忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ヒポクラテス入浴法

 古代ギリシャ人は,現代の私たちと同じ理由で清潔に努めた。もっと快適でもっと魅力的になるために身ぎれいにしたのだ。いっぽうでギリシャ人がよく風呂に入ったのは,健康のためでもあった。湯浴みは,治療法が限られていた当時の医者たちが,よく用いる施術だった。紀元前5世紀の偉大な医学者ヒポクラテスは,入浴法の達人で,冷水と熱湯に浸かるのをうまく組み合わせれば,あらゆる重要な体液や組織液を健康なバランスにもっていけると信じた。温かい風呂はまた,体を柔らかくするので,栄養を吸収しやすくなり,頭痛から閉尿までさまざまな不調に効くとされた。関節痛に悩む人は冷たいシャワーの処方を受け,女性の病気には香油を用いた蒸し風呂の施術が行われた。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.20
PR

におったんじゃない?

 たいていの現代人は,20世紀になるまで人はあまり体を洗わなかったと知っていて,この本を書いている間にいちばんよく訊かれた質問はこうだ。「でも,その人たち,におったんじゃない?」みんなほとんど不快な顔を見せるまでもなく訊いてきた。聖ベルナルドゥス(12世紀フランスの神学者)が述べているように,全員がくさいところでは,誰もにおわない。おたがいの体臭の大海のなかを,私たちの先祖は泳いでいて,日々の汗の乾いたにおいに慣れていた。体臭は,料理やバラの花,ゴミや松林,堆肥のにおいと同じように,その人たちの世界を成すものだった。20年前は,飛行機やレストラン,ホテルの部屋やたいていの屋内の公の場に,タバコの煙が厚く立ちこめていたけれども,私たちはほとんど気づきもしなかった。いまそういった場所からはまず煙はなくなり,私たちは,誰かが喫煙していた部屋に入ると,抵抗して身をすくませる。嗅覚は適応するものでもあり,教唆するものでもある。

キャスリン・アシェンバーグ 鎌田彷月(訳) (2008). 図説 不潔の歴史 原書房 pp.6

インフレという幸運

 戦後の日本にとって,ある意味で幸いであったことは,戦後の大インフレーションによって国債の価値が急落して,事実上,国債が償還されてしまったことです。戦後の大インフレーションのすさまじさについては,例えば城山三郎の『小説日本銀行』が当時の様子を詳しく描いていますが,1945年秋から1949年春までの約3年半の間に,日本は,物価が98倍になる(消費者物価指数ベース)という大インフレーションを経験しました。
 既に述べたように,国債というのは国の借金証書のことですから,国は国債によって借り入れた金額を,一定の期日までに国債購入者に返さなければなりません。例えば額面100万円の3年物の国債を発行すれば,途中半年ごとに利子分を支払うとともに,3年後には,100万円の元本を,購入者に返済することになります。
 しかし,物価がその3年間に100倍になれば,100万円の価値は1万円にしかなりませんから,国は,実質的に1万円分だけ,税などで資金調達をして,返済をすればよいことになります。つまり,この戦後の大インフレによって,国の借金の金額はほぼ100分の1にまで,努力せずに縮小することが出来たのです。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 32

大量建設時期

 これによると,米国の橋は,第2次世界大戦前の1920〜30年代に多く建設されていたことがわかる。いわゆるニューディール政策が推進された時期である。30年代だけで5万以上の橋がかけられた。この時期の建設された橋が,80年代には老朽橋になっていたのである。
 ニューディール期につくられた社会資本が,その後,経済政策の変更で補修更新財源を縮小された結果,崩壊の危機を迎えるが,再び政策の転換により危機を脱出する。社会資本老朽化問題は,技術問題であると同時に経済問題であることがわかる。
 一方,日本での橋の大量建設は,1950〜60年代に始まっている。米国から遅れること30年,第2次世界大戦後の復興から高度経済成長に向かう時期に,社会経済活動の基盤として社会資本が整備されたのである。このこと自体は間違いではない。それどころか,短期的な需要創造に偏りすぎたと批判されるニューディール政策に比較すると,この時期の日本の公共投資は,その後の経済成長の源になった。日本の経済史の観点から見ると,その意義は非常に大きいと言えるだろう。
 だが,現在,これらの橋が建設後50年を経過しようとしているのも事実である。供給面の問題を忘れると,米国の二の舞になる。現代の日本の置かれている状況は,80年代の米国に相当するのである。日本は崩壊寸前の状態にあると言わざるをえない。

