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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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ヨーロッパに渡ったチューリップ

 1562年秋のある日,アントワープの港にイスタンブールからの織物を積んだ一隻の船が入港した。地元の大聖人が荷受け人になっていた生地のなかに埋もれて入っていたもの,それは北ヨーロッパに初めて現れたチューリップの球根であった。
 生地を注文したフランドル商人は品物のなかに球根の包みを見つけて仰天したこの取引でたっぷり儲けたトルコの売り手がお礼代わりに忍ばせたらしい。ところが商人にしてみれば,そんなわけのわからない物はほしくもなかった。きっと珍しいトルコ玉ねぎか何かだと思った商人は,ほとんどを火であぶり,油と酢をかけて食べてしまった。残った分を裏のキャベツ畑に植えた。
 1563年の春,このアントワープの菜園に奇妙な花がいくつか厩肥と堆肥のなかから顔をのぞかせた。トルコ玉ねぎの収穫をあてにしていた畑の主にとってはやや腹立たしい光景であったが,赤や黄色の花を付けた繊細で優雅な姿は,野菜畑のくすんだ色合いのなかでひときわ鮮やかな彩りを放っていた。商人の夕食から逃れることができたそのチューリップこそ,おそらくオランダで初めて咲いたものであったろう。さすがにそのフランドル商人も,キャベツ畑の新顔がただものではないと察して,翌日に訪ねてきた客を庭に連れ出した。
 客は近隣のメケレンに住む実業家ヨーリス・ライで,大の園芸好きで知られている。もちろんライもその花とは初対面だった。北ヨーロッパではまだチューリップの存在が知られていなかったし,ゲスナーのスケッチおよび観察はまだ出版されていなかった時期である。だがライは,赤と黄色の珍しい花に価値があり,保存しなければならないことを知っているアントワープでは数少ない人物の1人であった。熱烈な植物好きで,珍しい植物を集めてはメケレンにある自宅の庭に植え,当時の著名な園芸家と頻繁に手紙をやり取りしていたライは,商人に許可を得てキャベツ畑の球根を自分の庭に移植した。そして彼は園芸仲間に手紙を書いて自分の発見を伝え,助言を求めたのである。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.70-71
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迅速化へ

 スペイン風邪の死亡率は2.5パーセントだったが,SARSはその4倍に上り,患者の1割が死亡した。世界各国が連携した検疫体制や予防措置によりSARSの感染拡大は食い止められたが,それでも30ヵ国で813人が死亡し,香港と中国本土が最大の被害エリアとなった。WHOは旅行中止勧告こそ出さなかったが,科学の進歩や医学的監視体制,ウイルスと戦う世界の研究者たちの真摯な協力関係がなければ,SARSは,1918年のスペインかぜどころではなく,格段の速さと飛距離で世界中に蔓延していたかもしれない。ウイルスは中国の人口12億人の20パーセントに感染し,そのうち1億200万人が死ぬ恐れがあった。1918年頃の世界の旅行者はまだごく少数だったが,2003年には約16億人が航空機を利用し,その3分の1はあらゆる種類のウイルスとともにいくつもの国境を越えた。アトランタからバンクーヴァー,シンガポールまで,ネットワークで結ばれた研究所で働く科学者たちは,瞬く間に世界各地に広がるウイルスと競争しながら,ウイルスのゲノム(遺伝子情報)解読の取り組みを強化し,わずか1ヵ月で驚異の離れ業をやってみせた。グローバリゼーションは,ウイルスにジェット機並みのスピードを与えただけでなく,対抗手段の迅速化にも大いに役立った。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.99-100

