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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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些細な原因から

 この些細とも思える地理的な植生のちがいは,とてつもなく大きな影響を現代政治におよぼしている。たとえば,南アフリカの白人は,喜望峰周辺に居住していたコイサン族を素早く虐殺したり,疫病を感染させたり,追い立てたりしているので,バンツー族よりも先に喜望峰周辺を占有したと主張でき,したがって喜望峰周辺を支配する優先権があると主張できた。しかしコイサン族に優先権がある土地だからといって,白人が略奪を差し控えることはなかったのだから,彼らの主張を真に受ける必要はない。それよりもっと重要なことは,1652年にやってきたオランダ人が,高い人口密度を誇り,鉄で武装した農耕民のバンツー族ではなく,低い人口密度の牧畜民のコイサン族を相手にするだけで入植できてしまった,ということである。というのも,この白人たちが東に拡散し,1702年にフィッシュ川のたもとで農耕民のコーサ族と遭遇してから以降は,両者のあいだで激戦が繰り返されるようになったからである。そのときすでに,ヨーロッパ人は喜望峰周辺の安全な基地から援軍を繰り出せるようになっていたが,コーサ族を征服するには,175年の歳月と9つの戦争を必要とした——平均すると,ヨーロッパ人は1年に1マイル(約1.6キロ)以下のペースでしか前進しなかったことになる。もしも,1652年に数隻の船で最初にやってきたオランダ人たちがコーサ族に直面して,激しい抵抗に遭遇していたら,はたして喜望峰周辺に入植することができただろうか。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.190
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マダガスカルとボルネオの共通点

 そして,もっとも特異なのがマダガスカル島である。東アフリカの海岸線から250マイル(約400キロ)のところに位置するこの島は,インド洋を挟んでアジアやオーストラリアから隔てられている。どの大陸よりもアフリカ大陸に近い島に居住しているマダガスカル人は,人種的に2つの要素が混じり合った人びとである。当然のことながら,1つの人種的要素はアフリカの黒人である。そして,マダガスカル人の容貌からすぐ推測できるように,もう1つは熱帯東南アジア人の要素である。言語もまた特徴的で,マダガスカル島ではアジア人,黒人,混血を問わず,すべての人種がオーストロネシア語を話している。そして,彼らのオーストロネシア語は,マダガスカル島から4000マイル(約6400キロ)離れているボルネオ島で話されているマーニャン語に近い。わずかなりともボルネオ人に似ている人種で,マダガスカル島から数千マイル以内に居住しているのは,当のボルネオ人だけである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.264

中国が統一されているという奇跡

 われわれは,中国が統一されていることを当然のこととし,それがどれほど驚くべきことであるかを忘れている。だが,たとえば遺伝子レベルで中国人を考察すれば,中国が統一されているとの思い込みはありえなかったはずである。人種の分類上,中国人は,大雑把にモンゴロイドとしてくくられる。しかし,中国人のあいだには,スェーデン人とイタリア人とアイルランド人のちがいよりも,もっと多様なちがいが見られる。とくに,北部の人と南部の人は,遺伝子的にも外見的にも非常に異なる——北部の中国人はチベット人やネパール人に近く,南部の中国人はベトナム人やフィリピン人に近い。私の友人の中国人たちは,外見だけで北部の人なのか南部の人なのかをすぐに識別できる——北部の中国人は,南部の中国人より背が高い。体重も重い。色白である。鼻先も尖っている。目も蒙古ひだと呼ばれるものの影響で「つり上がっていて」小さい。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.173

