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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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無節制と抑制の行き来

 そのうえ社会もやりたい放題の無節制と抑制のあいだを行ったり来たりする傾向がある。たとえば19世紀初め,アメリカ人は大酒を飲んでいたから,国家の象徴は白頭ワシではなく酔っ払いが見る幻覚のピンクの象でもよかったくらいだ。しかしその後国家的な反動が起こって,アメリカ人の酒量は激減する。犯罪や10代の妊娠その他の無秩序の兆候も増えたり減ったりするし,エリオット・スピッツァーやジョン・エドワーズ,タイガー・ウッズと同じような性的スキャンダルは歴史上いくらでも見られる。社会学者のゲイリー・アラン・ファインは,「理想的な時代があるという考え方は誤解につながる。昔は女優が下着をつけていないことを誇らしげに口にしたりはしなかっただろうが,人種差別的発言をしたコメディアンのマイケル・リチャーズや口の悪いラジオ番組のホスト,ドン・イームズが浴びた激しい避難は,いくらコール・ポーターが『エニシング・ゴーズ,何でもありさ』と歌っても,わたしたちは何でもありだとは思っていないことを示している」と述べている。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.16-17
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たのむ

この2つの事例に共通するキイ・ワードは,ずばり「憑む(頼む)」である。室町時代に成立した芸能である狂言のなかでは,よく下人である太郎冠者や次郎冠者が,自分の主人のことを「たのふだ人」とか「たのふだ御方」とよんでいる。これはまさに「憑んだ人」「頼んだ御方」の意であり,ここでは「憑んだ人」とは「主人」と同義で使われていることがわかる。中世社会においては「憑む(頼む)」という言葉は,たんに現代語のように「あてにする」「依頼する」という程度の意味ではなく,むしろ「主人と仰ぐ」「相手の支配下に属する」というようなつよい意味をともなっていたのである。つまり,屋形に駆け込んだ者たちは,自己の人格のすべてをその家の主人に捧げ,「相手の支配下に属する」ことを宣言したのであり,これにより主人の側はたとえ相手が初対面のものであったとしても,彼の主人として彼を「扶持」(保護)する義務が生じた,と,当時の人々は考えていたようなのである。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.58

臭いで判断

 輝くように白い歯がいまいちばん求められているとはいえ,かつて衛生のゴールだったことが重要でなくなったわけではない。なにひとつ脱落することなく,新しいニーズがどんどん加わり続けている。この1世紀以上のあいだ,清潔はアメリカ人らしさの決定的な特徴で,アメリカ人かそうでないかを分けるシグナルであり続けてきた。南北戦争のころは,顔と手が垢まみれで,襟と袖口が薄汚れていると,農夫か肉体労働者か,あるいは単に貧乏人ということだった。20世紀のあいだに,見るからに不潔な人はほとんどいなくなり,においが動かぬ証拠になった。石鹸とデオドラント剤のマーケティングや宣伝関係者は,腕を上げては衛生のスタンダードをどんどん押し上げ,広告はいつでもたっぷり実を結び続けた。人の生身のにおいを嗅いだり,自分の生身のにおいを発したりするのは,御法度,ゆゆしい侵犯行為になった。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.257

清潔さが強迫観念へ

 あたうかぎり清潔で無臭の世界を描き出すことについては,1920年代が転換期となる。都市圏が拡大し,人だらけの会社や工場で他人と近い距離で仕事をするようになると,困ったことに自分や他人の体臭が気になってくる。労働という世界に女性も進出するようになると,このにおいに敏感になるという新しい習性に拍車がかかる。最初は19世紀末のヨーロッパにそろそろと現れだした,潔癖なほど清潔かどうかという心配は,アメリカでは強迫観念になった。同時に,経済の繁栄は最高潮に達した。人々には,まったく無臭の場所で暮らせるようにしてくれる商品を買える余裕があり,その安全な場所では誰も人の気分を「害し」も「害され」もしなかった。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.232-233

