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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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今やギャンブルの道具

 牧野は怒りが収まらない様子で,苦々しく言った。液晶のない昔ながらのパチンコ台を愛する人間からすると,釘をおろそかにして,大型液晶で大当たりの予感を煽るタイプのパチンコ台は許せないのだろう。警察が管理しやすいように,コンピュータ制御で確率が変動する物がパチンコの大半を占めるようになった。牧野はこう続けた。
 「きれいな言葉を使えば,『平等で公平』にはなったんです。技術介入を認めないようになりました。初めてパチンコをするビギナーでも,この道何十年のベテランでも全く差がない。いわば抽選箱のようなものです。でも,その結果はどうですか!?パチンコ人口は今や往年の半分程度です。こえは,パチンコにゲーム性を求める人が減って,パチンコをギャンブルとしてしか見ていない,お金だけのためにやる人だけが残ったからですよ」
 パチンコ台には,様々なアニメや芸能人,テレビドラマとのタイアップが増えて,傍目にはメディアミックスが進んでいるように感じていた。しかし,実際にはパチンコ台からは本来のゲーム性が消えてしまい,「ギャンブルの道具」としか見ていないプレイヤーが圧倒的だというのだ。牧野の言葉はショッキングなものだった。

安藤健二 (2011). パチンコがアニメだらけになった理由 洋泉社 pp.140-141
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更に続き

 偶然はさらなる偶然を生み出すようである。
 クレイグ・ハミルトン・パーカーの祖父は,若きキャビンボーイ,リチャード・パーカーのいとこだった。クレイグは,自分の祖先の悲劇に続く一連の偶然をすべて記録に残した。
 「ポーの小説と実際の出来事が繋がっているのに初めて気づいたのは,いとこのナイジェル・パーカーだった。彼はそれをレポートにまとめ,アーサー・ケストラー氏に送った。そして,それは1974年5月5日のサンデー・タイムズ紙に載った」
 「ケストラーは,新聞記事のその後を追う『偶然の本質』(邦訳,蒼樹書房)の作者で,その彼がエディンバラ大学のジョン・ベロフに何げなくその話をし,そしてベロフがその日のうちに記事を書いた」
 「ナイジェルの父のキースは,リチャードの物語がラジオドラマで使えるネタだと考え,梗概を作りはじめた。その当時,彼は作家としての収入を補うために,マクミラン社が出版した本の論評を書いていたが,そもそも最初に郵便で送られてきた本が『ミニヨネット号の遭難』だった。数週間後,彼は別の論評を依頼された。それは小演劇のコレクションのひとつで,題名は『いかだ舟』。子どもたちのための喜劇だったので,不吉な要素はまったくなかった。ところが,表紙絵はその内容とはかけ離れていて,3人の男たちが若い少年を脅している絵だったんだ。しかも,『いかだ舟』の作者は,リチャード・パーカーという人物だった」
 「1993年の夏,私の両親はスペイン語学科の女子学生を下宿させていた。ある日の夕食の席で,父が彼女たちにリチャード・パーカーの話をしたんだ。うしろではテレビがついていた。みんなの会話が止まったのは,テレビのローカル番組がまったく同じ話を始めたときだ。しばらくして,父がその沈黙を破って,リチャードの話をするときは必ず奇妙な偶然が起こるんだ,と言った。それからエドガー・アラン・ポーにまつわる話を始めた」
 「すると,2人の女子学生が真っ青になった。『ねえ,ちょっと,私が今日買ったものを見て』とそのうちのひとりが言った。彼女はかばんからポーの小説を取り出した。『じつは私もなの』。もうひとりが言った。2人ともその日,別々にショッピングに出かけ,リチャード・パーカーの話が載ったまったく同じ本を買ってきていたのさ」

マーティン・プリマー,ブライアン・キング 有沢善樹(訳) (2004). 本当にあった嘘のような話:「偶然の一致」のミステリーを探る アスペクト pp.173-174

