。次に1次面接を行い8人に絞り,さらに党幹部による面接で4人に絞った。この4人は「ファイナル・ショートリスト」に氏名が登載される。
 次に,この4人に待っているのは,選挙区の1000人の党員の前で行なわれる立会演説だ。演説後,200人の党員による秘密投票が実施され,公認候補1人が決定される。
 また,演説とはいうものの,それは一方通行ではない。参加した党員からは容赦ない質問が飛ぶ。現政権の医療政策,環境問題,外交関係——といったように多岐にわたるのだ。
 道理で,英国議員の演説能力が高いわけである。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.124-126
PR

努力は不要

 そうした政治連盟のひとつ,支部での推薦候補を決める際,次のようなことがあった。
 その政治連盟の支部がある選挙区には,自民,民主の両方の候補者が立ち,どちらを支援し,推薦を出すか決めかねていた。ただし支援を受けるには,選挙区に住む当該政治連盟会員の推薦人を20人集めるという条件が課せられていた。
 民主党の新人候補が,選挙区を駆けずり回った末,その政治連盟の推薦を受ける権利を獲得したのは5年目のことだった。酒を飲み,政治を語り合い,一緒に旅行に行き,やっとの思いで20人の推薦人を得た上での支持の約束だったのだ。
 ところが,相手の自民党現職が引退を表明し,息子に選挙区を譲るということになった。もちろん息子の推薦人はゼロである。
 しかし,出馬を表明した翌日には,推薦人の20人を確保してしまったのだ。自民党候補だからという理由ではない。推薦の理由は,候補者が,現職の長男だったからだ。こうして,世襲議員は無意識のうちに貴重な財産とも言うべき人間関係を作っていることが多いのだ。
 手間が省けたというだけの話では済まない。この民主党新人候補のように,1つの支援を取り付けるのに,多くの候補者は,カネも時間も使って苦しんでいるのだ。
 それに比して,世襲は楽である。支援団体の相続というのは,つまり地盤とカバンの両方を一瞬にして得られるからだ。しかし同時に,自らも知らないうちに努力を怠っているということになる。繰り返すが,それがひ弱さを作るのだろう。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.113-115

命名も選挙用

 政治家の名前に「一郎」「太郎」が多いことは,こうした選挙の常識と無関係ではない。有権者に覚えてもらうために,できるだけ簡単な名前をつける。これは世襲政治家の家では,広く行なわれていることだ。
 思えば,現在の麻生首相は「太郎」で,民主党の小沢代表は「一郎」である。また衆議院議長の河野洋平の父は「一郎」,息子は「太郎」だ。
 さらに徹底しているのが。鳩山家である。邦夫の祖父が「一郎」,父が「威一郎」であるのは普通だとして,邦夫の長男が「太郎」,次男が「二郎」,長女が「華子」となると,さすがに永田町でも類を見ない。さらに太郎の長男,つまり邦夫の孫が「一郎」となるとその徹底した姿勢に感銘すら覚える。裏返せば,政治家にとって,それほどまでに選挙が重要だということの証左になる。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.104-105

機会平等ではない

 しかし,現実は逆で,政治資金の世襲こそ,機会の平等を損なっているのではないか。
 小渕優子の初当選時(00年)の資産公開をみると,預貯金1200万円,他には以前つとめていた東京放送(TBS)株を1000株保有するのみ。資産からみると,ややリッチな程度のOLが選挙に出られる背後には,前述の1億2000万円の相続があるのは疑いない。もし民間人が政治に参画したいという志をもったとしても,とうてい1億2000万円という資金を準備することは不可能だろう。
 また金額には表れないが,講演会などの組織を一から作ろうと思ったらどれほどの手間と金がかかるか。こうした有形無形の「相続」を考えれば,寺田のいう「立候補の自由」には,著しい不公平があるのだ。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.75