清潔ハードルの高み

 配管設備と取り付け用の商品の普及にともなって,人々の期待や感じ方も変わってきた。体を洗っておらずにおう人たちは,誰もが覚えているかぎりでは長らく風景の目立たない一部だったのだが,だんだん不快に思われるようになった。エミリー・ソーンウェルが驚くべき早さでこの意見を述べているのは,1859年刊行の著書『完璧な上品を目指す淑女の手引き』のなかだ。「いまや,下着は毎日変えるけれども,お風呂に入ったことがなかったり,年に1度か2度しか体中を洗うことがなかったりする上流階級の人々を,私達はどう思うでしょう?」とソーンウェルは読者に問いかける。「もちろん,はっきり申すなら,そういった人たちは,どうあれじつに不潔な貴族以外の何者でもないのです」。
 そういった人たちは,不潔なばかりか,ひどくにおった。運動で発汗が促されると,「そういった人たちは,ラヴェンダー水やベルガモットでは隠しきれないなにかを発しているのです」。体臭の強さにもいろいろあるとソーンウェルは認めてはいるが,あまり体を洗わない人はみんな不快なにおいを発するようになり,これは体から出た体液が,石鹸と水を使っていなければ「腐ったようなにおい」になるからだ。ここで重要なのは,ソーンウェルが健康目的の入浴については触れていないことだ。その代わり,この手引きの読者がアドヴァイスを受けるのは,どうやって「人に嫌われる」ことがないようにするかだ。この恐ろしい言葉は,20世紀の石鹸やデオドラント剤の宣伝にずっと使われ続けることになる。人に嫌われないかという心配は,ヨーロッパ人がのちにひどくアメリカ的だと見なすようになるものだが,すみずみまで清潔にするのが可能になってからでないと表面化してこない問題だろう。さらにソーンウェルはなにより恐ろしい警告を発する。体臭でまわりに迷惑をかけている人は,自分ではそうと気づいていない場合が多い,というのだ。この事実は「なにをおいても,淑女たる皆さんが気をつけねばならないことです」。自分では気づかないまま人に嫌われているかもしれないということは,不安を駆り立て,この不安は来るべき世紀に繰り返し広告業者に利用されることになる。石鹸を宣伝にしっかり結びつけることは,20世紀前半の衛生の大きなテーマのひとつになり,清潔のハードルを前代未聞の高さまで引き上げることになる。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.215-218

清潔さが判断基準に

 つまりアメリカが衛生先進国になったのは,ひとつの決定的な理由があったからではなく,むしろいくつかの理由がうまく重なったからなのだ。まず,アメリカ人は新しいものを生み出す志向を誇っていた,という理由がある。それはまさに新世界にふさわしい民主主義というものの大発明から,使い勝手の良いりんごの芯抜き器を生み出すようないかにもアメリカらしい創案にまで及ぶ。念入りに体を清潔にすることと,たとえば湯の出る水道管や化粧石鹸といった清潔になる手だて,さらには衛生の利点に気づかせる宣伝さえも,アメリカが新しく生み出したものだ。次に,もともと階級制度のないアメリカの人々は,どの程度礼儀正しいかをはっきりさせたり,どういうステイタスにあるかを示したりするのに,誰にも不公平にならない方法を探していた,という理由がある。それが,だんだん清潔がほとんどのアメリカ人の手の届くものになってくると,どれくらい身ぎれいかがいい判断基準になるとわかった。さらに,南北戦争のあいだ,衛生的な環境を保つことで病気の広がりをうまく抑えた結果,アメリカ人は清潔でいることを,進んでいて社会人として恥ずかしくないことと見なすようになった,という理由がある。こうして,信心深いことや愛国的なことを好むアメリカ人のあいだでは,19世紀終盤の数十年までには,清潔と敬虔が国民らしさと固く結びつくようになっていったのだ。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.192-193

新しい街だから

 なぜアメリカは衛生先進国になったのだろう?答えのひとつは,それができたからだ。上水道と下水道は,古い街よりは新しい街に設置するほうが簡単だ。ヨーロッパの古くて密集した集合住宅とは対照的に,いくらでも安い土地があるアメリカでは,たっぷりの広さの寝室がある家がふつうだった。民主主義国アメリカでは頭に挙がったのが配管で,1870年代にはアメリカの配管設備はほかのどんな国をも追い越してしまった。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.192

