忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

恵まれている

 バブル絶頂期の大卒求人予定数は84万人。リーマン・ショック後の2009年の数字は73万人。企業の求人総数はそれほど減っていない。何度も繰り返すが,大学生の数が激増したのだ。その大学生のうち就職意向を持っている人の9割が今も就職できている。産業=需要サイドの要請とは関係なく増加し,その質が低下したといわれているのに,だ。さらに,大卒を採用したくても応募がないので採れない,という中堅中小企業はたくさんあるのだ。
 ちなみに,アメリカの大学生のうち,就職を希望していて卒業までに就職先が決まっているのは5割程度。欧州には,もっと低い国もある。イギリスの「大卒採用協会」の調査によると,2010年の大学生の就職市場は厳しさを増し,トップレベルの大学で優秀な成績を修めない限り新卒採用枠には入れないという。ちなみに,求人1件当たりの候補者数は推定で69人。これを求人倍率に換算すると0.014倍になる。日本の大卒求人倍率は1.28倍。100倍の開きがある。アメリカ,イギリスともに,真似すべきモデルだとは全く思わないが,我が国の大学生がいかに恵まれた環境にいるのかという見当はつくだろう。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.181-182
PR

就職希望者の激増

 また,大卒就職市場には決定的な変化が起きていた。就職希望者の数が激増したのだ。要因は大学進学率の急増である。60年代は10%台,80年代までは20%代であった4年制大学への進学率は,1994年に30%を超えるとその後も急増し,2003年には40%を超え,現在は50%を超えている。新卒無業の問題は,この増加とともに顕在化したのだ。最大の問題は,企業の採用数の抑制でも新卒採用の時期の問題でもなく,大学生が増えすぎたことにあったのだ。
 しかし,そうした重大な問題や健全な変化は捨象された。格差是正,学業優先という趣旨のもと,大卒市場に早期化を抑制するための自主規制が復活した。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.66-67

部隊の人数

 何世紀にもわたり,軍隊における戦闘部隊の規模は150人前後だった。古代ローマ群の基本単位(歩兵中隊)は120人だったし,現代の軍隊でも歩兵中隊の平均的規模は180人だ。組織されたチームとしてメンバーが力を合わせ,同胞の強み,弱み,信頼性を把握できる集団の規模の上限が,そうした人数なのだ。戦争によって特定の淘汰圧が働くのだとか,古今の部隊がこの規模に達したのは生存に最適な規模を経験的に観察したからだ,などという想像さえできる。
 現代の通信技術を利用すればより大規模な編成ができそうなものだが,興味深いことに,現代でも軍隊の大きさは変わっていない。ここからわかるのは,集団の規模を決める最大の要因はコミュニケーションではないということだ。もっと大切なのは人間の心の力である。つまり,社会的関係を追跡し,1人ひとりを特定できる心の名簿を作成し,ネットワークのメンタルマップを描いて,誰と誰がつながっているか,その関係は強いか弱いか,協力的か攻撃的かといったことを探ることのできる力なのだ。

ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.310
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

歴史の皮肉

 禁煙の拡大はまた,地位の高い人がイノベーションの広がりに果たす役割を明らかにしている。フレーミングハム心臓研究のデータによれば,他人に影響を及ぼす力は教育によって増幅するようだ。つまり,人は高い教育を受けた知人が禁煙すると自分も禁煙することが多いのである。加えて,教育はイノベーションを欲する気持ちを強める。高い教育を受けた人は,そうでない人よりも仲間の禁煙行動を真似る傾向が強い。こうして皮肉にも,タバコに関して言えば,現在の禁煙の波は60年から100年前に起こったことの裏返しとなっている。つまり,当時はまず,社会的地位が比較的高いひとびとのあいだに喫煙の習慣が根づいたのだ。1930年代や40年代の広告では,医師がにこやかに笑いながらタバコを楽しみ,喫煙を勧めている。

ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.150
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

マクドナルドから

 マクドナルドのサンバーナディーノの店は賑わっていた。将来ファストフード店を開きたいと考えている人がやってきては,感心して帰っていった。そんな中にマシュー・バーンズとキース・G・クレイマーがいた。1952年にマクドナルドを訪れた2人は,翌年フロリダ州のジャクソンヴィルでインスタ—バーガーキングをオープン。後のバーガーキングだ。カリフォルニア州アナハイムのレストラン経営者カール・カーチャーもマクドナルドを見て,ファストフードチェーンの立ち上げを決めた。店はカールズ・ジュニアと名づけられた。サンバーナディーノのグレン・ベルはマクドナルドのやり方を研究し,ハンバーガーではなくメキシコ料理で似たような商売ができないかと考えた。そうしてタコ・ベルが生まれた。コンリンズ・フーズ・インターナショナル(現ワールドワイド・レストラン・コンセプツ)の会長だったジェイムズ・コリンズは店を見学してメモを取り,そのやり方にならってケンタッキーフライドチキンのフランチャイズ店を開いた。マクドナルドのクローンのような店がたくさん生まれ,1954年には多数のファストフード店がマクドナルド兄弟の考えだしたビジネスモデルを取り入れていた。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.52-53

マクドナルド!