根本祐二 (2011). 朽ちるインフラ 日本経済新聞社 pp.39-41

映画村の歴史

 映画村の歴史,御存知ですか。東京の人は知らんでしょうね。
 東映太秦映画村が誕生したのは,たしか昭和50(1975)年やったと思いますから,いまから約30年ほど前のことです。
 そのきっかけは,リストラですわ。
 当時,テレビが急激に普及したために,映画人口が減り,それにともなって撮影所も存続の危機に陥ったんですわ。それで,どうしようかと思った時に,活動屋たちが自らの生き残りをかけて取り組んだのが最初です。
 このままでは,撮影所が危ない。映画もまったく作れなくなる。なんとか,別の商売をして,その儲けた金で映画を作り続けようということになったんです。つまり,一種のリストラ対策なんですわ。
 最初は東映からの60人の出向社員でスタートしたんやそうですわ。でも,大変やったそうですね。誰だって,なんや遊園地みたいなところに行くのは嫌やないですか。映画の仕事をしていたのに,左遷やから。
 「活動屋による活動屋のための仕事や」と説得しまくったらしいです。

福本清三・小田豊二 (2007). おちおち死んでられまへん:斬られ役ハリウッドへ行く 集英社 pp.141

アウシュビッツ

 否定論者の間で重宝された「ロイヒター報告」であったが,ロイヒターは現存する“ガス室”を視認し,「“ガス室”には密閉性がなくガスが漏れる」だの「ガスの排気ができないため遺体処分は不可能」と論じていた。
 現在我々が見ることのできる建造物“アウシュヴィッツ”は,ナチスが破壊した建物を収容者の記憶に基づき再建したものであり,これを見て当時の稼働状況を推測するのは基礎知識のない人だけだ。大体,“アウシュビッツ記念館”にはここが戦後再建されたものだという説明があるのだ。残存する建物の残骸からも,レンガの隙間をコンクリートで埋め通気を遮断してあったことや,換気装置の痕跡が確認できる。そしてその換気装置は設計図にも存在していた。

ASIOS・奥菜秀次・水野俊平 (2011). 検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定 文芸社 pp.150-151

時代による利き手の変化

 じつはわが国では,時代により左ききの割合が変化しているのである。1993年の調査では,20年前に行った同じきき手テストを再度実施して,日本人のきき手の割合の変化を検討した。表3−1がその結果である。この表から明らかなように,女子に限ってであるが,20年間に非右ききが統計学的にも有意に増加したのである。男子の場合には大きな変化はない。1973年の調査対象となった大学生は,その親のほとんどが戦前の生まれであるのに対して,1993年の調査対象学生の親は大部分が戦後の生まれである。わが国は第二次世界大戦を境にして,親の養育態度が大きく変化した国である。このような,いわゆる西洋化した社会的態度が,女子に見られた変化をもたらしたおもな原因ではないかと考えられる。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.67

フロイトと宿命論

 フロイト説はよく幼児期宿命論という批判の的になっている。しかし,筆者にはそれはフロイトの生きた時代を忘れすぎた偏りであるように思われる。フロイトはむしろ,神経症は遺伝的・生得的とするより強固な宿命論に対して1つのアンチテーゼを提出した。神経症は一種の発達障害であり,この過程を懸命に制御することができれば,また,専門の精神分析医の導きにより神経症の源泉をつきとめることができれば,救いの道が拓かれるのである。
 しかし,フロイトの発達論では,肝要な年代は5,6歳までのいわゆる幼児性欲期に限られてしまう。人間を動かす根源的動力としてのリビドーは,本性上動物的・生得的なものであり,その発達の秩序も予め仕組まれた生物学的機構,現代風にいえば「成熟」によって定まる。性的欲求が一時休止する6歳くらいまでが焦点となるのはこの立場からすればしごく当然であろうし,また,リビドーないし成熟という単一次元のみを扱えば足りるので,その発達も自ら単純なものとなる。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.202

