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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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感染症で

 アメリカ先住民が感染症に弱かったために,歴史はどんどん形づくられていった。西インド諸島へのスペイン人による最初の植民地化の試みは,実際,そのせいで危険にさらされることさえあった。タイノ族とアラワク族の人口が急激に減少したため(1530年までに,ほとんどが死に絶えた),スペイン人は労働力を確保できなくなったのだった。カリブの島々の住人は,アメリカ本土の先住民よりもっと孤立していて,病気から隔絶されていたので,抵抗力がさらに低かった。
 ピルグリム・ファーザーズがアメリカ本土に入植したとき,その土地にはほとんど人が住んでいなかった。その3年前に何らかの疫病(おそらく天然痘)によって先住民部族の大部分が死に絶えていたからだ。スクワント(ピルグリム・ファーザーズに生き抜くすべを教えた先住民)は,その部族のわずかな生存者のひとりであったらしい。また,のちにニューイングランドに入植した新教徒たちも,アメリカ先住民のあいだで病気が大流行して壊滅状態に陥ったことによって助けられたし,ジェームズタウン(イギリス人にとって最初のアメリカ入植地)の安全が脅かされずにすんだのも,伝染病のせいで地元部族の力が弱まったからだ。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.200-201
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パターン

 最近の自然選択で促進された社会的なパターンを見つけ出す方法はふたつある。もっともわかりやすいのは,時間が経つにつれて頻度が変化したパターンを探すことである。もっとも顕著な例は,歴史上のある時点まで(あるいはごく最近まで),非常に珍しいか,まったく知られていなかったパターンである。もっとも,多くの場合,古代文明については豊富な情報が得られていないんど得,これを探しだすのは難しいだろう。たとえば,インダス文明には二院制議会,独立した司法,成文憲法があったのではないかと考えられているが,彼らの文字を読むことができないのだから,どうしてそうだと言いきれるのか?もうひとつの方法は,空間と時間を交換してみることである。すなわち,農民として生きたことがない,あるいは,農業を営んできた期間が,ヨーロッパ人,東アジア人,および中東の人々よりかなり短い現代の人々を観察するのである。そして,どのような社会的パターンや制度(もしあれば)が,そうした人々の集団では栄えていないかを調べる。この方法は,古代文明について考察するよりももっと議論を呼ぶかもしれないが,最近の歴史については少なくともよく記録が残されているという利点がある。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.150-151

都市に住むこと

 通常,勝者は,平均より高い繁殖率をもつと前に述べたが,重要な例外があった。現在でもそうだが,昔の支配者が誤りを犯したり,運が悪かったり,実際に自分のやっていることがよくわかっていなかったりしたことはよくあった。ノルマン人の英国征服のように,時として支配者が戦争に負けて,外部の民族に国をのっとられることもあった。また,バラ戦争のように,身内の殺し合いに少々熱心になりすぎることもあった。そして,しばしば,支配階級が生殖適応度という意味において,悪い選択をすることもよくあった。もっとも一般的な誤りは都市に住むことだったに違いない。たいていは感染症のために,ほとんどと言っていいほど都市人口は落ち込んだ。「人口の落ち込み」とは,都市の住人が差し引きゼロになるだけの数の子どもを育てることができない場合をいう。近代医療と土木工学が発達する以前の昔の都市は,周辺の田舎から移り住む人々の流れによってのみ,人口を維持できた。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.135-136

農業→階級社会

 農業がはじまる前,国家は存在しなかった。狩猟採集民の大部分は平等主義のアナーキストだ。彼らには,長もボスもいなかったし,ボスになりたがる人間をあまり相手にしなかった。ブッシュマンは今日でも,トップに立ちたがる者を笑いとばす。私たちは彼らから学ぶべきなのかもしれない。
 しかし,農民には長がいる。農業には領土が不可欠だからだ。穀物をつくる農民は食物を貯蔵するので,彼らは盗む価値のあるものをもつことになる。狩猟採集民にはなかったことだ。支配階級,すなわち,他人の生産的仕事を生活の糧にしている者たちが登場するようになるのは,農業社会が生まれてからだ。なぜなら,農業社会ではそういう者たちが存在できるからである。興味深いことに,ヤムイモなどを栽培している民族の中には,支配階級が成長しにくい場合があるようだ。そうした根菜は掘り上げてしまうとすぐに腐ってしまうので,盗みの対象となりにくいためだ。さらに,非常に強大な初期国家ではしばしば,「市民」が収税吏から逃れるのを難しくする天然の障壁があった。エジプトはその最たるもので,非常に肥よくな土地は居住不可能な砂漠に囲まれていたのである。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.132