アメリカ人の場合

 南北戦争以前は,アメリカ人はヨーロッパ人と同じくらい汚かった。ヨーロッパでは,金のある型破りな変わり者が清潔になろうという思いを募らせていたが,19世紀初頭には,ほとんどのアメリカ人は,イギリス人と同じように体は洗わないのがあたりまえで,健康といえるかぎりはそれで心配することもなかった。ところが1880年代までに,誰もが予想できなかったことが起こった。いろいろな意味でまだ未熟ではあったものの,新しいものを取り入れて成長していたアメリカ合衆国が,西洋諸国で衛生という福音にいちばん従う国になったのだ。19世紀末には,少なくとも都市部のアメリカ人たちは,不潔なヨーロッパ人と自分たちの「清潔な」暮らしぶりを,ごくふつうに区別するようになっていた。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.191-192

清潔にする理由の発明

 清潔と健康が重なりあうという新しい世界を,ここ数世紀にも増して多くの科学者たちが切り拓こうとした結果,19世紀前半には,衛生についてのさまざまな所見や方法論があふれることになった。中世以来支配的だった感染の学説,つまり瘴気論は,病の気が悪臭や淀んだ空気や腐敗物を経由して広がるというものだった。すると,清潔にしていれば病の気の広がりは限られることになるが,そこへ来て清潔を保っておくべき新たな理由が加わった。1830年代初めに,皮膚には呼吸機能があるという新しい考え方が,大西洋の両側で科学者たちの注目を集めたのだ。もし体表の孔が垢で塞がっていたら,この新説によれば,二酸化炭素が皮膚から外に排出されなくなり,悲惨な結果を招くのは動物実験も示している。毛を剃ってタールを塗った馬は,だんだん窒息してゆく。膠をタールに混ぜておけば,死ぬのが早まる。ニスを塗られたかわいそうな動物もおり,やはり死んだ。
 現代の私たちには,そういう死因が皮膚呼吸よりも体温調節ができなくなったせいだと分かっているが,動物実験を行った19世紀の生理学者たちは,体表の孔を湯できれいにしておく習慣が,健康,ひいては生命維持のために重要なのだと衛生士たちに確信させた。フランシス・ベイコンが17世紀に入浴したときは,体表の孔ができるかぎりしっかり閉じているようにし,皮膚から体に入ってくる水を最小に抑えようと,並々ならぬ予防策を講じたものだった。いまや医者たちは逆のことを薦めるのに懸命だ。医者たちにとって,垢だらけの肌——小作農などはいまだにそれが体を保護し強靭にすると思っていた——は体の正常な働きを妨げるものになった。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.158-159

ナポレオンの入浴

 ナポレオンはビデをいくつかもっており,ひとつは銀の箔を張ったもので,クリスタルの瓶と,スポンジを入れる銀箔張りの箱が備えつけてあった。しかしナポレオンが本当に好んだのは蒸し風呂で,毎朝たいてい2時間は入っており,そのあいだに補佐官が新聞と電報を読み上げていた。有事のときほど長風呂になり,アミアンの和約を破棄した1803年には6時間になった。1世紀前にルイ14世は水を避けていた。今やフランスの君主制の日々は,長々とした入浴なしには始まらなくなったのだ。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.148-149

ジョン・ロックの教育論

 古典主義時代のあと初めて水に浸かるという恐ろしい行為を薦めたもののひとつが,ジョン・ロックがある少年を育てるために1693年に書いた『教育に関する考察』という論文だ。そのなかでロックは,その子の足を毎日冷たい水で洗い,水を通すほど薄い靴を履かせて,水が靴に入ってくるようにさせない,と薦めている。「そうすることは清潔にするために好ましいことです」(服部知文訳,以下同)と書いているが,「わたくしの意図していますことは健康です」。ロックは,少年の脚全体を水に浸け,その水をだんだん冷たくしていくと,強固で頑健な体になる,とも述べている。ロックという哲学者は医者でもあったのだが,その論は生理学的というよりは,多分に希望的観測に負っている。それに,古典の教養を身につけてきたものだから,あの大昔の“女々しい温水浴”対“雄々しい冷水浴”の論争もよく知っていて,冷水浴を習慣にしていたホラティウスやセネカといったたくましい男たちの肩を断固としてもったのだ。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.124-125

貴族も入浴禁止!