合法的な無税相続

 2000年5月に急逝した小渕元首相の資金団体は「未来産業研究会」という。TBSを辞めて父の秘書をしていた小渕優子が,同名の資金団体「未来産業研究会」の届出をしたのは,父の死から半年後の11月。同名でややこしいので以降は,新・旧で記す。
 同月,「旧研究会」は,代表者を元首相秘書官の古川俊隆に代え,その日のうちに「解散」の届出をしている。解散時,「旧研究会」の残高は約2億6000万円で,そのすべてを使い切っている。そのうち,寄附支出が約1億6000万円を占めている。寄附の内訳は,7000万円が「国際政治経済研究会」へ,残りの約9000万円が「恵友会」である。これらは,ともに,小渕元首相の政治団体である。
 小渕元首相関連の政治団体は「国際政治経済研究会」「恵友会」「恵和会」「恵山会」「平成研究会」などがある。資金団体は1代限りだが,政治団体は永続性があるため,いまなお存在している団体もある。
 一方,01年3月に届出のあった「新研究会」の収入は約6000万円。そのうち団体からの寄附によるものが9割を占め,そのほとんどが「国際政治経済研究会」からのものだった(5000万円)。
 つまり,父の小渕元首相が「旧研究会」に預けていた「遺産」は,「国際政治経済研究会」を経由して,娘の「新研究会」に相続されたのだ。

 もちろんその間,一切税金はかかっていない。つまり,親から娘へ5000万円が非課税で相続されたのだ。だが小渕元首相の死後,寄附した金額は約1億6000万円だったはずだ。となると残りの約1億円はどこにいったのだろうか。
 実は,翌年も同様の「相続」が行なわれており,「新研究会」に,「国際政治経済研究会」から2000万円,「恵友会」から5000万円が寄附されていたのだ。要するに,「旧研究会」の解散時に寄附された「国際政治経済研究会」への7000万円と「恵友会」への約9000万円は,2年かけて,それぞれ7000万円全額と,9000万円のうち5000万円が「新研究会」に寄附された計算になるのだ。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.69-70

苦労知らずの世襲議員

 社民党党首の福島みずほは,世襲議員は人びとが何で苦労をしているのかまったく分かっていないと憤る。初めて格差是正のことを国会で質問し,非正規雇用のことを質問していたときのことだ。「がんばって働いてマンションぐらい買え」「がんばって正社員になれ」と二世議員から野次が飛んだという。
 「がんばっても非正規の人が正社員になることは本当に困難だ。分かっていない」
 こう憤る福島だが,次の麻生首相になっても,そうした意識の低さに変化はなかったようだ。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.33-34

法と法がぶつかり合う場所

 独占禁止法と知的財産法は,もともとぶつかり合う関係にある法律です。
 知的財産法は,知的創造を行なった人に,その創造物の独占的使用権を認めて,インセンティブを高めることを目的としています。反対に,競争を促進することを目的としている独占禁止法は,市場を独占することは競争を阻害するとして禁止しています。
 競争を促進することによって独占禁止法が実現しようとしている価値と,知的創造のインセンティブを与えることによって知的財産法が実現しようとしている価値の両方を,バランスよく実現していくためには,2つの法律が調和するように解釈することが必要となるのです。
 しかし,これまで多くの法学者はその専門領域の中だけで物事を考えようとし,タコツボの中に入って出てきませんでした。そのため企業法相互の関係を考え,体系化しようという発想がほとんどなく,それが経済社会における法の機能を阻害していたのです。
 実は多くの企業不祥事が,複数の法律の目的がぶつかり合う領域で生じています。その法律と背後にある社会からの要請に加えて,関連する別の法律の背後にある価値感も視野に入れなければ,問題の根本的な解決にはつながりません。それは,企業に関する法全体を体系化して「面」でとらえるということです。

郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.138-139

法令は何のために存在するか

 ここで,法令は何のために存在するのかということを考えてみましょう。
 図2で示しているように,法令の背後には必ず何らかの社会的な要請があり,その要請を実現するために法令が定められているはずです。だからこそ,本来であれば企業や個人が法令を遵守することが,社会的要請に応えることにつながるのです。
 ところが,日本の場合,法令と社会的要請との間でしばしば乖離・ズレが生じます。ズレが生じているのに,企業が法令規則の方ばかり見て,その背後にどんな社会的要請があるかということを考えないで対応すると,法令は遵守しているけれども社会的要請には反しているということが生じるわけです。
 その典型的な例が,JR福知山線の脱線事故の際に,被害者の家族が医療機関に肉親の安否を問い合わせたのに対して,医療機関側が個人情報保護法を楯にとって回答を拒絶したという問題です。
 個人情報保護法が何のためにあるのかということを考えてみると,その背景には近年の急速な情報化社会の進展があります。今の社会では,情報は大変な価値があります。それを適切に使えば個人に非常に大きなメリットをもたらしますが,逆に,個人に関する情報が勝手に他人に転用されたり流用されたりすると本人にとんでもない損害を与える恐れがあります。ですから,個人情報を大切にし,十分に活用するために,情報が悪用されることを防止する必要があります。そこで,個人情報を取り扱う事業者に情報の管理や保護を求めている,それが個人情報保護法です。
 あの脱線事故の際,電車が折り重なってマンションに突っ込んでいる悲惨な状況をテレビで目の当たりにして,自分の肉親が電車の中に閉じ込められているのではないか,病院に担ぎ込まれて苦しんでいるのではないかと心配する家族にとって,肉親の安否情報こそが,あらゆる個人情報の中でも,最も重要で大切なものではないかと思います。ですから,自己後の肉親の安否問い合わせに対して,迅速に,適格に情報を伝えてあげることこそが,個人情報保護法の背後にある社会的要請に応えることだったのです。
 しかし,あのとき多くの医療機関の担当者の目の前には,「個人情報保護法マニュアル」があったのでしょう。そこには,個人情報に当たる医療情報は他人には回答してはいけないと書いてあったので,その通りに対応し回答を拒絶したのです。担当者には,「法令遵守」ということばかりが頭にあって,法の背後にある社会的要請など見えていなかったのです。

郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.101-103

談合害悪論の自己目的化

 公共工事による社会資本の整備は,総合的に見て良質かつ安全で,しかも安価なものとなるようにするために,いかなる入札・契約制度の下で,いかなる運用を行うのが適切なのか,という観点から考える必要があります。
 会計法が定めている「最低の価格で入札した者が落札する」という建前も,「総合的に見て良質かつ安全で,安価な」調達を実現するという目的のための手段の1つに過ぎません。会計法上義務付けられている入札での価格競争を制限する行為が独禁法違反として禁止されるのも,同様に,目的実現の1つの手段に過ぎないはずです。
 ところが,いつの間にか,会計法の原則を守ることと,価格競争に極端に偏った独禁法を遵守すること,すなわち「談合をやめさせること」が,自己目的化してしまい,それさえ達成すれば,あとはどうにでもなるというような単純な議論ばかりが幅を利かせてきました。
 このような単純な「談合害悪論」の前に,従来のシステムは崩壊しようとしています。しかし,問題は,「談合を行うかやめるか」ではありません。それぞれの公共調達の特質に見合った方法で発注がなされ,「総合的に見て良質かつ安全で,安価な」調達が実現されることです。

郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.53-54

闘いの果てに

 「不吉な日」に提出された修正和解案における最大の「修正」部分は,
 「当初の和解案では世界中の書籍の大半がその対象とされていたが,修正和解案では,米国の連邦著作権登録局に登録されている書籍か,米国・英国・カナダ・オーストラリアの4か国で出版された書籍に限定する」
 とした点だ。これにより,日本で刊行され日本語で書かれた書籍はグーグル和解案の土俵から外れることになる。グーグル社への反発が特に強かったドイツやフランスの書籍も同様に和解案から外された。裁判所から和解案を丸ごと否定されてしまう前に,口うるさい国々からの全面撤退をグーグルが自ら決めたわけだ。
 「グーグルブック検索和解」事件の本質は,インターネットとデジタル技術を悪用し,著作権条約などを身勝手に解釈しながら,世界中の著作権を牛耳ろうとグーグル社が企んだ海賊版事件に他ならなかった。
 大砲を打ちかましながら幕末の日本に開国を迫った「黒船襲来」さながらに,潤沢な資金と「宇宙最強」とも評される敏腕弁護士軍団を随え,インターネットへの「著作権の開放」を迫ってきた“巨像”グーグル社に対し,当初は歯向かうことすら恐ろしく感じたものだ。「和解案を潰す」ことが目的だった筆者にしてみれば,十分すぎるほどの大勝利である。ドイツ政府やフランス政府の後押しや,日本政府の見解表明という神風めいた追い風が吹いてくれたものの,諦めさえしなければきっと活路は見出せるものなのだと,しみじみ思う。