ミニヨネット号の悲劇と偶然

 1884年,17歳のリチャード・パーカーは家出して船に乗り,ミニヨネット号のキャビンボーイになった。乗組員は他に,船長のトーマス・ダドリー,航海士のエドウィン・スティーヴン,エドムンド・ブルックスがいた。船はサウサンプトンを出発し,オーストラリアに向かった。
 沖合3000キロの南太平洋上で,ミニヨネット号はハリケーンに襲われる。そして船は巨大な波にさらわれ沈没した。混乱の中,救命ボートに乗り込むのが精一杯だった彼らに,食糧や水を持ち出す余裕はなかった。持ち出せたのは,小さなカブラの缶詰が2缶だけだった。
 乗組員たちは,ほとんど飲まず食わずで19日間を過ごし,絶望的になっていった。そんななか,リチャード・パーカーが海水を飲んで錯乱状態に陥る。ダドリー船長は,乗組員が生き残るために,その食糧となって犠牲になる者をくじ引きで選ぼうと考えた。ブルックスは何があっても人を殺すのには反対した。スティーブンはどっちつかずの態度をとっていた。最終的に船長が,扶養家族もいない死にかけのキャビンボーイを殺す決断を下した。 
 乗組員たちは,眠っている少年に向かって祈りをささげた。ダドリーが彼の肩を揺さぶり,言った。「リチャード,その時が来た」。3人の船乗りはリチャードの遺体を食べて生きのび,35日後に1隻の船に救助される。船の名前が暗示的で,モンテスマ号といった。モンテスマはアステカの人食い王の名前である。
 その後に開かれた裁判は,ヴィクトリア女王次代の社会を騒がせ,イギリスの人食い事件としては最も多くの記録が残されることとなった。ダドリー,スティーブン,ブルックスの3名は,それぞれ6ヶ月の重労働を言い渡され,その後に国を出て行った。
 しかし,この物語はその最後に不思議な展開を見せる。そのおぞましい事件の半世紀前の1837年,エドガー・アラン・ポーは『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』を執筆している。この小説は,4人の遭難した乗組員が長い飢えに苦しんだ後,食糧となるべき人間をくじ引きで決めるという話である。
 小説では,キャビンボーイが短いワラを引き当てる。その名もリチャード・パーカーといった。

マーティン・プリマー,ブライアン・キング 有沢善樹(訳) (2004). 本当にあった嘘のような話:「偶然の一致」のミステリーを探る アスペクト pp.171-172

翻訳者の気遣い

 ガリレオを几帳面な実験家として描く教科書の記述は,研究者たちによって強調されたものだ。ガリレオの著作のある翻訳書では,ガリレオは次のように語ったと伝えられている。「自然の中で,運動はたぶん最も古くから存在するものであり,それについて哲学者の著した書物が少なからず存在する。しかしながら,私は“実験によって”,知る価値があるのにこれまで観察も説明もされていなかった運動の諸性質を発見した」。ところが,この“実験によって”という言葉は,イタリア語の原典には見当たらない。この言葉は,ガリレオがいかに優れていたかに深く感銘を受けている翻訳者によって付け加えられたものであった。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.43

人類がやったのです

 気候変動に原因があると考える人々は,1万3000年前——北米の多くの大型動物が絶滅した時代——,この大陸は氷河期を終えて次第に暖かくなり,乾燥し,大陸全体で植物の構成が変わったためにそれらは絶滅した,と説明する。しかし,人類が犯人だと見ている人々からすれば,絶滅した動物の多くは氷河期をすでに22回もかいくぐって生き延びており,最後の氷河期よりはるかに過酷な時代もくぐり抜けてきたという事実の方が,より真実を語っていた。
 正体がなんであれ,殺し屋は北米の大型動物を一掃するとすぐ南米に渡り,そこでも大型動物の80パーセントを消し去った。奇妙にも,アメリカの大量殺戮のおよそ4万年前,同様の黒い影がオーストラリアを猛攻したらしく,そこでも大型有袋類動物や,飛べない巨大な鳥や,体長5メートルのトカゲが消えた。やはり人類が現れた直後のできごとで,しかもこの大陸に氷河は見当たらなかった。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.242-243

狩りという娯楽

 大型捕食動物を根絶しようとする強い動機が,少なくとももうひとつあった。猛獣を殺すのは,最高に楽しい娯楽だったのだ。都市化が進み,平凡な仕事が多くなると,人々は刺激のない生活に退屈するようになった。そのような欲求は,動物の虐殺を生で見れば解消できたはずだ。ローマ人は巨大な円形競技場を建設し,はるばるメソポタミアやアフリカから何千頭ものゾウやカバやライオンを連れてきて,大がかりな見世物として殺すようになった。ローマのコロッセウムでは,1日にクマ100頭,ヒョウ400頭,ライオン500頭が虐殺されることもあった。ライオン500頭というのが,現在アジアに生息するライオンを一掃する以上の数であることを思うと,その数の多さが実感できる。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.76-78