 貧しい人たちには全身をよく洗う手立てがなかったのだが,宮廷の侍従医たちは貴族がそうするのを禁じていた。フランス一報酬の高い医者たちの意見によれば,体の分泌物は体表に保護膜を作るとされ,王や王妃はいちばん貧しい小作農と同じくらいめったに風呂に入らなかった。1601年にルイ王太子(のちのルイ13世)が生まれたとき,侍従医はこの子が体を洗った記録をいちいちつけているのだが,これが長くない。生後6週で,王太子は頭のマッサージを受ける。7週で,皮膚炎だらけになった頭にバターとアーモンド油を擦りこまれる。王太子の髪の毛には,生後9ヶ月にならないと櫛が入らない。5歳になって初めて,ぬるい湯で足を洗う。産湯を使ったのは,すっかり大きくなって7歳にもなろうとしているときだ。「初めてのご入浴。妃殿下[ルイ王太子の妹]とご一緒にお浸かりになる」。
 大人の王族も似たり寄ったりだ。ルイ14世の場合,起きると外科医長と侍従医長と看護人がいっしょに居室に入る。サン=シモン公によれば,看護人が王に接吻をし,医者たちが「陛下の下着をこすり,替えることもよくあった。陛下が決まって大いに汗をかかれたからである」。近侍のひとりが王の両手にワインを少し振りかけると,王はそれで口をゆすぎ,それから顔を拭く。これで身支度は終わりだ。べつに体を動かすことを軽蔑している君主の話ではない。朝の祈りを終えると,ルイ14世はじつに熱心に飛び跳ねたり,フェンシングをしたり,踊ったり,軍事教練に勤しんだりし,たっぷり汗をかいて居室に戻ってきていたのだ。それでもこの汗まみれの君主は体を洗わなかった。その代わりに服を着替えた。仕立て上がりの衣装を身に着け,洗い立ての下着も着けたが,それが王自身にとっても他の人々にとっても「清潔」を意味していたのだ。ルイ14世の弟のフィリップ公はとりわけ清潔だと思われていた。1日に3度下着を替えたからだ。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.101-102

トルコ人の清潔さ

 1636年に『レヴァントへの航海』を刊行したイングランド人のヘンリー・ブラントも,トルコ人の衛生水準の高さに同じような反応を示している。ブラントによれば,オスマン・トルコが町を占拠して最初にするのは共同浴場を建てることで,浴場は助成金で運営されるので,どんな男女も2ペンス以下で体を洗える。ブラントは,ふつうではないこととして,「週に二度三度湯引く者は汚しとぞ思はるるなり」と書いている。排尿その他の「わざとならぬ穢れごと」のあとは,このとんでもなく変わった人たちは性器を洗う。犬が手に触れれば手を洗い,祈りの前には顔と両手を洗うほか,頭と性器を洗うこともある。ラウヴルフと同じように,ブラントもトルコ人の清潔さを理屈で説明しようとし,「暑き地にて粗悪なるものを食らふ衆集」には病気予防の必用があるのだとしている。もっと穏やかな気候の国の人たちは,ブラントの示唆によれば,さほど洗う必要がない。ブラントが,牛肉たっぷりのイングランドの食習慣が,ラム肉と米とヨーグルトのトルコの食事ほど「粗悪なるもの」ではないと考えていたかどうかは定かではない。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.99-101

水に対する恐怖

 ペストの脅威が迫っているわけではなくても,中世後期に端を発した水にたいする恐怖はどんどん広まっていった。医者たちは,入浴が得体の知れないさまざまなかたちで体に害を及ぼすと信じこんでいた。「入浴は,治療上どうしてもせざるをえない場合を除けば,必要がないばかりか,体に毒なことはなはだしい」と,フランスの医師テオフラスト・ルノドーは1655年に警告を発している。「風呂に入れば湯気が頭のなかを満たす。これは神経と靭帯を緩めることになり,体に大きく差し障る。たとえば痛風持ちの人たちの多くが痛みに悩まされるのは,入浴後のみである」。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.96

入浴を避けろ!