明石昇二郎 (2010). グーグルに異議あり! 集英社 pp.164-165

受取拒否も困難

 読者のみなさんも,もうそろそろ議員の無駄遣いの話には辟易としているであろうが,こうした手当の受け取りを拒否して国庫に返還することがなぜできないのかを,ここで説明しておく。
 私がこうした手当の拒否を最初にしたのが,実はこの委員長手当だった。これを「いらない」と言ったら,すかさず国会職員の課長がやってきて,「受け取らないと法律違反になります」と言う。
 「そんなバカな。いらんものを返すと言って何で法律違反になるのか。わけがわからん」と言う私に,課長が「これを見てください」と作ってきた書類を見せる。
 そこには,第1章でも少し触れた「公職選挙法の第199条の2」の条文が書かれていた。
 <公職にある者は,当該選挙区内にある者に対し,いかなる名義をもってするを問わず,寄付をしてはならない>
 手当の受取拒否が,なぜこの条文に違反するのかはわかりにくいが,要は,手当を国庫に返納するのいうのは国への寄附行為にあたり,しかも選挙区は国の一部であるから,国庫返納という行為には選挙区への寄付も含まれている,という理屈だ。
 「ワシの場合は,返還するのとは違うぞ。最初から受け取らんのだから,寄付にはならんだろう」 
 「それは,だめです。同じことです」
 納得できないまま,何度もこんなやり取りを繰り返していたら,最後は衆議院法制局が考えてくれた。
 「委員長手当は委員会を運営するための経費であり,委員長が不要とする場合は支給しない」
 この解釈により,私は委員長手当を受け取らずにすんだが,結局は2ヵ月で委員長をクビになった。
 ただ,それでもこの衆議院からの判断をもらったのは,後に大きな意味をもつことになる。「受け取らないと法律違反になる」と言う者たちに対して前例として提示することができるようになり,ほかの議員が同様に不要な手当や経費の受け取りを拒否する際のよりどころとなっていったのだ。

河村たかし (2008). この国は議員にいくら使うのか:高給優遇,特権多数にして「非常勤」の不思議 角川SSコミュニケーションズ pp.88-90

議員宿舎問題はどこに?

 いくら国民の方を向いていても議員仲間にとことん嫌われたら,議員をやってはいけない。日本の政治とはそういう世界だ。
 気心の知れた議員仲間には,「もう意地を張るのはやめて,宿舎に入ったらどうだ?」と言う者もいるが,そんなことをしたら私の政治生命は終わってしまう。それに今では意地でやっているのではなく,下町ライフを満喫している格好だ。
 それでも,そうこうしているうちに事態が変わった。マスコミが,議員宿舎問題をまったく報じなくなっていったのだ。新聞をはじめテレビのワイドショーなど議員宿舎問題を追及していたメディアが,いつの間にかパッタリと報道をやめてしまった。移り気なマスコミの性質が原因かというと,そればかりでもない。これは裏をとった話だが,官邸あたりからマスコミ統制があった。「もういいだろう,そろそろやめてくれ」と各党やマスコミにおふれが回ったのである。
 理由は簡単だ。引っ越してくる議員たちにテレビ局がカメラやマイクを向けるので,さすがの議員たちも寄り付けなかったのだ。07年4月からの入居開始時には4割も空室がり,それを無駄と考えたのであろうが,無駄の意味を履き違えている。
 このおふれの後,多くの議員が赤坂宿舎に引っ越していった。
 当時,私にはテレビ朝日の取材が入っていたが,どういうわけかそれが1週間延期になってそのままボツ。共産党の議員たちが入居したのがその直後だったのでよく覚えている。共産党といえば,「赤旗」で志位(委員長)さんが堂々と議員宿舎への入居はいかんと言っていたのだが……。

河村たかし (2008). この国は議員にいくら使うのか:高給優遇,特権多数にして「非常勤」の不思議 角川SSコミュニケーションズ pp.74-75

つきあいは誰でもある

 そもそも議員が毎月支払う議員年金の掛け金は,1958年の国会議員互助年金法の施行時は2700円だった。それがどんどん上がって94年には月10万3000円になった。これを引き合いにだして,「そらみろ,国会議員だって懐を痛めているじゃないか」と居直る議員もいるが,これはペテンだ。
 実は議員年金の掛け金が上がるにつれて,歳費も上がってきたのである。58年当時の月額歳費は9万円だったが,94年時は133万2000円だ。国民のみなさんが厚生年金の掛け金が上がっても,給料は上がらずやりくりしているのとはまったく次元が違う。自分の財布を傷めないこんな年金制度は世界を見渡してもほかに例がない。
 それなのに,ある国会議員などはテレビに出演した時に,「私たちは辞めた後にもいろいろお付き合いがあって,お葬式にもちょくちょく顔を出さないといけないし,議員年金は必要なんです」と恥ずかしげもなく訴えていた。付き合いなんて誰にでもある。なんで議員だけ特別扱いして税金で面倒みないとならないのだ。