アボリジニ減少の理由

 アボリジニが,食料を生産しようとしたヨーロッパ人の邪魔になったのはたしかである。彼らが,生産性の高い農地や酪農地に開墾できる土地に住んで,狩猟採集生活を営んでいたからである。ヨーロッパ人たちは,2通りの方法でアボリジニの人口を減少させた。1つは,銃で撃ってしまうことである。この方法は,ヨーロッパ人たちが1930年代にニューギニア高地に入り込んだときにはもはや黙認されなくなっていたが,18世紀後期や19世紀初頭においては容認される選択肢であった。ちなみに,オーストラリアでは,1928年のアリス・スプリングスにおける31人のアボリジニの虐殺を最後に,大量虐殺はおこなわれていない。ヨーロッパ人たちは,アボリジニが免疫や抵抗力を持っていない病原菌を使う方法によっても彼らの人口を減少させた。シドニーに最初のヨーロッパ人の移住者がやってきたつぎの年の1788年には,感染症で亡くなったアボリジニの死体が町のあちこちにころがっていた。記録を見ると,アボリジニたちは,おもに天然痘,インフルエンザ麻疹(はしか),腸チフス,チフス,水疱瘡,百日咳,結核,そして梅毒で死亡している。
 アボリジニの独立社会は,ヨーロッパ人たちの持ち込んだ銃と病原菌によって,ヨーロッパ人たちが食料生産しやすい地域からことごとく排除されてしまった。どうにか無傷で残ったのは,オーストラリア北部や西部で,ヨーロッパ人には無用の土地で暮らしていたアボリジニたちの社会だけだった。ヨーロッパ人は,1世紀の植民地化のあいだに,4万年つづいてきたアボリジニの伝統をほぼ一掃してしまったのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.167-168

オーストラリアの食料生産上のリスク

 オーストラリアでは,農業も起こらなかった。オーストラリアは,世界の大陸のなかでもっとも乾燥した大陸であるばかりでなく,土壌がもっとも不毛な大陸である。さらに,オーストラリアでは,他の大陸のように気候が季節が1年周期で変化しない。オーストラリアの気候は,エルニーニョ。南方振動(ENSO)(訳注:南太平洋にあるタヒチ島とオーストラリアの北部にあるダーウィンの気圧が振動する現象)の影響で,1年周期ではなく,数年周期で不規則に変化する。予測不能の厳しい旱魃が,予測不能の豪雨と洪水をはさんで,何年間か続いたりするのだ。そのため,ユーラシア種の作物を栽培し,収穫物をトラックや列車で運搬するようになった現在でも,オーストラリアでの食料生産にはリスクがつきまとう。順調な気候が続くあいだに何年かかけて育てた家畜を,旱魃で一度に失ってしまうこともある。もしも,アボリジニが農業を営んでいたら,この不順な天候によって同じ問題に直面していたであろう。順調な気候が続くあいだに村に定住し,作物を栽培し,子供を産み育て,集団の人口が増加したとしても,旱魃がめぐってくれば,集団の人口を養うだけの食料が確保できず,多くの人びとが飢え死にしてしまったことだろう。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.148-149

才能はその生活の中でのみ生かされる

 人類の科学技術史は,こうした大陸ごとの面積や,人口や,伝播の容易さや,食料生産の開始タイミングのちがいが,技術自体の自己触媒作用によって時間の経過とともに増幅された結果である。そして,この自己触媒作用によって,スタート時点におけるユーラシア大陸の「一歩のリード」が,1492年のとてつもないリードにつながっている——ユーラシアの人びとがこういうリードを手にできたのは,彼らが他の大陸の人びとよりも知的に恵まれていたからではなく,地理的に恵まれていたからである。私の知っているニューギニア人のなかにいるであろう,エジソンに匹敵する才能の持ち主たちは,自分の才能を蓄音機の発明に使っていない。彼らは,ニューギニアの密林で自給自足の生活を送るという,自分たちの状況に見合った問題を解決するためにその才能を使っているのだ。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.83