 1348年には,フランス国王フィリップ6世が,パリ大学医学部にペストの発生源を調査するよう依頼している。医学部の詳細にわたる<意見書>は,土星と木星と火星が災いをもたらす配置になっている,ということから始まる。その配置のせいで,土や水から病の“気”が立ちのぼり,空気を汚染する。この有毒な空気を感染しやすい人が吸い込むと,病気になって死ぬ。どういう人たちが感染しやすかったのだろう?病気の招きやすさは,ギリシャ・ローマ時代にもいくらかは認められており,その時代には,肥満,不摂生,過度に激しい気性が挙がっていた。パリ大学医学部の教授たちは,こういったことに付け加えて,中世の人々を恐怖に陥れる新しい要因を挙げた。湯浴みだ。湯浴みの体を湿らせて柔らかくする効果が危険だというのだ。熱と水がいったん皮膚にある毛穴その他を開いてしまうと,ペストは簡単に全身に侵入してしまうというのだ。
 その後200年ほどのあいだ,ペストに脅かされるたびに声高に叫ばれたのは,こうだ。「浴場も入浴も,頼むから避けろ。さもないと死ぬぞ」。とはいえ,この考えに異を唱える者もいた。ペストが発生していた1450年,シャルル7世の侍従医だったジャック・デ・パールはパリの浴場の閉鎖を呼びかけたが,共同浴場の経営者たちの激しい怒りを買ってしまい,トゥルネーに逃げ出すはめになった。しかし16世紀前半までは,フランスの浴場は,ペストが流行っているあいだは閉鎖になってもしかたがないと思われていた。1568年には,今度は世論を代弁するかたちで,「蒸し風呂と共同浴場は禁止すべきである」と王室付き外科医のアンブロワーズ・パレが書いている。「なぜなら風呂から上がると,肌と肉,そして体の器官全体が柔らかくなり,細孔が開くからである。その結果,悪疫の“気”はたちまち体に入って,頻繁に観察されてきたとおり,突然の死を引き起こすのである」。悲しいかな,当時としては最先端の医学にもとづいたアドヴァイスも,おそらく多くの人々が感染するのを止めることはできなかっただろう。入浴を避けて不潔になっていけばいくほど,ノミにたかられやすくなってしまったからだ。現代では,ノミがネズミから人間にペスト菌を運んでいたと考えられている。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.89-90

共同浴場は十字軍の副産物

 中世の人々の衛生に関わることで,いちばん画期的な変化は,共同浴場が戻ってきたことだ。5世紀以来,西ヨーロッパのほとんどの地域で,この施設は消滅したか,ひどく数が減っていた。復活したのは十字軍のおかげで,十字軍は東方遠征に失敗しては戻ってきたが,じつにありがたい習慣,トルコの風呂《ハマーム》の知らせをもたらした。皮肉なのは,少なくともいくらかはローマの浴場の消滅に対して責任があるキリスト教が,今度は,十字軍の副産物とはいえ,東方で変化を遂げた浴場を復活させたことについても責任があるということだ。おそらく早くも11世紀には,ヨーロッパ人は浴場を贅沢のリストに加えた。この贅沢リストには,ダマスク織,鏡,絹,綿などもあったが,どれもアラブ世界で見つけてきたものだ。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.76

イスラム教の清潔さ

 しかし,ユダヤ人地区やこのうえなく設備の整った修道院をはるかにしのぐ,中世初期でいちばん清潔な地域はといえば,アラブ人(ムーア人)のいたイベリア半島だ。キリストの教えとは違い,清潔でいることはイスラム教徒にとって宗教上の重要な要求で,9世紀のある著述家は,アンダルシア(イベリア半島南部)のアラブ人を「この世でいちばん清潔な人々」と記している。イベリア半島北部のキリスト教徒が「体も衣服も洗わず,衣服にいたってはぼろぼろになって破れ落ちるまで脱がない」でいたのにたいし,南部のアラブ人地域のある貧しい男は,最後の1枚になった硬貨を,食べ物ではなく石鹸を買うのに使ったという。アラブのイベリア半島は,プールの,噴水の,《ハマーム》の水で輝いていた。どんな界隈にも共同浴場があった。1236年にキリスト教徒がコルドバを再奪回したとき,そこには300の《ハマーム》があったほか,個人宅には温水浴や冷水浴用の浴室があった。
 ムーア人のイベリア半島では,男性と女性はかならず別々に入浴した。たとえばアラゴンのテルエルにある町の浴場が典型的なパターンで,週に3日は男性の日とされ,女性は2日で,金曜日にはユダヤ教徒とイスラム教徒の男女に,それぞれ別の時間帯があてがわれていた。入浴料は安く,子どもと奴隷は無料で風呂に入れた。
 こういった入浴習慣は健康的だし進歩的に思えるが,当時のキリスト教徒にとっては頽廃のしるしで,いまいましいものだった。ローマの時代,イベリア半島の白人たちが自分たちの公共の熱い風呂を享受していた時代からは,ずいぶん時間が経っていた。浴場を語らせれば桂冠を受けるにふさわしい詩人のマルティアリスは,ヒスパニア(ローマ統治下のイベリア半島)に生まれ,晩年は故郷に戻って,アラゴンの小さな農場で過ごした。マルティアリスが浴場なしに暮らすなど想像できない。しかし5世紀に西ゴート族がヒスパニアを征服すると,この民族は,湯に浸かってのんびりするのは屈強な男たちを軟弱にする,というおなじみの疑いを抱き,浴場を破壊して回った。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.68-69