河村たかし (2008). この国は議員にいくら使うのか:高給優遇,特権多数にして「非常勤」の不思議 角川SSコミュニケーションズ pp.51-52

どうぞ休んでください

 しかし,そもそもなにがおかしいかというと,議員という仕事をフルタイムジョブと考えて,常勤で働く普通の勤め人並かそれ以上の高級を与えていることがおかしい。くどいようだが,議員は「パブリック・サーバント」だ。議員で儲けようなんて考える者はそもそも議員ではない。朝から晩まで働いてそれで食べていこう,一家を養っていこうという者は,公務員試験を受けて役人になるべきだろう。
 こういう話になると「議員というのは選挙でお金がかかって,大変なんですよ」といかにもお金に困っているようなことを言う者がいる。不思議なことに,議員はみんなそう言う。
 読者の皆さん,もしそんなことを言う議員がいたら,「へえ,そんなに大変だったらお辞めになったらいいのに。無理しないでいいですからお休みになってください」と言ってみてほしい。まあ,そういう議員に限って,石にかじりついてでも絶対辞めないだろうが。

河村たかし (2008). この国は議員にいくら使うのか:高給優遇,特権多数にして「非常勤」の不思議 角川SSコミュニケーションズ pp.30

パワハラと法律

 ここで,いじめ,パワハラ(パワーハラスメント)に対して法がどのような考え方を持っているのかを説明しておこう。
 法律上,これがいじめであるとか,これがパワハラであるとか,そういった定義は存在しない。したがって,いじめやパワハラの問題が起きたとき,こうすればいいというものは,直接の法律規定ということでは決まりがない。
 社会的には,パワハラについては例えば次のように定義されている。「職場において,地位や人間関係で弱い立場の労働者に対して,精神的又は身体的な苦痛を与えることにより,結果として労働者の働く権利を侵害し,職場環境を悪化させる行為」である,と(東京都の定義)。
 これを法の考え方に即して考えてみると,いじめ,パワハラというのは結局,法律上は,ある種の法益を侵害する場合に許されないということになる。人格権とは,名誉とか,自由とか,人格と切り離すことができない利益のことだ。人格権については,例えば,肖像権やプライバシー権といった形で裁判所の判例でも認められている。
 つまり,職場において,人格上の攻撃を行うことでその人を人格的な傷を負った状態にすることは法的には許されないということになる。これについては,攻撃を行う本人に対して,そのような攻撃を行うことは許さないと中止を求めること,傷を負った点について,不法行為だからということで損害賠償を求めることができる(民法第709条)。この加害行為が刑法に定める犯罪行為に該当する場合は,刑事責任が発生するのは当然である。
 また,企業は,労働者の心身を健全に保つことができるように,職場環境をそれにふさわしく整える義務があると考えられている。安全配慮義務といわれる義務である。ここからさらに,使用者には「労務を遂行するに当たり,人格的尊厳を侵し,その労務提供に重大な支障を来す事由が発生することを防ぎ,またはこれに適切に対処して,職場が労働者にとって働きやすい環境を保つように配慮する注意義務」があると考えられている。これは,職場環境整備義務とか,職場環境調整保持義務などといわれている。これらの義務は,仮に使用者が個々の労働者との労働契約においてとくに約束していなくても,労働契約を締結した以上,使用者が労働者に対して当然負う義務であると考えられている。

笹山尚人 (2008). 人が壊れてゆく職場:自分を守るために何が必要か 光文社 pp.78-80

犯罪を犯すためにその専門家になったのではない

 公正さの法的追及に関係する様々なグループの利害を考える際に,ほとんどの専門家は不法行為や犯罪に関係するためにその仕事を選んだのではない,ということを覚えておくべきである。ずさんな仕事をするために働くことなどない。彼らの行為は,その時点で受けていたプレッシャーと目標の下でこそ,道理に適っている。彼らの行為は複雑な技術システムによって,その只中で生まれた通常業務そのものである。専門職の人々はなすべき仕事をしよう,よい仕事をしようといている。生命を奪おう,障害を与えようといった動機は持っていない。全く逆である。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.200
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