日本で銃が放棄された経緯

 江戸時代の日本で,銃火器の技術が社会的に放棄されたことはよく知られている。日本人は,1543年に,中国の貨物船に乗っていた2人のポルトガル人冒険家から火縄銃(原始的な銃)が伝えられて以来,この新しい武器の威力に感銘し,みずから銃の製造をはじめている。そして,技術を大幅に向上させ,1600年には,世界でもっとも高性能な銃をどの国よりも多く持つまでになった。
 ところが,日本には銃火器の受け容れに抵抗する社会的土壌もあった。日本の武士には多数の階級があり,サムライにとって刀は自分たちの階級の象徴であるとともに芸術品であった(低い階級のひとびとを服従させる手段でもあった)。サムライたちは,戦場で名乗りをあげ,一騎打ちを繰り広げることに誇りを持っていた。しかし,そうした伝統にのっとって戦う武士は,銃を撃つ足軽たちの格好の餌食になってしまった。また,銃は,1600年以降に日本に伝来したほかのものと同様,異国で発明されたということで,所持や使用が軽蔑されるようになった。そして幕府が,銃の製造をいくつかの都市に限定するようになり,製造に幕府からの許可を要求するようになり,さらに,幕府のためだけに製造を許可するようになった。やがて幕府が銃の注文を減らす段になると,実用になる銃は日本からほとんど姿を消してしまったのである。
 近代ヨーロッパの統治者の中にも,銃を嫌い,その使用を制限しようとした人びとがいた。しかし,一時的にせよ銃を放棄すれば,銃を持つ近隣諸国に侵略されてしまうヨーロッパにあって,そうした銃の放棄は長くつづかなかった。日本が新しい強力な軍事技術を拒否しつづけられたのは,人口が多く,孤立した島国だったからである。しかし日本の平穏な鎖国も,たくさんの大砲で武装したペリー艦隊の訪問によって1853年に終わりを告げ,日本人は銃製造再開の必要性を悟ることになる。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.74-75

発明者も利用法は予測できない

 格好の例が,トーマス・エジソンの蓄音機である。この偉大な発明家は,蓄音機を完成させた1877年に,それに10通りの使い道があることを公表している。エジソンのリストには,遺言の録音,盲人用の本の朗読の録音,時報のメッセージの録音,そして英語の綴りの録音教材などがふくまれていた。しかし音楽の録音再生にはたいして重きがおかれていなかった。エジソンは,蓄音機の発明から数年を経た頃,自分の助手に向かって,蓄音機には商業的価値がないと告げたことさえある。ところが彼は,数年後に考えを変え,蓄音機を口述用録音再生装置として売りはじめた。しかし,蓄音機をジュークボックスに作り変えて販売するものが登場すると,自分の発明の品位をけがすものだと反対している。エジソンが,蓄音機の主な用途は,音楽の録音再生にあることをしぶしぶ認めたのは,発明から約20年たってからのことだった。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.52-53

北アメリカを廃墟にした原因

 一般的に,1492年当時,新世界にはアステカ人やインカ人だけがたくさん住んでいたと思われがちである。しかし論理的に考えればすぐわかるように,北米にもアメリカ先住民たちが数多く住んでいた。現在でも有数の肥沃な農地が広がっているミシシッピ渓谷を中心に,人口の稠密な集団社会を形成していたのだ。これらのアメリカ先住民たちは,ヨーロッパ人征服者によって滅ぼされたわけではない。北米のアメリカ先住民社会は,ヨーロッパ人がやってきたときには,すでにユーラシア大陸の病原菌によって壊滅状態におちいっていた。たとえば,北米に最初にやってきたヨーロッパ人征服者であるエルナンド・デ・ソトは,1540年,合衆国南東部を行軍したとき,廃墟と化したアメリカ先住民の村落をいくつも見かけている。それらは,デ・ソトの行軍の2年前に大流行した疫病によって住民が死に絶え,遺棄されてしまった村落であった。デ・ソトが北米にやってくる以前に,海岸地域に上陸していたスペイン人のなかに病原菌を持っている者がいて,彼らとの接触を通じて沿岸地域のアメリカ先住民がまず感染し,そこから疫病が内陸部の先住民のあいだに広がり,スペイン人の病原菌がスペインの軍勢よりも先に米国内陸部を襲ったのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.311-312