大量死の副次効果

 歴史家オーレ・ベネディクトウは, 当時のヨーロッパの推定人口8000万人のうち約60パーセント,5000万人あまりがペストかそれに関連する病気で死んだと結論づけた。当時の記録は,腐敗のすすむ遺体の山を集めることも,ましてや埋葬することもできなかったと伝えている。イタリアのフィレンツェのような人口10万人の都市では,毎日400人から1000人の市民が死んだ。1347年から1722年までの375年間,ペストは撲滅が確認されるまで周期的にヨーロッパで猛威をふるい,ある時期には世界貿易がほとんどマヒ状態になった。もしこの頃グローバリゼーションという言葉が知られていたら,人びとは「死」と同じ意味で使っていただろう。
 しかし,ヨーロッパの人口減少は,社会経済構造や医療の変革を促し,やがて世界の歴史に残る転換点となった。ヨーロッパ社会が受けた壊滅的なダメージは,それまで商人たちが交易によって築いてきた相互接続社会の特性を引き出すことになった。人口の半減,あるいはそれ以上の死によって生き残った人びとの個人資産は急増し,土地や財産,金,銀を相続したにわか金持ちたちは,先を争って贅沢品を買い求め,シルクや香辛料の供給者やアラブ,ヴェネチアの仲介業者に富をもたらした。熱に浮かされたような彼らの贅沢品漁りは歴史家たちが「15世紀の地金大飢饉」と呼ぶ現象を生み,深刻な硬貨不足から,1516年にはドイツの町,ヨアヒムスタールで「前代未聞の銀探し」騒動が起きた。この町の造幣所で鋳造された銀貨は「ヨアヒムスターラー」と呼ばれたが,その後「ターラー」と略され,いまわれわれが使っている「ダラー」の語源となった。しかしその一方で,すでに見てきたように,ヴェネチア,アラブの仲介業者が香辛料貿易の独占を図ったことから,ヨーロッパの交易商たちは新たなアジア航路探しを強いられるようになった。ヨーロッパで高まる需要に追い打ちをかけるように,黒死病は多くの点で,消費社会を形作る新たな原動力を生むきっかけとなった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.92-93

神の恵み=病気

 ちょうど70余年の間に,海を越えてやってきたヨーロッパ人が持ち込んだ病気によって,8000万人から1億人の先住民が死亡した。ニーアル・ファーガソンは,白人たちを「中世ヨーロッパで黒死病を媒介したネズミのようだ」と評し,「死の細菌運搬人」と呼んだ。しかしこんな悲喜劇もある。1621年,アメリカのニューイングランド地方,プリマスでは,イギリス人移民たちがある現実を前にして感謝の念を禁じえないでいた。実は,この地の先住民のうち90パーセントが,それ以前の移住者が持ち込んだ病気で死んだのだ。その上,彼らは土地を耕し,冬に備え大量のトウモロコシの種を蒔いておいてくれた。1690年代になってカロライナ総督のジョン・アーチデイルは,「大いなる神の恵みは,インディアンたちの数が減り,イギリス人移民たちに居場所を作ってくれたことだ」と語った。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.89

奴隷貿易で栄えた国

 奴隷貿易がもたらした富は,ハーバード,エール,ブラウンなど世界で名だたる名門大学の創設に貢献した。ブラウン大学のホームタウン,プロヴィデンス(米ロードアイランド州の州都)の奴隷商人は毛織物業や製鉄業にかかわり,大学創始者一族のモーゼス・ブラウンは綿織物産業の発展に重要な役割を果たした。反奴隷制度運動の指導者でもあったブラウンは,1790年,イギリス人移民のサミュエル・スレーターに資金提供し,プロヴィデンス近郊のポータケットにアメリカ初の紡績工場を建設した。当時,イギリスは自国技術の海外流出を禁じており,スレーターは紡績機の設計図を空で覚えアメリカに渡った。
 イギリスほど奴隷制度の恩恵を受けた国はなかった。1662年から1807年の約1世紀半の間に,イギリス船団がアフリカからアメリカに送り込んだ奴隷の数は,全体のほぼ半数にあたる約340万人に上った。奴隷貿易の最盛期にはイギリスは世界でも比類のない奴隷輸出国になっていた。イギリスの産業は植民地に奴隷を売ることで繁栄し,奴隷が作った製品を売ることで莫大な利益を上げた。イギリスは国をあげてアフリカ人奴隷の恩恵に浴した。イギリスが奴隷制度廃止に転じるのは1834年だが,その頃にはすでにイギリスは世界の大国として台頭する土台作りを終えていた。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.84