絶滅の原因

 霊長類はと言うと,こちらもアフリカのサバンナから独自の超捕食者を誕生させた。歯は小さく,かぎ爪をもたず,見た目はパッとしない二本足で歩く奇妙なサルで,ただ,不思議なほど大きな脳をもっていた。このヒト科の動物は多芸多才で,オオカミやライオンのように群れで狩る戦術と,ハイエナやジャッカルのようにほかの動物の獲物を失敬する技術を合わせて習得した。その系統に最も新しく現れたのはホモサピエンスで,登場してから50万年たたないうちに,動物界最大の獲物まで殺せるようになった。そして,自分たちを襲う捕食者も殺しはじめた。
 2万年前というそう遠くない昔,北米には体重が50キロ以上の肉食動物が少なくとも10種類いた。オオカミが2種,クマが3種,そのうちの1種は,立てばヘラジカほどの高さになり,クォーターホース(サラブレッドに似た乗馬・競馬用のウマ)くらいの速さで走った。スミロドン,つまりサーベルタイガーもいた。アフリカのライオンより大きいアメリカライオン,現在いるのと同じジャガーやピューマ,それにアメリカ版のチーターがいた。北米大陸は超捕食者の宝庫だったのだ。もちろんそれらの餌になる大型の獲物もいた。なかでもよく知られているのは,マンモスと,巨大な地上性のナマケモノ,メガテリウムである。ところが,彼らは突然,謎めいた最後を遂げた。
 およそ1万3000年前までに,北米の大型捕食者は半減した。マンモスとナマケモノのすべてと,最大級の有蹄動物の4分の3も姿を消した。氷河期が終息し,気温が上昇しはじめた時代に——それはシベリアから槍を振りまわすハンターたちがやってきた時代でもある——動物たちがあまりにも急速に消えたことについては,一体なんのせいでそうなったのかと,20世紀を通じてずっと議論されてきた。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.66-67

とりつかれた時代

 “霊媒”という用語が普通の言葉になった。“敏感者”という言葉もそうだった。これは幽界,境界領域,霊界,第七天など,死者たちが甦りの機会を待ってさまよう霧の王国からのメッセージに異常に敏感な者のことである。
 プロの霊媒や占い師が新聞に広告を出し,表にかかげ,自宅の客間に客を誘った。《ゾイスト》,《ライト》,《バナー・オブ・ライト》といった,増大する心霊術信奉者のために創刊された新聞には,毎日のように新たな定期購読の申し込みがあった。
 ことに1850年代のアメリカは,何かにとりつかれたようだった。心霊主義新聞の主張によれば,少なくとも二百万の健全な市民が信奉者であり,その数はヨーロッパの1.5倍にのぼるはずだった。その多くが,みずからも死者と話したことがあると信じていた。もちろん,誰もがフォックス姉妹のように,壁の奥から霊を呼び出す才能を持っていたわけではない。だが,新たに大流行している“テーブル傾斜”なら,たいていの人びとが行なえた。
 何人かが集まって1本脚のテーブルを囲んで座り,手をふちのあたりにかまえて,指先がぎりぎり表面に触れるくらいにし,テーブルが質問に答えてガタガタと動くのを見守り,物体を動かす霊の力に思念を集中するのだ。