栽培化可能な植物・家畜化可能な動物の制限

 ニューギニアとメソポタミアの肥沃三日月地帯の比較からはいろいろと教えられることが多い。まず,ニューギニアの狩猟採集民は,肥沃三日月地帯の狩猟採集民と同じように,自分たち独自の方法で自発的に食料生産をはじめていた。しかしニューギニアの農業は,栽培化可能な穀類やマメ類,家畜化可能な動物が野生種として生息していなかったために,高地に居住していた人びとをタンパク質不足におとしいれてしまった。栽培化可能であった根菜類が高地では充分に成長しない品種であったことも,ニューギニア農業の足かせとなった。とはいえ,ニューギニア人が自分たちの生活環境に分布している動植物について無知だったわけではない。彼らは,今日地球上で暮らすどの民族にも負けないくらい,自分たちが入手可能な野生植物について充分な知識を持ち合わせていた。その点を考慮すると,ニューギニア人は,栽培化に値する野生植物はひとつ残らず見つけて,試せるものは試したと推測できる。サツマイモが伝わったときにニューギニア人がどうしたかを見れば,新種の作物を自分たちのものにする能力が彼らにあったことは明らかである。今日のニューギニアにおいても,新しく伝わった農作物や家畜を真っ先に手に入れられる部族や,そうしたものを取り入れようとする意欲のある部族の人びとが,新種の作物の受け容れに意欲的な文化的土壌のなかで,そうする意欲のない部族や新しい作物を入手できない部族を犠牲にしながら,自分たちの農耕エリアを拡大している。つまり,ニューギニアの人びとが独自に誕生させた食料生産システムの展開が制約された原因は,この地域の人びとの特性にあったわけではなく,この地域の生物相や環境要因にあったのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.221-222

行動の優先度

 狩猟採集民から自分たちで食料を生産する生活への移行にこれほど時間がかかり,この変遷が徐々に進行した潜在的要因は,人が自由にできる時間と労力の絶対量が限られていることにある。時間と労力をどのように使うかについてさまざまな意思決定が下された結果として,人びとは狩猟採集生活から食料を生産する生活へと移行したのである。狩猟採集漁労民は,採餌行動をおこなう動物と同じように,いろいろな行動をするが,使える時間と労力が限られているため,どの行動にどれだけの時間と労力をかけるかが問題となる。誰よりも先に農耕をはじめた人が,朝起きて,今日1日何をしようかと考えている様子を想像してみよう。数カ月後に野菜がたくさんとれるように畑を耕そうか。今日は肉が少ないから魚介類を集めに行こうか。それとも,何もとれない可能性は大だが,もし取れたら肉がたくさん手にはいるからシカ狩りに行ってみようか。人間も動物も,採餌行動をとるときは,いくつかの選択肢の優先度を考え,どの行動に時間と労力を費やすかを無意識のうちに決めている。好きな食べ物が得られる場合や最大の収穫が得られる場合をまず最優先し,それがうまくいかなかった場合には次善の食物を入手できるように,順次,優先度の低い行動を選択していくのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.154-155

農耕民になるデメリット

 しかし実際には,すべての食料生産者が狩猟採集民より快適な生活を送っているわけではない。今日,狩猟採集民より快適な生活を送っている食料生産者は,裕福な先進国にしか存在しない。彼らは,遠くはなれたところに土地を所有し,そこで人を使って農業をするというビジネスを展開することで,自分は農業労働に従事することなく食料を生産している。この方法によって彼らは,狩猟採集民よりも少ない肉体労働で,より快適な生活を送りながら,飢えの恐怖に怯えることなく,より長い寿命をまっとうしている。しかし,世界の食料生産者の大部分は,貧しい農民や牧畜民によって占められているのだ。彼らは,かならずしも狩猟採集民より楽な生活を送っているわけではない。1日あたりの労働時間を調べてみると,貧しい農民や牧畜民のほうが狩猟採集民より少ないどころか。場合によってはより長い時間を働いているのだ。考古学の研究によれば,多くの地域において最初に農耕民になった人びとは,狩猟採集民より身体のサイズが小さかった。栄養状態もよくなかった。ひどい病気にもかかりやすく,平均寿命も短かった。これがみずからの手で食料を生産するものの運命だと知っていたら,最初に農耕民になった人びとは,その道を選ばなかったかもしれない。それなのに,なぜ彼らは農耕民となる道を選んだのだろうか。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 p.150