奴隷

 奴隷(スレイブ)という言葉は,19世紀,中央ヨーロッパのスラブ人が広範囲に奴隷化された状態にあったことから派生して生まれた。スラブ人は主要な奴隷候補であり,中世のヴァイキングとアラブの交易に欠かせない「人的資源」だった。キリスト教に改宗していない「野蛮」なスラブ人男女は,格好の取引商品とみられていた。有史以来,人びとは,戦争,飢饉,破産,自然災害などによって家を捨て,職を求めて新たな土地に向かい,生き延びるために隷属的な仕事も受け入れた。ときとしてそれは,アリストテレスが「人間機械」と呼ぶ奴隷となることであり,過酷で危険な仕事につくことを意味した。
 人間性を奪われ「働く機械」となった人びとは,市場で売買される役畜よりひどい扱いをうけた。しかし家畜と違うのは,彼らは,生まれ故郷を遠く離れても自ら属する種族,固有の言語,文化を捨てていなかったことだ。移民と同じように彼らの祖先もまた,5万年以上前にアフリカを旅立ち,世界各地に散らばり,さまざまな人種に枝分かれしていった人びとで,奴隷貿易によって互いに顔を合わせることになった。数千年にわたる人びとと奴隷たちの混合は,(あとから見るように移民や入植者と同様に)人間社会の規模や形態,性質,そして文化を変えた。すでに見てきたように,紀元前3世紀,エジプト人が初めてアフリカ人と出会ったことが,ファラオ(エジプト王)に奴隷をもたらすきっかけとなった。人間と商品との物々交換は人類の歴史とともにあった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.69-70

ゴム

 大英帝国は,アマゾンに自生するある植物を世界に紹介し,産業の歴史を書き換えた。それは,アメリカ先住民がカウチュク——フランス語でも同じ綴り,発音——と呼んでいた植物で,その植物からは天然ゴムの原材料となる白い乳液(ラテックス)が採れ,彼らはその乳液をブーツの防水加工に使ったり,ゴムまりなどを作っていた。1755年,ポルトガルの国王ジョゼ1世[ドン・ジョゼ1世]は,王宮で使っていた何足かのブーツをブラジルに送り,ラテックスを塗らせた。このとき実験のためヨーロッパに送り返されたラテックスは,19世紀初め,ゴムのレインコートの発明で一躍世界に知られるようになった。このレインコートの商品名「マッキントッシュ」は,ゴムと布地の防水加工技術を開発したスコットランドの科学者チャールズ・マッキントッシュにちなんでつけられた。アメリカ先住民の生活の知恵から生まれた天然ゴムは,やがて自動車革命の原動力として重要な役割を演じることになった。
 ゴムの需要が急上昇すると大英帝国も黙ってはいなかった。1876年,政府やブラジルに住むイギリス市民たちの要望を受け,ヘンリー・アレキサンダー・ウィッカムという人物が,7万個のゴムの木の種を不法にイギリス国内に持ち込んだ。ロンドン南西部のキューにある王立植物園の植物学者たちが,苗木の栽培に成功し,その苗木は熱帯地方のイギリス植民地,マレーシアとセイロンに送られた。アメリカ・フォード社の大衆車「モデルT」の組立生産体制がフル回転し始めると,タイヤも大量生産され,いわゆる「白金(ホワイト・ゴールド)」ラッシュがマレーシアを席捲し,広大な土地がゴム・プランテーションになった。1924年には,フォード社の生産台数は1000万台に達し,当時「マラヤ」と呼ばれたゴムの輸出量は,世界の総生産量の半分以上に相当する年20万トンを超えた。この間,約120万人のインド人契約労働者がマレーシアに移り住み,同国の人口構成を将来にわたりガラリと変えた。現在のマレーシアは,人工の10パーセントがインド系で,その多くは,こうしたゴム園労働者の子孫だ。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.50-51

唐辛子

 帝国主義的冒険によって,偶然にも新しい農作物や種子が世界に知られるようになったが,なかでもアジア人の味覚の原点とも言うべきもっとも重要な食物は,おそらくコロンブスが新大陸で発見したチリ・ペッパー(唐辛子)だろう。このペッパーは,古代アステカではチリ(ピリっと辛い果実)と呼ばれ,ペッパーコーン(コショウの実)の仲間とされているが,いまでは「チリ・ペッパー」の呼び名が一般的である。いまでもアジアの人びとが驚くのは,自分達の伝統の味だと思っていたあの「激辛チリ」が,実は450年前,ヨーロッパ人探検家や交易商人によって伝えられ,コロンブスがいなければインドの「ホット(辛い)カレー」もなかったという事実だ。そして朝鮮の人びとの場合には,その驚きは最悪だ。誇り高く民族意識の強い現代の韓国人の多くは,あの燃えるように辛いキムチ——発行させた白菜にニンニクと唐辛子を混ぜた漬物——が,彼らの憎むべき日本のサムライ,豊臣秀吉の朝鮮侵略によって,16世紀に初めて伝えられたとは認めたくないだろう。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.49