 食の分野で新モデルを築いたのがモーリスとリチャードのマクドナルド兄弟だ。ニューハンプシャー州出身の2人は1930年にロサンゼルスに移り住み,小さな映画館を買った。でも経営はうまくいかず,なんとか生計を立てようと,1937年にオレンジジュースとホットドッグのスタンドを開いた。ロサンゼルス郊外のアーケーディアにあるサンタアニタパーク競馬場の近くだったが,意外にも商売は不振。商品をバーベキューとハンバーガーに変えても,売上げは伸びない。
 そこで2人は1940年にロサンゼルスから160キロメートルほど東の町サンバーナディーノに移り,マクドナルド兄弟のハンバーガー・バー・ドライヴインをオープンした。「カーホップ」と呼ばれる女性従業員が20人いて,注文を取り,食べものを運び,代金を受け取る。売上げの80%がハンバーガーで占められ,それに気づいた兄弟は,バーベキューをメニューから外した。バーベキューはいずれにせよ,準備に時間がかかりすぎる。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.47

多くのチェーン店

 戦後もたくさんのチェーン店が新たに登場した。1946年にトミー・クラックスがロサンゼルスでトミーズを創業。これはチリバーガーの専門店だった。1948年にカリフォルニア州ボールドウィンパークでハリー・スナイダー,エステル・スナイダーの夫婦が開いたイン・アンド・アウト・バーガーはドライヴスルーの店。客と店員がやりとりできるスピーカーをはじめから備えていた。ホカノファストフード店と違ってフランチャイズ化しなかったので事業の拡大に時間を要し,二店目ができたのは1951年だった。1950年にはホワッタバーガーがテキサス州コーパスクリスティで誕生。1953年にはフロリダ州ジャクソンヴィルでキース・G・クレイマーとマシュー・バーンズがハンバーガースタンドをオープン。これが後のバーガーキングだ。ジャック・イン・ザ・ボックスは1951年にカリフォルニア州サンディエゴで,ウェンディーズは1969年にオハイオ州コロンバスで創業した。だが,戦後のハンバーガーチェーンといえば,やはりマクドナルドだ。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.45-46

ポテト

 戦時中はポテトが重要な商品になった。じゃがいもは安価で,有り余るほどあって,配給の対象になったりしない。それまでフライドポテトを販売する店はそれほど多くなかった。器具の扱いがむずかしく,深い料理器に入った高温の油を使うことから安全面でも問題があったからだ。戦時中にフライドポテトは人気を得,その後,人々はその味を懐かしんだ。
 戦後もフライドポテトの販売を続ける店はあったものの,調理が危険なために大半の店が中断。ポテトがうまく揚がったかどうか,タイミングをはかるのがむずかしいのも問題だった。だが1950年代に技術の改良が進み,安全で,だれにでも扱える器具ができて,フライドポテトはハンバーガーチェーンのメニューに戻ってきた。このころミルクシェイク用の器具もよいものができ,ホワイト・キャッスルはシェイクの販売を再開した。ボブズ・ビッグボーイに対抗するため,1958年には「キングサイズ」のハンバーガーをテスト販売したが,客が支持したのは昔ながらの小さな「スライダー」だった。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.43-44

誤った伝承

 料理の歴史をたどってみると,誤った伝承が入り乱れているケースがほとんど。ハンバーガーの起源についても同じだ。北アジアの騎馬民族,タタール人の料理が起源だったとする説もあるが,ハンバーガーとは一切関係がない。ドイツのハンブルグの人々[ハンバーガーの名前の由来とされる]も関係はほとんどないといっていいだろう。ハンバーガーの「発明者」とされる人は何人かいるが,それを証明するだけの確かな証拠は見つかっていない。デルモニコというレストランの1834年のメニューに「ハンバーグステーキ」が載っていたとよく言われる。でも,そのメニューはにせもの。1904年のセントルイス万国博覧会の会場でハンバーガーが売り出されたことを報じたという新聞記事もよく引き合いに出される。そのハンバーガー売が発明者というわけだ。だが,その記事の存在は確認されていない。たとえ確認されたとしても,それがアメリカのハンバーガー第1号だったとは思えない。マクドナルドの創業者をレイ・クロックとするのも間違い。イリノイ州のデスプレーンズに最初の店ができたというのも誤りだ。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.27

