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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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後知恵バイアスです

 我々は,人類の歴史の移り変わりをどれだけ把握できるのか,そして未来の概略をどれだけ予想できるのか。これらの問題を考えるうえでも心に留めておかなければならないのは,ヨーロッパの歴史上,1914年までの100年間は穏やかな平和の日々であり,当時の歴史学者にとって戦争勃発は青天の霹靂であったということだ。アメリカの歴史学者クラレンス・アルヴォルドは,第一次世界大戦の後に次のように書いている。「地獄の申し子たちが,我が物顔に世界を蹂躙し,世界を修羅場に変えた。我ら世代が計画し作り上げてきた歴史という見事な創造物が,粉々に崩れ去った。我々歴史家がこれまで歴史から読み解いてきたものは,誤りだった。残酷なまでの誤りだったのだ」。アルヴォルドを含む歴史学者は,自分たちは過去の歴史における論理的パターンをすでに見つけたと考え,現代の人類の歴史は合理的な方向へ徐々に進んでいるはずだと信じていた。しかし未来は,悪意をもった驚くべき力の掌の上に身を預けており,その力はひそかに想像を絶する破局を準備していたのだ。世界史のうえで第一次世界大戦は,予測できなかった大激変の典型例である。この戦争は,「歴史上もっとも有名な迷い道」が引き金となって起こったものであり,そんなめったにない出来事など二度と起こりはしないと,楽観的に考える人もいるかもしれない。今日,多くの歴史学者は後知恵を頼りに,20世紀に起こった世界大戦はもっと大きな力が原因となったものであり,今でははっきりと将来を見通せるようになったと考えている。しかし,アルフォルドたちも1世紀前,これとほぼ同じ自信を抱いていた。しかも現在,彼らより聡明な者は,我々のなかには本職の歴史学者も含めてほとんどいないと思われる。

マーク・ブキャナン 水谷 淳(訳) (2009). 歴史は「べき乗則」で動く:種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 pp.11-12
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一歩間違えれば差別へ

 優生学思想は母子の健康の増進や清潔な環境の整備,産児制限(家族計画)の思想の普及,健康な男女の組織的な「お見合い結婚」の推進など,プラスの側面も多く持っていた。しかし結局は「民族の血液の浄化」などという激烈なスローガンと結びついて,ナチスドイツによるユダヤ人の絶滅政策まで行きついてしまうのである。ガルトンの個人差研究は,心理学における知能検査や性格検査の開発へと発展していった。個人差研究は適切に用いられればすばらしいものであるが,常に負の側面を抱えざるを得ない。それは歴史がすでに十分以上に証明している。個人差研究が「個性の尊重」であるうちは美しいが,一つ間違えばそれはすぐに差別へと落ち込んでいくのである。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.115-116

機械的な拡大再生産的繰り返し

 そしてこのことを非常に大がかりにやったのが,「バシー海峡」であった。ガソリンがないといえば反射的に技術者を送る。相手がそこへ来るといえば,これまた反射的にそこへ兵力をもっていく。そして沈められれば沈められるだけ,さらに次々と大量に船と兵員を投入して「死へのベルトコンベア」に乗せてしまう。
 それはまさに機械的な拡大再生産的繰り返しであり,この際,ひるがえって自らの意図を再確認し,新しい方法論を探究し,それに基づく組織を新たに作りなおそうとはしない。むしろ逆になり,そういう弱気は許されず,そういうことを言う者は敗北主義者という形になる。従って相手には,日本の出方は手にとるようにわかるから,ただ「バシー海峡」で待っていればよい,ということになってしまう。
 この傾向は,日露戦争における旅順の無駄な突撃の繰り返しから,ルバング島の小野田少尉の捜索,また別の方向では毎年毎年繰り返される「春闘」まで一貫し,戦後の典型的同一例をあげれば「60年安保」で,これは,同一方法・同一方向へとただデモの数をますという繰り返し的拡大にのみ終始し,その極限で一挙に崩壊している。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.66-67