知の遺産仮説

 これまでの研究の蓄積から,ホモ・サピエンスは,20万年前ごろにアフリカで進化したとみなせる。しかし生物集団としての種の確立(つまり旧人の系統から独立しかつ1つの種として特徴的な形態が確立したこと)と,今日の私たちに備わっている文化を創造的に発展させていく能力の進化は,必ずしも同期していなかっただろう。この能力がどのように進化したのかまだはっきりしていないが,これまでに説明してきたように,祖先たちの世界拡散がはじまるおおよそ5万年前までに確立していた可能性が高い。ここでもう一度,カバーにあるブロンボス遺跡の抽象模様を見て欲しい。アフリカ大陸南端にある小さな洞窟の中に,7万5000年間埋もれていたこの模様は,私たちの遠い祖先が文化を大きく発展させていく能力をすでに進化させていたことを示唆している。
 本書で「知の遺産仮説」と呼んだ,この考えの意味するところは大きい。つまり現代人は,その内面において30万年前の旧人や20万年前の祖先(つまり最初期のホモ・サピエンス)とは違うが,世界へ拡散しはじめた5万年前の祖先とはほとんど同一だということなのだ。過去5万年間に私たちの内面が全く進化しなかったかと言えば,そうではなかったかもしれない。しかしそうだとしても,その程度はわずかで,本質的なものではななかったろう。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.315-316

クックの航海

 1492年,コロンブスがアメリカ大陸を発見したことを契機に,西ヨーロッパは大航海時代に突入した。その後,スペイン,オランダ,フランス,イギリスによって数々の太平洋探検が行われたが,とりわけ重要なものが,イギリスのジェームズ・クックによる航海である。クックが1768〜1780年にかけて行った3度の航海は,伝説の南方大陸(テラ・アウストラリス)の探索と,太平洋における大英帝国の領土拡大をねらったものであったが,目的は略奪行為ではなく,海図製作と,自然や天然資源,そしているのであれば先住民の気質や文化の調査であった。
 クックは南方大陸が実際には存在しないことを示し,さらに北から南まで太平洋全域を探検し,その海図を作り上げた。そしてタヒチやハワイを含む無数の島々を発見したのだが,それと同時に,驚くべきことにどの島にも人が暮らしていることを知った。島の住人たちは,文字をもたず石器を使っていたが,独自の大型カヌーを操る優れた航海者であった。クックは,タヒチのツピアという青年が,130ほどの島の方角と距離を頭に入れていたことを,驚きをもって記録している。つまり,ヨーロッパ人が近代航海術をもってはじめてたどり着いた太平洋地域を,彼らより先に知っていた人々がいたのである。しかもその人々は,この広大な海域を駆け巡り,ほとんどすべてといってよい島々をすでに発見していた。これは大袈裟な話ではない。リモート・オセアニアにはもちろん無人島もあるが,そうした島にもたいがい人が訪れた痕跡がある(ポリネシアに多いこのような無人島は,ミステリー・アイランドと呼ばれている)。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.295-296

複数の要因

 つまり農耕の発生直前には,複雑化した定住的な狩猟採集文化というものが存在していた。濃厚は無から突然産み出されたものではない。おそらくどの地域の祖先たちも,農耕を行うだけの潜在的知性は最初から持ち合わせていた。しかし実際にそれが実現に至るまでには,いくつもの自然や歴史の条件が整っている必要があったのである。
 農耕が起こるには,まず有用植物が土地に豊富に自生している必要がある。初期の農耕に適した有用植物の分布には,地域的偏りがあると指摘されている。実が大きく短期の成長予測が可能な1年生のイネ科植物の種類は,西南アジアでは特に豊富だった。次に人々の目が植物に向くような自然環境や,人口密度が高いといった歴史的環境が必要であった。これらの条件の中で,人々は植物の生育に関する知識を,自然に蓄積していった。そして最後に栽培という積極的行為に手を出すには,やはりその手間とリスクを補って余りある経済的な動機が必要であった。そうした動機は,自然環境,人口密度の過密化,社会の複雑化,定住傾向の促進といった,複数の要因が絡み合った結果として,はじめて生じたものと思われる。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.283-284

