ヴィクトリア朝時代には,多くのすばらしいものをもたらしたが,わたしがもっとも好きなのは,衛生改善家(サニタリアン)という,いまはもう廃れた職業だ。衛生改善家とは,「公衆衛生」という新たな学問を修めた人々をさす言葉である。なかでも有名なのは,エドウィン・チャドウィックだ。 チャドウィックは,当時の労働者階級がおかれていた不衛生な生活環境を問題にした。そして,それを改善するためには,下水道網を張りめぐらし,そこに雨水ではなく,下水汚物——新たに作られた言葉だ——を流してテムズ川に廃棄する必要があると考えた。おそらく川は汚れるが,それで住民の健康が守れるのならしかたがない。こうして下水道がつくられ,その結果,テムズ川はさらに茶色く濁り,人々がその川の水を飲んだため,コレラは喜々として拡大を続けたのである。汚物を川に流すことに,新聞や議会で激しい非難の声が上がったが,なんの手だても講じられなかった。パストゥール以前の医療機関では,依然として,疾病は瘴気による感染で広がると考えられていたのだ。 乾燥した長い一夏がすぎて,ようやくこうした状況に変化が訪れた。それは,水の汚さではなく,空気の汚さゆえだった。1858年,テムズ川に満ちた下水汚物と夏の暑さが組み合わさって,「耐えがたい大悪臭」を生み出し,そのあまりの強烈さに,英国議会のテムズ川に面した窓のカーテンは,消臭効果のある塩化イオンに浸された。この問題を何年も先送りにしてきた議員たちは,ハンカチで鼻を抑えながら,たった10日間の審議で首都管理法の成立を可決し,「首都ロンドンの幹線下水道」を整備する首都事業委員会の設置が決定された。 この委員会のチーフ・エンジニアに就任したのがジョゼフ・バザルジェットだった。彼は壮大な計画を立てた。テムズ川の上流,中流,下流の3つの幹線下水道を建設するというものだ。より小規模な,網の目のように張り巡らされた下水道の水がその幹線下水道に流れ込み,ロンドンの東の端にある2つの放流場所,バーキングとクロスネスへと運ばれる。ロンドンの下水汚物はここからテムズ川に投棄されるが,人々の生活の場からは充分に離れている。希釈する——エンジニアがマントラのように唱える言葉だ——ことによって,水質の汚染も食い止められる,と考えられた。 バザルジェットによって,20年近くの歳月をかけ,下水道網が建設された。スティーヴン・ハリデーが著書『ロンドンの大悪臭(The Great Stink of London)』で述べているように,バザルジェットはもっとも偉大な衛生改善家だったと考えられる。彼がつくった下水施設に命を救われた人の数は,ほかのどんな公共事業によって命を救われた人の数よりも多いだろう。それにもかかわらず,彼の努力を称える証は,河岸公園に飾られた小さな銘板など,わずかしかない。彼の彫刻や,彼の名前を冠した公道も存在しないが,バザルジェットが,ロンドンのいまの生活の基盤づくりにかなりの貢献をしたことはまちがいない。
1798年11月8日,イギリス人ジョン・ファーン(John Fern)船長率いる捕鯨船ハンター号がナウルに接近した。すぐに数席のカヌーが偵察にやってきた。驚いたハンター号の乗組員は船から離れず,ナウル人も小舟に乗ったままであった。だが,ナウル人からは,敵意はまったく感じられなかったという。これこそナウル人とのファースト・コンタクトである。ポリネシア諸島に滞在経験のあったジョン・ファーンは,ナウル島民の体に,ポリネシア人のようなイレズミがないことに気づいた。数百人のナウル人がイギリス船の後をついてきた。このファースト・コンタクトに感動したイギリス人船長は,この島を「プレザント・アイランド(快適な島 Pleasant Island)」と命名した。この島は,おそらく数十年の間,他のヨーロッパ人とコンタクトを持つことがなかったと思われる。