モンゴルの影響

 皮肉にも,モンゴル軍が交易の主役となると,中国とヨーロッパの商取引はさらに弾みがつき,やがてヨーロッパにルネサンスが開花する環境が整えられていった。「パックス・モンゴリカ」(モンゴルによる平和)は,罪なき人びとの命を奪う悲惨な代価を強いたが,その一方で,世界をさらに強く結びつけた。当時の人びとは,帝国の破壊行為や身の不運,恐怖を味わっただけかもしれない。だが,フランスのモンゴル史研究者は,「後世の人びとにとって,世界帝国が残した優れた遺産は十分な利用価値があり,多様な民族文化の交流は豊かな果実を生んだ」「おそらく,この豊かな果実は,以降数世紀にわたり,ヨーロッパの拡大,予期せぬ成長をもたらすきわめて重要な歴史的要素となった」と書いている。モンゴルの交易商人は中国の陶磁器をペルシャに紹介し,中国にはペルシャのコバルトを持ち帰った。景徳鎮などに代表される青白(花)磁の陶磁器はこうして誕生し,コバルトから生まれた青は,中国語で「回回青」(回教徒の青)と呼ばれるようになった。蒙古馬の毛から作られた弦楽器の弓や,ズボン,真新しい食べ物など,モンゴル帝国の影響は,ヨーロッパ人の生活の隅々にまでおよんだ。「万歳(フラー)」というモンゴル語の歓声は,ヨーロッパでもそのまま使われ,人びとが気勢をあげる感嘆語として広まった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.43-44

チンギス・ハーンの遺伝子

 チンギス・ハーンやその後継者たちは,成人男子や子どもたちを大量に殺戮し,大勢の女性を集めて性の奴隷としたことで,彼らの支配地域の遺伝子系統図に,その痕跡がはっきりと残ることになった。その影響力の大きさは,かつてのモンゴル帝国の支配下に住む人々を対象にした画期的な遺伝子研究によって明らかになった。この研究を実施した科学者チームは,チンギス・ハーンのY染色体が,アジアの大部分の地域に住む男子の8%のDNAに存在することを発見した。科学者たちは,このDNAの継承比率を世界全体に当てはめれば,約1600万人になると推定している。
 強制移住もまた役割を果たした。遊牧民のモンゴル人は狩猟や牧畜以外の知識はまったくなく,そのため彼らは,征服した土地からあらゆる分野の専門家や技術者,職人を捕まえては利用した。歴史家のジャック・ウェザーフォードは,「モンゴル軍は通訳,書記,医者,天文学者,数学者などを駆り集め,彼らの一族に均等に分け与えた。音楽家,料理人,金細工職人,曲芸師,絵描きなども同じように分配された。帝国当局は,こうした職人を含めた知的労働者や動物,物品などをキャラバンや海路を経て,一族の各首長の住む地域に送り届けた」と書いている。たとえば,フビライ[チンギス・ハーンの孫,元帝国の初代皇帝,1215-94年]はペルシャ人の通訳や医者とともに,約1万人のロシア兵を帝国に呼び集め,今日の北京の北に定住させた。ロシア人兵は1世紀近くも居留民として定着していたが,その後,彼らに関する記録は中国の公式文献から姿を消している。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.26

同じことを

 630年,ムハンマドは約3万の兵を率い,ビザンチン帝国領土近くまで迫った。遠征はアカバ湾に至る500マイル(800キロ)におよび,ムハンマド軍は20日間にわたって陣を構え,キリスト教徒のアイラハ[イエメン北部]の皇太子に平和協定を結ぶように求めた。この協定は,イスラム帝国に忠誠を誓い,年貢を納めれば,キリスト教徒のような「経典の民」(アラビア語で「ズインミー」と呼ばれた)にもウンマの庇護が与えられるとし,信仰の自由も認められた。他宗教との共存を唱えるこの現実的な協定は,その後数世紀にわたり拡大を続けるイスラム帝国に,年貢という収入源をもたらした。また一部の研究者が言うように,アラーの大義のために殉教すれば,天国に召されるという教えは,初期のイスラム教において,異教徒に改宗を決意させる十分な動機となったかもしれない。そして,「文明が栄えた「肥沃な三日月地帯」では,人びとは快楽や贅沢な生活に心を奪われ,その欲望をいますぐにでも満たそうとした」。興味深いのは,史上初の帝国支配者となったアッカド王,サルゴンは,新たな領土を求めて遠征し,戦利品や貢物を手にすることに狂奔し,その約3000年後,イスラム帝国の創始者であるムハンマドもまた,サルゴンと何ら変わりがなかったことだ。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.17