ハンバーガー

 屋台ではハンバーグも販売された。ソーセージ同様,ハンバーグは挽き肉でつくる。けれどもソーセージと違って生なので,食べる前に火を通さなければならない。屋台にグリルが備わって,ハンバーグはメニューに加わった。そして,客の多くが立ち食いをすることから,ハンバーグは必然的にパンにはさまれることになる。だれが最初にこれをパンにはさんで売りだしたのかは不明。でも1890年代にはすでにアメリカに定着していた。「ハンバーグステーキサンドイッチ」をアメリカ各地の新聞が取りあげている。ネヴァダ州リノの『イヴニング・ガゼット』には1893年にこんな記事が載った。「トム・フレイカーのあのハンバーグステーキサンドイッチはいつも強い味方。これを食べるとおなかが満たされ,心まで強くなる」シカゴの『トリビューン』はこう報じた。「今はやりの食べものがハンバーグステーキサンドイッチ。価格はたったの5セント。あらかじめ準備した小さなパティをその場で焼いてはさんでくれる」ロサンゼルスの新聞はハンバーガーを「細かく刻んだ肉と玉ねぎを具にしたサンドイッチ」と説明。ハワイでもアメリカに併合される前からハンバーガーが食べられていた。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.22

ホットドッグ

 新しい屋台にはそれまでなかったガスグリルがつき,温かい食べものを販売できるようになった。当時,屋台でよく売られていたのがソーセージ。アメリカではフランクフルトとかウィンナーとも呼ばれていた。ソーセージを皿やフォークなしでたったまま食べるのはたいへん。そこでこれをパンにはさもうということになり,1870年代には専用のパンが製造されていた。ソーセージをパンにはさんだこの食べものは,縁日や遊園地,スポーツイベントなど,たくさんの人が集まる場所で人気があった。手軽につくれて,安価で,食べやすい。でも,問題はソーセージの材料だった。安いウィンナーソーセージには犬の肉が使われているという人までいた。エール大学の学生が屋台を「ドッグワゴン」と呼び始め,1890年代に「ホットドッグ」ということばが生まれた。


アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.21

羊皮紙の作り方

 羊皮紙作りは,万人が楽しめる作業とは言えない。どう考えてもリヴィエルには無理だ——彼は菜食主義者なのである。手順はこうだ。動物を殺し,血管から血を抜く。つづいて皮をはぐ——下腹に切りこみを入れ,肢を切り落とし,皮をはぎ取る。それから,石灰岩を熱してできる生石灰の希釈液を桶に張り,皮を浸す。石灰液は有機組織を破壊するので,表皮と皮下脂肪が溶け,毛が抜けやすくなり,真皮の内側の層だけが損なわれずに残る。この層は主にコラーゲンでできている。コラーゲンは,細長いまっすぐな軸にアミノ酸の鎖が3本巻きついた蛋白質の一種だ。鎖は少しずつずれて集まり,それによってできた繊維にははっきりとした末端がない。コラーゲンは羊皮紙に欠かすことのできない成分であり,羊皮紙の強さのもとである。数日たったら皮を桶から引きあげ,台に載せて刃の尖っていないナイフで削ぐ。脂肪と毛をあらかた取り除いたら,皮を木製の枠に張る。乾燥が進むにつれ,縮んで張りが出る。ぴんと張った状態になったら今度は半月形の鋭利なナイフで皮をこする。そして木枠からはずせば羊皮紙のできあがりだ。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.123

よく残された

 アルキメデスがエラストテネスに宛てた手紙は保管こそされていたものの,けっして安全ではなかった。時代は変わりつつあり,それもアルキメデスに有利には働かない。古代世界の学府を支えた偉大な著作やよりどころとされてきた書物が,つぎつぎと侵入者たちに略奪されていったからだ。ローマは410年にゴート人の,アンティオキアは540年にペルシャの,アテネは580年にスラブ人の侵略を受けている。アルキメデスの手紙の写本は,3世紀にはアレクサンドリア以外の都市にも数多く残っていたかもしれないが,6世紀末にはほとんど失われていた。アレクサンドリアでさえ,状況はあまりよくなかった。270年ごろにはローマ皇帝アウレリアヌスが,パルミラ女王ゼノビアとの戦争中に博物館を含む王宮の大部分を破壊。391年にはアレクサンドリア大主教テオフィロスが,博物館の分館であるセラペウムを攻撃した。415年には無学の狂信的なキリスト教徒らが,有名な女性数学者ヒュパティアを八つ裂きにした。同じような目にあう前に,アルキメデスの手紙もアレクサンドリアから逃れなくてはならなかった。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.113