戦前の農村

 教養主義の輝きを,農村を後背地としながら,そこからの広闊な世界への飛翔感にあると述べた。だが,戦前において都市と農村の文化格差がどのようなものだったかは,いまとなっては想像しにくいものである。文化人類学者祖父江孝男の筆を借りてみておこう。
 祖父江は1935(昭和10)年ころの都市と農村の姿を生き生きと描いている。祖父江の父親は東京の下町で医院を開業していた。往診用に当時としては珍しい自家用車があった。安見のときには家族で関東各地にドライブしていた。祖父江はそのころ小学校低学年であったが,よく憶えているのは,田舎道の両側に並んでいる貧しい農家の姿である,という。障子はビリビリに破れ,黒く煤けた紙が垂れ下がっていた。車を止めると,泥だらけの顔をし鼻をたらした和服の子供が駆け寄ってきた。洋服を着た家族を頭の先から足の先までただもう眺め回したのである。
 このころの村の子供たちからみれば,「都会人は遠く離れた別世界からやって来た,顔かたちも服装も異なった,外国人のごとき存在だったのであろう」。また当時,家にいた女中さんのことも書いている。彼女たちはランプと井戸水で生活していた農村からやってきたから,電灯や水道,電話の扱いに慣れるのにかなりの時間を使った(『日本人はどう変わったのか』),と。ついこの間まで都会と農村の間には,祖父江が描いたような大きな経済的文化的格差があった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.172-173

岩波書店と夏目漱石

 それから約半年後,翌年(1914)8月,岩波は,漱石邸を訪れた。『東京朝日新聞』に連載されていた『こゝろ』をなんとか出版したいと,懇願した。漱石はすでに著名作家である。これまでの小説も春陽堂や大倉書店などの有名出版社から出されている。『こゝろ』の出版も引く手あまただった。看板揮毫の縁もあったろうが,漱石は,このさい自費出版で出してみてもよいと思うようになった。自費出版となれば,自分でおもいどおりの装丁ができるという楽しみがあったからであろう。さらに,自費出版のほうが著者の実入りがよいという判断もあったかもしれない。
 話がまとまる。最初の費用は漱石がもち,出版費用償却後に利益を折半するという約束だった。岩波は出版が可能になったことで感激した。用紙をはじめ最高の材料を使って立派な本にしようとした。採算を考えない凝りすぎを漱石に何回も注意されるほどのいれ込みようだった。こうして岩波書店は,スーパー作家夏目漱石の作品を出版するという劇的で好運なはじまりをもつことができた。『こゝろ』につづいて,『硝子戸の中』『道草』『明暗』などが出版された。漱石の作品と全集(第1次は1917[大正6]年,第2次は1919年,第3次は1924年)は,岩波書店のドル箱になった。同時に,岩波書店の文化威信を大いに高めることになった。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.139-140

総合雑誌と教養

 昭和戦前期の(旧制)高校生や大学生の教養は,高校や大学の授業などの公式カリキュラムだけではなく,総合雑誌や単行本,つまりジャーナリズム市場をつうじて得られていた。しかも,総合雑誌のクオリティが学会誌などよりも高くさえあったといわれていることにも注意したい。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.14

よくあること

 こうみてくると,国家主義イデオロギーは,「共感」や「盲信」などの内面化というよりも,建前用語と建前文法として手形が切られ流通し,物象化してしまった面が大きい。公的立場の人々の同調についても受験生の試験における対応策と相同な構造がみられる。公人は,国家主義の建前尊守のために公的言説をすることを盲信者たちから強く要請される。時局柄ということで,とりあえず国家主義的言説を演説などで披露する。
 ところが,公的立場の者がいったんそうした言論を口にすると,つぎは,その言説を盾に実践との食い違いを追及される。言説の同調から実践の同調を迫られる。政敵や論敵を窮地に陥れるために,こうしたイデオロギーを武器にするということもおこった。あるいはまた,皇室関係の記事に間違いがあるとでかけていき,国家主義の建前から金品をせびるというゆすり行為,また皇室の名前が入っている品物を学校に売りつけようとする暴力団の脅迫まがいの行為がはびこった。買わないのは教育者にあるまじき行為だというのである。内面化の有無にかかわらず,儀礼的・戦術的同調実践をつうじてイデオロギーはますます猛威を振るったのである。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.186-187