キリスト教徒の汚さ

 『千夜一夜物語』に登場するあるアラブ人の庭師は,キリスト教徒の汚さをかなりばっさりと切って捨てている。「連中はけっして体を洗わない。というのも,生まれたときに,黒い上衣を着た醜い男が頭から水をかけ,この奇妙な仕草をともなった浄めの水が,体を洗う義務から連中を一生涯開放するからだ」。もちろん,洗礼があるからキリスト教徒は体を洗わなくなる,というこのアラブ人の主張は半ば冗談なのだが,このことは中世のイスラム教徒たちにキリスト教徒がどう見られていたかを示唆している。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.49

ローマの驚異

 <カラカラ帝浴場>(216〜17年)と<ディオクレティアヌス帝浴場>(298〜306年)の2大浴場は,ローマの驚異として知られ,どちらの最後の名残も,全盛期の偉容をいまに伝えている。16世紀に教皇パウルス3世が,自分のファルネーゼ宮殿を飾ろうと<カラカラ帝浴場>を探したとき,大理石やメダル,ブロンズ彫刻,レリーフといった収穫品で博物館ができるほどだった(ファルネーゼ・コレクションは,現在はほとんどがナポリ国立考古学博物館に収蔵されている)。20世紀になって,遺跡のうち温浴室だけを利用して,ヴェルディのオペラ『アイーダ』が上演されたが,歌手やオーケストラと観客はもとより,戦車,馬,ラクダなどを収容できるだけの規模があった。さらに圧巻なのはディオクレティアヌスの《テルマエ》で,3000人の客が湯浴みできたと見積もられている。1561年にはミケランジェロが水浴室を改築し,サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の身廊部にした。ディオクレティアヌスの《テルマエ》の残りの部分は,現在はローマ国立博物館とサン・ベルナルド礼拝堂になっている。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.36-37

ポンペイの卑猥な壁画

 スタビナエ浴場の近くに,ポンペイ一大きな娼館があった。湯と裸とくつろぎという組み合わせは,浴場と娼家がすぐ近くにあるという傾向を生み出し,ときには浴場の2階で娼婦がサービスを行うこともあった。やはりポンペイにあるスブルバナエ浴場では,浴場とセックスのつながりが,そのまま壁画に描かれている。この紀元1世紀の浴場の,黄褐色で彩られた居心地のいい更衣室には,もとは仕切りがあって,そのなかで客が服を脱いでいたのが,その仕切り板が失われてずいぶん経つ。しかし,板が立っていたところの上の壁には,露骨に卑猥なフレスコ画が8つ残っている。魚を振りかざしながら男性に挿入されようとしている女性に,オーラル・セックスをしたりされたりしている女性,ぴったりと合体している3人(男性2人と女性1人)ほか,同じようにお盛んな情景だ。近隣で楽しめるサーヴィスを宣伝している絵かもしれないし,単に浮かれていて感覚に訴える浴場の雰囲気を盛り上げるためのものなのかもしれない。独特の魅力とタッチで筆を走らせているそのフレスコ画は,無邪気なまでにあからさまで,私たちが思いつくような,男性も女性も,おそらくは子供たちも利用する商業施設にふさわしい装飾とは,およそかけ離れている。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.32

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