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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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占星術の位置づけ

 ベーコンは占星術にも関心を向けるようになり,この手の「学問」の「手順」はところどころ鋭い洞察に基づいているが,調査対象である自然効果を再現する戦略に欠けると語った。簡単に言えば「根拠がない限り,こんなナンセンスは信じるな」ということだ。ベーコンが批判に乗り出して以来,占星術は支配層の寵愛を失いはじめた。「占星術は過去のものになったんです」レベッカのこの言葉が事態を適切に説明している。 
 かつて占星術は宮廷で大きな役割を果たしていた。エリザベス1世は占星術師のジョン・ディーを重用し,結婚相手のバース・チャートを調べさせた——結果は全員「失格」だった——し,ヨーロッパ大陸の王や女王も政治にあたってお抱えの占星術師に助言を求めた。だが1670年までに,イギリスでは占星術師が政治的声明を出して教会や国政に影響を与えることが禁じられた。
 それでも,占星術の意義を裏付ける証拠は存在しないとベーコンが暴いたにもかかわらず,庶民の間では占星術の人気はすたれなかった。18世紀や19世紀には,占星術をもとに1年間の日々の運勢や天気予報を記した生活歴(アルマナック)がばか売れした。現代では,占星術はエリート主義的な教会ではなく民間信仰に基づくニューエイジ的宗教といった位置づけになっている。ベーコンが死去してから,かれこれ400年近く。そろそろ,占星術の力は本物か否か,科学的に証明されてもいいはずだ。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.333-334
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英国の魔女

 イギリスにおける魔女の迫害は1951年に,ようやく法律上で終わりを迎えた。その年,超能力者や霊媒をかたって報酬を得ることを禁止する「虚偽霊媒行為取締法」が施行され,おかげで魔女自体は法に触れる行為ではなくなった。虚偽霊媒行為取締法が制定された主なきっかけは,1944年にヘレン・ダンカンという霊媒が「妖術禁止法」違反で逮捕され,大きな論議を巻き起こしたことだ(ダンカンは結局,同法違反で裁かれた最後のイギリス人になった)。だが,新法施行の原動力になったのはダンカン事件だけではない。イギリスでは当時,あちこちの新聞に星占い欄が登場し,人気を集めていた。こうしたものまで不法行為とみなすのはあまりにばかげた話だ。虚偽霊媒行為取締法では,霊媒を名乗っての詐欺は禁じられたが,本物の霊媒は活動を許された。以来,勢いを得たスピリチュアリズムは大変な盛り上がりをみせている。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.190

インド占星術

 ヒンドゥー教徒が星を重視するようになったのは数千年前,ヒンドゥー教の全身であるバラモン教の聖典ヴェーダが編纂された時代にさかのぼる。ヴェーダとは,古代の学者が神から直接受け取り,長年にわたって口承で伝えてきたと信じられている教えをまとめたものだ。星の動きが重視されたのは,多くの古代文明の場合と同じく,当時の人々には季節の移り変わりが大きな意味を持ったこと,情報を得るすべが圧倒的に不足するなか,夜空に現れる予兆に従って決断を下そうと考えたことと大いに関係している。
 この教えが後にインド占星術に発展した。太陽年の始まりである春分を基準にした黄道12宮を用いる西洋占星術に対し,インド占星術は星座の位置を基準点に固定して12の宮に分割する。言い換えれば,インド占星術は実際の位置を用いて占うが,西洋占星術は太陽が運行する円を12の宮(いわゆる12星座だ)に分けて占うということだ。西洋占星術に出てくる星座の位置はもはや,夜空にある星座の位置とは対応していない。
 インドの社会では今でも占星術への信仰が根強い。ビジネス関係者も占星術師の助言を仰ぎ,占星術で将来の出来事を知ろうとする人も多い。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.118