知識階層のマルクス主義

 マルクス主義や社会主義は,明治時代から紹介され,知られてはいた。しかし,河上肇などの一部を除けば,まだまだ大学人の思想にはなりえていなかった。明治38年,河上肇は『読売新聞』に「社会主義評論」を連載したが,当の学生たちは,この論文の東京帝大教授攻撃——1章でみた七博士が対露関係で政府を批判しながらも,大学教授の椅子にしがみついていることへの非難(「京童のいへりき,本郷の大火事。火炎万丈天を焦がさんとするの勢ありしも,文部の一ポンプ容易く之を消防し得たりと」)——を痛快がるだけで,「議論の本質たる社会主義に共鳴するものは殆どなかった」(吉野作造「日本学生運動史」)。森戸辰男も大正時代半ばまでの社会主義研究についてつぎのように顧みている。当時,社会主義の研究は,「民間の『主義者』によるのであって,大学を中心とする公の学界からは,ほとんどタブーとされていた」(「経済学部発足の頃」),と。
 したがって,大正時代半ばまでの社会主義者やマルクス主義者は,しばしば「ごろつき」や「無頼漢」の代名詞だった。せいぜいが,「労働者あがり」の教養や社会運動とみなされがちだった。マルクス主義が大学生や旧制高校生を中心に学歴エリート集団にひろがりはじめたのは,大森の第一高等学校卒業前後の大正時代半ばからだった。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.30

東京の中学校

 当時,東京府には私立中学校は28校もあったが,府立中学校は4つしかなかった。府立一中(東京府立第一中学校,麹町区,日比谷高校の前身),府立二中(北多摩郡,立川高校の前身),府立三中(本所区,両国高校の前身),府立四中(牛込区,戸山高校の前身)である。大森が進学したころの各中学校の入試倍率は,それぞれ6.8倍,1.1倍,3.6倍,5.3倍。この入試倍率にみることができるように,名門校は府立一中,府立三中,府立四中だった。下町の秀才校が三中で,山の手の秀才校が一中と四中だった。
 大森が中学校を卒業した年の(旧制)高等学校進学者の割合を大きい順にみると,府立四中(39%),府立一中(29%),府立三中(4%),府立二中(2%)である。一中と四中は卒業生の3分の1が当時の最難関校である高等学校に現役進学している。一中と四中が神学名門校であることがわかる。大森は自宅から近い四中に進学した。

竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.28

自尊心ムーブメント

 犯人は3つの社会現象のようだ。ナルシシズムを刺激した第1の犯人は,自尊心のムーブメントだった。初めの動機は悪くない——どんなときも自分に満足していられたら,どんなにすばらしいだろう?そして,その後押しをしたのが,心理学者ナサニエル・ブランデンが1969年に発表した第1作『自信を育てる心理学——「自己評価」入門』だった。ブランデンは,自己愛はきわめて重要だと明言した。「人間にとってこれ以上大切な価値判断はない——心理的な発達と動機づけにおいて,何よりも決定的な要素である……自尊心は人間の思考プロセス,感情,欲求,価値観,目標に深く働きかける性質がある。人間の振る舞いの鍵になる唯一にして最も重要な要素なのである」。これまで見てきたとおり,この主張には正しいところがほとんどない。だが,当時は自尊心に関する研究がはじまったばかりで,そのころの知識からすればブランデンの言うことにも一理あった。問題は,自尊心がそれほど重要でないことが研究からわかっても,文化を見直してそのシナリオを修正しようとする者がいなかったことだ。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.77
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

無防備

 京都御所は設計の段階から,敵が攻めてくることなど一切考慮されていない。まったく無防備な御所に住みつづけた天皇も,まさか誰かが攻め込んでくるなど想像もされなかったことだろう。民衆の蜂起に怯えるような事態も起きたことがない。それは,京都御所の前身である平城京や藤原京,それ以前の都に置かれた天皇の御所もすべて同じであった。
 もしほんとうに天皇を暗殺しようと思ったら,薄くて高くもない塀1枚を越えれば,御殿は障子と襖で区切られているだけなので,あとは紙2枚程度で玉体(天皇の身体)まで辿り着けてしまう。それにもかかわらず誰も御所を攻めなかったのは,天皇を殺そうとする者がいなかったからである。国内で戦争が起きることはあっても,それは武家の権力闘争のための戦争であり,王朝を倒すための戦争はこれまで一度も起きたことがない。
 もっとも,天皇や皇族が攻撃の対象となり,また皇居の周辺で戦闘が行われた例はある。だが,それらは壬申の乱や保元の乱など皇位をめぐる皇室内の抗争や,承久の変など天皇が倒幕のために挙兵をした例,また蛤御門の変など君側の奸を打ち払うとの大義に基づいたものに限られ,王朝を倒すためのものではない。

竹田恒泰 (2011). 日本はなぜ世界で一番人気があるのか PHP研究所 pp.184-185

和製漢語

 政治,政策,市場,経済,理論,社会主義,指導,人民,共和国などはいずれも日本人が作った和製漢語である。すなわち,中国の国名である「中華人民共和国」は,「中華」を除くと,すべて和製ということになる。ただし,中国人が違和感なく和製漢語を受け入れたのは,明治期の日本の有識者たちが,中国古来の正しい造語法および構成方法を守って優れた漢語を作ったからである。