自白の重視

 ほとんどの国で容疑者の宣誓証言は法廷で証拠として採用される。興味深いことに,裁判所は自白に対してかなりの程度,あるいは全面的な関心を示す。否認は概して説得力がないようだが,容疑者が「罪」を告白すると,それは有罪判決に十分な証拠となり得る。他の証拠は必要とされないくらいである。
 それによって何が起きるかというと,警察あるいは調査機関が時として容疑者がある特定の事柄を思い出す「手伝い」をしようとし,あるいはある特定の言い回しでそれを証言させようとすることである。加えて,国によっては,裁判所は尋問記録の要約のみを検討する。それは検察が被疑者を実際に取り調べてから難か月も後に作成された可能性があり,被疑者が言いたかったことと,裁判官もしくは陪審団が記録から読み取ったものとの隔たりは極めて大きくなる。
 このために,被疑者が自分はカフカ的不条理のプロセスに捕らえられていると感じても不思議はない。彼らは自分が知らないか理解していないことで告発されている。なぜならば,彼らは自分の世界,自分の専門知識を作りあげている言語とは全く異なる言語の中に放り込まれたのだから。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.187-188
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

エラーの犯罪化がもたらすもの

 専門家集団の内外にいる多くの人は,ヒューマンエラーが犯罪として扱われる傾向をやっかいなことであるとみなしている。もし,裁判が社会に奉仕するために存在するなら,ヒューマンエラーを訴追することは,極めて根本的な部分でその足かせになるだろう。長期にわたって,エラーを犯罪,あるいは有責の過失として扱った場合,安全の仕組みは脆弱になるだろう。エラーを犯罪化したり,民事賠償を求めたりすると、次のようなことを生み出す。

・安全に関わる調査の独立性を損なう。
・安全と危険が紙一重である業務に就いている人々に、注意深く仕事をする意識よりもおそれを植えつける。
・組織は、業務そのものに注意深くなるよりも、文書記録を残すことに対して注意深くなる。
・当事者からの証言が得られにくくなることによって、安全監査官の仕事がやりづらくなるし,報告書には検察官の関心を惹かないように配慮された文章が並ぶことになる。
・公正や安全に寄与しない司法手続きに費用がかかることによって、税金が浪費される。
・金銭的な賠償よりも、当事者の謝罪や、人が傷ついたことについての認識を求める被害者の願いを無視することになる。
・真実を語ることをためらわせ,その代わりに,専門家仲間のかばい合いや言い逃れ,自己防衛を助長する。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.176-177
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

複雑な原因には対応できない

 司法手続きの核心は,責任を1人または少数の人が取った2,3の行為に絞り込むことにある。しかし,それゆえに,複雑でダイナミックな今日のシステムにおける事故原因にたどり着くことができなくなる。基本的に安全なシステムを崩壊へと突き落とすためには,必要条件ではあるが十分条件ではない。複雑な出来事に関する司法手続きは論理上「公正」にはなり得ない。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.169
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

ヒューマンエラーと犯罪

 しかし,ヒューマンエラーを犯罪として扱うことによって司法制度の根本的な目的が促進されるという根拠は何もない。そもそも裁判の根本的な目的とは,犯罪予防や懲罰を科すこと,更生させることであって,何が起こったかに対する「真実」を説明することでもなければ,「公正」を提供することでもない。

・実務者を逮捕し,判決を言い渡すことで,他の実務者がより注意深くなるという考え方は,おそらく見当違いである。実務者は,自分が何をしたかということを公にすることにより慎重になるだけである。
・犯人を更生させるという司法の目的は,この問題には適用できない。なぜならば,パイロットや看護師,航空管制官などはそもそも自分の仕事をただ行っていただけであるため,更生させられる余地はほとんどないと言えるからである。
・そもそも,その行動(調剤や離陸の許可)によって有罪判決を受けた専門家を更生させるためのプログラムがない。

 裁判によるヒューマンエラーの犯罪化は税金の無駄使いであるばかりでなく(その税金は安全性向上のために使えたはず),司法システムが守ろうとしている社会の利益を損なうことになる。実際に,再発防止のためには別のアプローチのほうが,はるかに効果的である。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.166-167
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]