定住生活が身分を作りだす

 また定住生活は,余剰食糧の貯蔵と蓄積をも可能にする。いくら食料を貯蔵・蓄積しても,近くに定住してそれを守ることができなければ意味がないからである。移住生活をする狩猟採集民が,たまに数日分の食料を貯めることもあるが,近くで守れなければごちそうをとっておいても無駄である。食料の貯蔵・蓄積は,食料生産に携わらない人たちを養ったり,村や町で特別な仕事に従事する人たちを養ったりするのに不可欠なものである。そういう人たちは,移住生活をする狩猟採集民の社会にはほとんど存在せず,定住型の社会が登場してから初めて出現している。
 そうした特別な仕事に従事する人たちといえば,まず王族と官僚がある。狩猟採集社会は,常勤の官僚や世襲制の王が存在しない比較的平等な社会で,集団単位や部族単位で小規模な政治機構を有していることが多い。身体が健全な者ならだれもが狩猟採集活動に従事し,1日の時間の大部分を食料獲得のために費やさなければならないからである。それにひきかえ食料の貯蔵・蓄積が可能な社会では,政治エリートが,他の人たちが生産した食料を自由にできる。税金を課すことができるし,食料生産に従事しなくてすむ。そして,自分の時間のすべてを政治活動に使えるようになる。その結果,中規模な農耕社会ではときとして首長が支配する集団が形成されるようになるが,王国が形成されるまでにはいたらない。王国が形成されるのは大規模な農耕社会だけである。農耕社会に見られる複雑な政治組織は,構成員の平等を基本とする狩猟採集民の社会よりも,征服戦争を継続させることができる。北アメリカの太平洋北西沿岸やエクアドル沿岸などでは,豊かな環境に居住する狩猟採集民が定住型の社会を発達させ,食料の貯蔵・蓄積を可能にし,初期の形態の族長支配を形成したが,そこからさらに進んで王国を作りだすまでにはいたっていない。
 課税によって集められた食料は,王族や官僚以外にも食料生産以外の仕事を専門にこなす人たちを養うことを可能にした。貯蔵・蓄積された食料は職業軍人の存在も可能にするが,このことは征服戦争の遂行能力にもっとも直接的に関係している。たとえば,職業軍人を抱えていたことは,大英帝国が充分に武装したマオリ族を最終的に敗北に追い込むうえで決定的な要因となった。マオリ族も何度かめざましい勝利をあげはしたが,常時戦場に駐屯できる軍隊を維持することができず,1万8000人の英国部隊の攻撃の前に,最後は疲弊し,敗れ去っている。食料の貯蔵・蓄積はまた,征服戦争に宗教的な正統性を与える僧侶の存在も可能にする。刀剣や銃器などの製造技術を開発する金属加工職人などの存在も可能にするし,人の記憶を上回る記録を書き残せる書記などの存在も可能にする。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.128-129

動植物の栽培化の意義

 このように,動植物の栽培化および家畜化は人口の稠密化に直接的に貢献している。栽培化や家畜化は,より多くの食料を生み出すことによって,狩猟採集生活よりも多くの人口を養うことを可能にする。そして,食料が生産できるようになると,定住生活が定着する。これは栽培化や家畜化が社会におよぼす間接的な影響である。狩猟採集民の多くは,野生の食物を探して頻繁に移動するが,農耕民は,自分たちの畑や果樹林のそばにいなくてはならないからである。この定住生活は,出産の間隔を短くし,それがまた人口の稠密化につながっている。野営地から野営地へ移動しなければならない狩猟採集民の母親は,身のまわりのものを運びながらの行動を強いられ,幼児を1人しか連れて歩けない。次の子供は,先に生まれた子どもがみんなの足手まといにならず歩けるようになるまでは産めない。現実に,移住生活をしている狩猟採集民の女性は,授乳時の無月経や,禁欲,間引き,中絶などによって,つぎの子を産むまでに約4年の間隔をあけている。それにひきかえ定住生活をしている人びとは,子連れで移動する必要がないので,養えるかぎり多くの子供を産み育てることができる。多くの農耕社会において,出産間隔はおよそ2年で,狩猟採集民の半分である。この高い出生率は,1エーカーあたり,より多くの人びとに食料を供給できる能力とあいまって,食料生産をおこなう人びとが,狩猟民族よりもずっと高い人口密度を得ることを可能にしたのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.127-128