制海権のないバシー海峡を,兵員を満載した船が進んだ

 アウシュヴィッツの写真を見ると,確かに悲惨であり,あれもカイコ棚である。しかしあのカイコ棚には,寝るだけのスペースはあった。船にはガス室はあるまい,と言われれば確かにその通りだが,しかし,この船に魚雷があたったときの大量殺戮の能率----三千人を十五秒----は,アウシュヴィッツの1人1分20秒とは比較にならぬ高能率である。でも,魚雷はガス室ほど確実に来るわけではない,という人もあるかもしれない。しかし,もう一度いう。では何隻の船が終戦時に残っていたのかと。結局すべての船が,早かれ遅かれ,最終的には,世界史上最大能率の大量溺殺機械として,活用されただけである。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 p.62

地域差が大きい

 江戸時代の男女はかなり早婚だったと言われる。たしかに初婚年齢が女性で27歳に,男性が28歳に近づきつつある現在からみればそのとおりである。しかしそれは女子にはあてはまるけれど,男子の初婚年齢は一般に現代の水準に近かった。中央日本の農村では,18・19世紀における長期的な平均初婚年齢は,男25〜28歳,女18〜24歳の間にあった。夫婦の年齢開差はふつう5〜7歳,男が年上で現在よりもかなり大きかった。しかし江戸時代の初婚年齢は地域や階層などによて,非常に大きな差があったことがわかっている。女性の初婚年齢について18・19世紀の各地の農村を比較してみると,陸奥国の村々で著しい早婚であった。3つの村の平均で16.2歳,最も早婚の下守屋村ではなんと14.3歳であった。最も晩婚の地方はいまのところ長門国紫福村の22.7歳である。尾張国神戸新田の21.8歳がこれに次ぐ。

鬼頭 宏 (2000). 人口から読む日本の歴史 講談社 pp.121-122

狩猟採集民族の寿命は短い

 年齢別死亡数から導かれる平均余命は,縄文人が短命であったことをいっそう明瞭に示している。小林が作成した生命表によれば,15歳時余命は男16.1年,女16.3年でしかない。15歳まで生存した男女も,平均すると31歳ころには死んでしまうと言いうことである。15歳時余命が男63年,女69年(1998年簡易生命表)の現代からはもちろん,40年前後の江戸時代後期と比べても,驚くべき短命な社会だった。
 資料上の問題から除外された15歳未満の死亡を考慮すると,この驚きはもっと大きくなるであろう。年少人口の人骨は土壌中で溶解して残存しにくく,比較的条件のよい出土例でも全人骨の50%程度を占めるにすぎないが,後世の例を勘案すると,縄文時代の15歳までの生存率はそれよりはるかに低かったと考えられる。菱沼従尹は右の生命表に基づいて,出生時余命を男女ともに14.6年と推計している(『寿命の限界をさぐる』)。
 もっとも,縄文人の平均余命が狩猟採集民として特別短かったというわけではなさそうである。世界各地の狩猟採集民はほぼ似たようなものであった。自然条件に強く依存する不安定な生活基盤が短命の原因であったと考えられる。