これもテクノロジーの変遷

 巻物から冊子本に移行しなかった書物はそのまま消えていった。わたしたちが78回転のレコード盤を見限ったのと同じ理由で,古代の人々は巻物を隅に追いやった。情報記憶システムとしては時代遅れとみなされたのである。ほんの数十年前,78回転のレコードは音楽の記憶媒体として好まれていたが,いまではターンテーブルの上よりごみ箱のなかで見かけることが多い。同じように,古代の書物も古代世界のごみ箱から断片的に発見されることがある。アルキメデスがエラストテネスに宛てた手紙が巻物のまま残されていたとすれば,まずは放置され,やがて捨てられて最後には塵と化していただろう。巻物のまま残されたアルキメデスの文章の写しはそのとおりの運命をたどり,ごみ箱から断片すら見つかっていない。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.110-111

媒体の変遷

 冊子写本の伝播は緩やかだった。1世紀に登場したものの,ある程度まで普及したのは4世紀末である。それほどの年月を要したことに,わたしは驚きを禁じえない。冊子本の長所は,情報を巻物のような二次元ではなく三次元で記録できるところだ。巻物には縦と横しかないが,本には厚みがある。厚みがあることで,横幅がそれほど必要なくなる。横幅約15センチメートルで200葉(400ページ)の本は,縦の長さが同じ巻物60メートル余りと同じデータの収容が可能である。また冊子本の1葉はごく薄いため,本に厚みを持たせれば横幅はかなり削ることができる。さらに,巻物にしたためられた情報を拾うためには横幅に沿って延々とたどらなくてはならないが,冊子本ならその手間は省かれ,数センチメートルの厚みを掘りさげるだけですむ。巻物を広げていくのとページをめくっていくのとでは大きな差がある。たとえば,アルファベット順に項目が並ぶ目録を読んでいくとき,Aの“アルキメデス”を拾うのは問題ない。けれどZの“ゼノン”はどうだろう。冊子本なら最後の方のページを繰って読み,用が済んだら閉じればいいが,巻物の場合にはゼノンについてのたった数行を読むためにほとんど終わりまで広げ,また巻き取らなくてはならない。もちろん,実際にはそんなことにならなくなった。目録がどれだけ長かったとしても,そんなふうには作らなかったはずだ。だからこそカリマコスの蔵書目録は120巻にもなった。冊子本として写しが作られることがあれば,120巻よりはるかに少なくなっただろう。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.109-110

知れていることが異常

 記録に残されている歴史を,過去の出来事のすべてだと思いこむのは簡単だ。しかし,それは正しくない。そんな考え方をしていては,歴史とは何かを見誤るだけでなく,自分たちが知っているはずの物事から驚きを見いだす機会を失うことになる。紀元前3世紀の偉人が友へ個人的な手紙を送ったとされていても,それが絶対に事実だとは限らない。わたしたちがその事実を知っていること自体が,どう考えても尋常ではないのだ。驚いたことに,この手紙については,書かれた内容の大部分がいまに伝えられているだけでなく,どのような外観をしていたのかまでわかっている。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.104

あれは作られた話?

 ウィトルウィウスの話はこうだ。アルキメデスは王冠の問題を一心に考えていた。その王冠は金でできていることになっているが,本当に純金製だろうか?そんなとき,アルキメデスは浴槽の湯があふれだすのに気づいた。とたんに「ヘウレーカ,ヘウレーカ」と叫びながら飛びだした。いったい何がヘウレーカだったのだろう。ウィトルウィウスによると,水中に物体を沈めたとき押しのけられる水の体積と,物体そのものの体積が等しいという考察がヘウレーカだったという。王冠を水に沈め,あふれる水の量を量れば,王冠の体積がわかる。この結果を,王冠と同じ質量の金塊を沈めたときと比較する。金塊でも同じだけの水があふれるだろうか。比重が大きいものほどあふれる水の量は少なくなるため,これで王冠の比重がほんとうに金特有のものかどうかがわかるという寸法だ。理にかなった方法ではあるが,要は「大きいものほど,水が多くあふれる」という,些細な観察に基づいたものでしかない。あまりに些細なため,アルキメデス本人の論文『浮体について』(唯一のギリシャ語版がパリンプセストに残されている)ではひとことも触れられていない。
 思うに,ウィトルウィウスか,彼が参考にした原典の著者は,アルキメデスが水に浸した物体について何かを発見したことを知っていて,科学以前のとるに足らない観察(たとえば,「大きいものほど,水が多くあふれる」など)にも通じていたことから,ふたつを結びつける物語を創作したのではないだろうかだがウィトルウィウスがアルキメデスの科学について何ひとつ知らないのは明らかである。アルキメデスにまつわる話は,ウィトルウィウスからツェツェスまで,すべてがこのパターンだ。どれも都市伝説のたぐいと思われる。あしからず。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.59-60