デボラ・ブラム 鈴木 恵(訳) (2010). 幽霊を捕まえようとした科学者たち 文藝春秋 pp.37-38

征服する種

 最終氷河期のあとには,それまでヨーロッパに棲んでいたサル(ニホンザルに似たマカク類)はいなくなっている。3万2000年前から始まり,1万2000年前に絶頂期を迎える最終氷河期(ヴュルム氷期)の最寒冷期では,スカンジナビア半島の氷河は南下してヨーロッパ全域を覆ってしまい,南ではアルプスやピレネーに山岳氷河が発達してヨーロッパのほとんどはツンドラとなり,スペイン半島にまでトナカイが進出した。ヨーロッパは現在のシベリアのような気候となり,ヨーロッパの温帯地域に適したネアンデルタールが生活できるような環境ではなくなった。
 それまでなら,ネアンデルタールは寒さを避けて南下し,ヨーロッパ南部海岸地帯の温暖な地域や中近東に移動して生存を続けられたが,3万年前に次第に極寒の度を増すヨーロッパをさすらうネアンデルタールの前に現れたのは,新しい文化で武装したホモ・サピエンスだった。彼らは,それまでネアンデルタールがレバント地方で出会ってきたホモ・サピエンスとは,文化的レベルが違っていた。オーリニャック文化で武装したクロマニョンと名づけられたホモ・サピエンスである。
 この鋭い石器を取りつけた槍を持つ恐るべき人間たちは,あらゆる大型動物との共存を拒否し,むしろそれらを征服し,絶滅させることを常に望んでいた。毛皮に覆われたネアンデルタールが彼らより大きな脳を持っていても,個の強烈な意志力と新兵器には抗することはできなかった。ちょうど,それから3万年後のアメリカ大陸での出来事のように。
 もっとも,近代のアメリカ大陸でも,白人が支配的民族としてアメリカインディアンと置き換わるには数百年をかけたように,ネアンデルタールもただちにヨーロッパをクロマニョンに譲り渡したわけではなかった。南フランスのシャテルペロニアン文化は,奇妙にオーリニャック文化の要素が入ったネアンデルタールが担った文化と考えられている。そのように,この巨大な脳を持った隣人は,ホモ・サピエンスの圧迫に耐え,その文化を取り入れる能力も持っていて,オーリニャック文化を持って迫るホモ・サピエンスと,ほとんど1万年の間共存した。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.223-224

中国のバブル

 ジュージラン・ブームは,その数年後に中国政府がいくつかの小規模な経済改革を許可した際に本格的に始まった。そのときの長春の状態は,1630年代のオランダとよく似ていた。経済活動は奨励され,金儲けをしようという意気込みとエネルギーがあったにもかかわらず,剰余金を投資する機会があまりにも少なすぎた。そのような状況の中で,ジュージランの栽培家たちは,近隣地域からの花の需要が増えて値が(当然のごとく)上がってくるのに乗じて,ジュージラン球根の投機にも乗り出したのである。
 1981年から1982年には,ジュージランの球根は100元,約15ポンドで売買されていた。中国国民の年収が低いことを考慮に入れると,これは相当な金額である。しかし,1985年には,もっとも人気の高い品種の球根が20万元,約3万ポンドという天文学的な値段で取引された。この値段は,オランダでのチューリップ・バブルの最高時において支払われた金額をも圧倒するものである。センペル・アウグストゥスの最高値が1株5千ギルダーから1万ギルダーほどで,それは裕福な商人の収入の4倍から8倍だったのに比べ,ジュージランの最高値は,中国における大学卒の平均年間収入の300倍以上に相当した。まさに驚くべき金額であった
 これらの事実を考えると,ジュージラン・バブルが他の花のブームに比べて短かったこともうなずける。最終的に,このバブルは1985年に終焉を迎えた。球根に投機するなど狂気の沙汰だと説いた批判的な新聞記事がいくつか出たため,この新しい業界に対する信用が落ちたのが原因であろう。球根市場はパニックに襲われて,早く球根を手放そうとして焦る業者たちであふれかえり,価格は急落した。
 この中国でのブームの頂点がチューリップ時代の頂点を超えたのと同様に,暴落の度合いもチューリップ時代よりもひどかった。最終的にジュージラン市場が安定したときには,その価格はなんと99パーセントも暴落していたのである。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.310-311