広がりきったから

 これまでに述べてきたように,大型動物の絶滅の原因には,気候変動とホモ・サピエンスの活動の双方が影響したと見るのが,理にかなっている。絶滅の規模は,それまで人類のいなかった地域ほど大きい傾向がはっきりと存在する。人類との付き合いの長いアフリカの動物は,この二本足で動き回る動物が警戒すべき存在であると,DNAに刻みこまれたのだろう。おそらくそのために,アフリカの動物たちは,一部の例を除いてホモ・サピエンスの登場による打撃をあまり受けていない。しかしオーストラリアやアメリカでは,ホモ・サピエンスの恐ろしさを知らない動物たちが,それを理解する猶予もなく絶滅に追いやられた可能性が高い。ユーラシアの各地でも,新しい環境を利用すべく数々の技術を発達させたホモ・サピエンスの活動と,温暖化に伴う生息地の縮小が,マンモスやケサイといった動物たちを絶滅に追いやったようだ。ホモ・サピエンスなら,環境が変化しても文化の力で新しい環境に適応できたが,ほかの動物たちはそのような術をもたなかった。
 この動物の減少は,祖先たちの生活に大きな影響を与えたと考えられる。それまで大型動物の狩猟に強く依存していた彼らは,このとき小型の動物,海産物,鳥,各種の植物など,もっと多様な食資源に目を向けなければならなくなった。つまり,それぞれの土地に特有の生態系をもっと強力に活用する,新しい生活スタイルを模索する必要が生じたのだ。加えて温暖化に伴って環境が大きく変化した地域では,人々は狩猟活動だけでなく採集活動の変更も迫られたであろう。
 各地の人口密度が高まる前の時期であれば,人々は活動域を広げたり,違う土地へ移動したりして問題を解決しようとしたかもしれない。しかしこのときは,もう状況がそれを許さなかった。すでにホモ・サピエンスは5つの大陸のほとんどの地域に広がっており,多くの集団は自分たちのテリトリーの中で問題を解決する以外,道はなかったのである。それでも祖先たちは,(間違いなく相当の試行錯誤の末に)それぞれの土地環境に見合った新しい文化的適応戦略を発達させ,食物の不足する乾季などを乗り越え,土地に定着するだけの知識と技術を身につけていった。後期旧石器時代の後,農耕がはじまる新石器時代まで数千年間続いたこの時期を,ヨーロッパでは中石器時代,西南アジアでは終末期旧石器時代,北アメリカ大陸では古期と呼んでいる。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.278-279

農耕は手間がかかる

 それでは,なぜホモ・サピエンスの社会で食料生産がはじまったのだろうか。まず単純な質問からはじめよう。あなたが1万2000年前の社会に生まれ,狩猟採集と農耕・牧畜のどちらかの生活を選べるとしたら,どうするだろう。1か所に定住して農耕や牧畜を行うのは,知性豊かな人が着想した高尚で素晴らしいアイディアであり,そのような選択肢に気づいた集団はすぐさま狩猟採集生活をやめた,というのが100年前の研究者たちの考え方であった。しかし,農耕という新たな選択肢があることに気づいた最初の人々を想像してみたとき,果たして本当にそれが素晴らしいものに見えるだろうか。決断される前に,ふつう農耕・牧畜の方が狩猟採集より格段に手間がかかること,天災に対して不安定な生活スタイルであることを申し添えておこう。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.276