伝説

 問題は,アルキメデスほどの著名人になると,どうしても伝説がつきまとうことだ。史実と伝説をどう区別すればいいのか,歴史学者が悩むのはそこのところだ。19世紀までは,古代の物語を実話として受け入れるのがあたりまえだったが,その後は懐疑論が優勢になった。今日の歴史学者が慎重すぎるのかもしれないが,わたしたち歴史学者はアルキメデスについて言われていることをやたらに否定してかかるきらいがある。ほんうに「ヘウレーカ(わかった)」と叫んだのだのだろうか。私自身もこの逸話は疑っているのだが,それには理由がある。最もよく知られたウィトルウィウスによるもの(最も古いものでもある)を見てみよう。書かれた時期と著者からして,すでに疑問の余地がある。アルキメデスの死後およそ二百年たって書かれたものであり,著者のウィトルウィウスは,歴史家としてはそれほど信頼できる書き手ではない(そもそも,この本は建築の手引書で,興趣を添えるために歴史上の逸話が入れてある)。
 

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦ったバンドの音楽が天才数学者 光文社 pp.58-59

アルキメデスについて

 古代における第二ポエニ戦争(紀元前218〜前201年)は,現代における第二次世界大戦になぞらえられる。この戦争は空前の大惨禍をもたらし,地中海の地政をめちゃくちゃにした。いっとき,ハンニバルがローマを征服したかに見えた時期もあったが,ローマは危機を乗りきって勝利を収め,終戦時には地中海全体をほしいままにするほど勢力を伸ばしていた。ギリシャ諸都市の自治は失われ,アルキメデスに象徴される文明はさげすまれた。第二次ポエニ戦争の大きな転換点のひとつは,シラクサの陥落だった。西地中海の中心的なギリシャ都市国家だったシラクサは,カルタゴと手を結ぶという誤った戦略をとった。長期にわたってローマ軍に包囲されたのち,紀元前212年,アルキメデスが考案し,戦闘では負けなしだった防備が,裏切りのために破られた。くわしいことは不明だが,アルキメデスはこのとき死んだ。
 実を言うと,歴史上の人物としてのアルキメデスについてわかっているのは,これがすべてだ。それでも,わかっているだけましだという点を強調したい。何しろ,古代の出来事がいつ起きたか特定できること自体,驚くべきことなのだ。古代の人はだれひとり,“アルキメデスが紀元前212年に死んだ!”などと書きとめてはいないからだ。大昔の旧暦を知るには,基本的につぎのような方法をとる。古代の資料のなかには,ありがたいことに,1年の出来事を年ごとに細かく記録した年代記がいくつかある(ローマの著述家リウィウスが記したものなどがよく知られている)。当時の暦の体系は現代と異なるが,古典作家は,ときどき天文のデータ(とくに,日食や月食)を残してくれている。ニュートン物理学を使って,こうした天文現象がいつ起こったかを計算すれば,それをもとに古代の年表を作り,現代の暦で言うといつにあたるかを導きだすことができる。このような天文データがなければ,たしかな年表などとうてい作れない。没年ひとつとってみてもわかるとおり,アルキメデスの人物像を知ることができるのは,アルキメデスに多くを負う科学があってこそなのだ。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.56-57

動物磁気

 ヒステリーの歴史の中で忘れてはいけない人物が,ドイツの医学者メスメルです。1734年生まれのメスメルは「動物磁気」の概念を提唱し,それによって今日のヒステリーに相当する患者の治療を実践しました。 
 治療において,メスメルは患者の前に膝が触れあうくらいの距離で座りました。両手で患者の両方の親指を押し,患者の目をじっと見たのです。メスメルは患者の肩から腕に沿って手を動かし,それから患者の上腹部を指で押して長時間そこに手を置きました。多くの患者たちはこの「治療」によって奇妙な身体感覚を覚え,けいれんを起こして治癒したといいます。メスメルのもとに,患者が殺到しました。
 このようなメスメルの「動物磁気」による治療が催眠術の発見につながり,さらに後の時代のフロイトによる「精神分析」に発展しました。

岩波 明 (2011). どこからが心の病ですか? 筑摩書房 pp.110

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]