スルタンの交代

 17世紀を通じて,無能であったり常軌を逸したスルタンばかりが続出して,オスマン帝国はその存続が脅かされるほどであったが,それには理由があった。16世紀初頭の壮麗王スレイマン1世の治世時から,イスタンブールにおける王室の状況はずいぶん変わっていた。トルコ王室の活力は徐々に消滅して,昔どおりの皇位継承のやり方を放棄せざるをえなくなった。コソボを従属国とした14世紀末のバヤジットの時代から,スルタンの座は,最初にそれを手に入れた王子のものとなることに決まっており,バヤジットの血にまみれた例にならって,新スルタンたちはその治世を始めるに当たって,兄弟たちがのちに反逆の計画を立てるのを防ぐために1人残さず死刑に処した。
 征服王メフメット2世の支配下で,この残虐な伝統は実際に法律として定められ,メフメット3世が1595年に即位したときには,何人かの乳飲み子も含めて19人もの兄弟がハレムから引きずり出され,天国で歓迎されるようにとまず割礼を施されてから,絹のハンカチで絞殺された。この残虐な伝統から,のちに残酷無慈悲で知られるようになる大胆不敵で果断なスルタンが何人も生み出されるのである。
 しかし,1607年,当時のスルタン,アフメット1世は,自分の愛する子供の1人が他の子供たちを皆殺しにするという考えに耐えられなくなった。そこで兄弟殺しを法的に薦める古い政策の代わりに,スルタン以外の兄弟を檻(カフェス)と呼ばれるハレム内の小さな一角に閉じ込める方策に切り替えた。
 カフェスは,宮殿の第4の中庭の西に位置しているいくつかの部屋から成っており,そこからはイチジク園やパラダイスガーデン,そしてボスポラス海峡の絶景が見わたせた。王子たちには,話し相手の宦官と性的慰めのための不妊の妾が与えられ,変わることのない日々の退屈さと,処刑される可能性が皆無ではないという不安感の入り交じる生活を送っていた。帝国の支配者が死ぬと,その長男が,生まれてからずっと閉じ込められていたカフェスから出され,新しいスルタンとして迎えられた。そして王室の血筋を引く他の男たちは,刺繍や象牙の指輪製作など,許可されていた数少ない気晴らしと,絶望の入り交じった静かな生活に戻るのである。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.277-279

当時のビール

 いずれにしても,17世紀のオランダでビールを避けて通ることはできなかった。水はほとんど飲める状態になく(漂白工場をかかえるハールレムでは特に),お茶屋コーヒーは馴染みの薄い贅沢品であり,ワインは比較的高価な飲み物であった。ところがビールは食事と一緒に必ず飲まれていた。朝食には温めてナツメグと砂糖を入れて,また昼食と夕食時にはそのままで飲まれた。ハールレムで消費されるビールのすべてがアルコール度が高かったわけではなかった。ビールには喉の渇きを潤すための「シンプル」と,酔うための「ダブル」という2種類が生産され,いずれも大量に飲まれていた。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.194

オランダの煙草

 1636年のオランダではパイプ煙草が大流行しており,ほとんど国民的な嗜好とまでいえるほどであった。当時,細長い陶製パイプで吸われていた煙草は,大部分がアメリカ大陸から輸入されてたが,オランダ国内でも生産されはじめていた。当時の医者が,煙草は疫病予防や歯痛,寄生虫病治療に非常に良く効く薬であるとさかんに宣伝したこともあって,喫煙者はほとんど休みなくパイプを吹かしていた。一方で煙草は精力を吸い取るので,喫煙男性は子種がなくなるとされていたにんもかかわらず,煙草を敬遠する者はほとんどいなかった。そのようなわけで,「金の葡萄亭」の店内は,ちょうど20世紀の禁煙オフィスの一角に設けられた喫煙室のように,むかつくようなヤニの匂いに満ちていたにちがいない。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.192

参加した人は

 チューリップ・バブル現象はかなり誇張されたために,球根価格の暴落が当時の株式市況や他の商品取引や,オランダ全土の経済に多大な影響を及ぼしたとする説が流布していた。だが,事実はそれとは大きく異なっていた。チューリップ投機は始まりから終わりまで,オランダ経済の辺境で行われていたにすぎなかった。球根は専門の仲介業者ではなくアマチュアによって取引され,証券取引所の慣行(奇妙なものであったが)や規制の対象にはなからなかった。実際にはチューリップ取引は,証券取引所で盛んに行われていた株や商品取引を意図的に模倣したものであった。それはビジネスに長けた専門の金融関係者ではなく,過去に株など所有したこともない地方の人々や,貧しい都会人が活躍した場であった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.185