多様性はどこも同じ

 ポリネシアで発生した多様性は,世界の他の地域で見られるものと本質的に同じである。もちろん,世界の他の地域の多様性のほうがポリネシアよりずっと変化に富んでいる。ポリネシアのように石器に頼る民族も世界じゅうの大陸で出現しているが,南米では貴金属の利用に熟達した社会も生まれている。ユーラシア大陸やアフリカ大陸では鉄器を使うようになっている。しかし,ポリネシアでは,ニュージーランド以外の島々には金属資源がなかったので,鉄器や貴金属の利用はもともと起こりえなかった。ユーラシア大陸には,ポリネシアに人が定住するようになる以前にいくつもの帝国がすでに出現している。後世には,南米や中米にも帝国が出現している。ポリネシアにも帝国の前進と呼べるようなものが2つ出現したが,そのうちのひとつであるハワイ諸島はヨーロッパ人が来てから統一されたものにすぎない。ユーラシア大陸と中米は独自の文字を発達させているが,ポリネシアでは文字が生まれることはなかった。イースター島の謎めいた文字も,島民とヨーロッパ人との接触のあとに生まれたものかもしれない。
 つまり,ポリネシアの社会を見ても,世界じゅうの社会の多様性すべてを見ることはできない。ここで見られるのは,そのほんの一部だけである。しかし,ポリネシアが世界の一角にすぎないことを考えれば,この結果はまったく驚くにあたらない。くわえて,ポリネシアに人類が住みついたのは遅く,最古のポリネシア社会でも3200年しかたっていない。これに対して他の大陸では,人類が住みついたのがもっとも遅い大陸(南北アメリカ大陸)でさえ1万3000年前である。トンガやハワイの人びとにあと数千年という時間があったら,彼らはおそらく太平洋の支配をめぐって争う二大帝国になっていたかもしれない。帝国統治のために独自の文字を発達させていたかもしれない。ニュージーランドのマオリ族も,軟玉などを使った道具だけでなく,銅製や鉄製の道具を発達させていたかもしれない。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.95-96

予測困難

 タイムマシンに乗って紀元前1万1000年頃の世界に行った考古学者は,南北アメリカ大陸の住民の生活ぶりを目のあたりにして,明らかに先にスタートを切って他の大陸の人びとを一歩リードしていたアフリカの住民は,1000年のうちに,初期のアメリカの住民に追い抜かれたと結論づける可能性もある。その後は,アフリカ大陸より50パーセント広い南北アメリカ大陸の大きさと,環境的な多様性がアメリカの住民により有利に作用したのかもしれない。
 つぎに考古学者は,ユーラシア大陸に目をむけて,以下のように推論する可能性もある。ユーラシアは世界最大の大陸であり,アフリカを除けばもっとも長く人類が住んでいる。人類は,100万年前にユーラシアに住みつく前はアフリカに長く住んでいたが,初期人類が相当に原始的な段階にあったことを考えれば,この事実は意味がない。考古学者はまた,2万年前から1万2000年前にヨーロッパ南西部で花開いた旧石器時代後期の文化を見て,その工芸品や複雑な道具の存在から,少なくとも局地的には,ユーラシア大陸の住民は他の大陸の住民よりも先にスタートを切り,一歩リードしていたと考えるかもしれない。
 最後に,考古学者はオーストラリア・ニューギニアに目をむけて,まずその小ささ(もっとも小さな大陸である)を指摘するかもしれない。そして,ほとんどが人間の住めない砂漠で覆われた地域であることや,他の大陸から孤立していること,アフリカ大陸やユーラシア大陸よりあとに人類が住みついたことなどに注目し,オーストラリア・ニューギニアでは人類の発達が遅れたと考えるかもしれない。しかし,オーストラリア・ニューギニアの住民こそ,世界のどの地の人たちよりも早く舟を作りだしたのである。彼らが洞窟内に壁画を描いた時期も,ヨーロッパのクロマニヨン人と同じくらいに早い。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.73-74