レオノーラ・パイパー

 1857年に生まれたレオノーラ・パイパーは心霊現象研究の歴史上,比類なき「入神(トランス)霊媒」だと言われた。15年以上もの間,数々の厳しいテストを受け,その驚嘆すべき結果によって当時の超能力懐疑派の最右翼,リチャード・ホジスン博士さえも転向させた。彼女は本当に霊と話をしていると,ホジスンは信じた。エセ超能力者やインチキ霊媒の詐術を暴くことで有名だったホジスンも,レオノーラの場合に限っては詐欺の証拠を見つけることができなかった。トリックを使って周りの者をだましているのかどうかを確かめるため,ジェイムズとともに異例なほど長期にわたって調査をしたにもかかわらず,だ。
 ジェイムズは義母のイライザ・ギブンズからレオノーラのことを聞いたが,当初は懐疑的だった。イライザは以前,レオノーラから家族しか知らない秘密を告げられていた。それでも疑わしく思ったイライザはあるとき,封印された封筒の中の手紙に何が書かれているか教えてほしいとレオノーラに依頼した。こういうとき,たいがいの霊媒はアルコールに浸したスポンジで封筒を濡らし,中身が透けて見えるようにする手口を使う(アルコールはすぐ蒸発するため,相手はトリックに気づかない)。だが,レオノーラは目の前に封筒をかざすだけで納得のいく答えを出した。さらに不思議だったのは,手紙がレオノーラには理解できないイタリア語で書かれていたのに,内容を説明できたことだ。初めのうち,ジェイムズは義母が霊媒にだまされたとおもしろがった。霊媒がどんなふうに人を欺くか説明したが,レオノーラは本物だという義母の信念はびくともしない。こうなったら,ジェイムズ本人が真実を暴くしかなかった。
 心霊主義運動の系譜をまとめた歴史学者トロイ・テイラーの著書『ガス灯の下の幽霊(Ghosts by Gaslight)』によれば,ジェイムズは「レオノーラの家を訪れたとき,交霊会でおなじみの小道具がまったく見当たらないことに驚いた——そこには戸棚も赤色灯も円形に並べた椅子も,メガホンも鈴もなかった」ジェイムズは興味をかき立てられた。レオノーラはジェイムズに,彼のギフト死んだ子供の名前を告げた。レオノーラのスピリット・ガイドが彼らの名前を教えたらしい。ジェイムズは交霊会が始まってから,うっかり情報をもらすことがないよう一言もしゃべらなかったのだから。彼は仰天した。
 レオノーラのケースがとりわけ興味深いのは,彼女が自分を宣伝したりはしなかったからだ。それどころか,自分と死者との交流が注目されることに少しばかりいらだっていた。だがよく当たるレオノーラのお告げは有名になり,彼女はSPRのモルモット同然の存在になってしまった。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.36-38

SPRの歴史

 SPR[心霊現象研究協会]が設立されたのは1882年のことだ。ヴィクトリア朝まっただ中の当時のイギリスでは,霊媒や透視能力者が続々と登場し,巷にあふれる超能力者や交霊術師が日々新しい能力を喧伝していた。イギリスにこれほど多くの超常エネルギーが集まるのはなぜか。SPRの公式な沿革によれば,その理由を探るべく,いくつかの名門大学の著名な学者からなる一団が協会を設立した。
 SPRの初代会長であるヘンリー・シジックはケンブリッジ大学の倫理学教授で,「当時の知識階級の間で非常に高い地位と倫理的地位」を誇っていた。古典文学者のフレデリック・マイヤーズのウィリアム・バレット,実験物理学者のレイリー卿,哲学者でのちのイギリス首相アーサー・バルフォア,古典学者で哲学者のジェラルド・バルフォア,バルフォア一族の出身でヘンリー・シジックの妻であり,後にケンブリッジ大学ニューナム・カレッジ校長に就任した数学者のエレノア・シジックなどの著名人」が名前を連ねている。こんなヘビーウェイト級のIQ(知能指数)の持主が相手なら,エセ超能力者に勝ち目はなかったはずだ。
 SPRのメンバーは真剣な態度で調査に臨み,厳密で科学的な手法を用いた。初期の活動は超常現象の調査やトリックの暴露が主で,イカサマの手口を再現したりもした。だがときには,本物としか思えないような事例に遭遇することもあった。なかでも有名なのが,アメリカ人女性レオノーラ・パイパーのケースだ。SPRが彼女に関心を持ったのは,小説家ヘンリー・ジェイムズの兄で先駆的な心理学者,ウィリアム・ジェイムズの報告がきっかけだった。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.35-36