風との取り引き

 1635年の秋以降,チューリップ市場は根本的な変貌を遂げた。激増するフロリストは,愛好家の習慣などお構いなしに,まだ地中に埋まっている球根を売買する方式へと移行していった。球根は取引の単位ですらなくなり,代わって採用されたのは,商品である球根の詳細と,土から取り上げて受け渡しできる日を記した約束手形であった。混乱を避けるために,それぞれの球根が埋められた地面には,品種,重さ,持ち主の名を記した立て札が立てられた。
 この新システムにはいくつかの利点があった。まず球根が秋,冬,春を通じて取引できるようになったこと。そして持ち主が代わっても球根は掘り上げ時期まで土中に残しておけること。このような点は球根を育てる技術もなく,意図もないフロリストにとって魅力であった。だがここに落とし穴が潜んでいた。買い手は,自ら球根を吟味することも,実際の花を見る機会も失ったのである。品質の保証はいっさいない。購入する球根が実際に売り手の所有するものなのか,ひいては,その球根が実際に存在するのかすら確かめることができなくなったのである。
 この現象は「ウィンストハンドゥル」とオランダで呼ばれた。意味としては「風との取引」であるが,さまざまなニュアンスで用いられる。それは船乗りにとっては逆風で舵を切る困難さを表し,後世の株式仲介人にとっては,チューリップ業者が扱った品物と利益は風に舞う紙切れであったことを思い出させる警句となった。だが,当時のフロリストにとって,ウィンストハンドゥルとは,従来の規則に縛られない,取引の新形態を意味したのである。
 行き過ぎたブームはそこから始まった。約束手形が導入されて取引が1年を通じて可能になったことから,投機の性格を強めていった。現物の受け渡しは何ヶ月も先であるので,売買や転売は,球根ではなく手形で行われるようになった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.165-166

ギャンブル熱の広がり

 貯蓄熱同様,ギャンブル熱はあらゆる階層にしみ渡っていた。実業家ウィレム・ウッセリンクスは,賭けた金を金庫の肥やしにするオランダ人などいなかったと述べている。つまり,裕福な商人であれば,危険を覚悟で東インド諸島への貿易船に投資して運を試した。それより下の階級に属する者たちにとっての賭け事は,前述したようなきびしい日常生活の副産物であり,混み合った国でよりよい生活を求めるための手段であった。黄金時代のオランダで宝くじはいまと変わらぬ人気を誇っていたし,賭けに勝つことは庶民にとっての甘い夢であった。
 オランダ人のギャンブル好きは有名である。フランス人旅行家,シャルル・オジエは,ロッテルダムで荷物運びのポーターを見つけるのは不可能であると書いている。ポーターを1人選ぶやいなや,別のポーターがやってきて,客の職業を当てる賭けを始めるからだという。当時の記録によると,バーレント・バッカーという人物が険しいゾイデル海を越えて,テセル島からウィーリンゲンまでたどり着くという命がけの賭けに勝ったという話や,ブレイスウェイクに住む宿屋の主人,アブラハム・ファン・デル・ステーンがローマのある柱石の正確な形を当てる賭けに負けて,宿屋を取られたという話が残っている。さらに,戦中のオランダ兵士が,自分たちが戦っている戦闘の勝敗をめぐって賭けをしたとさえ伝えられている。
 このような常軌を逸した賭けに比べれば,チューリップはしごくまともな投資先であった。球根栽培は週に80時間ぶっ通しで蹄鉄打ちをするより,または機織りに励むよりずっと楽な作業である。チューリップの需要は着実に増え,高級品種に限れば,価格は上昇の一途をたどっていた。オランダ国民が,ギャンブラーの夢に賭けてみることにしたのも無理はない。それは安全な賭けであった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.154-155