やはり人類が

 アリゾナ大学のポール・マーティンは,1970年代に,アメリカ大陸における大絶滅の原因をホモ・サピエンスに求める有名な仮説を発表した。それまで考古学者たちは,先史時代を通じて,アメリカ先住民は少しずつ増えてきたとイメージしていた。しかしマーティンはそうではなかったと考えた。彼の考えでは,移住者たちは人間を恐れない動物たちをさしたる苦労なしに狩り続け,結果として人工を爆発的に増加させたのだ。これだけではただの空想に過ぎないので,彼は理論的に自説が可能であるかどうかを,シミュレーションを行なって確かめようとした。小さな集団からスタートした祖先たちが,動物を大量に狩り続け,かつテリトリーを急速に広げていくには,拡散の前線でどんどん人口が増えていく必要がある。人口が増えないと,一定量の狩りを行いながらテリトリーを広げるという前提が破綻してしまうからだ。シミュレーションの結果,年間16キロメートルの前進速度と,1.4〜3.4%程度の人口増加率を想定しさえすれば,当初100人程度の小さな祖先集団でも,人口を増やしながら1000年ほどで南アメリカの南端にまで広がりうることが示された。
 マーティンのモデルには,様々な批判がある。設定された人口増加率が高すぎるというものや,人々が移動を続けている前線での人口は常にそれほど多くはなかったろうというものなどだ。実際に遺跡証拠からは,最初のアメリカ人の集団が,人口密度の高い前線を保って南下したという証拠は得られていない。しかし先に述べたように,環境変動だけでは,やはり絶滅を十分に説明しきれない。さらに第7章で触れたように,最近ではオーストラリアにおいても,大型動物の大絶滅にホモ・サピエンスが関与していた可能性が高まっている。マーティンのモデルの細かい点が妥当かどうかは別として,私たちの祖先が大絶滅の原因をつくったと認めるほうが,おそらく現実的なのだろう。新天地にいた逃げ出さない動物たちを相手に,祖先たちは必要以上の狩りを行ったのではないだろうか。祖先たちが自然の恵みに限りがあることに気づいたのは,おそらく私たち現代人の場合と同じで,得られるものがなくなってきてからだったのかもしれない。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.269-270

バイソン狩り

 北アメリカの西部地域に広がる大平原には,大きな群れで異動するバイソンを狩猟する,ブラックフットなどがいた。彼らのバイソン狩猟の歴史は長く,例えばコロラド州のオルセン・チュバック遺跡では,約9000年前に,バイソンの群れの追い落とし猟が行われていた跡が見つかっている。ここでは崖の下から約200頭もの折り重なったバイソンの骨が見つかっており,人々が共同で,おそらく数日かけてバイソンの群れを誘導し,崖へ誘い込んだと考えられる。大平原のバイソン狩猟民は,白人入植者たちがフロンティア(開拓前線)で接触する機会が多かったため,アメリカ先住民のステレオタイプとなってしまった。しかし大平原は,あくまでも数あるアメリカ大陸の文化領域の1つに過ぎない。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.252-253

日本人の起源

 その要点を述べると,まずアイヌはモンゴロイドの一員であり,コーカソイドではない。アイヌは,日本列島に縄文時代あるいはそれ以前からいた人々の系譜を強く受け継いでいるようだ。一方,アイヌ以外の日本人も決して均一な集団ではない。弥生〜古墳時代の西日本に,大陸から稲作と金属器文化を携えた北方モンゴロイド系集団の移住があり,この渡来集団と在来の縄文系集団との混血のもとに,現在の日本人が形成された。この混血の程度は,地域,個人によって様々である。琉球列島の人々も縄文人の系譜を強く受け継いでいるという考え方があるが,九州,台湾,大陸との長い接触の歴史の中で,状況は複雑であった可能性が高い。
 このように日本人とは,(南方モンゴロイドと関連づけられるかもしれない)縄文人と,大陸からやって来た北方モンゴロイド系の渡来集団との二重構造性をもっているのである。ただし現時点では,いくつか未解決の大きな問題も残されている。その1つは,縄文人のそもそもの故郷はアジア大陸のどこなのかというものだ。縄文人は,身体的特徴の上では南方モンゴロイドと近いのだが,遺伝学的,考古学的には,むしろアジアの北方地域との関連が深いようだ。もしこれらのどの観測もが正しいとするのなら,縄文人の祖先は北アジアにいた北方モンゴロイドに特殊化する前の段階の集団,ということになるのだろうか。謎が解けるよう,今後の研究の進展を待ちたい。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.181