漫才と吉本興業

 この万歳の勢いに目をつけたのが,吉本興業である。活動写真の台頭によって寄席経営が苦境に立たされていた吉本は,1926年前後(大正末期から昭和初期)にかけて,落語に代えて万歳を全面に押し出すことで突破口を開こうとする。この策はみごとに当たり,やがて万歳は寄席だけでなく伝統ある劇場にも進出するほどの人気を得るにいたる。そのあいだ,吉本興業は専属の万歳コンビの数を増やし,寄席出演者の勢力図は次第に万歳中心に塗り替えられていった。ただ万歳の手段を選ばないやり方は,すでに述べたように,ともすれば低級とみられ,世間の認知がなかなか得にくいというきらいがあった。そのイメージを一新し,サラリーマンを中心とした中流都市階層を新しく客層に取り込むために,吉本興業は,1933年(昭和8年)に「万歳」から「漫才」へと名称を改めることを決める。おりしもその同じ年,現在のしゃべくり漫才の原点となったエンタツ・アチャコの「早慶戦」が生まれる。彼らはサラリーマンが着るような普通の背広を舞台衣装にした最初のコンビでもあった。そのとき,吉本興業専属の漫才コンビは,すでに150組に達していたという。

太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.26-27

漫才の歴史

 漫才の祖とされるのは,玉子屋円辰である。鶏卵の行商をしていた円辰は,趣味の河内音頭が高じてプロに転じる。そのさい,行商でたびたび出向いて見知っていた三河万歳の太夫と才蔵の掛け合いの形態をかりて,名古屋漫才として鉱業を始めたのが現在の漫才の出発点になった。ところが,最初は音頭の単調さを救うための彩りにすぎなかった漫才の部分が次第に前面に出てくるようになり,ついには音頭そのものをやめて,太夫役と才蔵役による掛け合いの漫才だけを演じるものが増えてくる。また,そのあいだにも同じく当意即妙の会話による掛け合いを旨とする大阪仁輪加から転向してくる者や,まったく異なる種類の職業から転身してくる者が続々と現れ,名古屋漫才は,1904年ごろの発足から十年あまりのあいだで,各地に巡業がおこなわれるほどになるほどの発展ぶりだったという。
 つまり万歳の世界は,くろうとかしろうとかを問わず,さまざまなジャンルから,どんどん流れ込むように人が集まってできあがったものである。そのことは,一定の形式にこだわるのではなく,笑いをとることがひたすら優先されるという万歳特有の自由さにつうじている。そのときどきの観客の好みに合わせて,内容も臨機応変に変わって当然なのが万歳なのである。笑いをとるためなら,下品なことでも暴力的なことでもなんでも取り込むのがその特徴となる。それに対して猥雑さや下品さを非難する声もあがったが,他方でそういった自由闊達な形態が新鮮な魅力をもつものと受け取られ,大きな支持を獲得する原因になったのである。