リヴィングストンの働きかけ

 現地人を改宗させるためにアフリカに渡ったデイヴィッド・リビングストンは,奴隷商人以外でアフリカの奥地にまで分け入った最初のヨーロッパ人だった。彼の報告は奴隷貿易のおぞましさを人びとに認識させる上で大いに役立った。彼は,アラブの奴隷商人が,首枷をされ,足に鎖の輪をはめられ,ロープでつながれた1000人もの奴隷のキャラバンを率いていくのを眼にした。奴隷たちは,象牙などの重い荷物をかつがされ,よたよたと足を引きずって,ジャングルを踏み分け海岸へと歩いて行った。リヴィングストンが本国に送った記事の中でも,ナイル川の源流を探しているときにコンゴのニャングウェで偶然に出会った奴隷商人による虐殺の報告は最も人びとに強烈な記憶として残った。原稿用紙を使いきってしまった彼は,手当たりしだいに近くにあった紙切れに書きつけた。「私がこれを書いているとき,左岸の方角から,虐殺された人たち,ルアラバ川の底に沈められて姿を消した多くの友だちを探して大声で泣き叫ぶ声が聞こえた。おお,汝,神の王国の来たらんことを!」
 この報告を出版のためにイギリスに送るにあたって,リヴィングストンは言った。「もし私の書いたものがウジジャンの恐るべき奴隷貿易を止めさせることにつながれば,それはナイル川の源流を発見するよりはるかにすばらしいことだ」。議会はこの問題を取り上げ,1873年,リヴィングストンの死からほぼ1ヵ月後に,イギリスはザンジバルのスルタンに,軍艦による海上封鎖の脅しをちらつかせながら,強引に奴隷市を閉鎖させた。
 リヴィングストンは南アフリカのボーア人の政権にも痛烈な非難を浴びせ,その影響でイギリスの世論はボーア人政権のアパルトヘイト政策反対にまわった。彼はこう警告した。「黒人の間にもこれら白人の泥棒どもを真似する者が出るだろう。いま,ボーア人は,カッフル[南アフリカの黒人に対する侮蔑的呼称]を狒々の血ほどの値打ちしかないと思っているが,彼らボーア人の血も,同じように安っぽいとみなされる日も遠くはあるまい。その日が来たら,われわれはあえてこの大変化は不当でもなければ謂れなきものでもない,と言わなければならないだろう」。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.266-267

欲望の赴くままに

 十字軍の時代に聖地奪回というキリスト教徒の試みの背後に物質的な欲望が潜んでいたことは,秘密でもなんでもなかった。この欲望の最もショッキングな例は,1204年の第四次十字軍の兵士たちによるコンスタンチノープルの略奪だ。当時の記録にはこうある。「天地開闢以来,1つの都市でこんなにも大規模な略奪が行われたことはなかった。金,銀,宝石の山や高価な物の入ったたくさんの箱,そうした略奪品を数えることのできた者は,誰一人としていなかっただろう」。
 16世紀,スペインは南アメリカに何度も遠征隊を送った。その目的は,表向きには原住民のインカ族に真の神を受け入れさせることだとされた。だが,征服者フランシスコ・ピサロは,ペルーの原住民の改宗が進まなかった理由を問われて,正直にこう答えている。「私が来たのはそんなことのためではない。彼らから黄金を奪うためだ」。
 あるスペインの遠征隊は,神の祝福のもと,メキシコから胡椒の豊富なフィリピンまで帆走するよう命令を受けた。そのとき,遠征隊の司令官はこう説明した。「この遠征の主な目的は原住民を改宗させることとヌエヴァ・エスパーニャ[メキシコ]への安全な帰路を発見することだ。それによって王国は貿易を増やし,正当な手段で利益を得ることができるのだ」。
 信仰への新たな改宗者を勝ち取るという大義名分のもとに,何万人もの人間が拷問にかけられ,殺され,いくつかの大陸が征服され,たくさんの資源がヨーロッパのそれぞれの本国に移されることになった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.220-221