中国とギリシア

 状況に注意を払うという東アジア人の特徴は,古代中国人にまで遡る。古代中国人は遠隔作用という概念を理解していて,そのため磁気や音響学の原理を理解し,潮汐の本当の原因を見出すことができた(ガリレオでさえ失敗した)。
 それに対してアリストテレスの物理学は,物の性質に完全に特化していた。アリストテレスの体系によれば,石が水に沈むのは石が重いという性質を持っているからで,木切れが水に浮かぶのは木切れが軽いという性質を持っているためだ。もちろん軽いとか重いといったことは,物体の性質ではなく,物体間の関係の性質だ。

リチャード・E・ニスベット 水谷 淳(訳) (2010). 頭のでき:決めるのは遺伝か,環境か ダイヤモンド社 pp. 207-208
(Nisbett, R. E. (2009). Intelligent and How to Get It. New York: W. W. Norton & Company)

リクルートの手のひら

 さて,フリーターという言葉が世間に登場したのはバブル経済の最中である,1987年のこと。当時の就職事情は大卒,高卒ともに売り手市場。卒業したら会社に就職するのがまだ当たり前という時代だった。「フリーター」という言葉は元々アルバイトで生計を立てている若者の間で使われていた言葉だったようだが,それに目を付けたのはアルバイト雑誌『フロム・エー』を出版していたリクルートだ。表向きにフリーターという言葉が使われたのは,1987年に公開された横山博人監督の映画『フリーター』だ。この映画はリクルートの出資により制作されたものだ。映画がヒットし,フリーターという働き方が若者の憧れになれば,アルバイトの求人誌という市場は大きくなる。そういう抜け目のないところはさすがリクルート。この国の労働観はある意味,リクルートの手のひらの中で転がされてきた。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.86

自己啓発とマルチ商法

 そんな自己啓発セミナーが本格的に日本に入ってきたのは1977年のことだ。その第1号と呼ばれるライフダイナミックス社は,マルチ商法のディストリビューター(販売員)育成のためにロバート・ホワイトが設立した会社である。
 つまり,自己啓発セミナーはマルチ商法とともに日本に輸入されてきたのだ。
 その自己啓発セミナーがもっとも普及したのは1980年代後半のことだろう。このバブル時代には企業が新人研修として自己啓発セミナーを活用した。もしくは,企業が独自にそれに似た手法で新人研修を行うケースもあった。
 自己啓発セミナーで行われるのは,基本的には自己探求の強制だ。大勢の前で自分の欠点を徹底的に語らせたり,1対1で互いを褒めたりけなしたりを延々繰り返させる。そういった作業を2日も3日も不眠不休で行わせ,最終的には個人を限界ギリギリに追い込む。そこで,最後にはそれまで鬼のようだったインストラクターが優しい言葉をかけ,セミナーから解放する。参加者は皆ぼろぼろと涙を流して泣き,感動体験を得るのだという。本書の冒頭で須藤元気の著作の「気づき」という言葉を取り上げたが,自己啓発セミナーのプログラムでもっとも強調されるのが「気づき」であり,自己啓発セミナーを「気づきのセミナー」と呼ぶ場合もある。須藤元気が使う「気づき」とはこのことだ。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.57-58