太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.25-26

邪悪なリーダー

 毛沢東は,20世紀に数多くいる邪悪な成功者らしいリーダーの中で,もっとも邪悪な成功者らしいリーダーであった。彼は30年間にわたり,世界人口の4分の1に対し絶対的な権力を行使していたのである。歴史家のR・J・ラメルがこう書いている。「毛沢東のひどく血なまぐさい統治を概観してみよう。1900年から1987年までのすべての戦争で,戦闘によって3402万1千人が死んだ。これは2度の世界大戦,ヴェトナム戦争,朝鮮戦争,メキシコとロシアでの革命を含めた数だ。毛沢東は1人でその2倍の人間を殺しているのだ」。これは,アラブ,東洋,新世界の市場でのアフリカ人奴隷貿易が行われていた400年間の死者の4倍近くになる。
 こうなると,毛沢東の行動の原因が重大な精神疾患であるという可能性を,彼と同時代に,さらには現在に至るまで,心理学者や精神分析医や精神科医が真剣に考察した例がまれであったことは驚きと言ってもいいだろう。しかし,マサチューセッツ工科大学の政治学者,ルシアン・パイは,毛沢東が死去した1976年という早い時期にその伝記を書き,さらにはこうした考察が少ない理由に明快な説明を与えている。「ほとんど聖人となった毛沢東に対し心理学的な分析を行うだけでも,すでにかなり危ない橋を渡っているのだから,専門用語を使うことは分別のあることとは言えまいし,実のところ非生産的でもあっただろう。だから,わたしは,毛沢東がおそらく自己愛性パーソナリティ障害と境界性パーソナリティ障害を併発していたであろうことは公言しなかった。珍しくない組み合わせの症例ではあるが,病名を口にすれば多くの人々を激怒させていただろう」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.224-225

アルバート坊やの真実

 こうしたアルバート坊やの話は,人間の情動的な行動の獲得や変容についての重要な考えを伝えたいときに大変便利な例となるが,極めて重大な問題を抱えてもいる。実は,この話を引用している説明に述べられていることの多くは,作りごとで実際には起こっていないのである。実験者は確かに,ネズミを見せるたびに大きな音を出し,実験開始後7回目の音をたてるころまでに,アルバートちゃんがネズミを怖がるようにすることに成功した。また,5日後にテストをしても,その恐怖は強く残っていることが確認された。そしてそのとき,アルバートちゃんは,ウサギやイヌやアザラシの毛皮のコートにも強い恐怖を示したほか,サンタクロースのお面やワトソン博士の髪にもかなりの「否定的反応」を示し,弱いながらも綿の玉にも反応を示した。そして,積木や実験助手の髪に対しては,むしろ好意的な反応を示したのであった。
 しかしながら,さらに5日後には,アルバートちゃんはネズミにほとんど反応を示さなくなったため,実験者たちは「反応を再形成」しようと,ネズミと大きな音とを再びいっしょに提示することにしたのであった。そして,今度はウサギやイヌに対しても,大きな音を対提示したのである。(その結果,その後の般化のテストには,ウサギやイヌは使えないことになった。)最後に,さらに31日後にテストをしてみると,アルバートちゃんは,ネズミ,ウサギ,イヌ,アザラシのコート,サンタクロースのお面のそれぞれに触ると恐怖を示すことが確認された。ところが,アルバートちゃんは,その同じウサギやコートに自分から触ろうともしたのである。この最終テストの後は,実験を行った病院をアルバートちゃんが退院してしまったため,観察やテストは一切なされることがなかった。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.144-145
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

ニューソートとジェイムズ

 長い目で見れば,クインビーのニューソートに基づく治療法をとりこんだ人物としてもっとも影響力が大きかったのは,メアリー・ベーカー・エディではなく,アメリカ人初の心理学者で,紛れもなく科学畑の人間であるウィリアム・ジェイムズである。さまざまな体の不調をかかえていた彼は,クインビーの元患者で弟子だったアネッタ・ドレッサーに頼った。おそらくドレッサーは治療に成功したのだろう。というのも,ジェイムズの有名な著書『宗教的経験の諸相』に,ニューソートに基づく治療法のことが熱っぽく語られているのだ。「目の見えない人は見えるようになり,足のなえた人は歩けるようになった。生まれつき病弱な人は健康になっている」。ニューソートの理論がめちゃめちゃであっても,ジェイムズにはどうでもよかった。とにかく,効果があったのだ。彼にいわせれば,アメリカ人が「唯一,独自に編み出した」という「系統立った人生哲学」すなわちニューソートが,哲学的議論などではなく「現実的治療」によって確立されたことで,アメリカ的プラグマティズムの素晴らしさが実証されたわけだった。ニューソートは,実践のうえで大勝利を収めていた。じっさいに病気を治していたのだ—カルヴァン主義のもたらす病気,あるいは,ジェイムズの言葉を借りれば,「地獄の責め苦を振りかざす古い神学理論」にともなう「疾病」を。