カプチーノの誕生

 それでもコーヒーの飲み方はイスラム式が踏襲された。濃いブラックコーヒーに砂糖だけを入れて飲むやり方だ。砂糖はクリストファー・コロンブスがカリブ海域に持ち込んだものだが,この地域の植民地での砂糖生産は奴隷の導入によってぐんぐん増え,もはや金持ちだけの贅沢品ではなくなっていた。そして乳糖に慣れ親しんでいたヨーロッパ人は,やがてコーヒーに栄養たっぷりミルクを入れる飲み方を編み出した。
 コーヒーにミルクを入れる飲み方はまたたく間に評判になり,ウィーンに伝わった。1683年,トルコ軍のウィーン包囲を打ち破ったウィーンっ子たちは,トルコ兵が捨てていったコーヒー豆の袋から大量のコーヒー豆を手に入れて,コーヒーハウスの第1号「青い瓶」(ブルーボトル)を開店した。伝説によると,マルコ・ダヴィアノというイタリア人のカプチン会修道士がミルクと蜂蜜をまぜてコーヒーに入れ,その苦さを薄めることを思いついた。ウィーンっ子たちはこの新しい飲み方を気に入り,こうしたコーヒーの色がカプチン会修道士の僧衣の色柄と似ていることから,カプチン会への経緯の標としてこれを「カプチーノ」と名づけたという。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.175-176

コーヒーの歴史

 コーヒーの学術名はコフィア・アラビカというが,もともとコーヒーの木はエチオピアの丘陵地に自生していた。その名が知られるようになったのは,15世紀にイエメンで栽培されるようになってからである。伝説によると,昔,エチオピア南西部のカッファ地方に住んでいたカルディという名のヤギ飼いが,コーヒー豆の不思議な力を発見した。ある昼下がり,放し飼いにしていたヤギの群れを集めに行ったカルディは,ヤギが異常に興奮しているのを見て驚いた。ヤギたちは跳ね回り,角をぶつけ合い,家に帰ろうとしなかった。カルディは,ヤギが食べていた赤い木の実を口に入れてみて,すぐさまその理由がわかった。身体がぞくぞくするような快い感覚が舌から全身に広がったのだ。
 コーヒーという名前は,コーヒーが発見されたカッファという地方の名前に由来すると唱える学者もいる。。このヤギ飼いがコーヒーを見つけた場所についても異論がある。ヤギの興奮状態がコーヒー発見につながったとするハインリヒ・エドワルド・ヤコブは,その著書『コーヒー,日用品の壮大な叙事詩』(Coffee: The Epic of a Commodity)で,熟したコーヒー豆の発見はイエメンのイスラムと関係があると主張している。
 イエメンのシェホデト僧院の導師は,ヤギたちが奇妙な行動をしているとヤギ飼いが報告してきたので,さっそくその真偽を調べてみた。導師は,ヤギ飼いが「ヤギを魔法にかけた」という珍しい木の実の芯をあぶって,醸造してみた。ヤコブは書いている。「すると,ほんの少しも経たないうちに,このシェホデト僧院の導師はまるで魔法にかかったような気分になってしまった。導師は,いまだ経験したことのない不思議な陶酔状態に陥った。導師は熱心なイスラム教の信者なので,酒に酔った経験などまったくなかった。……ところがいま,身体の感覚はほとんどなくなり,心はいつになくいきいきと,愉快で,かつ冴えた状態となった。考えも頭に浮かぶだけでなく,はっきりと目に見える形をとった」。やがて導師は,真夜中の礼拝の前に,信心深いスーフィー教徒たちにこの黒くて苦い飲み物を飲ませるようになった。
 一方,フランスの貿易商でコーヒーの仕入れにイエメンに航海したジァン・ド・ラ・ロックは,長い夜の祈祷の前にコーヒーを飲む儀式について,こう描写している。「コーヒーは赤い粘土で作られた器に入っていて,信者たちは導師の手から器を押しいただき,導師は器の中からコーヒーの液体をすくいあげて信者のコップに注ぐのだった」。
 イエメン人たちはこのコーヒーを「クワハ」(k’hawah)——元気づけの飲み物——と呼んでいた。スーフィー教団の信者たちはこの黒ずんだ飲み物からワインを連想し,そしてワインのアラビア語の名前カフワ(qahwa)を,この飲み物にもつけた。トルコ人はコーヒーをカハヴェー(qahveh)と呼んだが,その後カウヴェないしコーヴェと発音されるようになり,それがフランス語のカフェ,英語のコフィー[日本語ではコーヒー]となった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.168-171