自己啓発セミナー

 自己啓発セミナーは,第二次世界大戦後にアメリカで開発されたリーダー養成のための研修の方式であるセンシティビティ・トレーニング(ST)と,1970年代以降に生まれたニューエイジ思想が結びついたものと言われている。
 ニューエイジとは日本ではほぼ精神世界という言葉で輸入され,昨今はそれもスピリチュアルという言葉に置き換わった。スピリチュアルとは美輪明宏や江原啓之などが喧伝する,オーラや前世や霊などの存在全般を指す「霊的な,精神的な」といったような意味の言葉だ。とはいえ,厳密にはニューエイジ=スピリチュアルではない。ここではニューエイジについて少し掘り下げてみたい。
 1960年代にアメリカで盛り上がったフラワームーブメントの主人公だったヒッピーたちが,その後どこに行ってしまったのかという話から始めよう。ヒッピーとはこの時代に髪を伸ばし,ジーンズをはき,ベトナム戦争に反対し,愛と平和と芸術と自由を愛し,ロックやフォークなどを生み出した若者たちの総称である。彼らのメンタリティの根本には西洋近代主義,消費社会,物質文明への疑問があり,その代わりに東洋思想やネイティブアメリカンといった対極にある思想を積極的に取り入れている。
 また,世界は2000年続いた魚座の時代から新しい水瓶座(エイジ・オブ・アクエリアス)の時代に移行するという,占星術の影響も受けている。『ザ・ヘアー』というミュージカルの曲『エイジ・オブ・アクエリアス』は,まさにこのニューエイジ(新しい時代)をテーマにしたものだ。ヒッピーたちは,この新しい時代を迎え,自分たちの潜在能力を覚醒させなくてはならないということも信じていた。
 1969年に開催されたフリーコンサートのウッドストックも,LDSをはじめとしたサイケデリックなドラッグも,こうした新しい時代の到来を謳歌するヒッピーたちの儀式だったと言っていい。
 しかし,そんな世界の変革を信じていたヒッピーたちも,1970年代になると熱が冷めたのか,みな家庭や社会へと戻っていった。しかし,彼らが持っていたヒッピーの思想は消えたわけではなく,彼らが社会に溶け込んだように,その思想も自分たちの社会にうまく適応させる形で持ち込んだのだ。
 それらは具体的にはエコロジー運動,瞑想,ヨガ,アロマテラピー,ドルフィンスイミング,オーガニック健康食,菜食主義,チャネリング,ある種のダイエット,パーソナルコンピュータといったものへと変化した。ここで挙げたようなものがニューエイジと呼ばれるようになり,日本においても1970年代末から精神世界として流行するようになる。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.53-54

ニューソート

 実は,成功哲学とマーフィーの法則はまったく同じ思想から派生したものだ。それは「ニューソート」と呼ばれる19世紀に生まれた運動で,クィンビーという心理療法のカウンセラーが「悪い信念が病気を生む」といったことを説教する治療を始めたものが元になっている。
 「ニューソート」は,元々キリスト教が母体になっているものの,霊的な存在や宇宙意思の存在などを認める傾向が強く,従来の伝統的教会からは異端視されている。このニューソート運動が「ポジティブ・シンキング」という言葉を通して普及し,書籍の形で広められたのがナポレオン・ヒルやカーネギーの「成功哲学本」なのだ。

速水健朗 (2008). 自分探しが止まらない ソフトバンク クリエイティブ pp.41

手詰まり

 ラインは研究者としての仕事をはじめたとき,霊媒ミナ・クランドンについての報告で,「通常の行為やトリックでは説明できず,また解釈に矛盾もないとほぼ確実に言えるようでなければ,それは科学ではないし,心霊現象について何かを知ることもけっしてできないだろう」と書いた。
 ラインは人生の終わりにこの言葉を思い出しただろうか?
 多くの人々がライン夫妻の研究を,彼自身の言葉と同じように結論づけている。モーリー・バーンスタインは,「デューク大学のJ.B.ライン博士のような科学者は,人間の心が5枚のカードのうち1枚を正しくあてることができるかということを証明するためだけに,超心理学でこれだけの年月を費やしたわけではない」と述べている。しかしラインの研究が,やがてすべてを変えるだろうと予想したものがいたにも関わらず,彼の研究は長いあいだ無視されてきた。ゲイザー・プラットと他の人々は,かつて「これからは超心理学の時代だ。科学の冷笑による試練の時代は去ったのだ」と時期尚早の勝利宣言をしたものだが,実のところ,超心理学は敗北したのだ。

 4分の3世紀前,デューク大学の科学者たちは無名の力の存在を繰り返し証明し,それを「超感覚的知覚(ESP)」と呼ぶことにした。それから現在まで,科学はその存在について確信を持って否定することも,もっともな別の説明をすることもできないでいる。残念ながら,超心理学分野自体も「それ」にはっきりとした光を投げかけることができなかった。
 手詰まりである。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.294-295