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2010). ポジティブ病の国,アメリカ 河出書房新社 pp.106

原因と結果の取り違え

 壊血病の問題を解決するには,水夫の食事内容を変えるのが一番簡単だったはずだが,当時,科学者たちはまだビタミンCを発見していなかったので,壊血病を予防するには加工していない果物を食べることが大事だとは知らなかった。その代わりに医師たちは,さまざまな治療法を提案した。もちろん,瀉血は定石とされていたし,水銀剤,塩水,酢,硫酸,塩酸,モーゼル・ワインなどを使う方法が試みられた。そのほかにも,患者を首まで砂に埋めるという治療法があったが,太平洋のまんなかでは,その手も使えなかった一番ひねった治療法は,重労働を課すというものだろう。なぜなら医師たちの見るところ,壊血病はなまけ者がかかる病気だったからだ。もちろん医師たちは,原因と結果を取り違えていた——水夫をなまけ者にしたのは壊血病であって,なまけ者だから壊血病にかかりやすいわけではなかったのだから。

サイモン・シン&エツァート・エルンスト 青木薫(訳) (2010). 代替医療のトリック 新潮社 pp.29-30

共和国に科学は不要である

 ラヴォアジェは,多くの科学実験の資金を稼ぐべく,国に保護された収税吏たちの,ある特権的で私的な会のメンバーになっていた。そのような地位を手にしていると,市民が感動してその人間を自宅に招き入れ,温かいショウガ風味のカプチーノをご馳走する,などといった時代は,たぶん歴史上存在しないだろう。逆に,フランス革命が起こったとき,それが災いの元になった。1794年,ラヴォアジェは会の残りのメンバーとともに逮捕され,ただちに死刑を宣言された。いつもひたむきな科学者だった彼は,後世の役に立つようにと,いくつかの研究を完成させるための時間を要求した。それに対する裁判長の有名な答えは,「共和国に科学者は不要である」だった。近代科学の父はただちに首を切り落とされ,死体は合同墓所に投げ入れられた。彼は助手に,切り離された頭がいくつしゃべろうとするかを数えるように言ったとされている。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.193
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

ラプラスって…

 フランス革命前,ラプラスは王立砲兵隊の審査官という実入りのよい地位を手にし,また幸運なことにナポレオン・ボナパルトという名の,先行き有望な16歳の志願者を審査した。1789年にフランス革命が起きると彼は少しの期間嫌疑をかけられたが,他の多くの者とは違い無傷で浮かび上がると,「王室への抑えきれない嫌悪」を宣言し,ついに共和制国家から新しい特権を手に入れた。
 しかし,ついで1804年に知り合いのナポレオンが皇帝になると,彼はただちに共和主義をかなぐり捨て,1806年,伯爵の称号を与えられた。ところがブルボン家が戻ると,ラプラスは自著『確率の解析的理論』の1814年版で,ナポレオンを叩き,こう書いた。「広範な統治を熱望する皇帝たちの衰退は,確率の計算に精通した者により,非常に高い確率で予言することができる」。ちなみに,その前の1812年版は「ナポレオン大皇帝」に献呈されていた。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.183-184
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