アメリカへ

 やがて世界の繊維製造業の王冠は,綿花の豊富な供給,相次ぐ発明,経営の優秀さのゆえに,アメリカの頭上へと移った。布地の政策が機械化されたのに続いて,仕立てと縫製も機械化されていった。1755年,イギリス政府は機械縫製に使う針に最初の特許を発行したが,アメリカで最初の縫製機械,いわゆるミシンが商品として売り出されたのは,それから100年後のことだ。ミシンを製造し商品化したのはアイザック・シンガーという実業家で,彼はエリアス・ハウという人物が開発した技術を利用した。ハウがこの技術に関する特許を出願したのは,1846年のことだ。
 これより先にフランスでもミシンの特許をとろうという試みがなされたが,これは大きなトラブルを引き起こした。フランスでミシンを発明したのはバルテレミー・ティモニエという裁縫職人だったが,ミシンの出現で職を失うことを恐れた裁縫職人たちが彼の裁縫工場を襲撃し,火をつけたため,もう少しで命を落とすところだった。ティモニエはこの放火事件のあと一文無しになったが,アメリカの同業者たちは運がよく,ハウとシンガーは百万長者になった。19世紀の中頃までに,船乗りの制服の縫製がきっかけとなって,レディメード,つまり既製服の生産が始まった。
 アメリカは,水力や石炭といったエネルギーの一次資源の利用の段階から,もっと効率のよい加工エネルギー,たとえば内燃エンジンや電力といったエネルギーの使用に移行していった。その結果,紡績や機織りの工程のスピードが加速された。だが,衣料製作の技術は基本的には同じ状態にとどまっていた。手回しや足でペダルを踏んで動かすミシンは複数のステッチ機能を備えた電動ミシンに取って代わられたが,衣服に仕立て上げる段階では,手で縫わなければならない部分も依然として多かった。したがって,衣料生産が現代の経済にあって最も労働集約度の高い,つまり労働力の雇用の大きな分野として発展してきたことは不思議ではない。そして衣料生産は開発途上国に,紡績からボタンつけにいたるさまざまな工程のそれぞれの段階で,世界的な供給チェーンに参加する機会を与えた。2000年に繊維・縫製部門での雇用労働力は,中国で600万人,インドでは150万人,アメリカでも80万人だった。
 アメリカの繊維産業は安い労働力を求めて,絶えず南へ南へ——ニューイングランドからノースカロライナへ,さらにカリブ海諸島へ——と移動していった。そしてついには太平洋を渡り,貧しく飢えている途上国に根を下ろした。1時間当たりの労働はアメリカの10ドルに比べて中国やヴェトナムでは20セントと大きな差があった。しかもこれら低賃金の国の中でも,さらに奥地の目を覆いたくなるような極貧の地域では,賃金水準は一段と低かった。西側世界の人権団体や労働運動のグループ,それにシアトルでのデモ参加者は,「大企業主導のグローバリゼーションがアメリカのショッピングセンターを途上国のタコ部屋で生産された製品で埋め尽くしている」と非難した。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.162-163

グローバリゼーションのスタート

 いまから1万年前,人類は南極大陸以外の地球上のすべての大陸に到達し,新しい時代の幕開けに備えることになった。新しい時代の幕開けとは,諸々の社会や共同体が再び結ばれることになる長い道程の始まりを告げるものだった。紀元前2万年のすぐあとに,地球の温暖化が始まった。その後,何度も揺り戻しがあり,短期間だが極度の寒冷や簡抜の時期もあって,本格的に氷河期が終わったのは紀元前1万年のことである。それがきっかけとなったかのように地球上のあらゆる所で氷の層が溶け出し,次いで農業が盛んになり,さらに農民が定住する集落が出現した。その農民社会を基板にして,職人や僧侶,そして首長が生まれていった。狩猟・採集を続けたほとんどの者が遊牧生活を営むようになり,さまざまな定住社会をつなぎ合わせる「歩く連結器」の役割を演じることになる。
 農業が生産余剰になると,町が出現し,新しい工芸技術が発達し,日用品の生産が始まった。それ以前に必要に応じて行われていた物々交換は,交易のネットワークを形成するようになった。狩猟・採集社会の人びとは戦いに明け暮れていたが,国家が出現すると,戦争はもっと組織化されたものになった。やがて帝国が次々に建設されていった。紀元前6000年頃には,人間を相互に結びつけることになる基本的な動機——交易によって利を得ようという欲求,信仰を広げたいという宗教的な衝動,新しい土地を手に入れたいという欲望,武力によって他人を支配しようという野望——これらすべてがそろって,今日私たちがグローバリゼーションと呼ぶものをスタートさせたのである。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.59-60