アメリカでも同じ

 私としては,オーストラリア・ニューギニアの大型動物の場合と同じように,アメリカ大陸における大型動物の絶滅を気候の変化で説明しようとする仮説を受け容れることはできない。アメリカ大陸の大型動物は,22もの氷河期を生き延びたあげく,23番目の氷河期の終わりに,危害がないとされる人類の前で,そろいもそろってほとんど全種同時に突然に死に絶えている。当時衰退しつつあった生息地だけでなく,かなりの繁栄を見ていた地域でも死に絶えているのだ。したがって私は,クローヴィスの狩猟民たちによって絶滅させられたものと思う。学説論争はいまだ決着がついていないが,最終的にどちらの学説が正しいと証明されるにせよ,これらの大型動物の絶滅は,それらを家畜として飼いならす機会をアメリカ先住民から奪うことになった。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.66-67

大型動物の絶滅

 私個人としては,オーストラリア史上,数えきれないほどの干魃に遭遇しながら何千万年も生き延びてきた大型動物が,最初の人類がやってきたとたん,短期間(ここでいう短期間とは百万年のスケールで考えた場合のことで,数千年などというのはほんのわずかの期間にすぎない)のうちに偶然に,突然死に絶えたとは考えにくい。大型動物の絶滅は,乾燥地帯のオーストラリア内陸部だけでなく,多湿地帯のニューギニアやオーストラリア南東部でも起こっている。彼らは,乾燥地帯でも,熱帯雨林地帯でも,寒冷雨林地帯でも,あらゆるところで死に絶えているのだ。したがって私の考えでは,大型動物は,人間によって(食用のために)直接的に殺されたり,(人間が放った火によって焼き殺されたり生息地が開拓されたことで)間接的に滅ぼされたように思える。オーストラリア・ニューギニアから大型動物がいなくなってしまったことは,それが殺戮仮説の指摘するような理由によるものであろうと,天候仮説の指摘するような理由によるものであろうと,それ以降の人類の歴史に非常に大きな影響をおよぼしていることはたしかである。これから見ていくように,これらの大型動物の絶滅は,それらを家畜として飼いならす機会を人類から奪ってしまったのである。そのため,現代においてもオーストラリア人やニューギニア人は土着の動物を家畜化していない。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.61-62

人間が滅ぼした

 オーストラリア・ニューギニアの大型動物(メガファウナと呼ばれる)はすべて,人間が渡ってきたあとに絶滅しているが,その正確な時期については諸説ある。数万年にわたって驚くべき数の動物の骨が堆積した遺跡がいくつも発掘され,調査されているものの,この3万5000年間においてはオーストラリア・ニューギニアに大型動物が存在していた痕跡はまったく残っていない。したがって,それらの大型動物は,おそらく人間がこの地に登場してすぐに姿を消してしまったと思われる。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 p.59

親衛隊に入る条件

 ナチス親衛隊になるためには,入隊時に,血統,家庭環境,学歴など厳密に審査された。結婚も勝手には許されず,婚約者の健康診断,父母の経歴,近親者の精神病歴などの提出義務があった。
 また容姿も重要な条件となった。ドイツ民族を代表するような目鼻立ち,立派な体格が必要だったのだ。身長は最低170センチ以上とされたため2メートル近い身長の隊員が多く,ナチス幹部が親衛隊と会うときはいつも厚底のブーツを履いていたという。

武田知弘 (2006).ナチスの発明 彩図社 p.200

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