ベルヌーイって…

 もしこれまで実在した数学者の中でもっとも不愉快な数学者は誰かと問われたとき,ヨハン・ベルヌーイの名を挙げておけば,それほど的をはずしていないだろう。彼は歴史書で,嫉妬深い,虚栄心が強い,怒りっぽい,頑固,癇癪持ち,自慢好き,不誠実,このうえない嘘つき,などと,さまざまに評されてきた。数学の世界では多くのことを成し遂げたが,息子ダニエルと争った賞を息子が手にするや彼を科学アカデミーから追い出したり,兄のヤーコプやライプニッツのアイデアを盗み取ろうとしたり,水力学に関するダニエルの本を盗作し,出版日を偽って,自分の本が最初に出版されたかのように見せかけるなど,そうしたことでも名を馳せていた。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.154
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

科学革命とは

 科学革命は,ヨーロッパが中世から脱却したころに支配的だった思考方法に対する反発だった。そのころは,この世のあり方に関して人びとが抱いていた信念を何か系統だった方法で推し量れるような時代ではなかった。たとえば,ある町の商人たちは絞首刑になった人間の衣服を剥ぎとって盗んだが,それでビールの売上げが伸びると信じていたからだった。また別の町には,祭壇のまわりを裸で歩きながら神を冒涜するような祈りを唱えれば病を治癒できると信じる教区民たちがいた。さらには“相性の悪い”トイレでの小用は不運をもたらすと信じる商売人さえいた。じつはその人物,2003年にCNNのリポーターに自身の秘密を告白した証券売買業者である。そう,今日もなお迷信にしがみついている人間はいるのだ。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.94
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

短いが重要な歴史

 90年代は,それまで専門家や研究者の間で発展したインターネットが商用化され,すべての人のために世界へ広がったときです。象徴的には,92年にコンピュータネットワークの商用化が始まり,95年にマイクロソフトのウィンドウズ95がインターネット機能を無料で組み込んだことでしょう。80年代にはUNIXが大学や専門家をインターネットにつなぎ,90年代には,ウィンドウズがすべてのコンピュータ利用者をインターネットにつなぎ,そしてすべての人が使える環境になりました。
 2000年代に入ってからの10年は,携帯電話をはじめとする電波を使ったデバイスが発展し,インターネットにはコンピュータだけではなく,他の機器がつながってくるという現実がやってきました。自動車などのセンサーも含め,移動時と空間が無線技術によってサポートされるようになったことで,インターネットは「誰でもどこでも,なんでもつながる」という氏名を果たし始め,環境,健康,教育,経済などすべての分野のすべての人のための,本当の社会のインフラとしての役割が期待されるようになりました。

村井 純 (2010). インターネット新世代 岩波書店 p.204

確率と確定する現実

 氷河,星雲,ハリケーン,人間社会,生物種,有性生殖の個体や細胞の1つひとつはすべてユニークな(唯一無二の)存在である。どれもがさまざまな要素によって成り立っており,さまざまな要素の影響下にあるからである。これに対して,物理学者の研究対象である素粒子や同位体や,化学者の研究対象である分子は,種類が同じであればどれも特性は同じである。しかし,生物学者や歴史学者は,統計的な傾向しか引き出せない。私は常に高い確率で,自分が働くカリフォルニア大学メディカルセンターでこれから生まれる1000人の赤ちゃんのうち,480人以上520人以下が男児であると予測できる。しかし,私は,自分の2人の子どもが男児であることを予測できなかった。同様に,歴史学者は,人口が充分あって密度の稠密な,余剰食糧の蓄積が可能な部族社会(トライブ)は,そうでない部族社会よりも,首長社会(チーフダム)に発展する可能性が高いということはいえる。しかし,異なる地域には異なる人びとが存在しているので,メキシコの高地やグアテマラやペルーやマダガスカルで首長社会が誕生することはあっても,ニューギニアやガダルカナルで誕生することはなかった。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.324-325