日本移住へ

 中国と東南アジアが,ヒトが日本に移動するための「待機場」であったことが明らかになった。海面の水位が下がって日本と大陸本土とが陸続きであった2万年前から1万2000年前にかけてのある時期に,中央アジアからやってきた狩猟・採集民が北日本に移り住んだ。チベットと中国北部アルタイ山脈との間の地域から推定3000人の人びとが日本に歩いて辿り着き,縄文文化を発展させた。やがて海面の水位が上昇すると,日本はほぼ1万年間,大陸から切り離された。この間,東南アジアと中国南部の河流地域に住む人びとは農業を発達させていき,稲作農業は朝鮮半島にも広がり,そこで冷淡な気候に強い種が発達した。
 およそ2300年前,東南アジアや朝鮮の住民と同じマーカーを持つ人びとが日本南部の島々に船で渡ってきた。これら農耕民族の移住者たちは,水稲文化を日本に持ち込み,水稲文化は日本全土に広まり,やがて日本は,これを自らのアイデンティティを示す証とみなすようになった。20世紀の日本はコメの市場開放に抵抗する理由として「日本で育ったコメは他に比類のない独自のものだ」と主張している[日本への稲作伝来は中国の長江流域からであるとの説が最近では有力だ]。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.49

アフリカ発

 アンダマン海の島々に暮らす原住民たちは,長い間外界から隔絶されてきたが,研究者がこの人びとのミトコンドリアDNAを検査したところ,それはおよそ6万5000年前にアフリカからやってきて居ついた人びとのものと合致していることがわかった。驚くべきことに,アンダマン諸島の原住民は南アジアや東南アジアの人びとには見られない遺伝子マーカーを持っている。現代人の解剖学上の祖先が,アフリカからインド洋の北部沿岸地域に初めて移住してきたのは5万年前から7万年前のことだ。しかし,これらの原住民の遺伝子マーカーが南インドや東南アジアに存在しないということは,彼らが5万年から7万年もの間,隔絶された生活を送っていたことを示している。同じように長い間孤立して暮らしてきたマレーシアの原住民オラン・アスリ(先住民の意)族の調査結果も,アフリカに遡るDNAの痕跡を明らかにしている。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.36

人類の進出

 インドネシアや中国における原人——いわゆるジャワ原人や北京原人——の化石の発見は,解剖学的な現代の人類,すなわちホモ・サピエンスの祖先がおよそ200万年前からアフリカを出て,アジアや旧世界に植民し始めたことを示している。1950年代のルイ・リーキーやマリー・リーキーといった古人類学者,それに続く30年間の多くの研究者たちの献身的な仕事によって,最古の人類が東アフリカのリフト峡谷に住んでいたことがわかった。イスラエルでは10万年前のホモ・サピエンスの骨が発見された。だがこの種のホモ・サピエンスは絶滅した。当時この地域に住んでいたより頑強なネアンデルタール人によって圧倒されたのだ。
 驚くべきことに,ほかに現代の人類の祖先の骨で残っているものといえば,オーストラリアで発見された4万6000年前のものだけである。解剖学的に現代の人類と同じ祖先であるこれらのホモ・サピエンスは,いくつかの複数の起源を持っているのだろうか。それとも,すべてアフリカに住んでいた1つの種から進化してきたのだろうか。これらアフリカで発見された化石が単に最初期の人類のものであるというだけでなく,私たちの直接の祖先であるという証拠は,実は化石そのものではなく,現代の,それも女性の細胞に内包されている履歴にあった。
 この驚くべき発見は,以前のDNAの構造の発見に端を発していた。遺伝学者がいま世界の様々な地域で暮らしている人間のDNAを分析することによって,祖先たちの移動経路を再構築し,先史時代の人間がどのように世界に分散し,定着していったかを辿ることが可能となったのである。およそ6万年前に少人数のグループ——現在の東アフリカにいたとされる150人から2000人ほどの人びと——が異銅を始めたことが今日明らかになっている。それから5万年ないしそれ以上の歳月をかけて,彼らはさまざまな方向に少しずつ,ゆっくりと移動していった。そして肥沃な三日月地帯やアジア,オーストラリア,ヨーロッパ,ついにはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へと進出していった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.28-29

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