スターゲイト

 適切な時期がやってきたのは1970年代になってからだった。CIAが,ロシアには霊能スパイがいるという情報を掴み,このときは以前より確信を持ったらしく,1975年にスタンフォード国際研究所に5万ドルをわたして,のちに「遠隔透視」と呼ばれるようになったものを見つけ出すように命じたのだった。CIAは,実験を密かに,そして学術機関以外で実施することを望んでいた。
 最終的には,1978年に陸軍の霊能スパイ組織である<スターゲイト>が組織されることになり,1995年に終了するまで毎年,国会は予算を承認した。予算は結局2000万ドルにもなった。これは巨額の予算を投じたプログラムに見えるかもしれないが,スターゲイト計画の7年間の総予算は核兵器研究予算の2日分に等しい。また,1993年に心理学者サイボ・スハウテンは,100年間に超心理学に投資された資金を総計すると,一般の心理学研究費の2ヵ月分にしかならないということを指摘している。
 スターゲイト計画の初期メンバーのひとりであるマクモニーグルによれば,何年にもわたり,CIA,国防情報局,麻薬取締局,国家安全保障局,FBI,国家安全保障会議,国境警備隊,諜報部,ホワイトハウス,そして国防省のすべての情報局,沿岸警備隊までもが,スターゲイトの遠隔透視を利用していたという。
 しかし議会は1994年に,スターゲイト計画をCIAの管轄下に置くことを決議した。その後CIAは米国研究政策研究所(AIR)に,スターゲイト計画の有効性を検討するように依頼する。同研究所は,カリフォルニア大学のジェシカ・アッツ教授と,オレゴン大学のレイ・ハイマン教授のふたりに統計分析をさせた。
 ただ,CIAはアッツとハイマンのふたりにスターゲイト計画のすべてのデータを入手できるような,保安権限は与えていない。「(彼らは)20年間の成果とはとても呼べない数箱の資料をわたされて,検証するように言われただけでした。しかもその資料はCIAが自ら選んだものだったのです」とマクモニーグルは言う。アッツとハイマンは遠隔透視要因全員と話をすることもできずに,またスターゲイト計画に含まれていないそれ以前の遠隔透視研究を検証することもなく,報告書を作るように言われた。アッツは,スターゲイト計画は情報収集法として価値があると判断するに足る,重要な結果と証拠を見つけ出したのだが,ハイマンの答えは否だった。アッツはハイマンのコメントへの反論を書いたが,これは最終報告に掲載すらされなかった。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.246-247

超常現象ブーム

 時は1950年,説明できない奇妙な出来事の報道が増えていた。超常現象ブームがおこり,全国で「超心理学者」と自称する人々がペンとノートを持ってフィールドを駆けまわって調査を進めていた。彼らは調査報告を書いては研究所に送ってきたが,55歳で,今や誰もが超心理学の父と認める謹厳なJ.B.ライン博士には,人々の熱狂に冷や水を浴びせるような面があった。ラインは天水桶や生まれ変わり,UFOやその他,当時世間の人々の空想力を夢中にさせている奇妙な出来事には心を動かされなかった。それらはほとんど,でっちあげ事例,幻覚,希望的観測と断じられるのだ。ライン自身は,心霊研究を曖昧な世界から実験室に持ち込むことに生涯を費やした。しかし,若手の科学者たちは引っかかりを感じはじめていた。彼らはESPとPKの証拠を発見した。もし実験室内でそれが存在するなら,外の世界でも発見できることにならないだろうか?彼らは外に出て自分の目で確かめたいと考えていた。
 ESPプロジェクトをやめないというラインの決意は,研究者たちを事実上の停滞状態に追いこんでいた。証拠を見つけたとはいえ,まだESPについての仮説も立てられていなかったし,なにしろ1950年の時点で,1938年の実験データにもとづいた論稿を書いていたのだ。1938年,研究所はオハイオ州立病院の精神病患者50人のESPテストを実施しており,患者の診断名は妄想型早発性認知症から躁うつ病,神経衰弱症まで様々だったが,診断と能力のあいだに相関は見出せず,それどころか被験者でめざましい成果を上げたものもいなかった。ポルターガイストのような刺激的な研究対象があるときに,若手の研究者のうち何人が,12年前のESPテストの結果を再検証したいなどと思っただろうか?

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.135-136

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