17世紀オランダの労働者の生活

 17世紀,オランダの職人は低賃金による長時間労働を強いられていた。1日の仕事を終えて帰る場所は,わずかな家具のおかれた狭苦しい1間か2間の家であり,しかも住宅不足のせいで家賃は高かった。食事といっても粗末なもので,来る日も来る日も同じメニューの繰り返しである。そんな環境に封じ込められていた人びとにとって,球根を植えてその成長をのんびり見守るだけで豊かな暮らしが保証されるなど,夢のような話であった。
 職人たちは夜明け前から日没後まで働いた。1630年には,早朝から作業所が発する騒音に対して,織物加工業者は午前2時,帽子屋は午前4時より前に作業を開始することを禁じる条例が,いくつかの街で制定されたほどである。もっともきびしい取り締まりを受けたのが鍛冶屋で,鍛冶打ちの音が大きいからと,夜明けの鐘が鳴るまで作業を始めてはならないと命じられた。
 労働者の激しく長い労働を支えていたのは,チーズや酢漬けニシンの軽食と,1日でもっとも主要な食事であった昼食のみであった。昼食として常食されたのは,国民食ともいえるフットスポットという肉のシチューであった。
 羊の細切れ肉とパースニップ,酢,プルーンなどを脂で煮たこのシチューは,最低3時間は弱火でじっくり煮込む料理であるが,生活苦と過剰労働のもとでは1時間ほどで火から下ろして供されていたため,その味は,あるフランス人の感想を借りていうと,「塩かナツメグが大量に入った水に羊の膵臓と肉の細切れが混じっただけの,肉の風味などまるでない代物」であった。
 かくもまずいフットスポットでさえ,労働者家族ではめったに食べられないご馳走であった。肉を買えない者は,野菜とべとべとした黒ライ麦パン(当時は重量が5キロもあるかたまりで売られていた)が常食であった。貧しい家計では,一塊のパンが家族全員の1日分の食料であった。もっとも食べ物に不自由しなくても,オランダ人の食習慣はきわめて保守的であった。オランダ人にとっての魚介類はニシンかタラのみで,ムール貝は市場に出回っても最低の食べ物として軽蔑されていた。ある大邸宅に仕える召使いは,食事に鮭が出たことに気を悪くして,週に2回以上は鮭を出さないと雇い主に約束させたほどだった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.147-148

富と趣味のよさの象徴

 チューリップは移民だけに人気があったわけではない。古くからその土地にいた人々もチューリップに情熱を抱くようになっていた。やがてチューリップはオランダ共和国全土で栽培されるようになる。南はロッテルダムから北はフローニンゲンまで,豊富な種類のチューリップが栽培されるにつれ,専門的な愛好家の数も増加していった。ただし,オランダ共和国の愛好家は他のヨーロッパ諸国とは異なって貴族ではなかった。裕福で活動的な住民の一群からなる「門閥市民(ヘレント)」がオランダ共和国の新しい支配階級となり,チューリップの栽培を発展させた。
 ふつう裕福な実業家の2代目,3代目,または法律家や医師が門閥市民になった。それぞれ債権や外国貿易,または海の埋め立てや,湖や湿地を干拓して農地に変えるような利潤の高い開発事業に投資するほどの財産家であった。毎日あくせく働かなくても楽々暮らしていける人々は,永久に続くかに見えた支配階級を形成し,地方議会や市議会の要職を独占した。
 愛好家のうちで門閥市民ではない者は商人であった。裕福ではあるが,商売に精を出し,生計を立てなければならない人々である。この階級の人たちは,その職業に応じた尊称を授けられていた。たとえば,漁業にかかわるデ・ヨングという者は,「ニシンのデ・ヨング様」と呼ばれた。商人たちは商売で得た利益をまた商売に再投資することが多い。門閥市民ほど庭にかまっている時間はなかったが,それでも裕福な商人のうちで,チューリップ愛好家として名が知られる者も少なくなかった。
 まさにチューリップはオランダ共和国にはうってつけの花であった。最新の流行を感じさせるだけでなく,その繊細な色合いは,庭園で咲く他の花の比ではなかった。さらにチューリップは耐久性があるので,素人でも専門の園芸家と同じく,上手に栽培することができた。もともと球根栽培は砂混じりの痩せた土壌が適しているが,オランダ共和国にはそのような土壌の土地が数カ所ある。砂混じりの土壌は特にホラント州に集中していて,レイデンからハールレムの町に至る海岸線沿いは,乾燥した白い土で覆われている。それはさらに西のアムステルダム,北のアルクマールまで続く。
 だが,もっとも重要なことは,チューリップが富と趣味のよさの象徴と化したことである。1590年くらいから,オランダ共和国は,思いがけなくもヨーロッパ一裕福な国になりはじめていた。半世紀にもわたって途方もない大金がこの国に流れ込み,裕福な商人階級が大幅に増加した。美しいチューリップを手に入れようとふんだんに金をつぎ込んだのは,これら豪商であった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.110-111