竹田恒泰 (2011). 日本はなぜ世界で一番人気があるのか PHP研究所 pp.111

現場で

 犯人が現場に指紋を残すことはあっても,計測値を残していくことはあり得ない。分類法としては死紋と互角に渡り合えるはずだった人体測定法も,現場指紋に対しては自らの負けを認めざるを得なかった。この欠点を補おうと,アルフォンスの弟ジョルジュ・ベルティヨンは,犯罪者が現場に残した衣服から,その犯罪者の身体のサイズを推測する方法についての医学博士論文を仕上げ,1892年に刊行する。しかし殺人犯が「殺した人間の服を着て,自分の服は近くに隠したり,死体に着せたりする」というようなケースが,ジョルジュの言うように「しばしば」発生するとは考え難く,結局のところはこの研究も,美しき兄弟愛を物語るエピソードの域を出るものではなかった。指紋法とベルティヨン法のどちらを導入すべきか検討していた国々にとって,現場指紋の価値は,その決定に少なからぬ影響を与えたはずである。日本においても平沼騏一郎は,1908年の指紋法導入の直前に行なった「累犯発見の方法に就いて」と題する講演において,指紋法が累犯者の発見以外にも「尚ほ大なる効用がある」としながら,強盗が現場に残したコップなどから採取した指紋から犯人を特定するといいう活用法を紹介している。

橋本一径 (2010). 指紋論:心霊主義から生体認証まで 青土社 pp.130-131

特記事項で

 人体測定法が,あくまでカードや写真を分類するためのシステムであったことには,注意が必要である。つまり計測値によって到達できるのは,目当ての1枚を含むであろう複数枚のカードの集合までであり,たとえその集合がわずか数枚のカードにすぎないとしても,測定値だけでは,そのうちの1枚を特定することはできないのだ。ベルティヨンのシステムにおいて,最終的に身元を特定するのは,傷跡やほくろなどの場所や形を記した注記である。たとえば1884年7月31日に逮捕されたアシーユ・Dが,前年10月に逮捕されたエドゥアールと同一人物であることを,最終的に証明したのは,「右手親指載せ,斜め右向きに走った1.5センチの直線の傷跡」のような,計7ヶ所の特記事項だった。人体測定法による身元確認は,計測値によって対象を絞り込み,特記事項によって特定するという,二段階の工程を経る必要があるのである。

橋本一径 (2010). 指紋論:心霊主義から生体認証まで 青土社 pp.112

人体測定から身元判定

 1888年までにはフランスのみならずアメリカでも導入が始まっていたという,ベルティヨンの人体測定法が,どのような仕組みで累犯者の身元を特定するのかを,彼自身の説明によりながら,簡単に振り返っておくことにしよう。問題なのは犯罪の記録を記したカードが,アルファベット順に分類されているため,名前がわからなければ記録に到達できないということだった。そこで仮にパリの警察に保存されている1万枚の写真付きカードを,アルファベット順ではなく,人体測定法によって分類することにする。これらのカードから女性や子供の分を除くと,6万枚の成人男性のカードが残る。この6万枚の全体集合は,まず被写体の身長にしたがって,「大」「中」「小」の3つのカテゴリーに分類される。このときベルティヨンは,統計学者アドルフ・ケトレの知見などによりつつ,これらの3集合が正規分布の法則によりほぼ均等に3等分されるとする。したがって分割後にできるのは,およそ2万のカードからなる3つの集合である。
 続いてこれらの2万枚のカードを,それぞれ今度は頭骨の長さ(額から後頭部までの直線距離)によって,再び「大」「中」「小」に3等分すると,各集合は約6000のカードからなる部分集合へと分割される。それをさらに頭骨の幅,中指の長さ,足の大きさ,というふうに,項目を増やしてその都度3等分していけば,やがて全体はごく少数のカードからなる多数の集合へと分割されるというわけである。このようなやり方ですでにカードを分類された人間が,しばらくして再び逮捕されたとする。たとえこの人物が名前を偽ったとしても,再び身長や頭骨などを計測して,対応する集合の中を探してみれば,以前の逮捕時に作成されたカードと写真を,比較的容易に見つけだすことができるという理屈である。

橋本一径 (2010). 指紋論:心霊主義から生体認証まで 青土社 pp.111-112

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]