個人の影響力はワイルドカード

 個人の特質もまた,文化的特質と同じように,歴史のワイルドカードである。歴史は,このワイルドカードがあるために,環境的要因やほかの一般的な要因だけで説明できない部分を秘めているのである。しかし,偉人理論のもっとも熱心な賛同者でも,少数の偉人の業績という見地から人類史を特徴づける大きなパターンを解明するのはむずかしい。したがって,個人の特質の歴史への影響を通じて本書の課題を考えるのはあまり当を得ていない。おそらく,アレキサンダー大王は,すでに文字を持ち,食料生産をおこない,鉄で武装していた西ユーラシアの歴史の流れを少しは変えたかもしれない。しかし,オーストラリアが依然として文字や金属器を持たない狩猟採集民の大陸だった時代に,西ユーラシアにすでに文字や食料生産や鉄を持つ国家が存在したという事実は,アレキサンダー大王の業績とはなんの関係もないことである。いずれにせよ,現実の歴史に,個人がどのくらいの影響力をあたえうるかという疑問に対する答えはまだ出ていない。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.320-321

結果もそれぞれに

 このように,自然の障壁がさほどなく,地域の地理的結びつきが強かったことは中国に有利にはたらいた。中国北部・中国南部・沿岸地方・内陸部は,それぞれ異なる作物や家畜をもたらし,異なる技術や文化を誕生させ,やがて統一される中国社会に貢献した。アワの栽培や青銅技術は中国北部を起源としている。中国の文字も北部で誕生した。米の栽培や鋳鉄技術は中国南部を起源としている。私は本書の考察を通じて,自然環境の障壁の少ない場所では技術が伝播しやすかった点を強調してきた。しかし,中国では,地域の地理的結びつきが強かったことが逆に作用し,1人の支配者の決定が全国の技術革新の流れを再三再四止めてしまうようなことが起こった。これとは逆に,分裂状態にあったヨーロッパでは,何十,何百といった小国家が誕生し,それぞれに独自の技術を競い合った。1つの小国家に受け容れられなかった技術も別の小国家に受け容れられた。ヨーロッパの小国家は,他の小国家に征服されたり経済的に取り残されるのを避けるために,他の小国家が受け容れた技術を受け容れざるをえなかった。ヨーロッパでは,自然の障壁が政治的統一をさまたげた。しかしそれは,技術やアイデアの伝播を妨げるほど大きな障壁ではなかった。中国には全土に影響力を行使できる支配者が存在したが,そのような支配者がヨーロッパに存在したことはなかった。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.312-314

原因はさまざまに

 正確にいうならば,ヨーロッパに何百人もいた王侯の1人をコロンブスが5回目にして説得できたのは,ヨーロッパが政治的に統一されていなかったおかげである。やがて,アメリカを植民地化しはじめたスペインに流れ込む富を見て,6つの国がアメリカを植民地化しはじめる。これらの国々がスペインに追随したことは,大砲の威力を目にしたヨーロッパ諸国が競って大砲を使いはじめたことを思い起こさせる。電灯や印刷技術,小火器をはじめとするさまざまな新技術をヨーロッパ諸国が競って取り入れたことにも似ている。これらの新技術は,当初は何らかの理由で受け容れられなかった。ところが,いったんある地域で使われ始めるや,その後はヨーロッパ全土へと広がっていったのだ。
 このように,ヨーロッパと中国はきわだった対照を見せている。中国の宮廷が禁じたのは海外への大航海だけではなかった。たとえば,水力紡績機の開発も禁じて,14世紀にはじまりかけた産業革命を後退させている。世界の先端を行っていた時計技術を事実上葬り去っている。中国は15世紀末以降,あらゆる機械や技術から手を引いてしまったのだ。政治的な統一の悪しき影響は,1960年代から70年代にかけての文化大革命においても噴出している。現代中国においても,ほんの一握りの指導者の決定によって国じゅうの学校が5年間も閉鎖されたのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.309-310

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