パリのブーム

 宮廷貴族は移り気ですぐに別の流行を追いはじめるが,宮廷のチューリップ・ブームは,パリの社交界に重要な影響を及ぼす。優雅で趣味のよいパリの社交界のことは,17世紀のヨーロッパ中に知れわたっていて,パリの流行はすぐに他の地で真似されたのである。フランスが次の流行に乗り移ってからも,チューリップはヨーロッパの辺鄙な土地でもてはやされていた。西はアイルランドから東はリトアニアの森を訪ねた旅人が,パリで10年も20年も昔に流行したスタイルで着飾っている婦人を見つけたものである。ルイ13世の宮廷でほんの数年沸き上がったチューリップ・ブームのおかげで,チューリップはその後も数十年にわたって,ヨーロッパ中で寵愛された。
 まず最初にフランス宮廷の流行を真似たのはフランス国民であった。パリでチューリップが流行しはじめてまもなく,小規模のチューリップ・ブームが北フランスに広まった。のちにオランダで起きるブームの予告編のようなこの状況を伝える当時の記録は残されていない。だが,当時の記録を信用するなら,このチューリップ・ブームは相当なものであったようである。
 1608年にはある粉屋が,所有していた粉ひき場をたった1株のメーレ・ブリュン(Mere Brune)という名の園芸品種と交換したという。またある熱狂的愛好家は,1株の交配品種,ブラスリー(Brasserie ビール醸造所の意)を手に入れるために3万フラン相当の醸造所を手放したという。また別の説によると,ある花嫁の持参金は,父親が栽培し,結婚を祝って「娘の結婚」と名づけた新品種のローゼン系チューリップ1株だけであったという(もっとも新郎は,その贈り物に歓喜した)。どの話も出所は疑わしいが,またたく間にチューリップ・ブームがヨーロッパ全土に広まっていったのはたしかであろう。そして1620年には,どこよりもオランダ共和国でもてはやされ,ユリやカーネーションなどのライバルを凌駕していった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.108-109

チューリップの特異性

 このように色と色が見事なコントラストを織りなしながら模様になるところが園芸家の心をとらえるのである。チューリップ・バブルを理解するには,17世紀において,チューリップがほかの園芸用植物と大きく異なっていた点を理解しなければならない。チューリップの強烈で濃厚な色合いは,当時のどの花にも見ることができなかった。それはたんなる赤ではなく,燃えるような緋色であり,ありきたりの紫ではなく,かぎりなく黒に近い,魅惑的な深紫であった。そしてそれぞれの色が見事なまでにくっきりと輪郭を描いて,ほかの複色の花のように,1つの色がグラデーションで混じりあって別の色になるようなものではなかった。
 ローゼン系の赤やフィオレテン系の紫のような園芸品種を特徴づける色は,花弁の真ん中を下から上へ羽根状または炎状に伝い上がるか,花弁の先端で縁取りとなる。これらの色は,チューリップの茎にまだらに現れることもあるが,花弁の基部を着色することはない。種類によって,基部は白(ときに青みを帯びる)か黄色である。羽根状または炎状の模様はそれぞれ異なり,同じ園芸品種でよく似ていても,まったく同じ模様が現れることはない。
 ブーム初期の頃からオランダのチューリップ愛好家は,このような色斑が形づくる模様のわずかな差違をもとに花を等級分けしていたが,そこにはある厳密な基準が存在していた。もっとも価値があるとされた「最上級」のチューリップは,花弁全体がほぼ白か黄色で,花弁の中央か縁に沿って紫,赤,または茶の斑が細い縞状に入ったものであった。色合いが派手であると愛好家が判断した場合は「下級品」に分類されて評価は下がった。
 野生種のチューリップは丈夫ながらも,花が素朴で単色であるのに対して,オランダ黄金時代の園芸品種は,なぜあれほどまでに複雑で華やかな模様をなすようになったのであろうか?答は簡単かつ不気味なものである。花は病気におかされていたのである。チューリップ・バブル時に何百,いや何千ギルダーという法外な値段で取引されていた人気の新品種はみな,チューリップにだけ観戦するウイルスにおかされていた。鮮やかで豊富な色合いを生んだのも,チューリップだけに現れて収集家を虜にした強烈な色模様も,すべてはそのウイルスのせいであった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.98-99

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