鬼頭 宏 (2000). 人口から読む日本の歴史 講談社 pp.42-43

ジミー・バーンズ……

 太平洋方面の作戦のほとんどを指揮したダグラス・マッカーサーは,日本本国への侵攻が必要とは考えていなかった。総合参謀本部の議長レーヒー提督は,原爆を使う必要がなかったという意見をのちに強く主張した。戦略爆撃部隊の司令官カーティス・ルメイも同意した。アイゼンハワーでさえ,自軍の安全のためなら何千という敵をなんのためらいもなく殺すのに,原爆の使用には強硬に反対し,年輩の陸軍長官ヘンリー・スティムソンに進言した。「反対する理由は2つあった。第1に,日本は降伏する準備ができていたので,あんな恐ろしい兵器で攻撃する必要がなかった。第2に,アメリカを原爆の最初の使用国にしたくなかった。だが……あの年輩の紳士は激怒して……」
 原爆が不要という雰囲気はかなり支配的で,まず威嚇攻撃をすることや,少なくとも降伏要求の表現を修正して天皇の地位の保全を明言することが議論された。オッペンハイマーはこのような会議の多くに出席した。熱心に耳を傾け,必要なときには原爆の使用に賛成する意見をたいていは少しあいまいに述べたが,天皇を保護する条項は支持した。
 だが,この議論には意味がなかった。トルーマン大統領にもっとも影響力のあった顧問のジミー・バーンズが育った土地の気風は,戦うときには使えるものをすべて使え,というものだ。子供時代を1880年代のサウスカロライナ州で過ごし,父親がいないので学校にも満足にかよえなかった。さらに以前にその州を訪れた人々が驚いて報告しているのは,陪審員の12人全員にめったに目と鼻がそろっていなかったことだ。開拓者社会の気風が残っていて,引っかいたり,噛みついたり,ナイフで切りつけたりすることで,けんかの勝敗が決した。天皇を保護する条項は日本政府の降伏への抵抗を和らげたかもしれないのに,その削除を確実にしたのもバーンズだった。潜水艦による封鎖の強化を待つか,進撃を準備中のロシア人に汚れ仕事をさせるほうが,現実的な手段だったかもしれない。
 1945年5月31日の大統領「暫定」委員会の記録はこうなっている。

 つぎのようにバーンズ委員が提案し,委員会が合意した。……爆弾は日本に対して可能なかぎり早期に使うべきである。労働者の住居に近い軍需工場をねらうべきである。事前に警告することなく攻撃すべきである。

デイヴィッド・ボダニス 伊藤文英・高橋知子・吉田三知世(訳) (2005). E=mc2 世界一有名な方程式の「伝記」 早川書房 pp.183-185

いずれ税金を

 1821年の夏の終わり,ファラデーは電気と磁気の関連性について研究しはじめた。電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベルが生まれる20年前,アインシュタインが生まれる50年以上も前のことである。ファラデーはまっすぐ立てた1本の棒磁石を用意した。彼は自分の奉ずる宗教に影響され,目に見えない円環状の渦が磁石をめぐっていると考えた。その推測が正しければ,だらりと垂らされた導線はそれに引きよせられ,小舟が渦に巻きこまれるように神秘の円に捕らえられるはずだ。彼は電池を接続した。
 その直後,ファラデーは電磁気回転という世紀の発見をなした。
 この発見を発表して,王立協会会員となったファラデーについて,真偽のほどは定かではないが,このような逸話がある。当時の首相にこの発明がどんな役に立つのかと問われたファラデーは,こう答えたという。「そうですね,首相,いずれこれに税を課することができるでしょう」

デイヴィッド・ボダニス 伊藤文英・高橋知子・吉田三知世(訳) (2005). E=mc2 世界一有名な方程式の「伝記」 早川書房 p.25

意外と背が低い往年のスーパースターたち

 また,体格とも関係があるかもしれません。川上監督,藤田コーチの身長は,資料によると173センチです。スターの長嶋,王はというと,178センチと177センチ。868本塁打を放った世界の王でも,実は180センチの大台には届いていないのです。
 金田正一は184センチ,広岡達朗,国松彰は180センチと大柄でしたが,盗塁王の柴田勲,森昌彦は175,172センチと小柄。「豆タンク」「黒猫」こと黒江透修はもっと小柄で167センチです。シジミというニックネームもあった土井正三は,資料では172センチとあります。高田繁,末次民夫も173,176センチと180の大台には届きません。共通しているのは,戦前の生まれということでしょうか。
 これが,倉田誠185センチ,新浦壽夫180センチ,上田武司183センチと,戦後生まれから次第に大型選手が増えていきます。

小野俊哉 (2009). 全1192試合 V9巨人のデータ分析 光文社 pp.152-153

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